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七話 鶴見亭

 その再会を誰よりも望んでいなかったのは禎一郎だった。

 どれだけ考えようとも、彼にどのような顔をして向き合えばいいのかが、禎一郎には分からなかったのだ。

 幼少期から周囲の者から期待の目を向けられ育った自分が、まさかそんな事すら分からないものかと。会わす顔が分からないという理由だけで彼から距離をおいたのだ。笑い話にもなりはしない。

 だから禎一郎にとってその再会は、とても最悪と呼べるものとなった。



「けったいな店やないか。こないな洒落た店、あったんやな。」

 皺まみれの老人が(こうべ)を垂れたまま一向に動こうとしない。ここまで招いてみせた張本人もだんまりだ。まるで示し合わせたかのように二人とも口を開こうとはしない。

 相手の懐にこれでは入り込んでしまっただけの状況で、再びの彼との邂逅を禎一郎はやはりどこか懐かしんでいた。以前程悪い気はしない。渾身の拳を受けて、長年目を逸らしてきた現実に向き合えたといっても過言ではないのだから。ただそれはあくまでも彼に対して抱く感情であって、招かれた身としてはなんとも居心地が悪い。

 理由はどうあれ、当たり障りない言葉を選んでみたつもりだが。果たしてそれが吉と出るか凶と出るかさえ、稀代の天才児とかつて持て囃された彼であっても計り知れぬ事だ。

 腕を組み直し、相手の反応を伺うように口を閉ざしていると、どこからかドタドタと忙しない足音が聞こえてくる。

 音の出所は丁度頭上、禎一郎の真上だろうか。一瞬遠かったと思えばまた次第に大きくなっていく。移動した先に見遣るとそちらには階段があり。やがてその元凶が姿を表した。

 歳の頃はまだまだ若く。広い額に汗を滲ませてきっちり分けたであろう前髪を乱しきった、なんとも冴えない表情を貼り付けたかのような青年とも少年とも呼べそうな見た目のそれは子供だった。。

「も、申し訳ございませんお爺様っ‼︎じゅっ準備に手間取ってしまい、おそ…(おく)れてしまい…、」

 まるで覇気のない眉尻が、玄関口で静観をしている一同を前にして、さらに一層ぐっと下がった。

「馬鹿もんが、既にお待ちだよ。」

 まだ主張小さな喉仏が、はっきりと動くのを見てとれる。大きく唾を飲み下し、己のしでかしたであろう失態を前にして、老人が次に発するであろう言葉を待っている様子だ。

「お客人をお待たせするような事があってはならないと、何度教えたことだか。全く…お前という奴は。」

 器用にも(こうべ)を差し出したまま、やや怒気(どき)を孕んだ声色で老人は彼を叱りたててみせた。

 階段の方からは姿は見えないが、くすくすと幼い笑い声が聞こえてくる。叱りつけられる彼の様子の無様な姿を揶揄っているようだ。

「早く、ご挨拶をしな。」

 謝罪の述べる間も与えられず、彼は老人の半歩後ろで佇まいを正した(のち)、同様に手を付き床板に額をぶつけそうな勢いで頭を下げた。

「も、申し遅れましたっ‼︎本日お爺さまに代わり御二方の席に立ち合いをさせていただきます鶴見(つるみ)八勝(やた)と申しますっ!」



 人見知りなのか。目に見えて分かる緊張を表面に滲ませる青年は器用な方ではないのだろう。(ども)りながら、その目はずっと泳ぎがちだ。人だろう老人に案内を任された彼の後に続く。

 自分が厄介になっている豆腐屋の青年がどれほど暢気なのかが、こうして歳の近そうな若者を前にして思わされる。見ず知らずの放浪者に飯を分け与えるようなお人好しの両親に育てられたものだから仕方ないのだろうが。

 先ほどの老人の事を、“お爺さま”と呼んでいた様子から、先を行く正に今自分らを案内しているだろう彼は、この料亭の跡取り息子、いや孫だろうか。場数も度量もまだまだ足りていないのだろう。未熟さが初々しく映る。

