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村木

 印刷所に行ったが、三日も無断欠勤しては顔も出しづらい。

 村木を探したが見当たらない。フォークリフトは別人が運転していた。タイムカードを盗み見たが、今日の刻印が無い。

 コーポを訪ねた。三回ノックしたが、返事がない。

「村木さん、桜屋です。いないんですか」

 かすかな足音がする。ドアが慎重に開く。わずかな隙間より、熊男の爛々とした鋭い眼が覗く。臭いアルコール入りの息が漂う。

「何だお前‥何か用か」

「会社休んでるって」

「お前だろ、急に来なくなったのは」

「ちょっと、いいですか」

「よくない、帰ってくれ」

 ドアが軋む音を上げて閉まった。

「村木さん、少し話させてくださいよ」

「何の話だ。俺は用なんかねえぞ」

 ドアの向こうから聞こえるこもった声に、風邪や体調の悪さは感じられない。「帰れ」の声にはむしろ不機嫌な力強さがある。

「今日休んだのは‥週刊誌のせいですか」

 数秒の無言があった。ドアの裏で村木が作る表情が想像できた。再びドアが軋んだ。プンと酒が臭う。

「何者だ、お前…」



 村木の部屋で、畳の上に座っていた。

 村木はこちらに横顔を見せる姿勢で、椅子に座って黙っている。テーブルにサントリー・オールドとグラスがある。カセットかFMラジオかがかすかに聞こえていた。エルトン・ジョンの古い曲だ。タイトルは忘れた。

 俺は自分の素姓と、ここへ来た目的を告げた。写真を拝借した事は隠した。

「時間はそう取らせない。質問させてもらっていいかな」

「…‥」

「直木、いや万藤真奈美との関係はいつ頃まで続いてたんだい」

「さっきから何の話をしてる」

「え?」

「前にもいかつい男が来て、よく似た事を言って帰ったが、俺には何の事かさっぱりわからない」

「アイドルの直木マナだ、あんたは三年前喫茶店で彼女を雇ってただろ」

「アイドルとか歌謡曲には興味ないんだ」

「あんたの昔に関する事だ」

「昔の話はしたくないね。つらいだけだ」

「楽しい思い出だと思うけどね。万藤真奈美、知ってるだろ」

「知らないね」

「何だって」

「喫茶店はやってたが、高校生を雇った事など一度もない」

「万藤真奈美が高校生だと、いつ言った」

 村木の髭がわずかに動いた。

「調べによると、マナがあんたの喫茶店でバイトしていたのは、約一年。その間、きっかけはわからんが、あんたとの関係が始まり、ずるずると続いた。ありきたりの表現をすれば、女子高生と妻子ある中年男との不倫。マナの仲間なら誰でも知ってる話だ。今さら隠し立てしたって‥」

