16
まだ熱の残る指先を抱えたまま、エリシアはゆっくりと立ち上がった。
鏡の前から離れ、ゆっくりと階段を昇る。
屋敷の記録。
それは、書斎でも図書館でもない――“管理の間”と呼ばれる、グレゴリーがときおり足を運んでいる小部屋にあると、以前ルミナから聞いたことがあった。
使用人たちに気づかれないよう廊下を抜け、屋敷の北翼――かつて事務官が使っていたという一角へ。
そこにひっそりとあった、鍵のかかっていない古い木の扉。
重たく開けると、埃っぽい空気と共に、重ねられた帳簿や革表紙の古文書が並ぶ、狭い書庫が現れた。
「……ここ、でいいはず」
手探りでランタンを灯し、棚を調べていく。
年代順に並べられた記録の山を丹念にめくっていくうち、一冊、やけに厚みのある古い記録簿が目に留まった。
タイトルは――『館に繋がれし名』
「……っ」
中を開くと、筆記体でびっしりと名前が並べられていた。
それはこの屋敷に滞在した者、招かれた者、そして“契約を結んだ者”たちの記録だった。
読み進めていくうち、目に飛び込んできた名に、エリシアの指が止まった。
“ミレイユ・ノースフィールド”
「……私の、曾祖母……?」
彼女の名の横にはこう記されていた。
《訪問理由:選定の儀。結ばれず、去る。》
そのさらに数ページ後――
“エリシア・ノースフィールド”
その名は、すでに記されていた。
《訪問理由:応答。契約待機中。》
「……待機、って……何……?」
震える手でさらに読み進める。
その記録の巻末に挟まれていたのは、封筒だった。
中には、古い手紙が一通。
便箋には、流れるような文字でこう書かれていた。
『――我が血を継ぐ者よ。
お前の到来は、既に定められている。
扉は開かれ、魂は囁く。
契約を結ぶ者は二つ。
一つは“夜”――もう一つは“永遠”』
その文面には署名はなかった。
ただ、封の裏に、あの鏡の縁に刻まれていた印と同じ模様があった。
記録簿を棚に戻し、深く息を吐いたエリシアは、扉を閉めて再び明るい屋敷へと戻った。
足音が廊下に響くたびに、胸の奥に潜む“名前が書かれた者”としての重みがずしりとのしかかる。
だが、何食わぬ顔で日常に戻ること――それが、今の彼女にできる唯一の防御だった。
まず声をかけたのは、庭で枝の手入れをしていた庭師のエドリックだった。
無口な男だが、時折こちらを見つめるその瞳は、意外に鋭い。
「エドリックさん、寒くないんですか?」
「……慣れてます」
短い返事。でも、まったく無関心ではない。
「……この屋敷、昔からたくさん人が訪れてたんですよね?」
「……ああ。訪れて、帰った者もいる。帰れなかった者もいる」
その言葉のあと、彼はふいに手を止め、エリシアをちらりと見た。
「……でも、お嬢様は“選ばれそうな顔”をしてる」
「……それって、どういう……?」
「俺に聞かない方がいい」
そう言って、彼は剪定ばさみの音に戻っていった。
次に声をかけたのは、食器の整理をしていたカリーナとルミナ。
「ねえ、ルミナ。カリーナ。……この屋敷って、昔から“お客さま”が来るたび、記録とか残してたりするの?」
ルミナは一瞬だけ手を止めた。
けれど笑顔はそのまま。
「はい。でもそれは、お屋敷を守るグレゴリー様のお役目です。私たちが見ることはありませんよ?」
「そう。でも……なんとなく、不思議な夢を見て。誰かに“呼ばれて”るみたいな」
カリーナが、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。
「夢は、時として記憶に似ています。……見たことのないはずの場所に、懐かしさを覚えたり」
「それって……この屋敷にも?」
「……さあ。でも、お嬢様は“初めて”いらしたのですよね?」
その“初めて”という言葉に、なぜか棘のような響きを感じた。
ルミナは、笑顔のまま言った。
「大丈夫ですよ。ライナルト様がいらっしゃる限り、お嬢様に何か起こることなんて……」
「……“まだ”ないですから」
その“まだ”という言葉が、やはり引っかかった。
食堂の影にいたトマスとベルナールにも挨拶がてら軽く話しかけた。
「……お嬢様、昨夜は眠れましたか?」
「……うん。少しだけ、変な夢を見たけど。誰かに呼ばれてるみたいな……」
ベルナールが眉をひそめ、トマスが無理に笑う。
「夢です、夢。屋敷は広いから、風の音だって人の声に聞こえるし、ね?」
「……そうだといいな」
「でも」
トマスが言った。笑いながら、けれど声は低かった。
「“誰の声か”をちゃんと知っておかないと、夢の中でも攫われますよ、小鳥ちゃん」
「……!」
その言い方。まるで“誰か”と知っているかのような。
「……私のこと、そう呼んだのは……」
「え?今、俺が?ああ、ごめんなさい、口が滑った」
そう言って、彼はパンを運びに行った。
ベルナールはその背を、目で追っていた。
全員が“何かを知っている”。
けれど、誰もそれを口には出さない。
それが、この屋敷の“常”であり、“しきたり”なのだろう。
でも、その中で――エリシアのことを、誰よりも知っている者がいる。
それは、ライナルトだけではない。
“誰か”が、ずっと前から、彼女を知っていた。
エリシアは、静かに屋敷の片隅へと足を運んだ。
誰にも会わず、誰にも気づかれず、ひとりきりで。
暖炉の残り火がくすぶる読書室。
壁に並ぶ本の背表紙をただ見つめながら、彼女は深く腰を下ろした。
窓の外では雪が静かに降っていた。
白い世界。
誰の声も届かない、冷たくて穏やかな時間。
エリシアは目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
浮かんでくるのは――
ライナルトの囁き。
鏡の奥の声。
使用人たちの“まだ”という言葉。
そして、記録に刻まれていた自分の名前。
自分は、ここに“来てしまった”。
呼ばれたのは、事実。
けれど、誰が呼んだのかは、未だにわからない。
優しかった。けれど、冷たかった。
甘やかされた。けれど、支配されそうだった。
あの腕の中は、確かに温かかった。けれど――
“欲望の熱”に似ていた。
そして、鏡の奥から伸ばされた手。
それは助けだったのか、罠だったのか。
あの声は、警告だったのか、誘惑だったのか。
――“誰も、完全には信じられない”。
けれど今、エリシアがはっきりと理解していることが、ひとつだけある。
自分は、ただの客ではない。
この屋敷において、選ばれる者であり、選ぶ者でもある。
それが“鍵”としての意味。
このままでは、どちらかに“飲まれる”。
けれど、それを拒むこともできる。
恐れて、逃げるのではなく。
誰かの言葉にすがるのでもなく。
――“選ぶ”のだ、自分で。
そのために、まだ足りない。
もっと知らなくては。
目を開けたとき、エリシアの目に宿っていたのは、迷いではなかった。




