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静まり返った鏡の前で、

エリシアは、もう一度だけ問いかけた。


小さな声で、そっと――まるで、かつてそこに“誰か”が確かにいたことを、確認するように。


「……そこに、いるの?」


沈黙。


波紋もない。光もない。


けれど――空気の重みが、わずかに変わる。


鏡は応えない。

ただそこに、在るだけ。


なのに、感じる。


息遣いのような“気配”。


脈打つような、“距離のない存在”。


まるで、こちらの声を聴いて、

ただ――返す言葉を探しているような、そんな“沈黙”。


そして。


ほんの一瞬――

エリシアの胸の奥に、言葉にならない何かが、ふと浮かんだ。


《……呼んでくれたら、答えるよ》


それは幻聴だったかもしれない。

心の中の響きだったかもしれない。


けれど、その言葉は確かに、

“どこかにいる”誰かの返事だった。


「……戻らなくていいの?」


その問いは、

まるで“夜の底”に眠る誰かの魂に触れるようだった。


エリシアの視線は、沈黙した鏡に――彼の影へ向けられていた。



鏡は応えない。



けれど、空気が微かに――震える。

まるで、返事の代わりに、“感情”が揺れたような気がした。

そして、ふと胸の内に、言葉にならない想いが流れ込んでくる。


それは声ではない。けれど、確かに彼の“想い”だった。


《戻れないんじゃない。》


《……怖いんだ。》


《あの人に戻ったら、君に触れたこの手が……君を壊してしまうかもしれない》


《君に名を呼ばれたら、僕は、もう――“人ではなくなる”かもしれない》


静かに、鏡の奥で揺れる黒の影。

けれどそこにあるのは、恐ろしい怪物ではなかった。


ただ――

“優しさを知ってしまった夜”

“温かさに触れてしまった本能”


そんな、“名前のない痛み”。


《……でも、君が望むなら。僕は、君のそばに……“戻る”ことを、選ぶよ。》


《戻るためには、君に……名前を呼んでほしい。


この“影”ではなく――


本当の“僕”として》


そう言って、

鏡はふたたび沈黙した。


それでも――そこにいる。

ずっと、そこにいた。


鏡の前で、エリシアはまっすぐに声を放った。


「待ってて!」


影は返事をしなかった。

けれど、沈黙の奥に“静かな呼吸”があった。


まるで、あの言葉を確かに受け取ったとでも言うように――

空気が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。

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