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宵闇のエクレール

作者: 白銀

 残業なんてツイていない。

 そんなことを思いながら、夏樹はダンボール箱を抱えて大学の渡り廊下を歩いていた。

 残業と言っても、単なる荷物運びだ。

 文化祭が近いから、その準備のための資材なのだろう。一つ一つはそこまで重いものではなかったが、量が多く、何度も行ったり来たりを繰り返さなければならなかった。

 サークルの集まりが終わって帰る際、それなりに親しい教諭とすれ違ったのがまずかった。呼び止められ、荷物運びを頼まれたのが始まりだ。誰か一緒にやってくれるのかと思いきや、夏樹一人で運ばなければならず、その教諭も用事があるとかで手伝ってはくれなかったのである。

 運んでいる途中で誰か知り合いと会ったら手伝わせようとも思ったが、そういう時に限って誰ともすれ違うことなくただ時間だけが過ぎていった。

 結果、ほとんど全ての学生が帰宅したであろう今の時間になっても、夏樹は一人黙々と荷物運びを続けていた。

「あぁ、さすがに少し疲れたな……」

 一人呟いて、夏樹は溜め息をついた。

 荷物は今運んでいるもので最後だ。

「随分と暗くなったなぁ……」

 夏も終わりに近づいているとはいえ、日の入りが随分と早くなった。

 渡り廊下のガラス張りの壁から中庭を眺めてながら、夏樹は荷物を抱えたままぼんやりと空を見上げた。

 ふと、鳥にしては大きな影が視線の先をよぎった。

「――は?」

 思わず、変な声が出た。

 人だ。それも、小柄な少女のような。

 ガラス張りの壁の向こうで、少女が空から地面に墜落したように見えた。

「目、腐ったかな……」

 一瞬、自分の見た光景が信じられなくて、夏樹はそんなことを口走っていた。

「――ってそんなこと言ってる場合じゃないだろう!」

 ダンボール箱を投げ出して、夏樹は駆け出した。渡り廊下は終着点から中庭に出ることができるようになっている。

 飛び出した夏樹はスラックスのポケットから携帯電話を取り出しながら、地面に倒れている人影に駆け寄った。

「ええっと、救急車呼べばいいのか?」

 半ば混乱しながら、携帯電話のボタンと倒れた人影を交互に見る。

 墜落してきたのは、やはり少女だった。

 ただ、日本人ではなかった。

 長く淡い金髪に、透き通るような白い肌の華奢な少女だった。整った鼻梁に薄い唇と、閉じた瞼を彩る睫毛は長く、美しい。

 上は白い半袖のワイシャツにカーキ色をした袖のないベストを身に着け、下はデニムのジーンズ姿だ。

 歳は多めに見積もっても十五ぐらいだろうか。服装は大人びているが、女性と呼ぶには若すぎる。

 良く見ると、右腕が肘の上辺りからおかしな方向に曲がっている。本来、間接がない位置で。

 左足も、太ももの半ばから折れているようで、つま先が不自然な方を向いていた。

 彼女自身は美しいのだが、その折れているらしい腕と足のせいで酷く不気味に見える。

「はぁ……」

 大きな溜め息が聞こえた。

 一瞬、自分のかと思ったが、夏樹のものではなかった。

「全く、イヤになるわね」

 目の前にいる少女が呟いているのだと理解するのに、数瞬を要した。

 唖然としている夏樹の目の前で、少女はゆっくりと身を起こした。

 折れていたはずの右腕が不快な音をたてて正常な状態に戻り、左足もいつの間にか治っている。

「それで?」

 そこでようやく少女は瞼を開き、夏樹を見た。

 大きな瞳は鮮やかな真紅に染まっていた。

 すべてを射抜くかのような視線に見つめられて、夏樹は話しかけられていることに気付かなかった。

「あなたは、どうするの?」

 夏樹からの返答がないせいか、少女の声に少し苛立ちが混じる。

「え……俺?」

 声をかけられたことに気付いた夏樹は、思わず自分を指さしていた。

「この場にはあなた以外にいないじゃない」

 呆れたと言わんばかりに、少女は形のいい眉を不満そうに傾ける。

「ああ、そりゃそうか……ん?」

 少女の言葉に納得しつつ、様々な疑問があることに気付いて夏樹も眉根を寄せた。

 何をどう聞いていいものか分からない。

 骨折は大丈夫なのか。そもそもなぜ墜落してきたのか。少女はいったい何者なのか。骨折が治ったのはどうしてなのか。

「ていうか……何?」

 全ての疑問がごちゃ混ぜになっていた。

「意外と的確ね」

 少女はどこか満足げに笑った。

「通りすがりのヴァンパイアだと言ったら、信じるかしら?」

 愉快そうな笑みを見せつつ、少女が問う。

「……さぁ、どうだろう」

 答えになっていなかったが、夏樹にはその返事が一番適当だと思えた。

「正直で結構。あなた、面白いわね」

 少女は眼を細めて笑みを深めた。

 その仕草は少女と呼ぶにはあまりにも大人びていたが、何故か違和感はなかった。

 むしろ、見惚れても不思議ではないほどに美しい。

「どうも」

「とりあえず、それ、携帯電話はしまっていいわ」

 救急車は要らないから、そう言って右腕を軽く上げて見せる少女に頷いて、夏樹は携帯電話を折り畳んでポケットに入れた。

 本当に大丈夫なのか疑問ではあったが、なぜか彼女の言葉に妙に納得してしまっていた。

 実際、彼女の腕は問題なく動いている。痛みもまったく感じていないようだった。

「エクレール!」

 突然、野太い男の声がした。

 声のした方を見れば、渡り廊下の屋根の上に、声に見合うような体格のいい男が見えた。

 少女の方を真っ直ぐに見て、何の迷いもなく屋根から飛び降りる。

 いや、屋根を蹴って跳んだ、が正しいか。

 一息で少女の目の前に両脚でしっかりと着地する。

 並の人間でないことは跳躍力を見れば明らかだった。

 筋肉質な肉体は夏だというのにくすんだカーキ色のロングコートに包まれている。下には黒いシャツとグレーのスラックスを身に着けているようだ。ロングコートの隙間から見えた。

