10
背後で聞こえた音が気になり、エリシアはしばらく振り返ることなく本を棚に戻した。
心の中で何か引っかかるものを感じながらも、気を取り直し、再び図書館を離れた。
歩いていくうちに、屋敷の中で見慣れない扉が目に入った。
普段は誰も通らないような小道にひっそりと隠れたその扉は、少しだけ開いていた。
(……この扉、どこかで見たような)
心の中で呟きながら、エリシアは足を進める。
その扉は、どう見ても他の部屋に繋がっているようには思えなかった。
開けると、古びた階段がゆるやかに下へと続いている。
「地下室……?」
直感的にそう思った。
屋敷には地下があったのだろうか、それともただの物置部屋か。
しかし、好奇心が彼女をその階段へと誘う。
ゆっくりと足を踏み入れ、階段を下りる。
暗く湿った空気が鼻を突き、木の階段がギシギシと音を立ててエリシアの足元を迎えた。
「……誰もいないよね?」
言葉に出すと、逆にその空間に音が響くような気がして、エリシアは急に周囲に気を使い始める。
下まで降りると、目の前に広がるのは、何もない広い部屋だった。
石の壁に囲まれ、ほのかに冷気が漂う。
中央には、埃をかぶった古い家具が無造作に置かれている。
その中に一つ、非常に奇妙なものが目を引いた。
それは、古びた鏡――だが、ただの鏡ではない。
その鏡の縁には、異常なほど細かな彫刻が施されており、中央に浮かぶ文字が不気味に輝いていた。
「……何だろう、これ?」
近づいてみると、鏡の中に不自然な光の反射が見えた。
それは、鏡に映った自分の姿ではなく、何か――その鏡の奥に潜む「別の何か」が反射しているような感覚だった。
エリシアは思わず手を伸ばして、その鏡に触れようとした瞬間、背後から冷たい風が吹き抜けるような感覚が襲ってきた。
その瞬間――
ガタンッ
何かが動いた。
部屋の隅から、重たい音が聞こえてきた。
エリシアはすぐに振り向くが、目の前には何もなかった。
けれど、確かに感じたその「気配」は、もう無視できるものではなくなっていた。
恐怖に駆られたエリシアは、地下室の不気味な鏡を後にして、足早に階段を駆け上がった。
その手にはまだ、冷たい鏡の感触が残っているようで、体中にじわじわと寒気が広がっていた。
(……あんな場所、もう二度と行かない)
心の中で呟きながら、急いで階段を駆け上るが、足元が少しふらつく。
さっき感じた異様な気配が、まだ背後にまとわりついているような気がしてならない。
その時、思わぬ形で、足元が崩れた。
「――っ!」
慌てて前に進んだが、すでに遅かった。
エリシアは急な動きに体がついていかず、バランスを崩してそのまま倒れそうになった。
その瞬間、腕が何かに引き寄せられ、強く支えられる。
「……大丈夫ですか?」
低く、穏やかな声が耳元に届いた。
驚いて顔を上げると、そこには――ライナルトが立っていた。
「ライナルト様……!」
目を見開いたエリシアが立ち上がろうとするが、ライナルトの手が優しく彼女の腕を支えてくれた。
その力強さに、ほんの少し安心したような気がした。
「急いでいるようですね」
ライナルトは、ほんの少し眉を寄せて、彼女を見つめている。
その瞳には、温かさと共に何か鋭いものが感じられた。
「……何か、怖いことがあったのですか?」
その声には、少しの優しさがこもっていた。
エリシアは、無意識にその温かさに甘えてしまいそうになる。
「……地下室で、変なものを見てしまって……」
言葉に詰まったエリシアは、少し顔を背ける。
今まで感じたことのない、心の中の不安と恐怖に押しつぶされそうになりながら、彼の胸に少しだけ寄りかかる。
ライナルトは、微動だにせず、ただ静かに彼女を受け止めた。
「……お嬢様」
その呼びかけに、エリシアはすぐに顔を上げる。
ライナルトの顔はいつもと変わらず、冷静で穏やかだ。
「怖いのであれば、無理をせずに休まれてはどうですか?」
その言葉は優しく、しかし同時に無理に心を開くようなことを求めているようでもあった。
「……ありがとうございます。でも、なんだか不安で……」
ライナルトは、ほんの少しだけ視線を外し、静かな声で続ける。
「――それなら、今夜は私の部屋で休まれても構いません。安心するために、今はゆっくりと心を落ち着けてください」
その申し出に、エリシアはほんの少しだけ驚いた。
だが、それと同時に、彼にすがることで不安が和らぐような気がした。
「……では、少しお世話になります」
ほんの少しだけ、ライナルトに寄りかかりながら、エリシアはそのまま一緒に歩き始めた。




