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次にエリシアが目を覚ましたのは、朝だった。


陽の光が、カーテンの隙間から優しく差し込んでいる。

見慣れた天井。見慣れたベッド。

……自室だった。


「……え……?」


身体を起こす。

昨日と何も変わらない部屋。

服も整っていて、髪も乱れていない。まるで、最初から何もなかったかのように。


「……夢……だったの?」


自分の声が、あまりにも現実味を帯びていて怖かった。

指先をそっと見下ろす。

……切り傷は、ない。


けれど、肌に残る熱。

耳元に残る、誰かの囁き。

唇に残る――甘い、鉄のような味。


「………………」


時計の針は、午前九時を指していた。


ノックの音も、あの窓の揺れも、ライナルトの低く甘い声も――全部、夢だったのか?


それとも――


「お目覚めですか?」


扉の外から、ルミナのいつも通りの声が聞こえてきた。

ただ、それが“いつも通りすぎる”ことが、何よりも恐ろしく思えた。


服を整えられ、深く息を吐いてから部屋を出た。

足元は確かに地を踏んでいるはずなのに、どこかふわふわと頼りない。

まるで、夢の続きを歩いているようだった。


食堂の扉を開けると、朝の日差しの中、いつも通りの顔ぶれが揃っていた。


カリーナが銀器を並べ、トマスがスープを運び、ベルナールがパンを切り分けている。

ルミナが振り返り、笑顔で声をかける。


「お嬢様、こちらにお座りください」


その笑顔は、何もかも“いつも通り”。


「……ありがとうございます。」


エリシアが席につくと、コト、と器が置かれる。


「今日はじゃがいものスープに、ローズマリー入りのパンですよ。お嬢様、お気に召してくださるといいのですが」


けれど、彼女の内側では“何かがずれていた”。


その場の空気は完璧だ。皆がにこやかに朝の支度をし、いつもと変わらぬ口調で話す。

だけど――“誰も、昨夜のことに触れない”。


ノック音。窓の揺れ。ライナルトの腕。熱。囁き。

あの濃密で、正気を溶かすような夜は、ここでは“存在していなかったこと”になっている。


「……ライナルト様は?」


何気ない風を装って尋ねたその瞬間、トマスの手がピクリと止まった。


「旦那様は……このお時間には、姿を見せられません。いつものことです」


その言い方が、どこか機械的だった。


カリーナは目を伏せながら微笑んだ。


「お疲れなのです。……夜が、長かったのでしょうね」


「……!」


その言葉に、エリシアの胸が跳ねた。


夜が長かった。

それは、彼らも“知っている”ということだ。


なのに、誰も、口にしない。

まるで屋敷全体が“決まり事”として、あの夜を無かったことにしているようだった。


そしてグレゴリーが、静かに背後から歩み寄ってくる。


「……今朝は、お変わりありませんか?お嬢様」


「……ええ。たぶん、何も」


その答えに、グレゴリーはふっと目を細めた。


「“何も起きていない”なら、それが一番です」


その言い方――まるで「何も起こっていないと“思うなら”それでいい」と言っているようだった。


そして、去り際、グレゴリーはごく小さな声で、エリシアの耳元に囁いた。


「……夢か現か、それを決めるのは“あちら”ではなく、貴女の側です」


そして、何事もなかったように姿を消す。


その言葉が意味するものは、まだわからなかった。


けれど、エリシアの胸には確信だけが残っていた。


――昨夜、“確かに何かがあった”。



その言葉を残し、グレゴリーは静かに食堂を後にした。

エリシアは咄嗟に立ち上がった。


「……すみません、少し……」


誰にともなく言い残して、席を離れる。

扉を抜け、廊下へ出ると、グレゴリーの姿はゆっくりと奥へ進んでいた。

歩幅は大きくはないが、どこか“決して追いつかせないような”流れがある。


「……待ってください」


エリシアの声に、グレゴリーは足を止めた。

だが、振り返らずに言った。


「……追ってはなりませんよ、お嬢様。まだ」


「でも、私……知りたいんです。あれは夢だったんですか?それとも……現実だったんですか?」


その問いに、グレゴリーはしばし黙っていた。


やがて、ゆっくりとこちらへ振り返る。

その瞳には、老齢らしい穏やかさと、何百年も生きてきたような深い“諦念”が宿っていた。


「……貴女が夢だと思いたいのなら、それもよろしい。

ですが、夢にしてしまえば、貴女は次も“扉を開ける”。」


「……どういう意味……?」


「一度目は、迷い。二度目は、確信。そして三度目は、契約です」


その言葉の意味が、わからなかった。

けれど、グレゴリーの声には、逃れようのない重みがあった。


「お嬢様。貴女は“呼ばれて”ここに来た。ならば、貴女の意思で“誰の手に応えるのか”を、選ばなければならない」


「……じゃあ、やっぱり……あの夜は……ライナルト様が……!」


そこまで言いかけて、グレゴリーが、ふっと微笑んだ。

それは穏やかな、だがどこか皮肉めいた笑みだった。


「旦那様は……貴女に飢えておいでです」


「……!」


「それは間違いありません。けれど――」


一歩、エリシアの近くに歩み寄って、グレゴリーは囁くように続ける。


「――“彼”だけが貴女を望んでいるわけではありません」


その瞬間、背筋を氷が這うような感覚に襲われた。

あのノック。あの鏡。あの夜。


「……誰、なんですか。もう一人……“誰が”私を呼んだんですか?」


グレゴリーの笑みが、かすかに深くなる。

だが、彼は答えなかった。

ただ、ふと廊下の奥――屋敷のある一角に、視線を向ける。


「まだです。……“目覚めてはならない”。今は、まだ」


その言葉を最後に、グレゴリーは歩き去っていった。

もう追いかけても、何も語られはしないだろう。

それを背で語るような、重い沈黙だった。


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