「しつこい奴だな、知らないと言ったら知らないんだよ」

 立ち上がる村木。だが、悪い足が挫けてよろめいた。転びかけたところを俺が支える。

 その手を振り払い、自分で態勢を立て直すと、村木は流し台へ向かった。しゃれたグラスに水を注いで、一気に飲み干す。

 時間がない。村木に見えぬよう本棚に近づくと、さりげなく例の写真を忍ばせた。

「この写真は何かな?」

 振り返る村木。普通の人間がこんな時にする表情になる。

「ど、どうした?それ‥」

「ここにあった。すごい決定的証拠だ。これでもボケ老人のふりを通すつもりかい」

「返せ、返すんだ」黒熊は赤鬼と化す。

「あんたとマナが写ってる。この写真が週刊誌に載ってるんだ」

「知らん」

「あんた、うちの事務所に恨みでもあるのか。どうしてくれるんだ、今度の損失をよ」

「知るものか」

「只じゃ済まないぜ。マナ売り出すのに幾らかかってると思ってるんだ。これじゃ新人賞も取れないかも知れないよ」

「返してくれ」

 写真が奪い取られる。端が少し破れる。

「一度でも愛した女を陥れるなんて、恥と思わないのか」

「俺は関係ない」

 攻め方を脅しの口調から、泣かせに移調する。

「マナが上京する時に少し援助してやったんだろ。きっと店だって苦しい時だったろうに。マナは感謝してるよ、あんたなしでは今のマナはなかったかも知れない」

 再び村木は猫背の広い肩を見せ、そのまま沈黙した。懐かしい曲ばかり流すラジオは、S&Gの『サウンド・オブ・サイレンス』を唄い始めた。

 大きなため息の後、こもって聞きづらい声がゆったりと重く耳に届いた。

「昔‥店を始めた頃、ヤクザと一悶着あってな、その時にこの足をやられた。それからツキに見放されたらしい。クラプトンのクリームも短かったが、俺の店も長くは続かなかった。借金が残って、女房子供にも逃げられた。コーヒー入れるのは得意でも、今じゃリフトで紙運ぶくらいしか飯食うすべがない男だ。ボランティアでもあるまいし、好き好んで連れ添う女がいるものか」

 背中しか見えない。どんな顔で自分を吐露しているのか。

「タレントになるような娘が、どうしてこんな男に惚れる。惚れたとしたら、そいつは大馬鹿だ」

 理由はわかる。大馬鹿娘がこんな男に惚れた時、目の前にはこの背中があったのだ。

「唯一あんたに微笑んだのが、マナという女神だったわけだな」

 答えはなかった。

「これ以上話す事はない。もう帰れ。頼むから帰ってくれ」

 なぜ明らかな事実を否定し続けるのか。頑なに守ろうとしているのは、自分自身か、あるいはマナの事か。今のマナへの感情は愛か、憎悪か。写真を送ったのはなぜ?

 遂に村木の真意は見えなかった。重苦しい空気と苦渋を含んだ声が、それ以上の質問を阻んだ。今日は引き下がるしかない。

 窓の外に広がった曇り空が、不機嫌な音を鳴らし始めた。



 激しい夕立が上がる頃、駅に戻った。遅くなったのでビジネスホテルを探した。久しぶりにベッドで足を伸ばした。

 買ってきた『平凡パンチ』を見た。六十年代は一世を風靡したこの雑誌も、最近は文字通りパンチに欠ける。

 これを買ったのは、グラビアに元“サファイア”のクミが載っていたからだ。にっかつロマンポルノに出たそうだ。この秋、『カナダからの手紙』の歌手畑中葉子が脱いで話題になったが、それに続く元アイドルのポルノ出演らしい。オノプロをやめて、こんな事をしていたとは。

 自分の知っているカラダを、こうして雑誌でながめるというのも妙な気分だ。あの窒息しそうな喘ぎ声を映画でもしているのだろうか。

 テレビは、川崎市の予備校生が両親を金属バットで殴り殺した事件を報じていた。十九年の親と子の歳月が、鉄の塊で粉々に砕かれる瞬間を思った。彼らの人生は、息子が生まれた時からその一瞬に向かうためのレールだったのか。

 同じ十九歳のマナはどうだ。歌手になるために生まれて来たのか。それとも写真スキャンダルで消えたアイドルとして記憶されるためなのか。十八歳で世に裸をさらしたクミはどうだ。

 何より俺はどうだ。

 どしゃ降りの冷たい雨の中、別れ際の村木の言葉。

「あんたの歌、聞いてたよ。GSなんて嫌いだったが、フェニックスにはいい歌があった。女房が残してったレコード、この前聞いてみたら懐かしかった。昔は良かったよな。若い頃は、この年齢でこんな事をしてる自分など想像もしなかった。夢をなくしたら、人間はもう死んだようなものさ。お互い同世代だ、わかるだろ」

 俺は言い返した。

「一緒にしないでくれ、あんたより四つも若いんだ。俺にはまだ夢もあるし、小娘に溺れたりする気も知れないね」

 一時を回り、テレビの画面は砂の嵐になっていた。台風のような小娘が、いない静寂が空虚な夜だった。眠れぬ時ほど思考は冴えて駆け巡る。

 ここで何をしているんだ、星。

 どこへ行くつもりなんだ、これから。

 村木の言う通り、お前はとっくに死んでいるんじゃないのか。



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