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キス

 十時過ぎマンションのドアを開けて、部屋の明るさに驚いた。

 人影はないが、脱ぎ散らかした若い女物のセーター、スカート、下着がバスルームに続いていた。鮮やかなシアンのパンティーを拾い上げようとした時、シースルーの扉が開いた。

 一瞬の鼻唄は『ゆれる想い』だった。キャッという悲鳴に顔を上げると、目の前に一糸まとわぬやせっぽちのヴィーナスがいた。約一秒半でそれは扉に消えた。

「下着とって。あと、バスローブか何かない?」

 扉越しに要求されたものを渡す。

「人の部屋で何してるんだ」

「お風呂入ってる」

 質問の仕方が悪かった。青い下着に足を通す姿が透けて見える。逆三角形の黒々とした茂みに、水滴が湯気を立てていた一瞬のクローズアップが目に蘇る。

「何の目的でいつここへ来て、どうやって部屋に入って、だいたい今日のベストテンとか後の仕事とか、そういうのがどうなってるのかって事を説明しろと言ってるんだよ」

「今週の第一位、『ゆれる想い』直木マナ!」

 バスローブをまとったマナがポーズをとって飛び出してくる。

「真面目に答えろ。ベストテン一位の歌手が何でここにいる」

「わたしの出番は夕方から録画撮りにしたの。八時頃ここへ来て、管理人さんにウソをついて鍵を借りた。風間を巻いてエスケープして来たの。きっと今頃事務所は大騒ぎしてる」

 事務所で俺が歯向かっていた頃には、まだミス小野も平静でいた。電話機に手をかけた。

「どこにかけるの」

「事務所だ、決まってるだろ」

「やめて、事務所には戻りたくないの。お願いだから今晩だけここに泊めて」

「ごめんだ。他にいくらでも行く所はあるだろ」

「ない。友達ひとりもいないし、お金もここに来る電車賃で全財産使っちゃったし」

 それは嘘ではないだろう。アイドルとはそういうものだ。

「ねえ、知ってるなら教えて。昨日今日、また何かあったんでしょ。みんなとぼけて教えてくれないけど、様子がおかしい事はわかるわ。わたしの事なのにどうしてみんな隠すの?馬鹿にしないでよ。頭にきたから飛び出して来たんだ」

 座ったマナの目の前のテーブルには、現像から持ち帰って置きっ放した村木の写真が広がっていた。ホテルで微笑むマドンナから宙に移った俺の視線は、その本人の挑むような目の玉とぶつかって止まった。

「知ってるよね、探偵さん」

 マドンナから視線をそらし、初めてハーフコートを脱ぐ。

「俺はさっき、オノプロをクビになったんだ」

 買ってきたオールドを目ざとく見つけ「私にもちょうだい」と騒ぐマナにグラス二つを用意させ、久方振りの琥珀色を注ぐ。喉を通過した魔の液体は、痛んだ胃袋の裏壁をせわしなく叩き、程なく大脳のてっぺんをいい気分にしびれさせる。

「知ってる事を教えてやってもいい。ただし、お前が自分について語るのが条件だ」

「イヤよ」マナは口をつぐんだ。

「昔のことは話したくない。クビになったんでしょ、どうしてそんな事聞くの?」

 嫌ならこちらも答えないと言うと、マナは五秒ほど考えた後、条件を飲む事を告げた。

「まず昨日、お前と何回もハメっこしたと言う男から脅迫状が届いた。要求はお前の引退だが、手始めに今週のベストテンに出るなと言っている。そして今日だ」

 テーブル上の写真の中から、一枚の爽やかさに欠ける笑顔を拾い上げた。マナの視線が写真に落ちるのを見届けて、こう言った。

「この男が自殺した」

 マナの手からグラスが滑った。

 村木の死に様を伝えた。マナは俺のグラスを奪って、残り三分の一ほどのストレートを飲み干した。

「ママも、もう知ってる。脅迫も自殺もマスコミに嗅ぎ付かれない手は打つだろう」

 マナが黙り込めば、しんとした時間の流れが気にかかる。レコードを選ぶ。ジョンのアルバム『イマジン』に針を落とす。『ジェラスガイ』『オー・マイラブ』『ハウ?』などラブソングがたくさん入った、好きな一枚だ。

