17
夜。屋敷は深い眠りに沈んでいた。
カーテン越しの雪明かりだけが、静かに廊下を照らしている。
エリシアの足音は絨毯に吸われ、まるで音が存在しなかった。
――三階。
そこは、屋敷の者が決して近づかぬ場所。
“現在使われていない”と言われた、時間の止まった階層。
だが今夜、その階段を登るのは、ただ一人。
選ばれた者――エリシアだけだ。
手すりの木材は冷たく、空気は一段と重たい。
一段、また一段と上がるごとに、温度が下がっていく気がした。
やがて、辿り着く。
三階の踊り場。
そこには、廊下がまっすぐ続いていた。
まるで使われていないような静寂。埃ひとつない床。
それなのに――
“誰かがここで呼吸している”と、直感が告げている。
廊下にはいくつか扉が並んでいた。
だが、中央奥のひときわ古びた扉だけが、異様な存在感を放っていた。
その扉の上には、飾り彫りが施されていた。
見覚えのある紋章――あの鏡の縁と同じ印。
そして、ドアノブに手をかけた瞬間。
コン……コン……
今度は、内側からノックの音が響いた。
「…………っ」
手が、震える。
エリシアは、中央の扉からそっと距離を取り、廊下の左右に並ぶ他の扉へ目を向けた。
三階には全部で五つの扉があった。
中央を除いて、両側に二つずつ。どれも重厚な木製で、金属の取っ手が鈍く光っている。
まずは、右手前の部屋。
取っ手を回すと、かすかに音を立てて開いた。鍵はかかっていない。
中は、まるで誰かが“つい昨日まで”使っていたような書斎だった。
書棚には埃もなく、本は整然と並び、机の上にはインクと羽ペン、そして未完の手紙。
『……私が選ぶことが、正しいとは思わない。
けれど、私の血が答えを持つのなら、それを封じる役目を――』
手紙はそこで途切れていた。
誰かが、“封じる”ためにここにいたのか。
それとも、“何か”を知ってしまい、口を閉ざしたのか。
部屋には、見覚えのある香が漂っていた。
あの夜、ライナルトの部屋で感じた香りに、かすかに似ていた。
次に、左手前の部屋。
扉を開けると、そこは寝室だった。だが、ベッドは壊されており、家具は隅に追いやられている。
床には、薄く黒い焼け焦げの跡。
「……何が……?」
部屋の隅に、ひとつだけ残されていた銀の十字架。
これは装飾品ではない。明らかに、“何かを祓う”ために使われた形跡。
この部屋で、何かが起きた。
誰かが、“ここにいた何か”を封じようとした――だが、成功したかは不明だった。
左奥の扉。
そこには、意外にも柔らかな空気があった。
中は、少女の部屋のようだった。小さな鏡台、古いドールハウス、花の刺繍のクッション。
だけど――奇妙な違和感がある。
鏡台の鏡は、布で覆われていた。
それを外しかけた瞬間、エリシアの胸に、昨夜の鏡の“熱”がぶり返す。
まるでここにも、あの鏡と繋がる“何か”がある。
この部屋の主は、かつてこの屋敷にいた“少女”。
記録簿には記されていなかった。けれど、その痕跡はここに確かにある。
壁に貼られた古びた紙に、細い筆跡で書かれた言葉。
『ライナルト様の目は、嘘をつく。
でも、鏡はもっと嘘をつく。
私は、どちらも見ない。誰も、呼ばない。』
それは叫びではなく――祈りのように、静かな言葉だった。
右奥の最後の扉。
開けようとすると、手が冷たく痺れるような感覚に襲われた。
「……っ」
取っ手を離すと、感覚はすぐに戻ったが、その扉だけは“拒絶”を感じた。
中から“入るな”と告げるような、密やかな圧力。
試すべきではない。
まだ、“そこ”には近づくな――直感が警鐘を鳴らしている。