(それにしても、中もまぁ立派なもんやな。)

 料亭というものは敷居の高い店であればあるほど女中が案内をしそうな印象が強かった禎一郎だったが、どうやらここは違うらしい。

廊下の左手には、これまた手の込んだ中庭がこさえられていた。

細かい石が積まれて出来た灯籠にはわざわざ灯りが燈り、夜風で微かに凪揺らぐ水面(みなも)をまるでその(ふち)を彩るかのようではないか。

 待ち合わせをした橋の上から見た、水路に浮かぶ夜桜をどこか思い出す。人の手によって生み出された庭をこうして目の当たりにするのはどれ程ぶりであろう。長く、縁のゆかりもなかった光景だ。

 この里で暮らすようになって日はまだ浅いが、里の中にこれほどの造りをした店がある事を禎一郎は知らなかった。

 何よりも驚かされたのは目の前の、色褪せた髪が最早特徴と呼べよう男が、このような店と面識があったという事だ。

「意外やな。」

「何が、ですか?」

「お前さんにこんな処と繋がりがあった事が、や。それ以外に何がある言うんや。」

「…そうですか。私も意外でした。貴方が、あのような見ず知らずの青年の世話をしているという事が。」

「…。」

 それはまるで、自分の息子は放っておいてか?と訊ねられたも同義で。

相手にその意図がないとは言い切れない。かつての再会の際、既に一度殴られた場所がずきりと傷んだ気がした。たった一発。それで彼がこれまで腹の(うち)に溜め込んできたものが、到底発散できたとは考えていなかった。もしそういう意味で口にしたとしらならまるでそれは意趣返しではないか。

直接殴られるよりも、十二分に痛い。

 戸惑いを悟られぬように癖で自分の顎を一つ撫でていると、先を行く肩口からこちらを覗くその冷ややかな視線に、出来る事なら逃げたいものだと抱いたのは秘密だ。






(まずいまずいまずいまずいっ‼︎)

 大変気まずい状況である。

 後方で交わされた短い言葉に、肝は既に冷え切ってしまっている。一発触発などという言葉がある。事前に氷室より依頼を受けた際に、今宵の両者の関係を聞かされていたが、穏便に何事もなく終わりを迎えられそうにないと八勝は察していた。

よりによって相手はここ最近一族の仲でも常にその動向を監視していた、要注意人物だった。

 こうして彼自身の顔を直接見るのは初めてだが、頬に刻まれた大きな傷や、鋭い目元を隠す暗い眼鏡が物々しさと怪しさを際立てている。

 氷室より依頼を受けるよりも前。彼が里に踏み入った頃より長い事もう留守にしている親戚の兄は、四六時中その監視を行っているらしい。祖父・鶴見与六(よろく)が自ら監視を行うように指示を下したようだというのは、噂好きの五つ下の双子が根拠もなく話していた内容だ。

 榊扇の里は余程の事がなければ里に入る事を拒む事はない。故に隣国にて手配が出回っている者が入り込んでしまう事も少なくはない。それこそ門番に暴力を振るいでもしない限りは容易く入れてしまうのだ。しかし何も罪人をのうのうと野放しにするわけではない。物見櫓にて里の出入りを監視する血筋の者が場合によって数人体勢で動向を追うようになっていた。

 八勝の把握している親戚だけでも三十人近くはいる。そもそも普段顔を合わせる事のない別の門を監視している者だって存在するのだ。総勢何人いるかなんてまだ全貌を八勝は知らされていない。それらを全て執り纏めるのが祖父である鶴見与六だ。両親はこれらの御役目とは異なる、表立って知られている料亭としての鶴見の厨房を任されている。門の近くに同じ名の料亭があっても何もおかしくはない。

 他人の耳に入れたくない密会や会合に利用される事も多い鶴見料亭。中には今宵の氷室のように立ち合いを申し出る客もいた。

(ど、どうする?止めた方が良いですよね?座敷に通す前にこんな、こんな廊下でなんてお爺さまに知られたら…、)

