アフター・エーテル
「オーロラが濃いな」
それは誰に言うわけでもなく。彼――チヒロが自身に言い聞かせているようにも見えた。大崩壊以前はオーロラ帯でしか見られなかったオーロラも、今ではこうしてどこでも見られる現象となっている。
「気をつけるに越したことはない、か。念のためフィルターの予備は多めに持っていかないと……って、これで最後かよ。参ったな」
チヒロはバックパックの中身を検め、ガスマスク用のフィルターを詰め込んだ。大気中のエーテルから呼吸器を守るものだ。今日のようにオーロラの濃い日は、ガスマスクなしでは一時間と行動できないだろう。
赤、黄、緑、青、紫、そしてまた赤。ゆっくりとその色を循環させる極光は、エーテルが太陽光を屈折させることでその色を発している。以前チヒロがコロニーの学者に聞かされた話だが、結局興味を持てずそれ以上は覚えていなかった。
チヒロはバックパックを背負う。
「宝の山が見つかりゃ良いが」
ガスマスクのベルトを締めながら、彼は窓の外に広がる景色を見た。けばけばしい色の空に照らされたそれは、本来がコンクリートやアスファルトの無彩色ばかりであることを忘れさせる。崩れたビル、割れた道路、あとは瓦礫の山、山、山。大崩壊の爪痕は、元の町並みを想像させないほどに大きい。もっとも、大崩壊以後に生まれたチヒロにとっては、この荒廃した大地こそが自然な光景でもあった。
「んじゃ、そろそろゴミ漁りといきますか」
「――ちょ、ちょっと待ってくれ。本当にこれだけか?」
「文句あるか? なんならもっと減らしてやっても良いんだぞ」
「いやいや、そう言ってるわけじゃなくてさ……」
チヒロの住むコロニーでは、外部から持ち帰った物品を通貨に交換するための換金所が設置されている。コロニー内での衣食住はこの通貨によって担保され、スカベンジャーでない者も何らかの形でこれを稼ぐ。
「このサイズのエーテル結晶ならジェネレータの足しにもなるだろ? こっちの缶詰なんかラベルが読めるぐらい状態がいいじゃないか」
「確かに結晶化したエーテルは便利だが、こりゃ小さすぎる、分かるだろ? ジェネレータにぶち込むならもっとデカいのが要るって」
皮肉な話だが、コロニーをエーテルの汚染から守っているのはエーテルによって作られるシールドだ。外で発見されたエーテル結晶はそういう事情で値がつけられるが、今回はそうも行かなかったらしい。
「そうか……いや、ありがとう。金になるだけでもありがたい」
「だろ? 特にお前の場合はな」
「放っとけ」
チヒロは肩を落としながらも差し出された小銭を懐にしまい込んだ。少なくとも安宿一晩の金にはなったが、満足な食事がとれるかは怪しい量だ。
「なあチヒロ、試しに他の連中と組んでみるってのはどうかね? 前々から言ってることだがよ、なんでもかんでも一人でやろうってのは限度があるぜ」
「勘弁してくれよおっちゃん、これ以上取り分を減らせっていうのか? ナシだよ、ナシ」
ひらひらと手を振ってチヒロはその場を後にする。その足が向かうのは行きつけの定食屋だ。外で危険を冒すスカベンジャーのために安値で食事を提供してくれる店だが、今日はそこですら軽食を済ます程度になりそうだった。
店に足を踏み入れると、見知った顔の同業者たちが集まってテーブルを囲んでいた。その中の一人がチヒロに気づき、声をかける。
「よおチヒロ、どうだった今日は?」
「聞くなよ、分かってんだろ?」
「だはは、それもそうか。まあ座れって」
快活に笑うスカベンジャーは、アラキという名前だった。彼は、近場の空いた席から椅子を一つ引いてくる。チヒロはそこに腰掛けると、簡単なメニューをひとつふたつ注文した。
「ずいぶん小食になったな」
