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「エリシア嬢、こちらへ」


その言葉と同時に、ライナルトの腕が彼女の腰をやんわりと引き寄せる。

まるで逃げ出さないように。まるで、それが当然であるかのように。


「……!」


驚く間もなく、その背にぽん、と手のひらが置かれる。

軽く、優しく、何度も――まるで子どもをあやすように、背中を叩かれた。

不思議な安心感が胸に広がっていく。恐怖や緊張が、ぼやけていく。


「ねぇ、僕の声を聞いて」


耳元で囁かれる声は、甘く、柔らかく。

それが命令であることを、エリシアは気づけない。


「ねぇ、僕の目を見て」


その瞳に吸い込まれる。

銀灰の、深く冷たいはずの目が、今は熱を帯びている。

その熱に触れるたびに、頭の芯がふわふわと揺らいでいく。


「ふふ……可愛いな」


満足気に、彼はエリシアの頬に手を伸ばし、やわらかく撫でた。

その指先は血を吸ったあのときと同じ――冷たくて、ぞくりとする感触。


「大丈夫。君は何も怖がらなくていいよ。僕が全部、飲み込んであげる」


扉の向こうから、*コン……コン……*と、またノックの音が響く。

その音が、遠くに感じるほどに、エリシアの意識はライナルトに引き込まれていった。


「……でも、困ったな」


ふっと笑いながら、彼はエリシアの首筋へと指を這わせる。


「グレゴリーには怒られたんだ。“まだ早い”って。……けど、あんな味見じゃ足りないよ」


その笑みは優雅で、なめらかで、けれど――確かに“狂気”を孕んでいた。


「ね、ノースフィールドの小鳥ちゃん」


耳元で囁く声が、肌を撫でていく。


「扉の向こうの“やつ”は、君を奪いに来た。……でも僕は、ここで君を抱きしめている」


彼の指先が、そっと顎に触れる。視線が、絡む。

熱い。なのに、どこまでも冷たい。


「君は、どっちにさらわれたい?」


そう囁く声が、熱を帯びて肌を撫でる。

エリシアの瞳は、ライナルトのそれに釘付けになっていた。

逃げることも、目をそらすことも、思いつかない。


その瞳の奥に揺れている何かが――怖くて、たまらなく美しい。


「……わからない……」


ぽつりとこぼれたその声は、震えていた。

でも、それは拒絶の震えではなかった。

ただ、目の前の男に飲み込まれていく自分を、止められないままにしていた。


ライナルトは、そんな彼女の耳元に唇を寄せて、ふっと笑う。


「……じゃあ、決めさせてくれる?」


その瞬間、彼の腕が彼女の腰を抱き寄せ、軽やかにソファへと座らせた。

柔らかいクッションに沈む身体。

その上から、ライナルトがそっと身を屈める。


「血の味はね、記憶に触れるんだ。心に、魂に、這わせるみたいに」


彼は、エリシアの切れた指先をまたそっと持ち上げる。

傷口に舌を這わせるように、ゆっくりと唇を重ねた。


「……あ……」


ぞくり、と全身に電気が走る。

目の前が少し霞んで、呼吸が荒くなる。


「君の味は、凛としていて、少し寂しげで、でも……すごく甘い」


吐息のような言葉が、耳の奥でこだまする。


「誰にも渡したくない。だから、お願い――」


額をそっと彼女の額に重ねながら、低く、柔らかく囁く。


「……このまま、僕のものになって?」


彼の言葉に、エリシアの心が揺れる。

息が詰まるような陶酔と、奥底から這い出るような怖れがせめぎ合っている。


扉の向こうからは、まだノックの音が聞こえている。

でも、遠い。もう、どうでもいいと思ってしまいそうになる。


世界には、今、ライナルトの手と声と、体温だけしかない。


「……はい、って言ってくれたら……ねえ、もっと君を甘やかしてあげるよ。小鳥ちゃん」


囁く声が、耳の奥に優しく触れる。

熱い。苦しい。だけど、気持ちがいい。

このまま全部、委ねてしまってもいいような気がして――




ガンッ!ガンッ!




その瞬間、扉の向こうから激しいノック音が響いた。

もう“叩く”なんてレベルじゃない。

まるで何かが――あるいは“誰か”が、必死にこじ開けようとしているような、荒々しい衝撃。


「……っ!?」


エリシアが跳ね起きかけたその時、今度はガタガタガタッと、部屋の窓が強く震え出す。

風も吹いていないのに。扉も閉まっているのに。

ガラス越しに、何かが――見えた気がした。


「……うるさいな」


ライナルトが吐息混じりに呟いた。


その顔には、怒りではない。“煩わしさ”だけが浮かんでいた。

エリシアを抱き寄せるその腕はまだ優しいのに、表情は、まるで扉の向こうに立つ何者かを虫けらでも見るように冷たい。


「今、いいところなのに……」


その声を最後に、視界がにじんだ。

鼓動が遠のき、身体が熱を手放していく。

目の前の光も音も、すべてが滲んで――


──真っ暗になった。




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