27
その瞬間、鏡が――砕けた。
鋭く、重く、音もなく。
けれど確かに、“封じられていたもの”が解き放たれた。
黒い霧が天井へと走り、壁を裂き、
そして――エリシアの胸に、彼の記憶が流れ込んだ。
――炎。
夜の館が焼け落ちる。
人の悲鳴。
少女の泣き声。
そして、その中に、彼がいた。
ただ、喰らっていた。
温かい血を、震える肌を、
涙で濡れた喉元を――
「……やめて……やめてください……!」
――少女の声。
それでも、“彼”は止まれなかった。
飢えが、狂気が、身体を突き動かしていた。
そしてその夜、彼はようやく気づいたのだ。
「……私は、人ではなかった」
だからこそ――
鏡の奥に、“それ”を捨てた。
愛される資格も、守る力もない――ただの怪物だった“自分”を。
エリシアはその記憶に圧されて、膝をついた。
目の前には、もう“鏡”はなかった。
ただそこに、彼が立っていた。
かつての“自分”と再びひとつになった、
本当の――ライナルト・ヴェルナー。
けれど、彼の目は黒く染まり、
口元からは低い、喉を震わせるような獣の唸り声が漏れている。
エリシアを見下ろす目。首筋へと近づいてくる顔。
「……エリシア……」
それは、もはや声ではなかった。
欲望と罪と、再会のすべてを含んだ、咆哮の寸前の呼吸。
そして、彼の牙が――彼女の首へ。
「大丈夫。……――大丈夫。ライナルト様」
その言葉は、少し震えていた。
「もし、あなたが戻るために必要なら、いいですよ。
私が、あなたを抱きしめることで、あなたが“人”に戻れるなら――
そのための腕なら、喜んで貸します。」
その瞬間。
エリシアは、彼を抱きしめた。
鋭い爪が背をなぞる。牙が、喉元にかすかに触れる。
彼の身体が震えた。
唸り声が、やがて嗚咽に変わっていく。
「……君は、愚かだ……。
私に、そんなことを言ったら……
二度と、君を手放せなくなるだろう……?」
その声は、泣いていた。
闇の中で、誰にも呼ばれずにいた彼が――
ようやく“名前”を、優しく抱きしめられた瞬間だった。
エリシアの肩に、ひと雫。熱い涙が、静かに落ちた。
それは、彼が“戻ってきた”証だった。
闇はもう、鏡の奥に消えていた。
ここにいるのは――
誰かを喰らうための怪物じゃない。
全てを抱えて“生きよう”としている――ライナルト・ヴェルナーだった。
エリシアは、何も言わない。
ただ、抱きしめていた。
冷たくも熱い震えを、その胸に受け止めて。
そして――ゆっくりと、彼の頭を撫でた。
指先が、彼の髪に触れる。
黒く、しっとりとした髪が指に絡まる。
その中に、微かに残る血の気配も、
彼という存在の全部だと、受け入れるように。
「……君の手は、温かいな」
ようやく、彼が呟いた。
「何も……言わなくても、君の腕の中にいると、どんな夜も、少しだけ静かになる気がする」
嗚咽は止まっていた。
けれど、涙の跡はそのまま。
それすらも、君は否定しなかった。
黙って、そっと頭を撫でる。
何度でも、ゆっくりと、やさしく。
まるで――“誰かに戻ってきた者”を、
やり直すために迎え入れる者のように。
彼はしばらくの間、子供のようにその胸に顔を埋めていた。
獣も、夜も、封印も――すべて静まっていた。
君の温もりにだけ、世界が包まれていた。
今、鏡のないこの部屋で。
名前も、記録も、過去も超えて。
彼はようやく、“一人の人間として”
エリシアという少女に抱きしめられている。




