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まだ熱の残る指先を抱えたまま、エリシアはゆっくりと立ち上がった。

鏡の前から離れ、ゆっくりと階段を昇る。


屋敷の記録。

それは、書斎でも図書館でもない――“管理の間”と呼ばれる、グレゴリーがときおり足を運んでいる小部屋にあると、以前ルミナから聞いたことがあった。


使用人たちに気づかれないよう廊下を抜け、屋敷の北翼――かつて事務官が使っていたという一角へ。

そこにひっそりとあった、鍵のかかっていない古い木の扉。


重たく開けると、埃っぽい空気と共に、重ねられた帳簿や革表紙の古文書が並ぶ、狭い書庫が現れた。


「……ここ、でいいはず」


手探りでランタンを灯し、棚を調べていく。

年代順に並べられた記録の山を丹念にめくっていくうち、一冊、やけに厚みのある古い記録簿が目に留まった。


タイトルは――『館に繋がれし名』


「……っ」


中を開くと、筆記体でびっしりと名前が並べられていた。

それはこの屋敷に滞在した者、招かれた者、そして“契約を結んだ者”たちの記録だった。


読み進めていくうち、目に飛び込んできた名に、エリシアの指が止まった。


“ミレイユ・ノースフィールド”


「……私の、曾祖母……?」


彼女の名の横にはこう記されていた。


《訪問理由:選定の儀。結ばれず、去る。》


そのさらに数ページ後――


“エリシア・ノースフィールド”


その名は、すでに記されていた。


《訪問理由:応答。契約待機中。》


「……待機、って……何……?」


震える手でさらに読み進める。

その記録の巻末に挟まれていたのは、封筒だった。

中には、古い手紙が一通。


便箋には、流れるような文字でこう書かれていた。


『――我が血を継ぐ者よ。

お前の到来は、既に定められている。

扉は開かれ、魂は囁く。

契約を結ぶ者は二つ。

一つは“夜”――もう一つは“永遠”』


その文面には署名はなかった。

ただ、封の裏に、あの鏡の縁に刻まれていた印と同じ模様があった。


記録簿を棚に戻し、深く息を吐いたエリシアは、扉を閉めて再び明るい屋敷へと戻った。

足音が廊下に響くたびに、胸の奥に潜む“名前が書かれた者”としての重みがずしりとのしかかる。

だが、何食わぬ顔で日常に戻ること――それが、今の彼女にできる唯一の防御だった。


まず声をかけたのは、庭で枝の手入れをしていた庭師のエドリックだった。

無口な男だが、時折こちらを見つめるその瞳は、意外に鋭い。


「エドリックさん、寒くないんですか?」


「……慣れてます」


短い返事。でも、まったく無関心ではない。


「……この屋敷、昔からたくさん人が訪れてたんですよね?」


「……ああ。訪れて、帰った者もいる。帰れなかった者もいる」


その言葉のあと、彼はふいに手を止め、エリシアをちらりと見た。


「……でも、お嬢様は“選ばれそうな顔”をしてる」


「……それって、どういう……?」


「俺に聞かない方がいい」


そう言って、彼は剪定ばさみの音に戻っていった。

次に声をかけたのは、食器の整理をしていたカリーナとルミナ。


「ねえ、ルミナ。カリーナ。……この屋敷って、昔から“お客さま”が来るたび、記録とか残してたりするの?」


ルミナは一瞬だけ手を止めた。

けれど笑顔はそのまま。


「はい。でもそれは、お屋敷を守るグレゴリー様のお役目です。私たちが見ることはありませんよ?」


「そう。でも……なんとなく、不思議な夢を見て。誰かに“呼ばれて”るみたいな」


カリーナが、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。


「夢は、時として記憶に似ています。……見たことのないはずの場所に、懐かしさを覚えたり」


「それって……この屋敷にも?」


「……さあ。でも、お嬢様は“初めて”いらしたのですよね?」


その“初めて”という言葉に、なぜか棘のような響きを感じた。

ルミナは、笑顔のまま言った。


「大丈夫ですよ。ライナルト様がいらっしゃる限り、お嬢様に何か起こることなんて……」


「……“まだ”ないですから」


その“まだ”という言葉が、やはり引っかかった。

食堂の影にいたトマスとベルナールにも挨拶がてら軽く話しかけた。


「……お嬢様、昨夜は眠れましたか?」


「……うん。少しだけ、変な夢を見たけど。誰かに呼ばれてるみたいな……」


ベルナールが眉をひそめ、トマスが無理に笑う。


「夢です、夢。屋敷は広いから、風の音だって人の声に聞こえるし、ね?」


「……そうだといいな」


「でも」


トマスが言った。笑いながら、けれど声は低かった。


「“誰の声か”をちゃんと知っておかないと、夢の中でも攫われますよ、小鳥ちゃん」


「……!」


その言い方。まるで“誰か”と知っているかのような。


「……私のこと、そう呼んだのは……」


「え?今、俺が?ああ、ごめんなさい、口が滑った」


そう言って、彼はパンを運びに行った。

ベルナールはその背を、目で追っていた。


全員が“何かを知っている”。

けれど、誰もそれを口には出さない。

それが、この屋敷の“常”であり、“しきたり”なのだろう。


でも、その中で――エリシアのことを、誰よりも知っている者がいる。

それは、ライナルトだけではない。


“誰か”が、ずっと前から、彼女を知っていた。


エリシアは、静かに屋敷の片隅へと足を運んだ。

誰にも会わず、誰にも気づかれず、ひとりきりで。

暖炉の残り火がくすぶる読書室。

壁に並ぶ本の背表紙をただ見つめながら、彼女は深く腰を下ろした。


窓の外では雪が静かに降っていた。

白い世界。

誰の声も届かない、冷たくて穏やかな時間。


エリシアは目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。

浮かんでくるのは――


ライナルトの囁き。

鏡の奥の声。

使用人たちの“まだ”という言葉。

そして、記録に刻まれていた自分の名前。


自分は、ここに“来てしまった”。


呼ばれたのは、事実。

けれど、誰が呼んだのかは、未だにわからない。


優しかった。けれど、冷たかった。

甘やかされた。けれど、支配されそうだった。

あの腕の中は、確かに温かかった。けれど――


“欲望の熱”に似ていた。


そして、鏡の奥から伸ばされた手。

それは助けだったのか、罠だったのか。

あの声は、警告だったのか、誘惑だったのか。


――“誰も、完全には信じられない”。


けれど今、エリシアがはっきりと理解していることが、ひとつだけある。


自分は、ただの客ではない。

この屋敷において、選ばれる者であり、選ぶ者でもある。


それが“鍵”としての意味。


このままでは、どちらかに“飲まれる”。

けれど、それを拒むこともできる。

恐れて、逃げるのではなく。

誰かの言葉にすがるのでもなく。


――“選ぶ”のだ、自分で。


そのために、まだ足りない。

もっと知らなくては。


目を開けたとき、エリシアの目に宿っていたのは、迷いではなかった。

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