表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/33

27

その瞬間、鏡が――砕けた。


鋭く、重く、音もなく。

けれど確かに、“封じられていたもの”が解き放たれた。


黒い霧が天井へと走り、壁を裂き、

そして――エリシアの胸に、彼の記憶が流れ込んだ。


――炎。


夜の館が焼け落ちる。

人の悲鳴。

少女の泣き声。

そして、その中に、彼がいた。


ただ、喰らっていた。

温かい血を、震える肌を、

涙で濡れた喉元を――


「……やめて……やめてください……!」


――少女の声。


それでも、“彼”は止まれなかった。

飢えが、狂気が、身体を突き動かしていた。

そしてその夜、彼はようやく気づいたのだ。


「……私は、人ではなかった」


だからこそ――

鏡の奥に、“それ”を捨てた。


愛される資格も、守る力もない――ただの怪物だった“自分”を。



エリシアはその記憶に圧されて、膝をついた。



目の前には、もう“鏡”はなかった。


ただそこに、彼が立っていた。

かつての“自分”と再びひとつになった、

本当の――ライナルト・ヴェルナー。


けれど、彼の目は黒く染まり、

口元からは低い、喉を震わせるような獣の唸り声が漏れている。


エリシアを見下ろす目。首筋へと近づいてくる顔。


「……エリシア……」


それは、もはや声ではなかった。

欲望と罪と、再会のすべてを含んだ、咆哮の寸前の呼吸。


そして、彼の牙が――彼女の首へ。


「大丈夫。……――大丈夫。ライナルト様」


その言葉は、少し震えていた。


「もし、あなたが戻るために必要なら、いいですよ。

私が、あなたを抱きしめることで、あなたが“人”に戻れるなら――

そのための腕なら、喜んで貸します。」


その瞬間。


エリシアは、彼を抱きしめた。


鋭い爪が背をなぞる。牙が、喉元にかすかに触れる。


彼の身体が震えた。

唸り声が、やがて嗚咽に変わっていく。


「……君は、愚かだ……。


私に、そんなことを言ったら……

二度と、君を手放せなくなるだろう……?」


その声は、泣いていた。

闇の中で、誰にも呼ばれずにいた彼が――

ようやく“名前”を、優しく抱きしめられた瞬間だった。


エリシアの肩に、ひと雫。熱い涙が、静かに落ちた。


それは、彼が“戻ってきた”証だった。


闇はもう、鏡の奥に消えていた。


ここにいるのは――

誰かを喰らうための怪物じゃない。


全てを抱えて“生きよう”としている――ライナルト・ヴェルナーだった。


エリシアは、何も言わない。

ただ、抱きしめていた。

冷たくも熱い震えを、その胸に受け止めて。


そして――ゆっくりと、彼の頭を撫でた。


指先が、彼の髪に触れる。

黒く、しっとりとした髪が指に絡まる。

その中に、微かに残る血の気配も、

彼という存在の全部だと、受け入れるように。


「……君の手は、温かいな」


ようやく、彼が呟いた。


「何も……言わなくても、君の腕の中にいると、どんな夜も、少しだけ静かになる気がする」


嗚咽は止まっていた。

けれど、涙の跡はそのまま。

それすらも、君は否定しなかった。


黙って、そっと頭を撫でる。

何度でも、ゆっくりと、やさしく。


まるで――“誰かに戻ってきた者”を、

やり直すために迎え入れる者のように。


彼はしばらくの間、子供のようにその胸に顔を埋めていた。

獣も、夜も、封印も――すべて静まっていた。


君の温もりにだけ、世界が包まれていた。


今、鏡のないこの部屋で。

名前も、記録も、過去も超えて。


彼はようやく、“一人の人間として”

エリシアという少女に抱きしめられている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