 厳つい顔には、右目を中心に上下へ走る大きな傷がある。ただ、その目は見えているようで、傷は瞼に付けられたものなのだろう。

「何油売ってやがるんだ」

 男の言葉は、少女に向けられていた。

 エクレール、というのは彼女の名前か。

「落ちたところを見られてしまったから、どうしようかと思って」

 エクレールは悪びれた様子もなく、むしろどこかおかしそうにそう答えた。

「見られた?」

 男は夏樹の方へ視線を向ける。

「何か、色々意味分かんないんだけど、説明はしてもらえるのかな……?」

 怪訝そうに目を細め、眉根を寄せる男に、夏樹は肩を竦めた。

 ただでさえ現状を把握できていないところへ、更にこの男だ。理解が追いつかない以前の問題だった。

「全く、お前って奴は……」

 男が溜め息をつく。

 良く見れば、彼も日本人ではなかった。少女、エクレールよりは随分と日本人に近く見えるが、東洋人の血が混じったハーフかクォーターと言った方がしっくりくる印象だ。

「暇なのよ、あいつらとやりあってるだけじゃあね」

 わずかに口を尖らせて、エクレールは不満そうに呟いた。

「で、どうするつもりなんだ?」

「話していて面白いから教えてあげてもいいと思うんだけれど」

 男の問いに、エクレールは一転して笑みを見せる。

 夏樹は二人の会話についていけなかった。というより、会話に割り込んでいいのかどうか分からなかった。

 結局、二人ともどちらかといえば友好的なように見えるが、得体の知れない人物であることに変わりはない。

 目の前で化け物じみた回復力を見せつけられてもいるのだ。頭の片隅で危険かもしれないと警戒しているのも事実だった。

「そんな悠長なことも言ってられんぞ」

 男はエクレールを宥めるような口調で呟いた。

「まさか、逃がしたの?」

 男を咎めるように、エクレールは眉根を寄せる。

「そりゃあ、お前なら心配ないとは思ったがな……」

 男の方もエクレールに弁解しているようだった。

 もっとも、少女を見下ろしているはずの大男がの方が下の立場に見えるのは少々滑稽だった。

「あのー、俺はどうすれば……?」

 さすがに耐え切れなくなって、夏樹は恐る恐る口を挟んだ。

 二人のやりとりは、完全に夏樹を部外者として扱っていた。いわゆる、巻き込まれた状態とも違うらしい。

 荷物を放り出してきたことにも気付いた。

 それに、このまま関わるのも危険な気がし始めていた。

「そうね、知るか否か、選んでいいわよ」

 少しだけ怪しく微笑んで、エクレールは言った。かなりあっさりと。

 知りたいと言えば、教えてあげるということだろうか。

「おい、エクレール!」

「いいじゃない、たまには」

 咎めるというよりは呆れたような男を、エクレールはそう言って一蹴すると夏樹に向き直った。

「そりゃあ、知りたいけどさ……」

 夏樹はどこか釈然としない表情で呟いた。

 興味があって知らないことがあれば知りたいとは思う。ただ、それを知ることで何か得体の知れない恐怖を味わうのではないかという危惧はあった。

 聞かなければこの場から去ることもできたかもしれない。巻き込まれずに済むかもしれない。そんな考えが浮かんだが、本心は隠せなかった。

「暇つぶしもいいが、程々にしてくれよ?」

「時間なんていくらでもあるんだもの、こういうことでもなくちゃやってられないわ」

 溜め息をつく男に、エクレールは肩を竦めてそう言った。

「自己紹介がまだだったわね、私はエクレール・オ・ショコラ」

「あぁ、えっと、俺は柏木夏樹」

 名乗ったエクレールに、夏樹は自然と自分の名前を教えていた。

「で、彼がラクリッツ・サルミアッキ。仲間ってところね」

 男の方を目で示して、エクレールは言った。

 男、ラクリッツはコートの内ポケットから煙草を取り出しているところだった。

「私と彼は、さっきも言ったけれどヴァンパイアよ」

「はぁ……」

 俗に言う吸血鬼と呼ばれる不死身の存在だと言うエクレールに、夏樹は生返事をしていた。

「まぁ、信じられないだろうがな」

 煙草を口に咥えて、ラクリッツが呟いた。夏樹が信じられないのも無理はないとでも言いたげだ。

 ただ、人間ではない、という点だけは納得がいった。骨折をあの短時間に自力で完治できるなんて、明らかに人間ではない。

 普通の人なら恐怖で逃げ出していてもおかしくはないのだが、夏樹は最初の一件で正常な判断力が欠如してしまったのかもしれない。

 恐怖を感じる前に、どこか幻想的な彼女の雰囲気に呑まれてしまっていた。

 立ち去る機会を失ったというのも本当のところだろう。

「簡単に言えば、私たちはグールと戦っているの」

 グールという固有名詞も不死身の怪物たちを指す言葉だ。ヴァンパイアというのもグールの一種と言える。

「グールって言うのはいわゆる化け物だけど、それを狩るのが私たちの仕事」

 エクレールは誇るでも自慢するでもなく、ただ事実を口にしているだけという様子だった。

「ヴァンパイアって、吸血鬼って奴だよな……?」

「ええ、そうよ」

 夏樹の疑問に、エクレールは頷いた。

「私は血なんて嫌いだけどね」

「……え?」

 夏樹は耳を疑った。

 血が嫌いな吸血鬼なんて聞いたことがない。そもそも、吸血鬼といえば主食は生物の生き血だろう。

 それが嫌いだとしたら、吸血鬼なんて呼べるのだろうか。

「安心しなさい、私も彼も、色々教えたから代わりに血を吸わせてなんて言わないから」

 屈託なく笑うエクレールに、夏樹は暫し唖然としていた。

「あ、そうだ、俺、仕事途中だったの忘れてた……」

 はっとして、夏樹は呟いた。

「あら、もう理解不能かしら?」

 話を逸らされたと思ったのだろう、エクレールは首を傾げてつまらなさそうに呟いた。

「あぁ、いや、どうせなら仕事しながら聞いてもいいかなって」

 もう既に一般常識の範疇は超えている。これ以上聞いていても、理解できたとしても納得できるかはわからない。

 どうでもよくなり始めているような気も若干するが、とりあえずはこなさなければならない仕事だけは終えておこうと思っただけだ。

「意外と神経図太いのね」

「荷物運びあれで最後だったの思い出したんだよ」

 目を丸くするエクレールに、夏樹は苦笑いを返した。

「ラクリッツ、あなたはどうする?」

「俺はここで待ってるさ」

 エクレールの言葉に、煙草をくゆらせながらラクリッツは答えた。

 煙草の煙を吐き出す厳つい横顔が妙にさまになっている。

「どうせ、校内禁煙なんだろ?」

 煙を宙に吐き出しながら、ラクリッツが呟く。

「あぁ、うん」

 夏樹は頷いた。

 一応、大学の敷地内は禁煙だ。煙草を咥えた状態で歩かれては困る。誰にも見られていなかったとしても、校内に残った煙草の匂いで気付かれる。それで問題にでもなったら大変だ。