「そのレコード、何てタイトル?」マナが言った。

「ジョン・レノンの『イマジン』」

「そのジャケット見た事ある。マスターの部屋にあった」

「あの変わり者のおじさんとは、話は噛み合わなかったが、音楽の趣味だけは通じるものがあったよ」

「ジョン・レノンってえらいの?」

「この前も言ったろ、ジョン・レノンはビートルズのリーダーだったんだ。これはビートルズが解散してから二枚目のレコード。ジョンの奥さんはオノ・ヨーコといって、日本人なんだ。小野京子じゃないぜ」

 うちの社長の名前に、マナがくすりと笑った。

「マスターはレコードかけても、ほとんど曲や歌手の事を話さなかった。この曲もよく聴いたけど、歌ってるのがジョン・レノンだって初めて知ったわ」

「あんな無口な男と他に何の話をしてたんだ」

「何だろう、思い出せない」

 曲は『ジェラスガイ』に変わる。焼きもち屋の歌だ。

「約束だ。お前のマスターについて、聞かせてもらおうか」

 今まで信じられなかったカップルの真実が、当事者の一人が死をもって封じた過去が、そのもう一人の口から初めて語られた。


 小ぎれいというわけではないが、落ち着いた雰囲気が気に入って、“くりいむ”という名の喫茶店でマナはバイトを始めた。寡黙でこわもてのマスターの第一印象は“苦手なタイプ”だったが、それでもこの店を選んだのは、あるいは“インスピレーション”を感じたのかもしれない。

 店が休みのある日、学校帰りのレコード屋で二人は偶然会う。買ったばかりの山口百恵のアルバムを一刻も早く聴きたいマナは、すぐ近所の村木の部屋に行く。

 それまで雑談も交わさなかった二人は、山口百恵を聴きながら互いについて語り合う。夜になり、切っ掛けは覚えていないが、気がつくと唇を貪り合っていた。

「恐らくマスターが奥さんに捨てられた話を聞いてるうちに、そんな気になったんだと思う」

 男女の関係に堕ちるまで時間はかからなかった。村木は正真正銘二人目の男なのだとマナは断言する。

「同年代の人にはないものが彼にはあって、全てを許してくれて、それでわたしには何も望まなかった」

 ベッドでは激しく燃えても、店では必要以上の口をきかない。一緒にいて楽しいと感じた記憶もない。それでもむしろマナの方から夢中になった。しかし、リュウが店に乗り込んで来た時、彼女の想いはまだ揺れていた。

「あの時は正直言うと、残酷だけど勝った方について行こうと思った。結局怪我をしたマスターの勝ちで、からだを張ってわたしを守ってくれた事に感激したの。歌手になる夢も一時は忘れて、この人の奥さんになれればいいって本気で考えたりしたわ」

 村木は彼女に夢を実現させる道を勧めた。たとえ二度と手に出来ぬような美しい女神が、永久に離れて行こうともだ。デビューが決まった後、村木は二十万円をマナに渡して彼女の前から姿を消した。店も一時休業し、マナが三島から旅立つまで戻って来なかった。


「デビューしてから連絡した事は」

「したらいけない約束だったから」

「最後に彼と話をしたのは」

「声だけどうしても聞きたくて、デビューして二月目くらいに間違い電話のふりをしたの。そうしたらマスター、すぐわたしって気がついて、成功おめでとう、どんなに心細くなっても負けるな、俺の事はなかったことにして早く忘れてくれって、わたしが声を出した時にはもう切られてた」

「彼の方から身を引いたというわけか」

「わたしが捨てられたの」

「この写真、村木と撮ったものだね?」

 それはK社で森元編集長に初めて見せられた写真だった。ベッドでタバコをふかす笑顔。全国的に有名になった一枚だ。

 レコードは、同じくジョンの『ウォール・アンド・ブリッジ(心の壁、愛の橋)』に変わっていた。

 マナを見つめた。小さな首が縦に動いた。


 ホテル‟キャッスル”は、前にリュウと来た事があった。その日は珍しく村木がドライブに誘ってくれた。夜も暮れた伊豆からの帰り道、村木は無言でハンドルを切りゲートをくぐった。

