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廊下を進むライナルトとエリシア。
まだエリシアは抱きかかえられたまま。
ドアを開けて一歩踏み出した、その先に――
「――おかえりなさいませ、おふたりとも」
待っていたのは、銀髪をぴしりと撫でつけた老執事――グレゴリー・ハーランド。
完璧な笑みと、朝の紅茶を手に。
まるで“これから静かな朝の会話を始める”かのように。
……が、その目は笑っていない。
静かに、鋭く、まっすぐに。
“すべてを把握している者”の視線だった。
「鏡の砕けた音、封印のゆらぎ、そして――お嬢様の鼓動。
私に気づかれずに済むと……お思いでしたか?」
ライナルトは少し苦笑する。
「……さすがだね。君には敵わない」
「まったくでございます。――本当に、何年振りでしょう、あの鏡が沈黙を破るのは」
グレゴリーは歩み寄り、エリシアを見下ろす。
目は優しく、けれど――“容赦”はなかった。
「お嬢様。ご自身が“選んだ夜”の重みを、これから背負う覚悟はおありですか?」
一切の飾りも遠慮もない、真正面からの問い。
けれど、それは“責め”ではなかった。
ただ、正しく知る者からの問いかけだった。
けれど、だからこそ、エリシアは微かに笑ってみせた。
抱きかかえられたままのその体勢で、
彼女はそっと首を傾ける。
「……グレゴリーさん、怒ってます?」
それは、どこかくすぐるような声。
かすかに震えていて、けれど、しっかりと“今ここに立っている”証。
老執事の目が細められる。
感情が読めないほど、表情は変わらない。
だが――その片眉が、かすかに、ほんの少しだけ上がった。
「怒っているか、とお尋ねですか?」
エリシアは、コクリと頷く。
「うん。……あの鏡のことも、勝手に入っちゃったし……ライナルト様を巻き込んじゃったし……」
そう呟いたあと、彼女は視線を落とす。
彼の胸元に、顔を伏せるようにして。
その姿は、まるで――
“すこしだけ甘えたい”と告げる子供のようでもあり、
“すこしだけ謝りたい”少女のようでもあった。
グレゴリーは、ため息をひとつ吐いた。
静かな、長い、そしてどこか慈しみを含んだ息。
「怒ってなど……おりませんとも。ただ――あきれてはおります。
……“私の見届けが必要な場面”が、こうも多いとは思いませんでしたので」
エリシアの頬が、ふっと緩んだ。
ライナルトが、彼女の耳元にそっと囁く。
「……怒ってないってさ、よかったねエリシア」
「だから……!」
グレゴリーがそのやり取りを聞きながら、手元のトレイに目を落とす。
「……ともかく。鏡は砕け、記録は書き換えられ、主は再び“ひとつ”になった。
これで、屋敷はようやく――真の静けさを得られましょう」
そして、まっすぐにエリシアを見る。
「ですが、その静けさの中で何をするかは……貴女と、“お戻りになった主”次第です」
ライナルトはその言葉に、微笑を返す。
けれど、それはこれまでの“夜の主”の顔ではなかった。
“ひとりの男”としての笑みだった。




