3
窓際のソファセットに座る。
天井のシャンデリアが静かに揺れ、紅茶の香りがふわりと漂った。
エリシアは手元のカップに視線を落としたまま、言葉を探していた。
目の前の男――ライナルトは、ゆったりとカップを傾けている。その動作すら絵になるような、完璧さだった。
「……本当に、私のことを“知っている”んですか?」
ようやく絞り出した言葉に、ライナルトは片眉だけをわずかに上げた。
「ええ。名を、少し。顔を、少し。経歴を……ほんの少しだけ」
彼は笑ったが、それはどこか芝居がかった微笑だった。
「それでも、人の“輪郭”くらいは見えてくるものですよ。とくに、この地に来ようと決めた理由などはね」
「――理由?」
ライナルトは、窓の外に目をやった。
白銀の庭。その景色を眺めながら、静かに言葉を紡ぐ。
「ここへ来る者は、大抵『逃げる』ためか、『探す』ためです。前者は後ろを見続け、後者は前を見ようとする。貴女は……後者に見える」
「…………」
エリシアの喉がごくりと鳴った。言い当てられたとは思わなかった。ただ、彼の口調が静かすぎて、反論すらできない。
「この屋敷は、そういう人間を受け入れる場所です。ですが――」
ふいに、彼は視線を戻す。
淡いグレーの瞳が、真っ直ぐに彼女を捉えた。
「……代償を払えない者に、椅子は与えられません」
「……代償?」
「ええ。生きるというのは、選び続けること。そして選ぶためには、何かを手放さねばならない。私たちはその事実から逃れられないのです」
そう語る声は、まるで慈悲深い説法のようだった。
けれどそこに、温もりはない。冷たい真理だけが、静かに突き刺さる。
「貴女がここで“何を選ぶ”のか、それを見るのが、私の役目です」
まるで、神父か、あるいは処刑人のように。
微笑みながら、淡々と運命の秤を語る彼に、エリシアは答えられなかった。
長い沈黙が空間を包み込む。
エリシアのカップが受け皿に触れて、小さな音を立てた。
先に口を開いたのはライナルト。
「――さて、私のことはどこまで知っていますか?」
その声は穏やかで、まるで世間話の続きを聞くような調子だった。
だが、その裏にある何かをエリシアは直感で感じ取った。
「……名前と、領主であるってことだけ、で……。あとは、年齢も、過去も……何も知らない、です」
正直にそう答えると、ライナルトは満足そうに、けれどどこか寂しげにも見える微笑を浮かべた。
「それで十分。私という人間は、そう簡単に理解されるものでもありませんから」
彼は立ち上がり、静かに歩き出す。窓辺に立ち、外の雪景色を見下ろした。
「……この地は閉ざされています。雪が降り続け、訪れる者もほとんどいない。静かで、美しい。だが、外界との接点を断つには、都合が良すぎる」
エリシアはその後ろ姿に、なぜか言葉を返せなかった。
ただ、胸の奥にひっかかる違和感――否、恐れに似た何かが、静かに広がっていく。
「私は長くここにいます。……貴女の曽祖母がまだ少女だった頃から、この地にいます」
「……え?」
「年齢の話でしたね。どうしても気になるようなら、答えて差し上げましょう。けれど――」
ライナルトはゆっくりと振り返った。
その目が、どこまでも深い銀灰色に染まっているように見えた。灯りでは説明できない冷たい光が、そこにあった。
「――その代わり、貴女も自分の秘密を、ひとつ晒す覚悟をお持ちですか?」
ライナルトの声が静かに部屋を満たす。
それは何かを問うのではなく、すでに知っている者が「覚悟」を試している声音だった。
エリシアは、喉を鳴らす音すら抑え込んだ。
視線を逸らさなかった。けれど、彼の目をまっすぐには見ないようにした。
その奥にある「何か」を覗いてしまえば、きっと、もう元には戻れない気がして。
「……私は、何も持っていません。ただの娘です。あなたのように何かを知っているわけでも、特別な存在でもない」
ライナルトはしばらく黙っていた。
それが彼女の“答え”であることを、静かに、しかし確かに受け止めていた。
「……そう、ですか。なら、今はそれで結構」
彼は再び微笑む。それは温かいはずなのに、どこか皮膚の内側を冷やしてくるような笑みだった。
「無理をする必要はありません。……まだ夜は長い。時が来れば、言葉は自然とこぼれるものです」
彼は窓辺から離れ、テーブルへと戻ってくる。
彼の影が、まるで人よりも深く長く伸びているように見えて、エリシアは思わず指先を握りしめた。
「さあ、お茶が冷めてしまいましたね。もう一杯いかがですか?」
「……お願いします」
震えを押し殺した声でそう答えると、老執事が何事もなかったように新しいカップを運んできた。
屋敷の空気は変わらず暖かい。けれど、エリシアの肌には、どこか“冷たいもの”がずっと纏わりついていた。
それでも彼女は、何も知らないふりをした。
この屋敷が、何を隠していようとも――今はまだ、その扉を開けたくはなかった。




