12
ライナルトは、ゆったりと椅子に腰を下ろしながら、手元のカップに紅茶を注いでいた。
その所作はどこまでも優雅で、見とれてしまうほどに自然なものだった。
「大丈夫ですよ。……ところで、エリシア嬢」
静かに目を上げると、その灰銀の瞳がまっすぐに彼女を捉えていた。
「あなたは、なぜこの屋敷へ?」
「……え?」
思わぬ問いに、エリシアはまばたきをする。
「ノースフィールド家が我々ヴェルナー家と親交を持っていたのは事実です。けれど……“何も知らない”あなたが、この冬のもっとも厳しい時期に、ここを訪れた理由とは?」
言葉は穏やかだった。
だがその裏に潜むのは、明確な――“疑い”。
エリシアは目を見開き、ぽつりと口にした。
「え……ライナルト様が、呼んだんじゃないんですか?」
その一言に、紅茶を注ぐ音が止まる。
ライナルトの手が、ぴたりと止まった。
その動きは一瞬で元に戻ったが、その沈黙の重さが、空気を冷やしていく。
「――私が?」
「はい。数ヶ月前に……ノースフィールドの屋敷に手紙が届いたんです。封にはこの屋敷の印章が押されていました。だから……私は呼ばれたのだと思って……」
ライナルトは目を伏せたまま、しばし何も言わなかった。
そして、静かに立ち上がると、暖炉のそばに歩み寄り、炎を見つめた。
「……それは奇妙ですね」
「……え?」
「私は、誰にも手紙など出していません。少なくとも、あなたに対しては」
その言葉が、エリシアの中に氷のような冷たさを流し込む。
じゃあ――誰が?
誰が、私をこの屋敷に?
「けれど、あなたは確かにここへ来た。そして今、ここにいる」
ライナルトは振り返り、再び穏やかに微笑んだ。
けれどその微笑みは、まるで何かを諦めるかのように、どこか遠いものだった。
「……それは偶然か、あるいは……運命でしょうか」
その言葉のあと、また“あの”ノック音が、扉の外から――
コン……コン……
エリシアは震え上がった。
けれどライナルトは、微笑みを崩さずにいるだけだった。
コン……コン……
また。
まるで昨夜とまったく同じ音。遠慮がちな、それでいて“確実にそこにいる”と訴えてくるような――異質なノック音。
エリシアは、反射的にライナルトのそばに寄った。
彼の存在にすがりたいというより、この部屋のどこかに“まだ人の理性”が残っていることを確かめるように。
「……また、来た……」
エリシアが小さく呟くと、ライナルトはほんの少しだけ、視線を扉に向けた。
「ええ。来ましたね。貴女がここに来た理由を――知っている“何か”が」
「……ライナルト様、あれは……あれは誰なんですか?」
ライナルトはすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、まるで重い蓋を開けるように、低い声で答えた。
「この屋敷には、時折、魂が還らずに留まる場所があります。……かつてここにいた者。あるいは、ここに来たかった者。あるいは、“呼ばれたのに来られなかった者”。」
「呼ばれた……?」
「ええ。そして、貴女は来てしまった。呼ばれたのが“私”ではないなら……誰かが、あなたを必要としていたということ」
エリシアは顔を青ざめさせた。
「そんな……でも……私は……ただ……」
コン……コン……
ふたたび、扉のノック。今度は、わずかに力を帯びた音。
エリシアは息をのんだ。
そして、扉の下の隙間に――うっすらと、影が見えた。
誰かが、そこにいる。
「ライナルト様……開けたら……どうなるの……?」
「――わかりません」
その言葉は、穏やかでありながら、どこか切実だった。
「貴女は。きっとまだ“誰のものでもない”」
「……!」
「けれど……それが崩れたとき。呼んだ者は、きっと手を伸ばす」
ライナルトの目が、初めて微かに揺らいだ。
そして、今度は彼が一歩、エリシアの前に出る。
「エリシア嬢、今夜はもう、自室には戻らない方がいい」
「えっ……?」
「戻れば……迎えが来ます。誰が、とは言いません。けれど“貴女の選択”が、貴女を決める」
その言葉の意味は、すぐには理解できなかった。
だけど、エリシアはただ――
目の前の扉の向こうに立つ“それ”が、自分の名を呼ぶ瞬間が近づいているのを、はっきりと感じていた。