 脳裏に浮かぶのは愛用の張り扇で手を叩く祖父と、何かとちょっかい悪戯を仕掛けてくる双子達。勉強の最中肩をアレで打たれるのは出来るならごめんだ。

 意を決したように、不安を胸に。指を交互に組み合わせまるで懇願するように八勝は振り返り二人を制する声を上げた。

「御二方っ!廊下ではど、どうぞお静か…に…?」

 八勝が振り返った頃には、目線すら交えていない二人が後ろをついてきていた。どうやら少々遅すぎたらしい。

 八勝はきゅっと唇を噛み締めた。






「改めまして今宵の席、事前に氷室殿よりご依頼を受けまして。この私、鶴見八勝が同席立ち合いをさせていただきます。亭内は希望通り話が終えるまでの間、他の者は近付かぬよう。客は他におりませぬ。若輩者故、至らぬ点がございましょうが、ど、どうぞよろしくお願いいたします。」

 既に座敷には事前に仕込まれた食事が用意されていた。氷室が訪れるとなって、声が掛かったその日から両親が何をこさえようかと談笑の最中に話していたのを覚えている。

 氷室という男はどうやら鶴見とは古い仲らしい。筆頭である祖父与六が珍しく口角を上げて話すような相手だ。それだけではない。扇堂家に表面上は関わりがないような家系だが、陰ながらこの里を支えてきたといっても過言でない鶴見は屋敷の者についてよく聞かされて育つ。

 その中でも氷室という男は、今は廃れた言葉だが刀を握るその姿は武人の如きという。“色持ち”だからというだけには収まる事がない実力を隠しもったお強い人なのだという。

 今は刀を振るう事なく、屋敷にて次期当主と囁かれる本家のお嬢様の付人として長年仕えているそうだ。祖父がその実力を認める手練れなのだ。

 まさかこのように同席をする羽目になるとは思っていなかった。それほどまでの相手とこうして接するのは心の臓が中々落ち着けない。

 立ち合いという名目。そして他に誰も寄り付かぬようになっている為、配膳も全て八勝任せだ。

 自分が食すことはないものだが、大層腹を刺激する香りで満たされている。我慢だ。






 このような場を設けた側が、酒を持ち込むなどまるで端から話す気がないのではないかと思えてしまう。しかし差し出された酒を断るような事はしない。話を少しでも緩やかにしていくための潤滑剤代わりか。予め準備されていたであろう猪口を手に取れば、どこか手慣れた手つきで彼は徳利を傾けてみせた。

「前の冬の、雪解け水で作られた清酒です。雪解け水自体希少ですので、それほど数はなく。貴重な物です。」

「わざわざどーも。そんな貴重なもん、これまで目の敵にしてきた相手に簡単に注いで勿体なくはないんか?」

「私情は、別です。」

「せやか。」

 向けられる感情が変わる事はないのだろうか。

 かつて実の弟のように可愛がっていた生意気な彼と、眼前の男は然程代わりないだろう。あれ以降なるべく他人と深く関わる事を意識的に避けてきた禎一郎にとって、こうして対面で誰かと話すというのは、自然と昔の記憶を呼び起こさせた。同時に近しい、親しかった相手を思い出すきっかけともなっていた。それらを噛み締めながら飲む酒というのは、何とも深みがあるもので。甘い誘惑。出来うることならこのまま酒に溺れてしまいたい。思い出に、在りし日に(ひた)かりたいと考えてしまった。そんな事、彼女は許しはしないだろう。

 結局のところ自分が関わる事さえなければ、きっと彼女はそこそこに幸せな未来が望めていた筈なのだと、今でもそう思えてならない。彼女から人並みの幸せを奪ったのは紛れもない自分という人間だと自覚がある。そんな自分のような人間が、今こうして他者から施しを受けるというのはどうにも素直に受け入れられそうにない。

