13
「エリシア嬢、こちらへ」
その言葉と同時に、ライナルトの腕が彼女の腰をやんわりと引き寄せる。
まるで逃げ出さないように。まるで、それが当然であるかのように。
「……!」
驚く間もなく、その背にぽん、と手のひらが置かれる。
軽く、優しく、何度も――まるで子どもをあやすように、背中を叩かれた。
不思議な安心感が胸に広がっていく。恐怖や緊張が、ぼやけていく。
「ねぇ、僕の声を聞いて」
耳元で囁かれる声は、甘く、柔らかく。
それが命令であることを、エリシアは気づけない。
「ねぇ、僕の目を見て」
その瞳に吸い込まれる。
銀灰の、深く冷たいはずの目が、今は熱を帯びている。
その熱に触れるたびに、頭の芯がふわふわと揺らいでいく。
「ふふ……可愛いな」
満足気に、彼はエリシアの頬に手を伸ばし、やわらかく撫でた。
その指先は血を吸ったあのときと同じ――冷たくて、ぞくりとする感触。
「大丈夫。君は何も怖がらなくていいよ。僕が全部、飲み込んであげる」
扉の向こうから、*コン……コン……*と、またノックの音が響く。
その音が、遠くに感じるほどに、エリシアの意識はライナルトに引き込まれていった。
「……でも、困ったな」
ふっと笑いながら、彼はエリシアの首筋へと指を這わせる。
「グレゴリーには怒られたんだ。“まだ早い”って。……けど、あんな味見じゃ足りないよ」
その笑みは優雅で、なめらかで、けれど――確かに“狂気”を孕んでいた。
「ね、ノースフィールドの小鳥ちゃん」
耳元で囁く声が、肌を撫でていく。
「扉の向こうの“やつ”は、君を奪いに来た。……でも僕は、ここで君を抱きしめている」
彼の指先が、そっと顎に触れる。視線が、絡む。
熱い。なのに、どこまでも冷たい。
「君は、どっちにさらわれたい?」
そう囁く声が、熱を帯びて肌を撫でる。
エリシアの瞳は、ライナルトのそれに釘付けになっていた。
逃げることも、目をそらすことも、思いつかない。
その瞳の奥に揺れている何かが――怖くて、たまらなく美しい。
「……わからない……」
ぽつりとこぼれたその声は、震えていた。
でも、それは拒絶の震えではなかった。
ただ、目の前の男に飲み込まれていく自分を、止められないままにしていた。
ライナルトは、そんな彼女の耳元に唇を寄せて、ふっと笑う。
「……じゃあ、決めさせてくれる?」
その瞬間、彼の腕が彼女の腰を抱き寄せ、軽やかにソファへと座らせた。
柔らかいクッションに沈む身体。
その上から、ライナルトがそっと身を屈める。
「血の味はね、記憶に触れるんだ。心に、魂に、這わせるみたいに」
彼は、エリシアの切れた指先をまたそっと持ち上げる。
傷口に舌を這わせるように、ゆっくりと唇を重ねた。
「……あ……」
ぞくり、と全身に電気が走る。
目の前が少し霞んで、呼吸が荒くなる。
「君の味は、凛としていて、少し寂しげで、でも……すごく甘い」
吐息のような言葉が、耳の奥でこだまする。
「誰にも渡したくない。だから、お願い――」
額をそっと彼女の額に重ねながら、低く、柔らかく囁く。
「……このまま、僕のものになって?」
彼の言葉に、エリシアの心が揺れる。
息が詰まるような陶酔と、奥底から這い出るような怖れがせめぎ合っている。
扉の向こうからは、まだノックの音が聞こえている。
でも、遠い。もう、どうでもいいと思ってしまいそうになる。
世界には、今、ライナルトの手と声と、体温だけしかない。
「……はい、って言ってくれたら……ねえ、もっと君を甘やかしてあげるよ。小鳥ちゃん」
囁く声が、耳の奥に優しく触れる。
熱い。苦しい。だけど、気持ちがいい。
このまま全部、委ねてしまってもいいような気がして――
ガンッ!ガンッ!
その瞬間、扉の向こうから激しいノック音が響いた。
もう“叩く”なんてレベルじゃない。
まるで何かが――あるいは“誰か”が、必死にこじ開けようとしているような、荒々しい衝撃。
「……っ!?」
エリシアが跳ね起きかけたその時、今度はガタガタガタッと、部屋の窓が強く震え出す。
風も吹いていないのに。扉も閉まっているのに。
ガラス越しに、何かが――見えた気がした。
「……うるさいな」
ライナルトが吐息混じりに呟いた。
その顔には、怒りではない。“煩わしさ”だけが浮かんでいた。
エリシアを抱き寄せるその腕はまだ優しいのに、表情は、まるで扉の向こうに立つ何者かを虫けらでも見るように冷たい。
「今、いいところなのに……」
その声を最後に、視界がにじんだ。
鼓動が遠のき、身体が熱を手放していく。
目の前の光も音も、すべてが滲んで――
──真っ暗になった。