 とはいっても、そこまで厳しく取り締まることはないのだろうが。

「まぁ、私たちも含めて、グールっていうのは人が生み出したものよ」

 渡り廊下を歩きながら、エクレールは言った。

「人が?」

 床に転がったダンボール箱を抱え上げながら、夏樹は聞き返した。

 幸い、中身がこぼれている様子はなかった。角が一部へこんで形が変わっていたが、この程度なら問題はないだろう。

 ダンボールの中の荷物は割れ物でないことは知っている。少々傷がついたとしても、夏樹が咎められることはないはずだ。もしかしたら、夏樹が運ぶ前から傷ついている可能性だってある。

「昔、錬金術が流行った時期があったでしょう?」

 エクレールは校内を物珍しそうに見回しながら言った。

 確かに、錬金術の研究が盛んに行われた時期はあったようだ。だが、昔といっても夏樹が簡単に昔といえるぐらいの数十年程度の過去ではない。少なくとも、数世紀前の話ということになる。

「あの時期に、すべてのグールは生まれたの」

 エクレールの話を要約するならこうだ。

 錬金術の研究テーマの一つに不老不死があり、その研究の過程でグールが生まれたらしい。いや、創り出されたというべきか。

 当然、不老不死などそう簡単にできるわけもなく、大抵の場合は不死の肉体を得た代わりに知能を失ってしまったり、醜い化け物になり果ててしまったりしたようだ。

「今じゃ錬金術もロストテクノロジーになってしまったけれど」

 錬金術というもの自体、今では過去の遺物になってしまっているらしい。研究をしている者は少数といえど存在するのだろうが、もはやないも同然だ。昔の技術からの発展というのももう期待はできないのだとエクレールは付け加えた。

 新しいグールを創り出すことすらほぼ不可能というのが現在の錬金術の技術レベルらしい。

 結局、当時の目標であった完全な不老不死というのは得られなかったのだ。

 だが、過去に生み出された多くのグールがグールを増やし、今に至っているらしい。

「そういう意味じゃ、ヴァンパイアっていうのは、かなり完成に近いものみたいね」

 エクレール曰く、ヴァンパイアというグールは目標の不老不死に最も近づいた存在らしい。

 知能もあり、外観もほとんど人間と変わらない。

 ただ、その肉体の維持には吸血行為が必要なのだそうだ。

「吸血っていうのは、それが主食なんじゃなくて、肉体年齢を保つための行動なのよ」

 要するに、吸血行動をする限りヴァンパイアは不老不死の状態に最も近いということだ。

「じゃあ、血を吸わなかったらどうなるんだ?」

 夏樹はエクレールに目を向ける。

「普通に歳をとるわ。多少の差はあるようだけれど」

 エクレールは夏樹の目を見返してきた。

 その真紅の瞳は、夏樹の疑問をすべて見抜いているようにも思えた。

 吸血が若さを保つためのものなら、それを嫌う彼女は肉体年齢を重ねていることになる。だが、彼女の見た目は明らかに若い。

 嫌いだからといって、吸血を全くしていないわけではないのだろう。

 さすがに、今までどれだけの人間から血を吸ってきたのかを聞く勇気はなかったが。

「銀がダメとか、杭を打たれたら死ぬとか、本当なのか?」

 夏樹が知っている吸血鬼の弱点といえば、思いつくのはまずそれだ。

「心臓に杭なんて打たれたら生きていられるわけがないでしょう」

 おかしそうにエクレールが笑った。

「え、でも不死なんじゃ……?」

「まぁ、確かに骨が折れたりしても治るわよ。でも、それは致命傷でなければの話」

 どうやら、体の機能自体はあまり人間と変わっていないらしい。強度や耐久性などは向上しているようだが、内臓に重大な損傷を負った時や、脳にダメージを受ければ死亡するというのは人間と同じようだ。

「血流なんてのはヴァンパイアにとっては特に重要なものだから、心臓が急所なのは人と変わらないわね」

「じゃあ、銀は?」

「金属アレルギーとか、皮膚が炎症を起こす人っているでしょう? ヴァンパイアすべてが銀で体が焼けたりなんてしないわよ」

「それって単に個人的に皮膚が弱かったり、銀の金属アレルギーだったりするってだけ?」

「そうよ」

 エクレールは頷いた。

 銀でできたものに弱い、というのもどうやら個人差らしい。ヴァンパイア共通の弱点というものではないようだ。

「ニンニクとか、十字架とか、日光とかも?」

「あれは脚色が酷いわね」

 エクレールはくすりと笑った。

 ニンニクも個人的な好き嫌いなのだろう。十字架のような神聖なものが弱点とはいうが、神聖なものの定義が宗教観からくるものなら効果があるかどうかは確かに怪しい。

 日光も、先ほどの銀と同じで人間にも弱い者はいる。

「まぁ、化け物の方のグールになってしまった者の中には、肉体が崩れて日光の刺激で皮膚が焼けてしまう者もいたけれど」

 少しだけ哀れんだような口調で、エクレールは付け足した。

 錬金術と聞くとファンタジー色の強い派手なものを想像してしまいそうだが、話を聞く限りではどうやらそうでもないのかもしれない。

 ただ、現代の科学技術とも少し違う技術であることだけは確かだ。

 ヴァンパイアやグールの創り方なんて、現代科学ではまだ不可能な領域だろう。公に知られている技術と本当の最先端は違うのかもしれないが。

 ともかく、夏樹が思っている錬金術のイメージと実際のものには大きな違いがあるという点は理解できた。

「それで、二人は何でここに?」

 ようやく、その質問に辿り着けた。

 今までヴァンパイアやグールといったものが公に知られていないのだから、恐らく彼女たちは表立って動いているわけではないだろう。世界の水面下でずっと過ごしてきたはずだ。