「はよ、本題に入れや。知っとるやろ。朝、今早いねん儂。」

「存じております。実子(じっし)よりも大切にされているようで。」

「………煽っとんのか?」

「…まさか。」

 これこそ意趣返しではないだろうか。先ほどとは違う、明確に悪意を添えた発言。思わず片膝を立てそうになったが、同席をする青年がすかさず禎一郎を止めに入った。

「私情は別言うたのはどこのどいつや。」

「挟まないとは、口にしておりません。」

 気に掛ける必要がないと思っていたのだ。藤原から実質的に解放されたと言っても過言ではない、扇に匿われる形となった事でもう心配する必要を感じなかっただけで。何も忘れたわけでない。それなら早い事この里自体からおさらばしている。こんなにも昔の事ばかり思い出してしまう里に居たいなど思うはずがない。そんなの彼が察しないわけがないだろうに、わざとらしく口にするのは質が悪い。何よりもその口ぶりからするに所在や、肩を持ってやっている恩人の倅についても把握はしている事だろう。

 

 

「話が逸れすぎました。先ずは、そうですね…。先日の白鴉の件について。貴方が動いてくださったのでしょう。ありがとうございました。」

「…礼言われる為に動いたんやないわ。」

『礼言われたくてやったんじゃねぇよ。』

 その口ぶりや態度は、どこか氷室にある子どもを連想させた。

 思えば聞き慣れない、耳馴染みのない彼の喋り方を見様見真似で真似しだした頃が懐かしい。それまでは自主的にあまり口を開く事もなく、日がな彼女のそれこそ膝の上で大人しく過ごすばかりだったというのに。

 その変化を前に、至極悔しそうな反応を彼女が示して見せたのはあまりにも意外だった。気に入っていた玩具(おもちゃ)を横取りされた子供のように態度を露わにしていたのは、本当に面白かったものだ。

 言えば、あの子どもの口調なり態度というものはこの男のそれを見て覚えたのだろうか。いや、元々そうであった事を思い出したかのようにやたらと流暢に口を滑らせていたから一概に彼が全てとは言えないだろうが。



「警戒をさせる必要はありません。危害を加えようなどという気はないのです。(くだん)に関して恩を感じているのは事実。仇で返すような事はいたしません。」

「口ではどうとでも言えるなそんなん。」

 二転三転と切り替わる相手の言い分や態度。そう受け取れてしまうのは既に酔いが回り始めてしまったからか。真面目に相手をするだけ違うのかもしれないと禎一郎が考え始めた頃だった。

「大主が倒れられたのは、ご存知でしょうか。」

 その発言に、それまでこの場で静観をしていた立ち合いの青年の腰を浮かせた。

「氷室殿っ、その話は…」

 反応からして彼は事情を把握しているのだろうか。この里の大主が倒れられるなどそんな大事態、易々屋敷から漏れ出ていい話ではない筈だ。今や大勢の民が暮らすこの里において、それは一歩間違えれば混乱を招く。かつて藤原にいた頃、誰よりもこの里の内情を網羅していた禎一郎にとってはそれが齎す里への影響は容易に想像がついた。そして瞬時どうして自分がここに呼ばれ、そんな話をされているかが大方検討がついてしまったのだ。

「あの婆様が、か。」

「もし貴方が罪悪感を。あの方々に抱かれているのでしたら、手を貸していただきたいのです。」

「仇打ち相手に、(こうべ)垂れてまでか。」

「当たり前です。」

 その額を、畳の面に擦り付けながら彼は次の句を口にした。

「彼女が愛されるこの里を、終わらせたくないのです。」

 彼女とは、はたして誰を指すのか。

 その意志ははっきりしているだろうが、どうにも曖昧な表現だ。少なくとも、彼が長い間仕えていた彼女とは違う事だろう。

 何故なら彼女は、

『こんな里、滅んでしまえばいいのに。』

 あの女はそんな事、微塵も望んでいなかったのだから。











「ただいま!」

「……あっ、おかえり、」

 なんとも拍子抜けだ。まさか帰ってくるとは思っていなかった。適当に部屋の隅から引き摺った布団一式を広げ、日も暮れてしまえば他にする事もない。早々に寝てしまうかと思った矢先、同居人が何事もなかったかのような普段通りの様子で帰ってきた。

