観測者ミューリの恋―星を観測する男と、本の中の妖精―
星は巡る。
時の経過と共に動き、離れ、そして同じ場所へ戻ってくる。
けれど時々、違うものがある。
それを書き留めるのが彼の仕事だった。
「…赤い星が動いてる」
群青色のローブを着た青年は、大きな天体望遠鏡から顔を離して呟いた。
肩の上で切り揃えた真っ直ぐな黒髪に、紫がかった黒い瞳。端正な顔立ちは磁器人形のようで、どこか現実との境目が曖昧になるような空気を纏っていた。
円形の観測室の中央には、巨大な望遠鏡が据えられていた。
白銀の鏡筒には細かな古代文字が刻まれ、接眼部の周囲では淡い青い光が脈打っている。
そして高い円蓋の屋根には、夜空へ続く大きな開口部があった。
天井がゆっくりと左右に開けば、藍色の空と無数の星々が姿を現す。
「過去の似た記録を調べて見よう」
観測室を出て螺旋階段を降りると、書庫に向かう。
書庫には何百年と星を記録した本が並んでいる。
ミューリは奥から二番目の棚から一冊の本を抜き出す。全てを覚えているかは定かではないが、その手に迷いは無かった。
「…埃が」
本の上に積もった埃をそっと払う。
本棚を覗くと、どの本にも等しく灰色の靄が被さっている。
ミューリは本をテーブルに置き、羽根箒を手に棚に戻ってきた。
羽根で並べられた本を撫でるとふわりと埃が舞う。ローブの袖で口元を覆いながら、順番に埃を払っていく。
袖の下でミューリは軽く咳をした。
「全く…こんな風になるまで放っておいて」
ここには永らく自分しかいないことは分かっているが、他人を責めるように独りごちる。
窓を開けると、普段行くことの無い向かいの奥の本棚へと向かった。
静かに並んでいる本に羽根箒を滑らせて行く。
ある本の上を羽根がなぞった時だった。
本の頁が薄く光っていた。
「…ん?」
口元から手を離す。
羽根箒を本棚に置くと、その本を抜き出した。
「封印術の本?どうしてこんな所に」
表紙の文字を確認して訝しげに本を開く。
そこには文字ではなく、美しい妖精の姿が描かれていた。
白磁のような肌に薄桃色の髪と羽根を持ち、薄絹を重ねた衣をその細身に纏っている。
愛らしくもあるが、色香を漂わせた双眸にふっくらとした唇はひどく蠱惑的でもあった。
「…ピクシー?」
描かれた妖精の唇が、口角を上げて微笑んだ。
「そうよ」
ミューリの肩が跳ねる。
後ろに仰け反った拍子に、背後の書架に頭をぶつけた。
「わっ…痛…」
「鈍い人ね」
本の中のピクシーは可笑しそうに頬を緩めて笑っていた。
ミューリは白い背景の内側で、羽根を動かして浮かんでいる彼女を見つめる。
「あなたは、封印された本物のピクシー?」
「そうよ。ロロナと呼んで」
ロロナは胸の前で両手を握って切なそうに眉根を寄せた。
「昔、意地悪な魔導士にここに閉じ込められたの。ここから出してくれない?」
唇をそっと開いて蠱惑的な笑みを浮かべる。普通の人間ならばその表情と鱗粉の香りに魅了され、頭の中が彼女に占有されてしまう。
しかし本越しに彼女を見ているミューリは、薄く笑いながら首を振った。
「ロロナ。ここにはね、普通の本は置いていないんだよ」
「どういうこと?」
「基本的には星に関する記録しか無いはずなんだ」
ミューリは楽しそうに言葉を続けた。
「前任者が観測を邪魔されるようなことがあったか、君が星の記録を盗んだりしないと多分こんな所に閉じ込められることはないんじゃないかな」
「そんなことしてない!!」
ロロナは怒って声を荒げた。
窓を叩くように、本の表面にその小さな拳を打ち付けている。
「私は無実よ!ここから出して!」
「うーん…」
ミューリは本棚の間を抜け、テーブルの上に本を置いた。
開いた窓から月明かりが入ってくる。
青白く照らされた紙面は、ロロナが動く度にほのかに光った。
テーブルに肘をついて、ミューリはその様子を覗き込んだ。
「君はどれくらいここにいたの?」
「あなたはどれくらいそこにいるの?」
本の中を飛びながらロロナは人差し指を頬に当てる。
「それより長く閉じ込められてるの。可哀想でしょ」
「僕はまだ百年くらいだからなぁ…」
「百年もそこで何してるの?」
「記録してる。星が正しく巡っているか、そうでないか」
それを聞いたロロナは、目を丸くしてぱちぱちと瞬きをした。