 彼女がここにいる、ということはこの辺りにグールがいるということだろうか。

「もう、予想はできてるんでしょう?」

「じゃあ、近くにグールが潜んでるのか?」

 薄く笑みを浮かべるエクレールに、夏樹は問いを返した。

「グールはある種、バイオハザードみたいなものよ」 

 バイオハザードとは、生物災害を指す言葉だ。有害な生物やその構成成分が環境中に漏れ出すことで起こる災害の源をバイオハザードと呼ぶ。

 不老不死を目指して行われた錬金術の失敗でグールとなった者は、新たなグールを生み出す、いわゆる感染源となってしまう。

 確かに、その流れを考えればグールもバイオハザードの一種と見ることもできる。

「私がここに来たのは、たまたまこっちにグールが逃げたから」

 やはり、グールが近くにいるというのは間違いなさそうだ。

「さっき、逃げられたとか言ってたのって……」

「ええ、ラクリッツはグールを逃がしてしまったようね」

 不安げな表情を浮かべる夏樹とは対照的に、エクレールは何でもないかのように頷く。

「今夜のうちに片付けておいてあげるから、心配しなくてもいいわ」

 自信たっぷりなエクレールを見ていると、不思議と不安が和らいで感じられた。気のせいかもしれないが。

「あっと、この部屋だ」

 話に気をとられて、目的地の部屋を通り過ぎてしまうところだった。夏樹はダンボール箱の下へ左手を回して荷物を支えると空いた右手でドアノブを掴んだ。

 ドアを開け、直ぐ脇にある電気のスイッチを入れる。

 刹那、部屋の中から何かが飛び出してきた。

「下がれ!」

 エクレールは言うや否や、夏樹を横へ押しやり、自らは前へ踏み込む。

 飛び出してきた影に向かって細く華奢そうな腕を伸ばした。

 突き飛ばされる形となって尻餅をついた夏樹は、エクレールが片手で受け止めたものを見た。

 土気色の皮膚はただれ、痩せこけた体が溶けかけたかのような印象を与える一人の男がエクレールの片手に頭を押さえ込まれている。

 血走り、ぎらついた目が夏樹を見つめ、ぼろぼろの口元に皮膚はなく、直に歯が見えていた。遮るものがないためか、唾液が床に滴り落ちる。

「グール……?」

 夏樹は目を見開いて、グールを見つめていた。

 まるで、ゾンビだ。

「やっぱり、ついてきて正解だったわね」

 落ち着いた口調で、エクレールはため息をついた。

「あ、そうそう気をつけてね。グールの体組織を体内に入れてしまうと、あなたもグールになっちゃうから」

 重要なことだろうに、エクレールは簡単なことのように告げる。

 安心させたいのか、緊張をほぐしたいのか、良くわからなくなってくる。

 ともあれ、噛みつかれたり、傷付けられたりでグールの体組織の成分が正常な人の体内に入るとグールになってしまうらしい。

 グールとの物理的接触は極力避けた方が良さそうだ。

「危ないから、少し離れていた方がいいわ」

 薄く笑みを浮かべて呟くエクレールに、夏樹は素直に従った。

 尻餅をついたままの体勢で後ずさる。少々格好悪いが、立って逃げるだけの度胸はなかった。というより、腰が抜けて立てるかどうか分からなかった。

 夏樹が離れたのを横目で確認すると、エクレールは頭を掴んでいた右手に力を込めた。

 グールがくぐもった呻き声を上げる。

 すると、エクレールの右手、グールの額を押さえ付けている指先から火花のようなものが散った。

 少しずつ激しさを増す火花は、グールのただれた皮膚を焦がし始めた。煙が立ち上ったと思った瞬間、エクレールの手が強烈な光を放った。

 空気を裂く、雷鳴のような音が轟き、グールが吹き飛んだ。大きく体を仰け反らせ、凄まじい勢いで後頭部から床に叩き付けられる。

 黒焦げになったグールの頭を、エクレールは躊躇せずブーツで踏み潰した。

 何か飛び散るかと思い目を覆った夏樹だったが、バサッ、という炭を崩したような乾いた音しか聞こえなかった。グールの体は炭化しているようだった。

「驚いたかしら?」

 エクレールは目を丸くしている夏樹がおかしいのか、笑みを浮かべている。

「いや、驚くでしょ、普通……」

 夏樹は座り込んだまま、エクレールを見上げて呟いた。

 むしろ驚かない方がおかしい。

「これがグールよ。最低で粗悪な失敗作だけれど」

「今の、光は?」

 グールを一瞬で焼いた光は何だったのだろうか。

「私の武器よ」

 どこか自慢げに口の端を持ち上げて、エクレールは言った。

「そんな力があるなんて、言ってなかったじゃないか……」

「特殊な力がない、なんて言ってないじゃない?」

 エクレールは腰に手を当てて夏樹の言葉を一蹴した。

「私の、ってことは、エクレールにしかできないのか?」

「ええ、私にしか使えないわ」

 エクレールは夏樹に歩み寄ると手を差し出した。

 その手を取っても大丈夫なのか、ふと疑問が頭をよぎった。エクレールの顔と手を交互に見て、夏樹はおずおずと手を伸ばした。

 エクレールの手に触れた瞬間、バチッと音がして手に痺れが走る。

「あっつっ!」

 夏樹は思わず声を上げて手を引いていた。

 静電気だ。

「あら、ごめんなさい、まだちょっと残っていたみたいね」

 エクレールがくすくすと笑う。

 その仕草はとてもかわいらしいものだったが、今の夏樹には意地悪な小悪魔にしか見えなかった。

「お前、確信犯か!」

 夏樹は右手を振って痺れを紛らわしながら、エクレールを見上げた。

「それが私だけの力よ。電気を操れる、と言えば理解できるかしら?」

 エクレールの言葉に、夏樹はようやく理解した。

 帯電体質の人は意外と多いようだが、その強力なものというところか。

 エクレールは体の中や表面に流れる生体電流や静電気を意識的に操れるのだろう。

 先ほどの空気を裂く音も、まるで雷のように聞こえたが、本当に雷だったというわけだ。

「焼いてしまえばグールといえど、もう害はないわ」

 炭の山を見つめて、エクレールは呟いた。

 焼かれて炭になってしまえば、体内に入ってもグールになったりはしないようだ。

「荷物を置いたらこれも片付けましょう」

 エクレールの言葉に頷いて、ようやく夏樹は立ち上がった。

 荷物を部屋に置くと、清掃用具入れからちりとりと小さな箒を持ってきて炭になったグールの成れの果てを片付けた。

 エクレールは部屋の中を一通り見回して、異常がないかを確認しているようだった。

「特に異常はなさそうね」