 まだ家族のある身で写真など好まない筈の村木が、この日は自分でカメラを持参した。伊豆の風景に恋人の姿を納めたフィルムは、まだかなりのコマを残していた。

 密室の中でされる事はひとつ。行為のあと、彼が言った。

「ここで写真を撮ろう」

 村木はいつになく機嫌が良かった。ニコニコしながらシャッターを切る姿を見ていると、自分も楽しく奔放な気分になった。甘い蜜のようなショットの数々がこうして生まれた。

 やがて、それは悪夢に変わった。


「ねえ、キスして…」

 酔いが回り、風邪の頭痛をともなって朦朧としていた。今の台詞も、現実の声と思えず聞き返した。

 マナは膝を抱え、顔を伏したまま動かなかった。

「何回も言わせるなよ、バカ‥」

「え、何だって?」

 次の瞬間、俺のからだは突然の力に押し倒されていた。目のすぐ上に、睫毛の濡れたマナの顔があった。

「キスするよ」

「風邪ひいてるんだ、うつるぞ」

「えらそうな事言うわりに情けない人ね」

「お前も、可愛い顔してるわりに息が酒臭いぜ」

「直木マナとキスしたくないの?」

「淋しさ逃れの、相手は誰でもいいキスならごめんだね」

 台詞が終わらないうち、口許へ強引な圧力がかかった。あっという間に唇を奪われた。

 ニコチンの匂い付きの薄く柔軟な唇が、俺の渇いた唇を忙しなくついばんでいた。ジュリーはこれを予言してたのか。全く尊敬すべき奴だ。

 唇を固く閉ざし、マナの肩を腕で押し上げた。

「俺はマスターじゃないぞ」

 マナは俺から降りた。離れた体の柔かさが初めて感触できた。

「やさしくないね」

「やりきれない気持ちはわかる。泊めてやるから、早く寝ろ」

「わかるなら、黙ってずっと抱きしめていて」

「風邪がうつる」

「これでもダメ?」マナは、いつの間に青いパンティーを手に持って、それを指先で回して見せた。

「今のキミはピカピカに光って~」

 ミノルタCMの宮崎美子を真似て腰を振るマナから目をそらした。

「悪酔いしやがって」

 ジョンのレコードは『ノーバディ・ラヴズ・ユー』を歌い始めた。日本題の『愛の不毛』はいただけないが、隠れた名曲だ。

「あなたきっと、わたしを汚らわしい女と思ってるよね」

 俺の横顔を見ているマナを振り返った。マナは俯いていた。

「誰もわたしをわかってないのよ。世間はみんな清楚なお嬢さんとしか見てくれないけど、本当はぶったまげるような不良だし、あなたは不良の過去ばかり見聞きして来て、簡単に寝る女とでも思ってる。だけど自分を安売りした事なんかないし、結構真面目で純情なとこもあるつもりなんだ。どっちもわたしの本当の顔だけど、誰も片方しか見てくれない。ただ一人違っていたのがマスターだった」

「俺は両方とも見てるよ」

「ウソ。わたしの何を知ってるっていうの」

「俺は今、日本で一番お前の事を知っている」

「何も知らないよ。知ってるわけがない」

「まだわからない事もある。その謎も解きたいと思ってる」

「クビになったんでしょ。これ以上何を調べる事があるの」

 即答できない、その質問の答え自体が謎だった。

「調べたって後悔するよ、きっと。怖くなるよ…」

 最後の言葉の意味がわからなかった。

 レコードが終わったところで、やっと眠る事に合意した。「一緒に寝る?」としつこく聞くマナをやっとの事で寝室へ押し込んだ。市販の効かない風邪薬を飲み、ソファーで毛布にくるまった。



 熱っぽいのか頭が浮遊して、深い眠りのどん底に急降下した。落ちて行く途中、なぜか智子の名を呼んでいた。

「智子、智子、智子…」

 俺の落ちて行く場所は、或いは彼女の溢れるほどに潤った泉か。

 微かにしか醒めない意識の中、裸のヴィーナスが立つのを見た。わが生殖器は粘液に飲み込まれ、無理に沸き上がる欲望は少年の頃の夢精を思い出させた。緊張した男の根の先が、違う形の器に入って行く感触は、妙にリアルで現実とまがうほどだった。

 夢は醒めそうで醒めなかった。確かにソファーに横たわっている自分を覚えた。幻のように、俺の上を揺らめく裸女がいた。昇りつめてゆく悦楽感の中で、酒の匂いをかすかに嗅いだ。湯が滴る黒い茂みと、くるくる回る青い下着が次々と横切った。

 意識は虚ろだったが最高の絶頂を迎え、同時に幻は消えた。




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