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夜更けの屋敷を、エリシアは静かに歩く。

階段を下り、誰もいない廊下を抜け、再び地下室へ。


闇に満ちた空間は、あの日と同じ。

けれど、君自身が変わった。

もう、ただの少女じゃない。“名前を問う者”として、ここに来た。


鏡は、最初と同じ場所に佇んでいる。

けれどその表面は、まるで“待っていた”かのように微かに波打ち始める。


近づいて、息を吸う。

そして、低く、はっきりと――問いかける。


「――私の名前を、奪おうとしているのは、あなた?」


波紋が広がる。


鏡の奥から、白い指先が現れた。

それは、優しくも、冷たくもある“手”。

エリシアは、差し出された手を見つめながら、一歩も動かず、はっきりと言葉を発した。


「……あなたは誰なの? なぜ、私を知っているの?」


鏡の奥で、影の動きが止まった。


沈黙。

けれど、それは躊躇ではない。

言葉を選んでいるような――慎重な、祈りに近い気配だった。


そして、霧がゆっくりとほどけていく。


輪郭が、あらわになる。

黒く長い髪。白い肌。

年齢は不明。

目元だけが、異様に深く美しい影を湛えていた。

見覚えがある、その姿、家に飾られていた肖像画の中の面影に。


「……あなた、――おお叔母様?」


鏡の揺らぎが、ふっと静かになる。

影は、沈黙の中で、ゆっくりと動きを止める。

霧の中の人影が、こちらを見ているのがわかる。


そして。


「……あなたは、ミレイユの血を継いでいるのね」


声は、今までよりもはっきりしていた。

女の声。落ち着いていて、悲しみを内に抱えた声。


「私は……レイナ・ノースフィールド。……かつて、この屋敷に来た者。そして……“ここで名前を消された者”」


鏡の中で、霧がわずかに晴れ、若い女性の輪郭が浮かび上がる。

その目は、エリシアにどこか似ていた。

憂いを帯びて、けれど強く――決して折れていない目。


「私は、鏡の奥に囚われた。あの人が私の名前を書いた時、私は拒めなかった。

甘く、優しい声で……『君のため』だと言われて――気づいた時には、“選ばれていた”。」


「でもね、エリシア。あなたは私と違う。あなたには、問う力がある。あなたが誰に応えるのかは……あなた自身が、決められる」


鏡の奥、レイナの手がもう一度差し出される。


「……私は、ただ“その選択肢”でいたいの。あなたが、誰かに選ばれることなく――“選ぶ”存在でいてほしい」


「あなたが手を取れば、私たちは繋がる。あなたの名前は、あなた自身のものになる。でも、それは“契約”じゃない。“覚悟”だわ」


そして、声が返ってきた。


「違うよ。……私は、“返してほしい”の」


その声は、あの日よりも、ずっと近い。


「あなたの名前は、まだあなたのもの。でも、あの人は――“君の意思ごと”封じようとしてる。あなたがこの屋敷に来たのは、私が呼んだからじゃない。でも、私が“見つけた”のは……あなただった。

鏡に触れたその時、あなたが何を感じたか、――覚えてる?」


熱。囁き。

あの、吸い込まれそうな感覚。


影の声は、続く。


「あなたは、ずっと探してた。誰かに選ばれるんじゃなくて、“自分が選ぶ相手”を。

私は――そのための“もう一つの道”なんだ」


影の奥に、白く細い手だけじゃなく、“形”が現れ始める。


人影。けれど、はっきりとは見えない。

顔はまだ霧に覆われている。

けれど、瞳だけが光を帯びて、こちらを見ている。


「あなたが望むなら、名前を“渡す”んじゃなくて、“取り戻す”ことができる。

それを、あの人は……許さないだろうけど。


さあ、エリシア。あなたが決めて。

私に応えるか、それとも、今ここで去るか」


鏡は、静かに揺れている。

“彼”は今、扉を開こうとしている。

手を伸ばせば、契約が始まる。

けれど、その手は、“奪う”のではなく“差し出されている”。


エリシアは、鏡の前に膝をついた。

揺れる黒の水面に映る“レイナ”の手へと、そっと指を伸ばす。


そして、しっかりと――その手を取った。


触れた瞬間、世界が、音を失った。


心臓の鼓動だけが、自分の存在を証明している。

指先に伝わる温度は、冷たい。けれど、確かに“生きた人の温度”だった。


そして、レイナの声が静かに響く。


「――これで、あなたの名前は、もう誰にも奪われない。

あなたが望まない限り、ライナルトにも、鏡の影にも、“記録の筆”は届かない」


エリシアの胸の奥で、何かがほどけた。

指先の焼き印が、淡く光って消える。

それは、彼女の名が“確定しなかった”ことを意味している。


だがそれは、空白ではない。


“自由”として刻まれたのだ。


「……ありがとう、エリシア。あなたが来てくれたことで、私もようやく、“声を持てた”」


レイナの輪郭が、光の中に溶けていく。


「もう私は、呼ばない。あなたの歩む道に、声を重ねない。

でもいつか……あなたが誰かの名を守りたくなったら――そのときは、思い出してね。

“選ぶ”ということの、強さを」


そして、鏡は静かに凪いだ。


「まって!じゃあ、あの鏡の影は一体だれなの!」


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