 上手く返事が返せない。そもそももう寝ようと半分体を傾けていたものだから起き上がればいいのか、そのまま横になっていいのかも分からない。先刻の事が忘れられず、思わず視線を逸らしてしまうことをどうか許してほしいなんて自分勝手な事を考えながら、弥代はやっと彼女を迎え入れる言葉を返した。

「もうまだまだ寒いっていうのに、どうして暖も焚かずに寝ようとしちゃうのかな弥代は?風邪引いちゃうよ?」

「…いや、だって。直ぐ寝るだろうしよ。消し忘れとか危ないだろ。」

「何のための火鉢さ?灰がこんなにあるんだ。そんな鉢ごと倒れでもしない限り大丈夫に決まってるだろ?もしかして弥代は結構気にしいなのかな?」

 狭い土間で素早く下駄を脱げば、軽い足取りで布団同様に普段部屋の隅に押しやっていた火鉢を彼女は手に取って、手慣れた動作で火を灯した。

「それともなにかい?北なんて行ってたもんだから寒いのに慣れちゃった?こっちはそんなに寒くないのかな?」

「誰もそんな事言ってないだろ…。」

 一方的に彼女に話を進められるのは少々癪だ。

 彼女・詩良はあることないことなんでもかんでも軽く口走るものだから、違う事は違うと指摘しなくてはならない。おしゃべりなのだろう。普段から口数が多く、なにかと口論とまではいかないが長く言葉を交わす機会が多い。どちらかといえば自分と話したくて仕方がないといった方がいいだろうか。どんな理由にせよ弥代からすれば少々厄介だ。口車に巻き込まれて、こちらも別に言いたくない事まで軽率に口走ってしまいそうになる。

 寝ようにも周りをちょこちょこ移動されては気が散って眠りに中々つけない。これならまだ少しの間起きていた方がいいのかと掛けていた布団を時だった。

「ねぇ、弥代。」

「明日、ボクとお出かけしよっか!」

 彼女がそう切り出したのは。



 目覚めは最悪と言っていい。

 言うだけ言っておいて、こちらの返事を待つ事もなく、気付けばいつの間にか夜着に着替えたのか。勝手に擦り寄ってきたかと思えば何を言う暇も与えられずに寝入られてしまった。目を瞑って直後にはもう寝息を立てられてしまえば声を掛けられるはずもない。何がなんだか本当に分からないまま悶々と。胸元に擦り寄るように身動がれればくすぐったいたらありゃしない。彼女が焚いた火鉢は、それは先日までの旅の道中焚き火を絶やさずに夜を明かす事も少なくなかったから、幾分か暖かければ寝れなくもなかっただろうが、それは問題ではない。倣って目を瞑ってみるも出かけるの意味が、その意図が全く理解できずほとんど寝れず終い。結局寝入る事が出来たのは長屋横丁の誰かの家で飼育されている鶏が目覚め鳴き始めた頃で。疲労が限界に達してようやく寝入る事が出来たといったところだろう。それもまぁ本当に束の間、体感では一瞬の出来事。

 意識が途切れた次の瞬間には日が昇ったのか、明け六を報せる鐘が鳴り響く音で直ぐに浮上した。鶏から少し遅れて鳴り響くのなんて当然の事で。

 直後容赦なく横で寝入っていた相手に、無理に体を揺すぶられる事となった。まるで(もや)のかかったような、全く休めてないまま起こされる羽目となってしまった。

 頭の一つでも抱えたくなる。

 弥代はふらりと起き上がり、まだはっきりしない頭のまま。顔の一つ、洗えば少なくとも目ぐらいは覚めるだろうかと考えて水の張った桶に向き合ったが。

「…起きてる?」

「…あ、わり、ねてた、」

 自分でない誰かに勝手に顔を拭われて、やっと弥代は自分が立ちながら寝ていた事に気付いたのだ。

 飯は食った方がいい。夜は寝た方がいい。そんな当たり前の事を道中一度は忘れたかのように一人過ごす事もあったが、やはりどちらも取れる時に取った方が良いことを改めて思い知らされる。

