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その部屋の前からすぐに離れて、左奥の扉の部屋の中へと足を踏み入れる。

床は軋まず、空気も動かない。

まるで時間だけが凍りついた空間のようだった。


小さな机の上には乾いたインク壺と、使い古されたペン。

何かを書いていた形跡がある。

その引き出しを開けると、古びたノートが出てきた。表紙には名前はない。


中をそっとめくると、細く震えるような文字で、少女の日記が綴られていた。


------------------------------------------------------


『ライナルト様が笑ってくれた日、私は初めてここが“牢屋”だと気づいた』

『あの鏡を見た日は、夢を見た。血が冷たくなって、心臓が止まりそうになった』

『ノックの音は、私を呼んでいた。あれは“昔の私”じゃない、もっと深いどこかから来る誰か』

『私はもうすぐ呼ばれる。でも、私は返事をしない。絶対に』

『“あの人”と“あれ”は、喧嘩している。私の身体を引っ張って。……どっちも怖い』


ページの隅、震える筆跡で書かれていた最後の言葉。


『もし誰かがここに来たら、お願い――

私みたいに“名前を書かれないで”』


------------------------------------------------------


エリシアの胸が締め付けられる。


記録簿に“彼女の名前”はなかった。

けれど、それは忘れられたからじゃない。

――記される前に、消えたからだ。


ふと、目が鏡台へ向く。

布に覆われた鏡。

ライナルトを「嘘」と呼び、鏡を「もっと嘘」と記した少女が、最後まで目を逸らし続けた“それ”。


エリシアは、静かに近づいた。

手を伸ばし、布の端をつかむ。


ぴたり、と何かが空気の中で止まる。


布をそっとつまみ、ゆっくりと持ち上げる。


くぐもった埃の匂いが舞う。

柔らかな布の下から現れたのは――


古びた楕円形の鏡。

銀の縁に繊細な模様が刻まれており、その模様は、あの地下室の鏡と同じ印を抱いていた。


けれど――この鏡は違った。


光を反射しない。


部屋の中が、エリシア自身が、まったく映っていない。

そこには、ただ“霧のような、どこでもない風景”が漂っている。


「……これ、鏡……じゃ……」


その言葉を呟いた瞬間。


映った。


少女がいた。

この部屋にいた、彼女――日記の主。


長い金髪を垂らし、花の刺繍のドレスを着て、静かに鏡の前に立っている。


そして、エリシアを見た。


見つめるその瞳は――鏡の中から、確かにこちらを見ていた。


「……だめ……返事をしないで……」


唇がそう動いた。けれど、音はない。


「え……?」


もう一度口が動く。


「あなたは、もう名前を書かれてる。

……でも、どちらにもまだ“選ばれていない”」


まるで、それが“救い”だとでも言うように。


「どちらを選んでも、あなたは“何か”を失うの」


少女は、手を伸ばしてきた。

触れようとしている。

けれど、それは優しさではない。


それは――警告。


「でも、あなたなら、“名前を上書きできる”かもしれない」


そして、次の瞬間。


少女の背後――霧の中から、影が現れた。


それは“黒い人影”だった。

顔は見えない。髪が風に揺れている。

けれど、その存在は――この屋敷の誰とも、ライナルトすらも違う。


「……やっと、見つけた」


その“影”の唇が、確かに動いた。


鏡がバチバチとひび割れ、エリシアの指先が焼けるように熱くなった。


「っ……!」


思わず鏡から手を離す。

そして、その瞬間――


鏡は、ふっと、ただの古びた鏡へと戻っていた。


少女も、影も、もうどこにもいなかった。


ただ、エリシアの指先には、小さく焼き印のような跡が残っていた。


それは、あの“記録簿”に押されていた封印の印と、まったく同じものだった。

息が上がっていた。額に汗がにじみ、膝が震えていた。


「……っ」


けれど、その瞬間だった。


コツ、コツ、コツ……


廊下の奥から、靴音が静かに響く。

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