お花見
「お花見にいきませんか?」
アパートのとなりの部屋に住む少女におさそいを受けた。
「ひとりでいってもよかったんですけど、おとなりさんもいっしょの方がいいかなーって思って」
『少女』と呼んではいるが、卒業が近い高校生の女の子だ。
十年弱ほどの長い近所付き合いがあり、少女が幼いころからボクは少女の面倒を見ていた。
そして、いまだに少女の表情やしぐさのなかに幼いころの面影が見て取ることができた。
そのふたつのことがあり、この女の子にたいして、ボクは『少女』という認識しか持つことができなくなっている。
同じ目線で話せるようになったいまでも、ボクにとって、この女の子は『少女』なのだ。
「いまからいくの?」
「いえ、夜桜です」
そのまま少女はだまりこんだ。ボクの返事を待っているらしい。
いちおう予定はあるものの、いつでもできる私的なもので、少女からのさそいを断るほどのものではない。
「喜んでご同伴させていただきます」
ボクが茶化すように慇懃な返事をすると、少女は見てわかるほどの喜びの表情を浮かべて小さくガッツポーズをしていた。
「じゃあ、クルマだそうか?」
その言葉に、少女はスマートホンを取り出して、
「駐車場はイッパイではいれないらしいです。なので――」
画面を指で撫で、
「近くまでバスでいって、そこから歩きましょう」
お花見会場までのルートが示された地図の画面をこちらへ見せる。
「それから――」
少女が画面を切り替えると、
何時に落ち合い、
何時のバスに乗り、
何時に向こうに到着し、
何時まで桜を見てまわって、
何時のバスに乗って帰る、
すべてが予定表としてまとめられていた。
「こういう感じですけど、大丈夫ですか?」
ふたりでの行動予定がすべて組み終えてあった。
少女の説明を受けながら、じっくりとながめる。
「帰るのが遅い時間になっちゃってるけど、お母さんたち心配しない?」
少女の両親とはあまり話したことはない。
顔を合わせても素通りされ、こちらからあいさつをしても軽い会釈を返されるだけだった。
少女と違い、ふたりともあまり社交的ではないらしく、近所の人もまともに話したことがないという。
「……ふたりは……まぁ、なんとかしておきました」
言いながら両手でピースサインをつくり、立てた二本の指をクイックイッと二・三度折り曲げた。
たしかこれは、『ダブルクォーテーション』を意味するジェスチャーだ。
解釈が数多くあるため、どのような意図で少女がこのジェスチャーをやったのかはわからない。
少女の立てた計画に異論がないことを告げて、そのまましばらく立ち話をした。
近隣で起こった出来事、少女の学校でのこと、卒業後のこと。そんな他愛のない話を、気がつくと三十分以上していた。
「――じゃあ、時間になったらむかえにきてくださいね」
そういって少女は話を切り上げた。
少女を見送る。とはいっても、数メートル先のとなりの部屋へはいるのを見届けるだけだ。
となりの部屋のなかへもどる直前、立ち止まり、少女がこちらを振り返る。
そして、目が合った。
少女が、満面の笑みを浮かべて手をふってくる。
手首から先だけでふり返してあげると、満足げな顔をして少女はドアを閉めた。
ボクもすぐに部屋へともどる。
気兼ねなく遊べるように、消化するはずだった今日の予定をこなそう。
約束の時間になり、ボクは部屋を出る。
外はすでに日が沈んでいたが、街灯や近所の家からの光でそれほど暗くは感じられない。
すぐとなりの、少女の部屋のチャイムを鳴らし、ドアの前で待つ。
まもなく、ドアがわずかに開いて少女が出てくる。
が、顔だけを出した状態で止まってしまった。
「すいません、もうちょっとだけ待ってください」
髪も乱れたまま、表情にも妙なあせりが見て取れた。
ふんわりと風に乗って、ドアの隙間から鼻につくにおいがしてくる。
――お酒とタバコのにおいだ。