 自分の手で掬った水で顔を濡らして桶の中、水面に映る変な跳ね方をした前髪は、どこぞの色なしの彼のようではないか。濡らして上からぐっと押しつけるも、離せばひょこりとまた直ぐに跳ね上がってしまう。特段自分は気にしないが、今日は一人で過ごすわけではない。誰かと過ごすのならその相手に指摘されそうな可能性を気に掛けて、跳ねが収まるまでの間右手で抑えっぱなしにしておく事にした。


 ここ数日を弥代は振り返る。

 里に帰ってきてから随分と色々な事が起きたように思うが、まだあれから丸二日と経過していないのだ。

 里の門を潜ったのが既に夕暮れ前だったものだから、直ぐに()が訪れてしまった。雪那にわけもわからず頬を(はた)かれ、長屋で休もうと帰ればそこには顔は見えなかったものの見知らぬ男が半裸で横になっていて。それまでの弥代ならしなかっただろう、情けなくも助けを求めるように頼れる相手、鶫が向かった討伐屋に転がりこむこととなった。

 翌日は朝早くから古峯の兄妹を案内するがてら、和馬と共に扇堂家の屋敷に向い。何故頬を叩いたのか問いただそうとしたのだが、

「…考える()そ。」

「もーっ!ボクといるのにボク以外の事考えてたでしょうっ‼︎」

「…いや、お前も関わりある事だよ。」

「えっ⁉︎何もなくてもボクの事考えちゃうぐらいボクの事好きって弥代⁈」

「言ってない、言ってない。」

 一昨日同様、腕を回される。

 やはりその下駄の厚みが邪魔をする。無理やり絡め取られた腕は必然的に若干上背のある彼女にまるで引っ張られるようになる。

 歩きづらい事この上ないが、これも同様に一々そんな事を指摘するだけの気力が湧かない。

 出かけようと言い出した彼女。好きにさせてやれば満足するだろうかと尻目に、そういうえば本当につけばらいの店をそのまま半年近くも放置してしまって事を思い出す。顔を出して謝って少しずつ払ってもいいのだが、何とも億劫だ。

 里を出る前は、帰ってきたらしっかりと店を回って謝らねばと思っていたのだが、日が経過して面倒くさいという気持ちが上回ってきてしまった。許してほしいものだ。

「どこか行きたいところとかある?」

「………あっ?悪ぃ聞いてなかった。」

「…。」

 不気味な程で一瞬で彼女の表情が固まる。半開きの口がそのまま。一緒にいて話を聞かないで他の事を考えていたなど失礼だったろうか。謝った方がいいのかと弥代が手を伸ばそうとしたのだが、その手は彼女によってあまりにも自然に取られてしまった。

「弥代、」

「服を見に行こうか?」


 呉服屋に足を運んだ所で仕上がった品が並んでいるわけではない。店奥まで続く棚にこれでもかと仕舞われた反物の柄や色味を見て寸法を測りと、服が直ぐに仕上がる事はないのだ。一々新品を買う必要などない。それこそ古着だって十分に着れるのだからそれで良いと弥代は言ったのだが、詩良は頑なにそれを拒んだ。

『駄目だってば!弥代にそんなお古なんてボクは絶対に嫌だよ。しっかり仕立ててもらおう?お金の心配?それならボクが出してあげるから気にしなくていいよ?』

『誰もそんな心配してねぇだろ…。』

 あまりのしつこさに弥代が折れるのはもうお決まりのようなものだ。あの狭い長屋で一緒に暮らすようになったのがそれこそ先の神無月の途中からで。僅かな程しか一緒に過ごしていないのに弥代はもう彼女を相手に折れる事にあまりにも慣れてしまった。怖いものだ。

