24
静まり返った鏡の前で、
エリシアは、もう一度だけ問いかけた。
小さな声で、そっと――まるで、かつてそこに“誰か”が確かにいたことを、確認するように。
「……そこに、いるの?」
沈黙。
波紋もない。光もない。
けれど――空気の重みが、わずかに変わる。
鏡は応えない。
ただそこに、在るだけ。
なのに、感じる。
息遣いのような“気配”。
脈打つような、“距離のない存在”。
まるで、こちらの声を聴いて、
ただ――返す言葉を探しているような、そんな“沈黙”。
そして。
ほんの一瞬――
エリシアの胸の奥に、言葉にならない何かが、ふと浮かんだ。
《……呼んでくれたら、答えるよ》
それは幻聴だったかもしれない。
心の中の響きだったかもしれない。
けれど、その言葉は確かに、
“どこかにいる”誰かの返事だった。
「……戻らなくていいの?」
その問いは、
まるで“夜の底”に眠る誰かの魂に触れるようだった。
エリシアの視線は、沈黙した鏡に――彼の影へ向けられていた。
鏡は応えない。
けれど、空気が微かに――震える。
まるで、返事の代わりに、“感情”が揺れたような気がした。
そして、ふと胸の内に、言葉にならない想いが流れ込んでくる。
それは声ではない。けれど、確かに彼の“想い”だった。
《戻れないんじゃない。》
《……怖いんだ。》
《あの人に戻ったら、君に触れたこの手が……君を壊してしまうかもしれない》
《君に名を呼ばれたら、僕は、もう――“人ではなくなる”かもしれない》
静かに、鏡の奥で揺れる黒の影。
けれどそこにあるのは、恐ろしい怪物ではなかった。
ただ――
“優しさを知ってしまった夜”
“温かさに触れてしまった本能”
そんな、“名前のない痛み”。
《……でも、君が望むなら。僕は、君のそばに……“戻る”ことを、選ぶよ。》
《戻るためには、君に……名前を呼んでほしい。
この“影”ではなく――
本当の“僕”として》
そう言って、
鏡はふたたび沈黙した。
それでも――そこにいる。
ずっと、そこにいた。
鏡の前で、エリシアはまっすぐに声を放った。
「待ってて!」
影は返事をしなかった。
けれど、沈黙の奥に“静かな呼吸”があった。
まるで、あの言葉を確かに受け取ったとでも言うように――
空気が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。