 片付けを終わらせた夏樹に、エクレールは言った。

「何も身に着けていなかったところを見ると、ここの関係者というわけでもなさそうよ」

 夏樹を安心させるためなのか、エクレールはそんなことを付け足した。

「そっか……」

 夏樹は電気を消し、部屋のドアを閉め、鍵をかけた。

 鍵は今日のうちに返す必要はない。元々、夏樹に預けられたのはスペアキーの方だ。返すのは次に学校へ来た時で十分だ。

「とりあえず、これで仕事はおしまいだから、戻ろう」

「ええ」

 夏樹の言葉に、エクレールは静かに頷いた。

 途中、自動販売機の前で夏樹は立ち止まった。

「……何か飲む?」

 ポケットから財布を取り出して、夏樹はエクレールに目を向ける。

「あら、奢ってくれるの?」

 首を傾げて問いかける仕草がかわいらしい。

「まぁ、これでも助けてもらったしね」

 グールから守ってもらったのは事実だ。

 飲み物一つぐらい安いものだ。

「あら、珍しい、トマトジュースなんて売ってるのねこの自販機」

「それにする?」

「まさか。コーラでいいわ」

 苦笑するエクレールに頷いて、夏樹はコーラとミルクティーの缶を一つずつ購入した。

「あ、ラクリッツには何がいいかな?」

 ふと、中庭に残してきた男が気になった。

 待たせてしまっているし、エクレールの仲間なのだから飲み物一つぐらい差し入れてやるべきだろう。

「あら、彼の分までいいの?」

「待たせてるだろうしね」

 エクレールに苦笑を返して、夏樹はもう一本分の硬貨を自動販売機に入れた。

「彼はコーヒーが好きよ。私にはあんなの苦くて飲めないけれど」

 どうやらエクレールは甘党なようだ。

「ブラック、でいいのかな」

 エクレールに確認を求めてから、夏樹は缶コーヒーを一つ買い、エクレールにはコーラを手渡した。

「ありがとう、いただくわ」

 エクレールはコーラの缶を受け取り、開けた。

 夏樹もミルクティーの缶を開け、一口飲む。

 エクレールと並んで中庭へ向かって歩きながら、夏樹はどこか妙な気分を抱いていた。

 確かに、グールが突然現れた時は驚いた。驚いて尻餅をついたのなんて今まであったかどうか怪しい。まるで腐った死体のような外見のグールを見て、確かに恐怖は感じた。

 なのに、恐怖を引き摺っている感覚はまったくなかった。淡々と事実を見つめているだけのようで、当事者という事実が感じられない。

 エクレールの話術が不安や恐怖を和らげているのだろうか。

 こんなにも奇妙な非日常に巻き込まれているのに、いつもの日常を過ごしているような気分でいられるのが不思議だった。

 その不思議さも、意識しなければ気付かないほどのものだ。ミルクティーを飲みながら、一息ついたところでようやく気付いた。

「どうかした?」

 コーラに口をつけていたエクレールが夏樹の顔を見て呟いた。

 変な表情をしていたかもしれない。

「ん、いや……」

 夏樹は言葉を濁した。何と説明すれば伝わるのかも分からなかったし、そもそも説明できるのかどうかさえ夏樹には自信がなかった。

「そ」

 エクレールはコーラを一口飲んで素っ気なく呟いた。それでも、その真紅の瞳は夏樹の考えていることを見透かしているのかもしれない。

 何とも不思議な少女だ。少女、と言うのには語弊があるかもしれないが。

 彼女の口ぶりから察するに、相当な年月をヴァンパイアとして過ごしてきたのだろう。そもそも、彼女がヴァンパイアになった経緯や出生、時期なども分からない。

 とはいえ、夏樹はそれを聞けるほどエクレールと親しくなってはいない。

 下手に質問して機嫌を損ねるのも気が引ける。もしも彼女を怒らせてしまったら、夏樹の命はないかもしれない。

 中庭ではラクリッツが煙草をふかしながら一人佇んでいた。

「ラクリッツ」

 エクレールの呼び声に、ラクリッツが二人に気付いた。

「終わったか?」

 丁度吸い終えたらしい煙草をコートの内ポケットから取り出した筒状の携帯灰皿へと放り込んで、また内ポケットへ戻す。

「待たせちゃったから、これどうぞ」

「ん、気を遣わせてすまんな」

 夏樹が差し出した缶コーヒーをラクリッツは受け取った。

「一緒に行って正解だったわ」

 残り少なくなったコーラを煽ってから、エクレールは言った。

「何だ、出たのか?」

 缶コーヒーを開けながら、ラクリッツはエクレールに問う。

 エクレールが頷くのを見て、ラクリッツは夏樹の方へ目を向けた。

 夏樹も頷く。

「エクレールについてきてもらって良かったよ」

 小さくため息をつく夏樹に、ラクリッツは何か考えているのか無言でコーヒーに口をつけた。

「言っておくけれど、私たちが追ってきたのではなかったわ」

「新手か?」

「むしろ手下かしらね」

 ラクリッツの問いに、エクレールが答える。

 話を聞くに、まだグールが近くにいるということだ。

「窓も壊された様子はなかったから、私たちが来ると知って待ち伏せしてたってところかしら」

 エクレールの推測によれば、彼女が大学内に入ることを見越して潜んだということらしい。夏樹について行くと言った時点で先回りしたという可能性が高い。

 だが、何故、夏樹たちの行き先の部屋を知っていたのか。

「鼻が利くグールも中にはいるから」

 その疑問を見越してか、エクレールは夏樹へ向けてそう告げた。

 どうやら、グールとなる際に何かしら身体的に拡張されることがあるらしい。

 荷物運びの仕事のお陰で、夏樹は何度かその部屋まで往復していた。もしも犬並みに鼻が利くというのなら、その部屋の位置を知ることも不可能ではない。

 また、聴覚に優れたグールが夏樹たちの会話を密かに聞いていた、あるいは視覚に秀でた固体が様子を窺っていた可能性もある。

「何だか、色んなのがいるんだな……」

 素直に感心してしまった。

「まぁ、それなりにはね」

 エクレールがうんざりしたようにため息をつく。

 たとえグールがマイノリティであるとしても、ごく僅かであるなら錬金術が廃れてから現在までの間に滅んでいるはずだ。

 もっとも、逆に数が少ないからこそ滅んでいないという側面もあるに違いない。現代においてはグールの存在など創作物の中だけでしか知られていないのだから探し出すのも一苦労だろう。そもそも、エクレールたちのようにグールや錬金術に直接関わっている者でなければ探そうとも思わないだろうし、実際に探し出すまでには至らないのではないだろうか。

