18
その部屋の前からすぐに離れて、左奥の扉の部屋の中へと足を踏み入れる。
床は軋まず、空気も動かない。
まるで時間だけが凍りついた空間のようだった。
小さな机の上には乾いたインク壺と、使い古されたペン。
何かを書いていた形跡がある。
その引き出しを開けると、古びたノートが出てきた。表紙には名前はない。
中をそっとめくると、細く震えるような文字で、少女の日記が綴られていた。
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『ライナルト様が笑ってくれた日、私は初めてここが“牢屋”だと気づいた』
『あの鏡を見た日は、夢を見た。血が冷たくなって、心臓が止まりそうになった』
『ノックの音は、私を呼んでいた。あれは“昔の私”じゃない、もっと深いどこかから来る誰か』
『私はもうすぐ呼ばれる。でも、私は返事をしない。絶対に』
『“あの人”と“あれ”は、喧嘩している。私の身体を引っ張って。……どっちも怖い』
ページの隅、震える筆跡で書かれていた最後の言葉。
『もし誰かがここに来たら、お願い――
私みたいに“名前を書かれないで”』
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エリシアの胸が締め付けられる。
記録簿に“彼女の名前”はなかった。
けれど、それは忘れられたからじゃない。
――記される前に、消えたからだ。
ふと、目が鏡台へ向く。
布に覆われた鏡。
ライナルトを「嘘」と呼び、鏡を「もっと嘘」と記した少女が、最後まで目を逸らし続けた“それ”。
エリシアは、静かに近づいた。
手を伸ばし、布の端をつかむ。
ぴたり、と何かが空気の中で止まる。
布をそっとつまみ、ゆっくりと持ち上げる。
くぐもった埃の匂いが舞う。
柔らかな布の下から現れたのは――
古びた楕円形の鏡。
銀の縁に繊細な模様が刻まれており、その模様は、あの地下室の鏡と同じ印を抱いていた。
けれど――この鏡は違った。
光を反射しない。
部屋の中が、エリシア自身が、まったく映っていない。
そこには、ただ“霧のような、どこでもない風景”が漂っている。
「……これ、鏡……じゃ……」
その言葉を呟いた瞬間。
映った。
少女がいた。
この部屋にいた、彼女――日記の主。
長い金髪を垂らし、花の刺繍のドレスを着て、静かに鏡の前に立っている。
そして、エリシアを見た。
見つめるその瞳は――鏡の中から、確かにこちらを見ていた。
「……だめ……返事をしないで……」
唇がそう動いた。けれど、音はない。
「え……?」
もう一度口が動く。
「あなたは、もう名前を書かれてる。
……でも、どちらにもまだ“選ばれていない”」
まるで、それが“救い”だとでも言うように。
「どちらを選んでも、あなたは“何か”を失うの」
少女は、手を伸ばしてきた。
触れようとしている。
けれど、それは優しさではない。
それは――警告。
「でも、あなたなら、“名前を上書きできる”かもしれない」
そして、次の瞬間。
少女の背後――霧の中から、影が現れた。
それは“黒い人影”だった。
顔は見えない。髪が風に揺れている。
けれど、その存在は――この屋敷の誰とも、ライナルトすらも違う。
「……やっと、見つけた」
その“影”の唇が、確かに動いた。
鏡がバチバチとひび割れ、エリシアの指先が焼けるように熱くなった。
「っ……!」
思わず鏡から手を離す。
そして、その瞬間――
鏡は、ふっと、ただの古びた鏡へと戻っていた。
少女も、影も、もうどこにもいなかった。
ただ、エリシアの指先には、小さく焼き印のような跡が残っていた。
それは、あの“記録簿”に押されていた封印の印と、まったく同じものだった。
息が上がっていた。額に汗がにじみ、膝が震えていた。
「……っ」
けれど、その瞬間だった。
コツ、コツ、コツ……
廊下の奥から、靴音が静かに響く。




