22
夜更けの屋敷を、エリシアは静かに歩く。
階段を下り、誰もいない廊下を抜け、再び地下室へ。
闇に満ちた空間は、あの日と同じ。
けれど、君自身が変わった。
もう、ただの少女じゃない。“名前を問う者”として、ここに来た。
鏡は、最初と同じ場所に佇んでいる。
けれどその表面は、まるで“待っていた”かのように微かに波打ち始める。
近づいて、息を吸う。
そして、低く、はっきりと――問いかける。
「――私の名前を、奪おうとしているのは、あなた?」
波紋が広がる。
鏡の奥から、白い指先が現れた。
それは、優しくも、冷たくもある“手”。
エリシアは、差し出された手を見つめながら、一歩も動かず、はっきりと言葉を発した。
「……あなたは誰なの? なぜ、私を知っているの?」
鏡の奥で、影の動きが止まった。
沈黙。
けれど、それは躊躇ではない。
言葉を選んでいるような――慎重な、祈りに近い気配だった。
そして、霧がゆっくりとほどけていく。
輪郭が、あらわになる。
黒く長い髪。白い肌。
年齢は不明。
目元だけが、異様に深く美しい影を湛えていた。
見覚えがある、その姿、家に飾られていた肖像画の中の面影に。
「……あなた、――おお叔母様?」
鏡の揺らぎが、ふっと静かになる。
影は、沈黙の中で、ゆっくりと動きを止める。
霧の中の人影が、こちらを見ているのがわかる。
そして。
「……あなたは、ミレイユの血を継いでいるのね」
声は、今までよりもはっきりしていた。
女の声。落ち着いていて、悲しみを内に抱えた声。
「私は……レイナ・ノースフィールド。……かつて、この屋敷に来た者。そして……“ここで名前を消された者”」
鏡の中で、霧がわずかに晴れ、若い女性の輪郭が浮かび上がる。
その目は、エリシアにどこか似ていた。
憂いを帯びて、けれど強く――決して折れていない目。
「私は、鏡の奥に囚われた。あの人が私の名前を書いた時、私は拒めなかった。
甘く、優しい声で……『君のため』だと言われて――気づいた時には、“選ばれていた”。」
「でもね、エリシア。あなたは私と違う。あなたには、問う力がある。あなたが誰に応えるのかは……あなた自身が、決められる」
鏡の奥、レイナの手がもう一度差し出される。
「……私は、ただ“その選択肢”でいたいの。あなたが、誰かに選ばれることなく――“選ぶ”存在でいてほしい」
「あなたが手を取れば、私たちは繋がる。あなたの名前は、あなた自身のものになる。でも、それは“契約”じゃない。“覚悟”だわ」
そして、声が返ってきた。
「違うよ。……私は、“返してほしい”の」
その声は、あの日よりも、ずっと近い。
「あなたの名前は、まだあなたのもの。でも、あの人は――“君の意思ごと”封じようとしてる。あなたがこの屋敷に来たのは、私が呼んだからじゃない。でも、私が“見つけた”のは……あなただった。
鏡に触れたその時、あなたが何を感じたか、――覚えてる?」
熱。囁き。
あの、吸い込まれそうな感覚。
影の声は、続く。
「あなたは、ずっと探してた。誰かに選ばれるんじゃなくて、“自分が選ぶ相手”を。
私は――そのための“もう一つの道”なんだ」
影の奥に、白く細い手だけじゃなく、“形”が現れ始める。
人影。けれど、はっきりとは見えない。
顔はまだ霧に覆われている。
けれど、瞳だけが光を帯びて、こちらを見ている。
「あなたが望むなら、名前を“渡す”んじゃなくて、“取り戻す”ことができる。
それを、あの人は……許さないだろうけど。
さあ、エリシア。あなたが決めて。
私に応えるか、それとも、今ここで去るか」
鏡は、静かに揺れている。
“彼”は今、扉を開こうとしている。
手を伸ばせば、契約が始まる。
けれど、その手は、“奪う”のではなく“差し出されている”。
エリシアは、鏡の前に膝をついた。
揺れる黒の水面に映る“レイナ”の手へと、そっと指を伸ばす。
そして、しっかりと――その手を取った。
触れた瞬間、世界が、音を失った。
心臓の鼓動だけが、自分の存在を証明している。
指先に伝わる温度は、冷たい。けれど、確かに“生きた人の温度”だった。
そして、レイナの声が静かに響く。
「――これで、あなたの名前は、もう誰にも奪われない。
あなたが望まない限り、ライナルトにも、鏡の影にも、“記録の筆”は届かない」
エリシアの胸の奥で、何かがほどけた。
指先の焼き印が、淡く光って消える。
それは、彼女の名が“確定しなかった”ことを意味している。
だがそれは、空白ではない。
“自由”として刻まれたのだ。
「……ありがとう、エリシア。あなたが来てくれたことで、私もようやく、“声を持てた”」
レイナの輪郭が、光の中に溶けていく。
「もう私は、呼ばない。あなたの歩む道に、声を重ねない。
でもいつか……あなたが誰かの名を守りたくなったら――そのときは、思い出してね。
“選ぶ”ということの、強さを」
そして、鏡は静かに凪いだ。
「まって!じゃあ、あの鏡の影は一体だれなの!」