 まともに考えて、接点がないのは明らかだ。普通に暮らしている者が手がかりを得られるとはまず思えない。

「安心しろ、俺らで始末はしておく」

 コーヒーを一口飲んで、ラクリッツは告げた。

 その時だ。

「随分と和んでるもんだなァ」

 突然、挑発的な口調が上から降ってきた。

 声のした方を見ると、校舎の屋根に腰かけた誰かが三人を見下ろしていた。

 くたびれた黒いカウボーイハットを目深に被った、男のようだった。すっかり暗くなったせいで、顔がはっきり見えない。

「あなた……」

 エクレールの真紅の瞳がすっと細められる。

 今まで余裕の表情しか見ていなかったせいか、彼女の真剣な表情はどこか研ぎ澄まされた刃のような鋭さを孕んでいる。まるで、触れてはいけないもののような。

 夏樹は首筋に寒気を感じた。

 恐らく、彼が二人の追っているグールだ。少なくとも、エクレールたちに因縁のある相手であることは間違いない。彼女の表情がそれを物語っている。

「そっちから出てきてくれるとはな……」

 ラクリッツはコーヒーを一気に煽って、屋根に座る人影を睨み付けた。

「追ってこないから気になってねェ」

 少しだけ語尾を伸ばすような口調が癖なのか、妙に耳に残る。

 敵対しているエクレールたちには癇に障る喋り方かもしれない。

「何か楽しそうで羨ましいなァ」

 見下したような嘲笑を含んだ声だ。

「そうね、あなたのおかげで楽しい一時が台無しだわ」

 思い切り不満そうに、それでいて挑発し返すような口調で、エクレールは言い放った。

「始末するとか軽口叩いてるけどさァ、今まで何度失敗してんのか憶えてんのかァ?」

 からからと笑う男に、エクレールもラクリッツも何も言わず睨み付けているだけだった。

 夏樹はどうすればいいのか分からず、ただその場で成り行きを見守るしかなかった。下手に逃げれば狙われるかもしれない。ただ身動きするだけでも、今のこの状態を悪化させてしまう気がしてならなかった。

「時にそこの少年」

 男が夏樹を指差した。

「……俺?」

「あ、青年のが近い?」

「さ、さぁ……?」

 首を傾げる男に、夏樹は生返事しかできなかった。

「まァいいや、君さ、グールになってみたいとか思わないかなァ?」

「ドラジェ!」

 男の言葉に噛み付いたのはエクレールだった。咎めるような声で、男の名前らしい単語を叫ぶ。

「アンタにゃァ聞いてねェよ」

 ドラジェはつまらなさそうにエクレールへ吐き捨てると、夏樹の方へ顔を向ける。

 目深に被ったカウボーイハットの下から覗いた片目が夏樹を見ていた。

 金色に輝く瞳が、夏樹を見つめている。

「どうだい? 不老不死、なれるかどうか試してみたいと思わない?」

 どこか挑戦的な口調で、ドラジェが誘いの言葉を放つ。

 先ほど遭遇したグールのようになりたいとは思わない。あれではたとえ寿命で死なない体になっても、生きているとは言い難い。

 ただ、エクレールやラクリッツのようなヴァンパイアになれるというのなら、まったく興味がないとは言えない。

 夏樹が返答に迷っている時だった。

 いきなりエクレールが一歩踏み出したかと思うと、掌をドラジェへ向け、雷撃を放った。

 鋭い音と閃光を迸らせながら電撃は稲妻のように枝分かれしながらドラジェを襲ったかに見えた。しかし、雷が放たれた時、彼の姿はそこになかった。

 ドラジェは屋根から飛び降り、中庭に着地していた。

「まったく、お子様は気が短いねェ」

 苦笑しつつ、ドラジェがゆっくりと歩み寄ってくる。

「貴様……」

 敵意を剥き出しにするラクリッツの口から、僅かにそんな言葉が漏れた。

「詳しく適性を調べなきゃ分からないけど、失敗する可能性は軽く見て九割以上。一割ぐらいの成功率だったらさァ、ギャンブラー、いや、男ならやるべきだと思うけどねェ?」

 カウボーイハットを左手で押さえ、右手を顔の前で水平に差し出すようにして夏樹へと声をかけてくる。

「こんな煩わしい世界ともさよならできる」

 新しい世界が開けると言わんばかりに、ドラジェは夏樹を誘っている。

「誘いに乗ってはダメよ」

「そいつは道化だ」

 エクレールとラクリッツが夏樹に囁く。

「おいおい心外だなァ、こっちは善意で言ってんだぜェ?」

 ドラジェは肩を竦めながらも、鋭い視線をエクレールたちに向けている。

 表面上は言い合いだが、お互いに油断はしていないようだ。

「何が善意よ、あなたの目的を言ってみなさい」

「世界を創り変えることのどこが悪いのかねェ?」

 ドラジェが怪しく目を細める。

「こんなクソみたいな世界、一度壊して単純に創り直した方が絶対いいと思うけどなァ?」

 一体どんな手段を考えているのか、夏樹には分からなかったが、ただドラジェの発想自体はある程度推察できた。

 グールを含む錬金術に関わる何らかの手段によって、一度この世界を破滅させるというのが彼の目的のようだ。

「傲慢にも程があるわ」

「傲慢で結構。俺ァその方が世界中の人が幸せになれると思ってるだけさァ」

 エクレールを軽くあしらうように、ドラジェは呟いた。

 言葉だけを聞いていると、ドラジェがそれほど悪人のようには思えない。

 世界を破壊するなどという危険なことを口走ってはいるものの、どこかこの世を憐れんでいるような、より良い方向へ持って行きたいと思っているような印象を受ける。

「そのために何人死ぬと思ってる?」

「さァね、この世界を腐らせてる人間なんていくら死んでもいいだろ?」

 ラクリッツの言葉に、ドラジェは溜め息まじりに言った。

「で、どうする?」

 金色の瞳が夏樹を見る。

「……俺は、やめとくよ」

 夏樹は静かに答えた。

 ドラジェの考えも分からないわけではない。世界を変える、というのは少し規模が大き過ぎるが、今の世に不満がないと言えば嘘だ。手の届かないところで動いている世界を変えるというのは、並大抵のことではない。

 自分で変えることができるのなら変えてしまいたいことも確かにある。

 それでも、世界という現実に嫌気が差しているわけでもない。人間であることを捨ててまで解消したい悩みというわけでもない。

 たとえ不老不死になったところで、それが幸せかと聞かれれば素直に頷くことはできない。死なないからこその悩みだってあるだろう。

 死ぬのは怖い。だが、それよりも自分が自分でなくなってしまう方がイヤだ。

 たとえ不老不死の錬金術に成功しても、自分自身の存在がそのままであるという保証はない。

「残念、いい仲間が増えるかと思ったんだけどなァ」

 ドラジェはさして気にした風もなく、実にあっさりしていた。

 まるで、夏樹の返事はどちらでも良かったかのようだ。仲間を増やすことにそれほど執着はしていないということか。それとも、夏樹を誘ったのは単にエクレールたちに対する挑発なのか。

