珠、太田さんに会う
大きなお部屋に案内され、しばらくすると、先ほど案内してくれた宮城さんと一緒に二人の男性が入ってきました。
「太田家ご当主、資正様とご嫡男の資房様でございます」
なんだか、想像していたのと違います。
父上のように、強面のおじさんが出てくると思っていました。
太田さんは優しそうな目尻の下がったおじさんです。
息子さんも太田さんに似た好青年で、柔らかい雰囲気の人です。
ただ、格好よさで言うなら、政兄や邦兄の方がいい男です。
「お初にお目にかかります。北条氏康が子、氏規と申す。本日は我が兄、氏照より書状を預かっております」
規兄は照兄からの文を宮城さんに渡します。
宮城さんはそれを太田さんに渡しました。
何が書かれているのでしょう?
太田さんが文を読んでいる間、どうしていいかわからず、きょろきょろと視線をさまよわせてしまいました。
そんな様子がおかしかったのか、息子さんが笑顔を浮かべます。
目が合ってしまったので、こちらも笑顔を返しておきましょう。
「状況はわかりました。私に三田殿との繋ぎをして欲しいと、そういうことですね?」
「可能ならば」
「ですが、三田殿にとっては私は裏切り者です」
えーっと、確か、太田さんは元々上杉よりの人だったんですよね?
上杉さんもいっぱいあるらしくて、扇谷上杉さんの家臣だったとか。
父上が若いころの戦で滅ぼして、太田さんは北条家の家臣として取り立てられたとしんちゃんが言っていました。
上杉さんについている三田さんは、裏切り者めって怒っているのでしょうか?
忠義があっても、一族が生き残るために判断したとなれば、三田さんも理解してくれそうですが…。
「おおたさんは、わがほうじょうについて、こうかいはしておりませんか?」
もし、後悔があるのでしたら教えていただきたい。
それが、三田さんの突破口となるかもしれませんし。
「失礼いたした。妹の珠です」
そういえば、名乗っていませんでした。
「しつれいいたしました。珠と申します」
規兄のまねっこですが、改めて名乗ります。
「姫様は疲れておりませんかな?」
こちらの失礼を見ないふりしてくれたようです。
「はい。元気です!」
心配には及ばないと、元気よく返事をしました。
すると、真剣な表情で質問に答えてくれました。
「後悔はありません。一族のためにも、必要なことでしたから」
そうは言いますが、何か引っかかります。
「いちぞくのことがなければ、ちゅうぎをつらぬきたかったですか?」
「理解できるとは思いませんが、私は恩のある義父の意志を継ぎたかったのです」
それ以上を語ろうとはしませんでした。
太田さんも、いろいろと複雑な事情をお持ちなようです。
過去形で語られているということは、無理だったということですかね?
傷つけるような発言はしたくないので、ここは話を変えるべきでしょう。
「おおたさんは、みたさんに会ったことはありますか?」
「綱秀殿とは何度か」
「では、いっしょにくどきもんくを考えてください!」
私の言葉に太田さんと息子さんはぽかんとした顔をした。
「…口説き文句?」
「みたさんのことを知らないので、どんな人なのかをおしえてほしいのです。そして、いくさをやめてほしいのと、とらわれたものをかえしてほしいのと…」
自分で言っておいてあれですが、かなり交渉が難しいことばかりです。
今さらながら、不安になってきました。
「戦を止めたいのですか?」
「はい。民には、いっしょにたたかうよりも、いっしょにはたらいてもらいたいと思っています」
帆船のことは秘密らしいので言えませんが、宝屋の方でも民の力が必要ですので、嘘ではありません。
「三田殿のところへ行けば、命はないかもしれないとしても?」
それに関しては、兄上たちから散々言われました。
ですが、私は父上のような、祖父様のような、北条の名に恥じぬ主君でありたいのです!
「とらわれたものをかえしてもらうためですから」
「たかが忍びの者に、命をかけるのですか?」
「彼らがえらんでくれたのです。父上でもなく、兄上でもなく、この珠を」
その思いを無碍にはしたくないのです。
「…わかりました。今日はもうお休みになって、明日ともに考えましょう」
う?
これは粘り勝ちでしょうか?
しかも、このお城にお泊まりしてもよいと!?