 今着ているものといえばまだ肌寒さも残るものだから、先に雪那が用意してくれた冬服のままだ。古峯の地から榊扇の里に帰ってくるまでの道中も、その分厚さでどうにか寒さを凌ぐ事が出来たのだが、この先夏までの間もこれを着たままというのは確かに暑そうだ。かといって以前(それもまた雪那が結果的に用意したものだが)着ていた薄手の肩のない物を羽織るにしては寒いだろう。

 春物として上から下まで用意する必要はないと思ったのだが、

「端の方の流線がとても緩やかで良いね。あしらわれている花模様も相まって良いね。地の色と噛み合ってて素敵な仕上がりじゃないか。」

「ありがとうございます。詩良さんにそのように言っていただけて光栄です。」

 先ず面識があった事に弥代は驚いた。

 昨日の対話の席では、知らぬ彼女の顔や態度に言葉を失ったが、それとはまた異なる彼女を前にして違う意味で唖然とさせられ店の入り口で立ち尽くす。

 店に入るや否や、店主と思しき男の元へと駆け寄ってき下駄を脱いだ彼女は、新作であると掲げられた反物を手に取って流暢に感想を述べてみせた。

 彼女が一方的に擦り寄っているように見えたのは一瞬で、店主もそれに気前のいい声で返事を返したのだ。

 あまりにも知らない彼女のその一面にどう接せればいいのか分からない。自分のよく知る彼女とはまるで別人だ。

何も全てを知ったつもりで胡座を掻いていたわけではない。ないのだがそれで済むわけではなかった。

「今日はね、今日はね?ボクの妹なんだけど、弥代の服を見立てに来たんだよぉ!」

「お噂の妹様ですね。それは大変よろしいですね。春の生地は風通りが良い薄手の物がよろしいでしょう。流行りとしましてはやはり上に軽い羽織を一枚羽織られる事でしょうか。暖かい日もあれば冷え込む日もこの里は差は激しいですので。夏はまた夏でご用意されるのをおすすめします。」

「…いや、勝手に進んでくな。」

 まだ草履も脱げていないというのに、自分が行かずとも話は進む。

 左肩周りの空いた着物は、そんな話を聞けば夏物になるだろう。先の秋口は肌寒さに適当な羽織を買うか買わまいか悩んだものだ。

「弥代はね、結構地味な色が好き?なのかな。ボク的には結構明るい色も合うと思うんだよ。ちょっと派手かもだけど、こっちの紅梅色なんてどう?」

「髪紐と瞳の赤もありますし、赤は少々目を引きすぎではありませんか?」

「上が赤じゃだめってなると履物?ボクとお揃いにする?赤よりも落ち着いた方がいい?緑程じゃないけど、黄色…はボクが嫌だから、橙?橙なんてどうかな?」

「橙色の袴ですか?丈の長いものでも映えそうですね。」

 まるでお構いなし。何も口を挟む隙のない二人。無理に上がれとは言われないのでそんな会話を聞きながらボーッと店内のやたらと高い天井を見上げる。

 自分たちの他にも客と思しき者は数名。一人一人に店の者がくっつく形で、要望に耳を傾けてそれに合うであろう反物を棚から引きずり出してと繰り返している。忙しそうな印象だ。

 雪那が用意してくれた時は、こことはまた別の店になるがこういった入り口で接客を受けることはなく、上へとそのまま案内されたものだ。奥の部屋で立派な姿見を前にして、最初から最後まで仕立てられたのを思い出す。

 呉服屋なんて裕福でないと足を運ぶ事がないと思っていた。実際にそうなのだが。

 こういう時自分の意見はあまり求めないものだと知る。連れてきた張本人の気が済むまで好きにさせて、何かを訊ねられたらその時は適当に返せばそれでいいのだと。

 まだ暫く時間が掛かりそうで、弥代は目を閉じた。



 

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