「あなたはこの世から消えなさい」

 エクレールの真紅の瞳がドラジェを見据える。伸ばした手が敵へ向けられ、彼女の敵意を表すかのように帯電した腕が火花を散らし始めている。

「ひでェなァ、同じヴァンパイアじゃァねェか」

 ドラジェは苦笑して、大袈裟に言った。

「あ、血ィ吸わせてもらってもいい? ヴァンパイアに噛まれても感染はしないから安心していいからさ」

「失せろって言ってるのよ!」

 思い出したかのように、夏樹へと問い掛けるドラジェに、エクレールが雷撃を放つ。

 ドラジェは右へ左へステップを踏んで雷撃をかわす。人間の視覚では捉えられない電流を、まるで先読みでもしているかのようだ。

「それじゃァ、とっとと逃げるかねェ」

 ドラジェは薄く笑みを浮かべ、金色の瞳を細めると後方へと跳んだ。左手でカウボーイハットを押さえ、一回、二回と少しずつ高く、三度目の跳躍で一息に校舎の屋根へと着地する。

「また縁があれば……」

 人を食ったかのような言葉を残して、ドラジェは更に遠くへ跳んで姿を消した。

「あいつも……ヴァンパイアなのか」

 ドラジェがいなくなってから、夏樹は小さく呟いた。

 確かに、エクレールとラクリッツは自分たちがヴァンパイアだと言った。グールを狩っている、とも教えてくれた。

 だが、彼女たちはヴァンパイアがすべてグールと敵対しているとは言っていない。そもそも、グールの中にヴァンパイアが含まれているのだ。エクレールたちの敵の中にヴァンパイアがいたとしても不思議ではない。

 むしろ、エクレールやラクリッツのような、グールと敵対しているグールの方が少数なのかもしれない。ヴァンパイアというグールの中の存在でありながら、同じヴァンパイアを含めたグールすべてと敵対している彼女たちの方がもしかすると異端なのだろう。

