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屋敷に春の光が差し始めた朝。
窓を開けると、雪解けの風がやわらかく吹き込んだ。
「……おはようございます」
紅茶の香りに誘われて、ダイニングに顔を出すと、
すでにメイドの二人――ルミナとカリーナが、朝の準備を整えていた。
ルミナはすこし驚いたように、けれどすぐ微笑んで言う。
「お嬢様。今朝は早いのですね」
カリーナは目を伏せながらも、手を止めることなく器を並べている。
以前の彼女たちなら――
少し距離を置いたまま、形式だけを守る態度だった。
けれど今は違う。
「……昨晩は、大変でしたね」
カリーナのその一言が、静かに“変化”を伝えていた。
「グレゴリー様は早くに外へ。庭師のエドリックは雪の整備中です。
……ご主人様も、すこし眠そうでしたよ」
ルミナがふっと微笑みながら続ける。
「……ライナルト様の瞳、ずいぶん柔らかくなりました。
それも、きっと……あなたのおかげですね」
エリシアは一瞬だけ、どきりとする。
でも、それを隠さず、そっと口元に笑みを浮かべた。
「ううん、私……なにも。たぶん、みんなの方が」
ふたりのメイドが、同時に手を止めた。
そしてルミナが、そっと言う。
「……エリシア様、本当にありがとうございます」
カリーナも、そっと頷いた。
「“エリシア様”と再びお呼びできることが、私たちには嬉しいのです。
……どうか、ここで息をしてください。もう、“名前を刻まれる”だけの存在ではないあなたが――
私たちの主のそばにいてくださることが、何よりの救いです」
二人のメイドとお茶をした後、屋敷の裏庭。
雪解けの地面から、淡い緑が顔を出している。
その脇に、グレゴリーの姿があった。
手に小さな鉢を抱え、何やら草花の世話をしている。
エリシアはそっと近づくと、控えめに声をかけた。
「……グレゴリーさん」
老執事は振り返り、いつものように、微笑むでもなく、威圧でもなく――
静かな“気配”だけで君の存在を認めた。
「……エリシア様。春の庭は、静けさがよく似合いますな」
「……少し、お話、できますか?」
その一言に、グレゴリーはほんのわずか、片眉を動かす。
そして、鉢を石の縁にそっと置くと、君に向き直る。
「もちろん。あなた様と静かに語らうのは、何よりの栄誉です」
少しの沈黙の後、エリシアは問いを投げた。
「グレゴリーさんは……最初から、全部知っていたんですね」
「……ええ、だいたいは。
私の務めは、“名を記す者の隣に立ち続ける”こと。
けれど……今回は、“記されない者”が現れた」
「……私、あなたに見守られていたこと、途中で気付きました」
「ライナルト様の横で、それに気づけたのですから……
貴女はやはり、“本物の名を持つ方”でした」
その一言が、くすぐるようにエリシアの胸に残る。
「私、ここにいていいっのかなって、思ってるんです」
グレゴリーの目がふと柔らかくなる。
「名を持つというのは、重く、時に脆く、
しかし誰かの記憶に生きる、唯一の術です。
貴女は、誰かの名を――呼ぶことができる側になったのです」
そして、庭の空気をはらむように、静かに言葉を続ける。
「……それは、私のような“記録者”には、決してできぬ芸当です。
エリシア様。
どうか、“彼の名を呼び続けて”あげてください。
貴女が思っているより、私達は貴女がここに残ってほしいと願っておりますよ」
庭に春の風が通り抜ける。
老執事は、再び鉢を抱えて背を向ける。
それは退くのではなく、新たに芽吹く者たちの背を押す者の姿。
エリシアがそっと背中に呼びかける。
「……グレゴリーさんも、誰かに名前を呼ばれたことって、あるんですか?」
老執事は足を止め、
ふと、ほんの少しだけ――初めての“笑み”を見せた。
「――一度だけ、ございます。
その名は、今も、静かに私の胸に刻まれております」
「だからこそ、わかるのです。
名前を呼ばれることが、どれほどの奇跡かを」




