14
次にエリシアが目を覚ましたのは、朝だった。
陽の光が、カーテンの隙間から優しく差し込んでいる。
見慣れた天井。見慣れたベッド。
……自室だった。
「……え……?」
身体を起こす。
昨日と何も変わらない部屋。
服も整っていて、髪も乱れていない。まるで、最初から何もなかったかのように。
「……夢……だったの?」
自分の声が、あまりにも現実味を帯びていて怖かった。
指先をそっと見下ろす。
……切り傷は、ない。
けれど、肌に残る熱。
耳元に残る、誰かの囁き。
唇に残る――甘い、鉄のような味。
「………………」
時計の針は、午前九時を指していた。
ノックの音も、あの窓の揺れも、ライナルトの低く甘い声も――全部、夢だったのか?
それとも――
「お目覚めですか?」
扉の外から、ルミナのいつも通りの声が聞こえてきた。
ただ、それが“いつも通りすぎる”ことが、何よりも恐ろしく思えた。
服を整えられ、深く息を吐いてから部屋を出た。
足元は確かに地を踏んでいるはずなのに、どこかふわふわと頼りない。
まるで、夢の続きを歩いているようだった。
食堂の扉を開けると、朝の日差しの中、いつも通りの顔ぶれが揃っていた。
カリーナが銀器を並べ、トマスがスープを運び、ベルナールがパンを切り分けている。
ルミナが振り返り、笑顔で声をかける。
「お嬢様、こちらにお座りください」
その笑顔は、何もかも“いつも通り”。
「……ありがとうございます。」
エリシアが席につくと、コト、と器が置かれる。
「今日はじゃがいものスープに、ローズマリー入りのパンですよ。お嬢様、お気に召してくださるといいのですが」
けれど、彼女の内側では“何かがずれていた”。
その場の空気は完璧だ。皆がにこやかに朝の支度をし、いつもと変わらぬ口調で話す。
だけど――“誰も、昨夜のことに触れない”。
ノック音。窓の揺れ。ライナルトの腕。熱。囁き。
あの濃密で、正気を溶かすような夜は、ここでは“存在していなかったこと”になっている。
「……ライナルト様は?」
何気ない風を装って尋ねたその瞬間、トマスの手がピクリと止まった。
「旦那様は……このお時間には、姿を見せられません。いつものことです」
その言い方が、どこか機械的だった。
カリーナは目を伏せながら微笑んだ。
「お疲れなのです。……夜が、長かったのでしょうね」
「……!」
その言葉に、エリシアの胸が跳ねた。
夜が長かった。
それは、彼らも“知っている”ということだ。
なのに、誰も、口にしない。
まるで屋敷全体が“決まり事”として、あの夜を無かったことにしているようだった。
そしてグレゴリーが、静かに背後から歩み寄ってくる。
「……今朝は、お変わりありませんか?お嬢様」
「……ええ。たぶん、何も」
その答えに、グレゴリーはふっと目を細めた。
「“何も起きていない”なら、それが一番です」
その言い方――まるで「何も起こっていないと“思うなら”それでいい」と言っているようだった。
そして、去り際、グレゴリーはごく小さな声で、エリシアの耳元に囁いた。
「……夢か現か、それを決めるのは“あちら”ではなく、貴女の側です」
そして、何事もなかったように姿を消す。
その言葉が意味するものは、まだわからなかった。
けれど、エリシアの胸には確信だけが残っていた。
――昨夜、“確かに何かがあった”。
その言葉を残し、グレゴリーは静かに食堂を後にした。
エリシアは咄嗟に立ち上がった。
「……すみません、少し……」
誰にともなく言い残して、席を離れる。
扉を抜け、廊下へ出ると、グレゴリーの姿はゆっくりと奥へ進んでいた。
歩幅は大きくはないが、どこか“決して追いつかせないような”流れがある。
「……待ってください」
エリシアの声に、グレゴリーは足を止めた。
だが、振り返らずに言った。
「……追ってはなりませんよ、お嬢様。まだ」
「でも、私……知りたいんです。あれは夢だったんですか?それとも……現実だったんですか?」
その問いに、グレゴリーはしばし黙っていた。
やがて、ゆっくりとこちらへ振り返る。
その瞳には、老齢らしい穏やかさと、何百年も生きてきたような深い“諦念”が宿っていた。
「……貴女が夢だと思いたいのなら、それもよろしい。
ですが、夢にしてしまえば、貴女は次も“扉を開ける”。」
「……どういう意味……?」
「一度目は、迷い。二度目は、確信。そして三度目は、契約です」
その言葉の意味が、わからなかった。
けれど、グレゴリーの声には、逃れようのない重みがあった。
「お嬢様。貴女は“呼ばれて”ここに来た。ならば、貴女の意思で“誰の手に応えるのか”を、選ばなければならない」
「……じゃあ、やっぱり……あの夜は……ライナルト様が……!」
そこまで言いかけて、グレゴリーが、ふっと微笑んだ。
それは穏やかな、だがどこか皮肉めいた笑みだった。
「旦那様は……貴女に飢えておいでです」
「……!」
「それは間違いありません。けれど――」
一歩、エリシアの近くに歩み寄って、グレゴリーは囁くように続ける。
「――“彼”だけが貴女を望んでいるわけではありません」
その瞬間、背筋を氷が這うような感覚に襲われた。
あのノック。あの鏡。あの夜。
「……誰、なんですか。もう一人……“誰が”私を呼んだんですか?」
グレゴリーの笑みが、かすかに深くなる。
だが、彼は答えなかった。
ただ、ふと廊下の奥――屋敷のある一角に、視線を向ける。
「まだです。……“目覚めてはならない”。今は、まだ」
その言葉を最後に、グレゴリーは歩き去っていった。
もう追いかけても、何も語られはしないだろう。
それを背で語るような、重い沈黙だった。