「よく断ったわね」

 エクレールは少し感心したように、呟いた。

 夏樹がドラジェの誘いに乗ると思っていたのだろうか。

「ん、あぁ、うん……」

 夏樹は曖昧な返事をして、手に持ったミルクティーの缶に視線を落とした。

「二人に追いかけられたら、怖いから」

 そうして、冗談めかして笑ってみせた。

「もし誘いに乗っていたらこの場で殺していたかもしれないな」

 ラクリッツが恐ろしいことをさらりと口にする。

「笑えないよ、それ」

 夏樹は頬を引きつらせて、ドラジェが去った方へと視線を向けた。

「二人とも、追わなくていいの?」

 あれだけ敵意を向けていた相手だ。本当は今すぐにでも追いかけたいのではないだろうか。

「そうね、そろそろ行きましょうか」

 夏樹の問いに、エクレールは呟いた。

「ごちそうさま、少しの間だけど、話せて楽しかったわ」

 柔らかい表情を見せるエクレールから空き缶を受け取りながら、夏樹も笑みを返した。

 夏樹にとってこの出来事が楽しかったと言えるものかどうかは分からない。ただ、彼女と話せて悪い気はしなかった。

「血、吸ってくかい?」

「嫌いだって言ったでしょう? 遠慮しとくわ」

 夏樹の冗談を軽い口調で断りながら、エクレールが一歩身を退いた。

「それより、私に惚れたりしてないわよね?」

 今度はエクレールの方が冗談めかして夏樹に問いを投げた。

「ああ、大丈夫。俺、ちゃんと彼女いるから」

「あら」

 照れたように頬を掻く夏樹に、エクレールが目を丸くしていた。

「ははは、そういう対象としては見れなかったか」

 ラクリッツが笑い声を上げた。

「うるさいわね」

 少しむっとしたようにラクリッツを見上げるエクレールがかわいらしくて、夏樹の口元は自然と綻んだ。

 今日会ったばかりで間もないと言うのに、別れがもう寂しく感じてしまった。

 生きていれば会えるとはよく言うが、恐らく、二度と会うことはないだろう。

「それじゃあね、ナツキ」

 小さく手を振って、エクレールは軽く助走をつけてから、一息に屋根の上へと跳躍した。

 風になびく金髪が月光を反射して輝いていた。

「コート、暑くないか?」

 夏樹は今まで聞きそびれていた疑問をようやく口にした。

 最後に聞かずにはいられなかった。

「ん? 気にするな、問題ない」

 ラクリッツはそう答えて、エクレールを追って屋根へと跳んだ。

 見たところ、汗一つかいていなかった。本当に暑くないようだ。彼の体質なのだろうか。

 小さくなっていくヴァンパイア二人を見送ってから、残りのミルクティーを一気に煽って、二つの空き缶と一緒に近くのゴミ箱へと放り込む。

 エクレールの真紅の瞳と、大人びた柔らかな表情が目に焼き付いている。きっと、しばらくは忘れないだろう。

 一期一会にしてはあまりにも不思議な体験だったが、たまにはそんなのもいいだろう。

 そんなことを思いながら、夏樹は帰路についた。


 三日後、夏樹は彼女と二人で街を歩いていた。

 先日の出来事については、話していない。実際に体験していない人に話しても、理解はしてもらえないだろう。

 夢でも見ていたのだろうと信じてもらえないのが目に見えている。

 確かに不思議な体験ではあったが、そこまで面白い話にはならない。

 他愛もない話をしながら歩いていると、二人の男女と擦れ違った。

 外国人の、少女と男だった。

 服装こそ違ったが、以前会った二人のような気がして、夏樹は思わず振り返っていた。

「珍しいね、観光客かな?」

「……そうかも?」

 彼女も目を引かれたようで、夏樹と一緒に振り返っていた。

「あの女の子、かわいかったね」

「そうかな?」

 長い金髪の後姿を見つめて、彼女の言葉に夏樹は何故か疑問を返していた。

 会話に意識が向いていたせいか、夏樹には少女の顔は見えなかった。

「あの二人、どうかした? そんなに気になるの?」

「ん、いや、別に」

 夏樹は息をついて、去って行く二人に背を向けた。

「ちょっと知り合いに似てる気がしただけ」

「あれ? 外国人に知り合いなんているの?」

「ああ、そういうことじゃなくて……」

 また他愛もない話に戻り、どちらともなく、自然と歩き出した。

 きっと、見間違いだ。

 もしかしたら、あの夜の出来事もすべて気のせいだったのかもしれないとさえ思いながら。


 *****


「本当に、いいのか?」

 隣を歩くラクリッツの言葉に、エクレールは頷いた。

「いいのよ、何も知らない方が」

 先ほど擦れ違った夏樹の後姿を肩越しに一瞥して、エクレールは呟く。

「あの夜、暫く一緒にいたけれど、何の兆候もなかったわ」

 エクレールが夏樹と出会ったのは、偶然ではない。あの状況自体は偶然だったが、そうでなくとも夏樹とは接触するつもりだった。

「グールの混血なんて、放置しておいていいのかと聞いてるんだ」

 声を落として、ラクリッツが囁く。

「誘いを断るだけの意識があるなら、問題ないでしょう?」

 エクレールたちが得た情報では、夏樹にはグールの血が混じっているということになっていた。その信憑性は、極めて高い。

 気になって接触したが、エクレールのようなヴァンパイアが近くにいても変わった様子はなかった。グールに襲われても、感化されてしまうような兆候もなかった。

 あれから三日経った今でも、それまでと変わらない生活をしているように見える。

 何故、彼がグールとの混血なのか、どこで混じったのかまでは分からない。調べるにしてもまだ時間がかかりそうだが、そればかりに気を取られているわけにもいかない。

「だが、危険じゃないのか?」

 ラクリッツの心配ももっともだ。

 エクレールやラクリッツ、ドラジェとの会話で淡々としていられたのも、彼の根底にグールの血が混じっていたせいかもしれない。自分と同じ匂いのようなものを感じ取ったことで、抵抗もなく受け入れることができたのかもしれない。

「それを確かめに来たんじゃない」

 エクレールは小さく溜め息をついた。

「それはそうだが……」

「私の判断が間違ってるとでも?」

「いや、お前の勘を疑うわけじゃないが……」

 ラクリッツが口ごもる。

「はっきりしないわね」

 エクレールの目がすっと細められる。苛立ちがまじったその目線に、ラクリッツは困ったように眉根を細めた。

「あいつは、今のパワーバランスを崩しかねない存在なんだろう? だったら今のうちに手を打つべきじゃないのか?」

 意を決したように表情を引き締めると、ラクリッツは小声でそう囁いた。

「それも可能性の話よ、ラクリッツ」

 グールと正常な人間との混血というのが強力な力を持った存在となるのかどうか、確証はない。

 今までに前例がなかったから、そんな推測が立てられただけと言ってしまえばそれまでだ。

 混血という情報自体も、直接のハーフなのか、それともクォーターか、それ以上に薄まっているのか、はっきりしていない。ただ、夏樹にグールの血が混じっているという事実だけだ。

 純粋なグールではないのだから、ヴァンパイアのような力を持っているとも限らない。

 それは裏を返せば、人の血が混じることで突然変異が起きている可能性も示している。

 突然変異によってヴァンパイアをも超える新たなグールとなる可能性があり得るのだ。

「可能性の話だけじゃないか。お前は不安にならないのか?」

 ラクリッツはエクレールの真紅の瞳をじっと見つめていた。

「そうね、不安がないと言えば嘘になるわね」

 ラクリッツの目を見つめたまま、エクレールは答えた。

 すべては可能性の話でしかない。かもしれない、だけでは納得するのも難しい。

「だったら……!」

「あなた、忘れてない?」

 ラクリッツの言葉を遮って、エクレールは声を落とした。

「それは、あいつと同じに思考に至る考え方よ?」

 その一言に、ラクリッツははっとしたようだった。

 警告を込めたような低く落とした声音に、ラクリッツは口をつぐんだ。

 あいつとは、もちろんドラジェのことだ。ドラジェは現状に対する不満を解消するために世界を滅ぼそうとしている。そのための不安は極力取り除くのが彼の信条だ。

 不安になると思った事象に対して、彼は容赦なく介入し、自分の意図する方へと強引に捻じ曲げようとする。はっきりしない不安材料は、すべて切り捨てるのがドラジェの考え方だった。

「すまん……そうだったな」

 ラクリッツは苦い表情で謝った。

 エクレールがドラジェを毛嫌いしているのは、彼がエクレールのことを不安とは思っていないことにも起因する。対処しようと思えば直ぐに対処できるという自信の表れなのか、それともエクレールの意志や行動さえも利用できる、あるいは既にしているのか。

 いずれにせよ、ドラジェは今までエクレールをあしらい続けてきた。

 追い詰められても余裕な態度を崩さず、命からがらという状況であっても必ず逃げ延びた。

 彼にとってエクレールの存在が脅威であることは間違いないはずなのに、ドラジェはエクレールさえ敵視していない。

 エクレールには、それが気に入らない。

 もしかしたら、ドラジェは夏樹を排除しようとするかもしれない。エクレールは当初、そう考えていた。もしドラジェが夏樹の情報を得ていたなら、不安材料と見る可能性は高かったから。

 だが、ドラジェが夏樹のことに気付いていたかどうか、彼の態度から読み取ることはできなかった。知らなかったのか、もしくは不安材料だと判断しなかったのか。

「私たちは、あいつと同じであってはならない」

 不安だから排除する、という力押しのやり方を認めるわけにはいかない。それは傲慢だとエクレールは思っている。

 だから、エクレールは不安もはっきり敵だと定まらないうちは干渉しても排除はしないと決めていた。

「心配性なのは、悪い癖だな」

 ラクリッツの言葉に、エクレールは表情を和らげた。

「あなたのそんなところが私を何度も救っているのは事実よ」

 豪快そうに見えるが、ラクリッツは慎重な男だ。物事を熟考し、確実さを求めるのは長所であり、短所だ。

「もし、彼がグールとして目覚めたら……」

 エクレールは肩越しに、人ごみに紛れていく夏樹の後姿へと目をやった。

 彼の中に流れるグールの血が目覚めた時、彼がどうするのかエクレールには分からない。

 人間の血が、彼を失敗作のようなグールにしてしまうかもしれないし、ヴァンパイアや、あるいはそれ以上の存在に変化させるかもしれない。

 何もせず、人として生きる道を選ぶかもしれない。

 その力で、世界を変えようとするかもしれない。

「あいつと違う道を選ぶことだけは、確信が持てたわ」

 目を細めて、恋人と談笑する夏樹の横顔を見つめ、エクレールは呟いた。

 それは、エクレールの勘でしかない。

 けれど、その勘には自信があった。

 夏樹は、ドラジェのように、変革を求めて世界を滅ぼそうとはしないだろう、と。

「そこまで言うなら、信じよう」

 ラクリッツが肩を竦め、息を吐く。

 夏樹なら、破滅以外の方法で世界を変えようとするだろう。

 小さくなっていく夏樹の姿から、目をはなす。

「……縁があったら、また会いましょう」

 微かに吹く風にそっと囁いて、エクレールは街の中に姿を消した。


   ―終―

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