「なんであんたがそんなことを?」
「その為に作られたから」
ミューリの口調には一つの疑問も、不満も滲んでいなかった。
「星の記録がそんなに大事なの?」
「大事みたいだよ。誰かが参照に来たことはないけどね」
ロロナの大きな瞳が僅かに揺れる。
「ここから出たこと、ないの?」
ミューリは頷いた。
天文台の窓からは空と雲しか見えない。
地上へ続く階段がどこにあるか彼は知らないし、探そうと思ったこともない。
時折、高く飛んだ鳥が窓の外から見られることもある。年に数回は。
ミューリは記録者だ。不老の体を持ち、天文台で星を観測して記録する。
書庫と観測室と寝台と窓から見える景色。
それがミューリの世界の全てだった。
「誰もここへは来れないし、僕も、どこへも行けない。そういう場所なんだ」
ロロナは思案するように視線を横に流す。
やがて尖った耳をぴくりと揺らして、視線をミューリに向けた。
「じゃあ、私が外の世界のこと教えてあげるわ」
「本当に?」
小さな彼女は誇らしげに胸を反らす。
「だから明日もここに来るのよ」
「うーん…覚えてたらね」
「絶対来て!来なかったら泣き叫んでやるから」
恨めしげに睨みつけるロロナに、ミューリは目を細めて柔らかい笑みを溢した。
「忘れないように気をつけるよ」
───────────────────
ミューリは夜明け頃に寝台へ行き、夕陽が沈む頃に目覚める。
観測室へ行き、記録を書き留め、記録が溜まれば綴じて書庫へ仕舞う。
何かを見つけて記録と照らし合わせる時と、記録を仕舞う時。基本的にはこれ以外は書庫へ足を運ぶことはなかった。
しかしミューリは、ロロナと出会ってから毎日書庫へ向かうようになっていた。
いつものように観測室で記録を書き留めると、螺旋階段を降りてまっすぐに書庫の扉へと向かう。
窓を開けると窓際の椅子に腰掛け、テーブルに置きっぱなしにしている本を開く。
「こんばんは、ロロナ」
「ミューリ!お仕事終わった?」
開口一番に自分のことを聞かれ、ミューリは微笑む。
「うん。今日の星も異常は無かった」
木の椅子を引いて座り直す。開いた窓からは少しだけ冷たい風が入り込む。
ミューリは、ロロナの羽根が忙しなく動くのを目で追いかけている。
「今日は何の話をしてくれるの?」
「海って知ってる?」
「この星の表面を埋めてる水だね」
ロロナはにやりと笑う。
「海ってすごく大きいのよ。入ると体全部が冷たくなって、重たくって、波に流されそうになるの」
「怖くないの?」
「怖いけど、気持ち良いの」
不思議そうにミューリは首を傾げる。
「変な感覚だね」
「自然に身を預けるって、変な感覚になるものよ。地面に寝転んで空を見るのも、嵐の夜に葉っぱにくるまって朝を待つのも」
「ふぅん」
ロロナは、彼女が外の世界で体験した話をしてくれた。ミューリはそれに耳を傾けて想像してみる。
しかし彼女が思い出すのに飽きてくると、しばしば彼女自身も想像の世界に入り込んだ。
「白薔薇とガーベラとラベンダーのあるお花畑に、葡萄と柘榴の樹を植えたらいいんじゃないかしら」
「どうして?」
「ラベンダーの香りに包まれながら葡萄の枝でお昼寝して、お腹が空いたら葡萄と柘榴を食べるの」
「空の上に大きなハープとヴィオラを持って行って雲の上で演奏したら、皆がその音を聴きながら眠りにつけると思わない?」
「うるさいって怒る人がいたらどうするの?」
「そんな偏屈な人は起きてればいいわ」
彼女はコロコロと鈴を転がすように笑ったかと思えば、次の瞬間には拗ねて突き放すようなことを言う。
ミューリはそんな彼女を見るのが好きだった。
ミューリは頁の紙面を指でなぞる。
「君に触れると、鱗粉で魅了されてしまうの?」
「人間はね。ミューリには効かないんじゃないかしら」
本の向こう側から、ミューリの指に触れるようにロロナが手を添える。ロロナの手がミューリの指一本分くらいの大きさだ。
「鱗粉なんてなくても、ミューリは私に夢中みたいだけどね」
指の置かれた場所をつついてロロナは笑う。
「そうかな?」
「そうよ」
有無を言わさない調子で首を縦に振ると、ぽかんとしているミューリを見る。
「三百日、毎日欠かさず会いに来てるじゃない」
「…そうだったかな?」
「覚えてないの?」
ミューリは首を捻る。
「出会った頃の君は怒ってたね」