「忝い」
「ありがたき!」
規兄と一緒に頭を下げます。
そのとき、どこか遠くで犬の鳴き声が聞こえました。
一匹だけでなく、たくさんいるような賑やかさです。
「犬?」
「ええ。狩りから戻ったようです」
う?
狩りをするのですか?
父上は殺生は駄目だと言っていましたが…。
でも、そういえばたかじょーは鷹狩りをするって言っていました。
どういうことなんですかね?
「姫様は犬はお好きですか?」
「はい!まだ、さわったことはないですけど」
残念ながら、私の行動範囲には犬はいないのです。
お馬さんならいますが。
なので、お外に出てから、初めて犬を見ました。
意外に大きくて、ちょっと怖かったので触るまではできませんでした。
「ならば、犬たちをご覧になりますか?」
「いいのですか!!」
太田さんに案内されて、三の丸から木がたくさん生えている曲輪に向かいます。
その曲輪の一つが柵に囲まれていて、たくさんの犬たちが駆け回っていました。
なんか一匹変わった子がいますね。
太田さんが指笛を吹くと、遊び回っていた犬たちが集合しました。
どの子もちゃんとお座りをして、尻尾をぱたぱたと振っています。
「ここにいる犬たちは土佐犬です。訓練はしておりますが、襲うこともありますので、無闇に近寄らないようにしてください」
土佐犬…?
土佐犬って、不細工で大きな犬じゃなかったですっけ?
私の胸くらいありますが、大型犬というには小さくて、中型犬にしては大きいと思います。
秋田犬にも似ていますが、色が違います。
灰色が多い子や黒に近い子、焦げ茶色の子と様々です。
私が知っている土佐犬ではありません。
どちらかといえば、一匹だけ異彩を放っている子の方が似ていると思います。
「あの子はどこの犬ですか?」
「あれは大陸の沙皮という犬です」
土佐犬よりは少し小さいので、中型犬ですね。
ただ、顔だけでなく、身体中もしわしわなのです。
皮がたるんでいるので、たるんたるん?
「ふしぎな犬ですね」
呼ばれたのに何もしないせいか、大きなあくびをしている子が…。
そして、そのまま伏せて寝てしまいました。
「父上、子犬ならば姫様が触っても問題ないのでは?」
息子さんの言葉を聞き逃しませんでしたよ!
子犬がいるのですか!?
「生まれてふた月は経っていますので遊び盛りですが、それでもよろしければ」
「いっしょにあそんでもいいですか?」
ふた月経っているのであれば、私が遊んでも大丈夫ですよね?
まだ乳飲子だったら、小さすぎて触るの怖いですけど。
「遊ぶのでしたら、倅を側につけましょう」
う?
大人たちはここで別行動ってことですか?
何かあれば、こたこたが報告してくれると思うので、それでもいいですけど。
私のもとにはしんちゃんとこた、れんちゃんとせいちゃんが残ってくれました。
規兄の方には、のりりん、たかじょー、こたこた。
ひでりんとつぐりんは私の方に行くと言っていたのですが、たかじょーに止められしょんぼりしていました。
あんまり大勢で行っても、犬に迷惑ですからね。
ここは我慢してもらいましょう。
補足
のりりん:松田憲秀
たかじょー:北条康成
つぐりん:間宮康次
ひでりん:大藤秀信
せいちゃん:清志郎 風魔衆
れんちゃん:蓮次郎 風魔衆
太田資正:史実では、長尾景虎による、小田原遠征の際に離叛している。
作中では、何を考えているのか不明だが、一応北条家のもとにとどまっている。
太田資房:太田資正の嫡男。史実では、父親と仲が悪く、出家していた模様。
作中では、出家はしていない。
土佐犬:現在の四国犬のこと。日本犬の特有の、巻き尾に三角の目を持ち、ダークカラーな毛色が多い。
ちなみに、現在の土佐犬は土佐闘犬といい、明治以降に海外の品種とかけ合わせて大型化した。マスティフの特徴が強く出ているので、元来の土佐犬とは別物。
沙皮:中国の犬種で、正式名はシャー・ペイ。元は狩猟犬で、噛まれるなど攻撃を受けても致命傷にならないように皮膚がたるんだと思われる。
また、濃い藍色の舌を持っていて、チャウチャウと同じ系統だと言われている。