少女からではなく、室内からだと思う。
ボクが嗅ぎつけたのに気がついたらしい、少女はすぐにトビラを閉めた。
「すぐに終わらせますからー」
部屋のなかから声がひびく。
夜空に映えるキレイな桜、それを期待して夜桜見物にきたはずだった。
ライトアップされた桜はたしかにキレイだ。
しかし、それ以上に屋台の電球や他の多くの光源が煌々とかがやき、多量に連なったちょうちんに視界をさえぎられる。
まともに桜を見ることができない。
それに加えて、屋台から立ちのぼる食べ物のにおい、騒ぎ立てる酔っ払い、そして道を埋め尽くすヒトゴミ。
「うわー、風情もなにもあったもんじゃないですね」
少女もボクと同じ感想をいだいたようだ。
だが、シンラツな言葉に反して、口調も態度もとても楽しげだ。
少女がいっしょでなければ、ボクはすぐにでも立ち去っていたであろう。
「もっと近くにいってみる?」
「いえ、すこし離れて見ましょう」
暗く人のすくない場所をふたりでゆっくりと歩く。
桜からは遠く、見られるようなものはなにもない。
それでも少女は相変わらず上機嫌だ。
取りとめのないおしゃべりをしながらしばらく歩きつづけていると、ふいに少女が腕をあげて前方を指さした。
そこには、道にあふれんばかりの人びと、それの左右を囲うように屋台が並んでいる。
「ちょっとリンゴ飴買ってきます」
「五百円ぐらい?」
ボクが財布を取り出して千円札を出そうとすると、少女は右手のひらを向けてボクを制した。
そして、不敵に笑みを浮かべて首をふる。
「今日のわたしはリッチですから」
そう言って、ポケットから分厚い財布を取り出した。
女の子には似つかわしくない、使い込まれたヘビ革の財布だ。
ボクの目の前に差し出し広げられた財布には、一万円が束ではいっていた。
一目見ただけでも百万に届きそうな金額だとわかる。
大金をもっている理由について問いただすべきだろうか――
考えているあいだに、少女はこちらに背を向けて歩き出していた。
ボクは明かりの届かない暗がりに身をひそめて少女を待つ。
少女の姿がヒトゴミに消えたとき、ジーンズのポケットで携帯電話が鳴った。
見ると、画面にはアパートの近所に住んでいる友人の名前が表示されていた。
通話状態にするとすぐ、
「生きてる!どこ?」
切迫したあせりの声で友人が問いただしてくる。
「生きてる。花見。なんで?」
ボクはわざとらしく落ち着き払った声で友人に答え、問い返した。
友人は、すこしだけ間をおき、ふーっ、と一息ついた。
そして、ふたたび興奮した声で話し始める。
「お前の住んでるアパートがすっげー燃えてんの」
その燃えるアパートの前で野次馬をしているらしい。
火災現場の状況を友人は詳細に実況し始める。
興奮しすぎて楽しくなっているようだ。
花見の渋滞で消防車が遅れた、火の勢いがおかしなほどに強い、アパートの全焼は確定的、そのほか多くの情報が電話口から伝わってくる。
そんな実況のなかで、聞き逃すことのできない言葉があった
『お前の部屋のとなりが火元で、一番激しく燃えてる』
となりの部屋、つまり、少女が両親と住んでいる部屋だ。
――少女にどう伝えよう。
今すぐ伝えて帰宅するか、それとも両親の無事が確認できてからか。
そんなことを考えていると、
「木造アパートは燃えやすいですから――」
ボクの後ろに、大きなリンゴ飴を手にした少女がいた。
「帰るころには燃え尽きてるんじゃないですか?」
クチの周りを真っ赤にベタつかせ、少女が笑みを浮かべて言った。
少女は、言葉の意味をボクが理解するのを待たず、話をつづける。
「お酒を飲んで寝タバコなんて、ほんとうに危ないですよねー」
いつも見せてくれる屈託のない笑みとは違う、初めてみるクチを裂くような笑いだ。
「予定通りゆっくりしていきましょうね。もどる家はないんですから」
ボクは少女の、いや、彼女の軽口にわずかながら成長を感じた。