30
二人に連れられた場所はライナルトの部屋。
深い赤の絨毯。重厚な書棚。
そして今は、ささやかに陽光が差し込む――
少しだけ“人間味”の戻った空間。
小さなテーブルには、グレゴリーが淹れた香り高い紅茶と、焼きたての薄いビスケットが並んでいる。
ライナルトはソファの隣に腰を下ろし、エリシアのほうへ向けて静かに言った。
「……君がこうして座ってくれるだけで、部屋の空気が変わるように思うよ」
彼の声は、もう“囁き”ではなかった。
迷いや誤魔化しを含まず、きちんと、エリシアという一人の人間に向けられた声。
エリシアは温かなカップを両手で包んでから、口を開いた。
「……色々、聞きたいことがあるの」
ライナルトは頷き、グレゴリーが静かに応じた。
「どうぞ、お嬢様。今宵ではなく――今朝こそが、真に語られるべき時です」
二人の視線を受けながら、おずおずとエリシアは口にした。
「“名前を書かれる”って、結局どういうことだったの?」
グレゴリーは紅茶をひとくち啜り、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「“名前を書く”とは――
その者の魂の一部を、屋敷に縫い留める行為です。
屋敷に記されし名は、契約の対象となり、屋敷に住まう者、あるいは封じられし者との“つながり”を持ちます。
一度記されれば、逃れられない。
本来は、意思に関係なく“所有”の始まりでもあるのです。」
ライナルトが続ける。
「けれど君は……名前を書かれながらも、鏡に触れて、“上書きの機会”を得た。
記されながら、選んだ。だからこそ、君の名前は“誰にも奪われない自由”として残ったんだ」
エリシアはそっと指先を見下ろす。あの焼き印は、もうない。
「……でも、最初に名前を書いたのはライナルト様、ですよね?」
ライナルトは静かに頷いた。
「……ああ。……私は、君が来る前から“名を記した”。
正直に言えば、君を守るためではなかった。
“影”に奪われる前に、先に縫い止めたかった。
それが、私の……怖さだった」
彼は目を伏せる。
だが、エリシアが彼の手に触れたその瞬間、
その手が微かに震える。
「けれど――君はそれでも、私を呼んでくれた。
鏡の奥の、獣の名まで含めて……私を、“ライナルト・ヴェルナー”として、呼んでくれた
……あの瞬間、名は契約ではなく、別のものに変わった」
沈黙。
けれど、その沈黙は心地よい余韻だった。
外の雪がやみ、陽光がカーテンの隙間から床に射す。
そして、グレゴリーが静かに言った。
「名前とは、与えられるものではなく――
己が、それをどう呼ばれたいかによって決まるのです。
エリシア嬢。貴女はこの屋敷に、名を刻まれました。
けれど、それはもう“選ばされた名”ではない。
これからはどうか、“貴女自身の名で、夜を歩んでください”」
ふふとライナルトが柔らかく笑い、エリシアの隣に座りなおす。
「別に堅苦しく考えなくていい。君はそのままでいていいってこと。できれば、僕の隣で」
「ライナルト様。そちらの契約はまだしておりませんよ」
二人の団欒の中、エリシアがそっと問いを投げた。
「……ねえ、ライナルト様。
あの……鏡の中にいた“もう一人のあなた”って――いまも、そこにいるの?
それとも……もう“あなた”と一つになったの?」
それは、やわらかいけれど、
とても切実な問いだった。
あの手に触れたときの温度も、あの瞳の深さも、確かに“彼”だった。
けれど、君の隣にいるこの人と、
どこか違っていたこともまた、確かだった。
ライナルトは、少しだけ目を閉じた。
そして、静かに紅茶のカップを置いて――君の方を見た。
「“もう一人の私は、今も私の中にいる”」
エリシアの喉がすこし詰まる。けれど、ライナルトの声は穏やかだった。
「かつて、私は“飢え”や“欲望”を切り離して封じた。
けれどそれは、“自分を偽って生きる”という選択でもあった。
君が私を呼んでくれたとき、
私はもう、それを切り離してはいけないと思ったんだ」
彼は、ゆっくりと胸元に手を当てる。
「今、私の中には、あの影がいる。
けれど、それはもう“私じゃない何か”ではない。
君に名を呼ばれて、君に抱きしめられたことで、
それは“ただの私の一部”になった」
「だから、もう“もう一人”じゃない。
私は、“私になった”。やっと――ね」
その言葉のあと、部屋の空気が、すこしだけ柔らかくなった。
グレゴリーが、目を細めながらうなずいた。
「影を影のままにしておくことは、最も簡単な選択。
けれど、それを受け入れ、“ひとつにする”ことこそ、
最も難しく、最も誇るべき道ですな」
そして、ライナルトが微笑む。
「……君が恐れず、手を伸ばしてくれたから。
私はようやく、“私でいる”ことを許された」
エリシアは紅茶のカップをそっと置いて、
ふと、ライナルトに微笑みかける。
その目にはもう、不安も恐れもない。
ただ、あたたかな光だけが宿っていた。
そして、言う。
「……そっか。じゃあ――たまには、ちょっとだけ。怖い顔も、していいよ?」
声は冗談めいていた。
けれど、その裏にある想いは、とても、深く、強くて。
「全部抱えてる“あなた”だから、
ちょっとくらい鋭くなっても、睨まれても……うん、逃げないよ。
だってそれは、“あなた”でしょ?」
言い終えると、ほんの少しだけ視線を逸らして、頬を赤らめる。
「……、あんまり、怖すぎたら逃げるけど……」
すると――
ライナルトは、ふっと吹き出した。
「……なんて、ことを言うんだ君は……。
もう、逃げられないぞ?エリシア・ノースフィールド嬢
今すぐ、その強気な顔を食べてしまいそうだ」
言いながら、顔をぐっと近づけるライナルト。
まるで、ふざけてるのか、
それとも――本当に食べたいのか。
エリシアは慌てて背をのけぞらせる。
「ま、待って、今のは比喩っ……ひ、ひゆだったでしょ!?」
「冗談だよ。半分くらいね」
「半分は本気だったの!?」
グレゴリーが、苦笑混じりに席を立つ。
「……私の立場としては、
“おふたりとも、それ以上はご自室でどうぞ”とだけ申し上げておきます」
窓の外では、雪が溶け始めている。
夜は終わり、朝が来て、
そして――また次の“日常”が始まる。
けれどその日常は、
“選ばされた名”ではなく、
“選び取った自分の名”で歩く未来。
ライナルト・ヴェルナーと、
エリシア・ノースフィールド。
ふたりの名前で、これからの季節を刻んでいく。