「そうだった?」
「うん。ここから出してって」
はたとミューリは固まる。ロロナは黙り込んだミューリを見上げる。
「ミューリ?」
「あ…うん。あの時は、怖い子だと思ったな」
「何ですって!」
ミューリの指に向かって拳を叩きつけるロロナにミューリは笑う。
笑いながら、一つの意思が生まれていた。
彼女の望むものをあげようと。
自分が唯一、彼女に渡せるものがあったことに気がついたのだった。
─────────────────
「今日は君に贈り物があるんだ」
ある日の夜。
珍しく温度を持ったミューリの声に、ロロナはぴんっと尖った耳を立てた。
「なに?なに?」
ミューリは手にしていた鍵を、本の背表紙に差し込む。
本が光り、ロロナを閉じ込めていた本の頁が溶けるように消えた。
ロロナが中から押し出されるように、ふわりと中空へと浮かび上がる。
「これで君は自由だ」
白い身体と薄桃色の羽根が月明かりに照らされ、長い髪が揺れている。
幻想的な光景だった。
ふわふわと目の前を飛んでいるロロナを、ミューリは目を細めて眺める。
「どこへでも、好きなところへ行くと良い」
ロロナは呆然としていた。
「…え?」
そして、次第に青ざめるとミューリに怒りの形相を向ける。
大きな瞳に涙を溜めながら。
「どうして?私のこと嫌になったの?」
ミューリは困惑して首を振った。
彼女の表情と言葉は、ミューリが想像した反応と全く違っていた。
「違うよ。大切だから、自由でいて欲しくて」
「何それ、分かんない!」
ロロナが肩を震わせて叫ぶと、彼女の身体から金色の鱗粉が舞い散る。
ぽろぽろと大粒の涙が瞳から溢れていた。
「私がどっか行っちゃってもいいの?二度と帰って来ないかもしれないのに」
「それは…」
ミューリは何かを言おうとして、言い淀む。
「僕はただ、君には君らしくいて欲しくて…」
「出ていってもいいんだ」
「…そういうわけじゃない。平気じゃないよ」
ロロナは両手で涙を拭ってじっと彼を見据える。
「信じられないわ。私のこと、本当に大事だと思ってるの?」
「大切だ。君が笑顔でいてくれるなら、僕が一人になっても構わないと思うほどに」
その時、初めてミューリの表情が翳った。
言葉にしたことで、彼女のいない生活を思い浮かべてしまった。
けれど、自由に空を飛ぶ彼女を見たい。
それも本心だった。
「だけど、君は出たがっていたから…」
ロロナは真意を測るようにその表情を眺めている。
そして彼の近くまで飛んでくると、眉根を寄せて脅しつけるようにミューリを睨んだ。もうその目に悲しみは無く、怒りだけが残っている。
「私のことが大事なら、もう二度と、どこへでも行けなんて言わないで」
「分かった。約束する」
ロロナの険しい表情がぴくりと緩む。
それに気づかず、ミューリは許しを乞うように目尻を下げている。
「…傍にいたいって言って」
「傍にいたい。本当だよ」
ロロナはふわりと浮かんでミューリの眼前までやってきた。
丸い瞳がミューリを見つめる。
「私に愛して欲しいって言って」
「…愛して欲しい。君さえ良ければ」
「どれくらい?」
ミューリは彼女を見つめ、微笑んだ。
「幾星霜でも」
ロロナはゆっくり瞬きをする。
羽ばたいて、ミューリが持っている本の上に腰掛けた。
脚を組んで満足そうに彼を見上げる。
それはミューリが見慣れたロロナの姿だった。
自信に溢れた煌めく双眸が、悪戯っぽくこちらを見ている。
「いいわよ。愛してあげる」
ミューリはその言葉を飲み込むように息を吸った。
ゆっくりと口元が笑みを象る。
無言でにこにことロロナを見ているミューリに、彼女は呆れたように笑う。
「最初からそう言いなさいよ」
ひらりとロロナは飛び上がって、彼の鼻先をつついた。
「痛い」
「反省してよね。本当に」
ロロナは痛がるミューリに満足すると、その瞳を覗き込む。
「ね、ミューリ。さっきのやつ、明日も言って」
窓の外は、暗闇の中で青白い雲がゆっくりと流れている。
その雲間から光が漏れ、虹彩に縁取られた白い月が覗いた。
「明日も、君に傍にいて欲しいと伝えるよ。約束する」
ミューリは柔らかく微笑んで、ロロナに頬を寄せた。
彼女は甘やかな雰囲気でそれを受け入れて笑う。
「それだけ?」
「…僕のことを、想って欲しい。何度星が巡っても」