「嫌みか?」
「冗談だろ。ピリピリすんなって、飯食って元気出せよ。ほら、これもやるから」
不機嫌なチヒロとは対照的に、アラキはニコニコと笑いながら食事を一皿チヒロの前に差し出した。
「そういうお前はずいぶん羽振りが良いな。でっかい収穫でもあったのか?」
「まあ、そんなとこだな。俺たちのチームで、医療品の倉庫みたいな場所を見つけたんだよ。そんで、そこまでのマッピング情報を高値で買い取ってもらったわけだ。コロニーの共有財産ってやつにはいい値段がつくもんだぜ」
「へえ、運の良いこった。頭が上がんないね、全く」
そんな話を聞いてか、チヒロは差し出された食事に遠慮することなく手をつけた。
「しかし、よくそんな場所が見つかったもんだな。てっきりこの辺は調べ尽くされてると思ったが」
「まあ、禁域の一歩手前みたいな場所だからな。他の連中は寄りつかんような場所だったってこった」
「禁域? お前ら、よく無事で戻ったな。魔法使いの集落があるって噂だろ、あの辺りは」
「いやいや、禁域自体に入ったわけじゃねーんだから大丈夫だって。それに、人の気配なんざまるでない静かなとこだったぜ。魔法使いってのも大概噂みてーなもんだろうよ」
「だといいけどな」
そんな風に話をしていると、チヒロの注文した料理がテーブルに届けられた。硬いパンに成型肉が挟まったサンドイッチのようなもので、一日肉体労働をこなしてきた体が求めている量にはほど遠い。
サンドイッチを一口かじって、チヒロは呟く。
「俺も一山当ててみたいモンだねえ」
「そんな夢みたいなこと考えず、コロニーで見張り番でもやった方が割がいいと思いますけどね」
同じテーブルで黙々と食事をしていた一人――ムカイという男が口を開いた。彼は他のスカベンジャーたちよりはいくらか軽装で、胸元に小さなバッヂがきらめいていた。コロニー運営局に直接雇われている警備員の証だ。
「僕みたいに」
「それこそ冗談だね。ムカイ、あんたの席に誰がいたのか忘れたわけじゃないだろうな? あんな眠たい仕事で生きてくなんて、死んでるようなもんだ」
「死んでるように生きる方が、死んでしまうより幾らかマシでしょうに」
「……分かってるよ、そんくらい」
少し言葉に詰まって、チヒロは硬いサンドイッチを一気に頬張った。
その日、適当に見繕った安宿の一室でチヒロは思案していた。
「確かに、少し遠出してみるってのはアリかもしれないな。準備がいくらか大変になるのには目を瞑るとして……」
ごそごそと地図を広げる。大崩壊以前の地図に、現在の状況が上書きされている手製の地図だ。彼自身が歩いて確認したものもあれば、コロニーの共有資料から拝借したものも少なくない。
「あいつらが医療品を見つけたって言うのは、確か禁域の方面だったっけな。よし、それなら逆方面の遠方ならきっと手付かずの――」
ふと、手が止まる。
地図の上、真っ赤に塗りつぶされたその領域。コロニーの掟で、何人たりとも足を踏み入れることを許可されていない危険地帯。
禁域、という。
「――いや。確かに、誰も手をつけてはないだろうけど」
それは、コロニーの掟を破ることになる。最低でも投獄、最悪なら処刑。チヒロの居るコロニーの法とは、そういうものだ。
「危険を冒すっていうのは、そういう意味じゃないだろ。もっとこう、未開の地だとか、魔獣と戦うだとか。危ない橋は、死ぬために渡るんじゃない。生きるために渡るんだ」
全く俺は何を考えて、とチヒロは頭を振る。
「冷静な内に明日の計画を立てておこう。またバカなことを考えないとも限らない……」
チヒロはペンを走らせ、明日の探索計画を立てる。少しだけ遠くへ。誰も手をつけていないような場所を探して。
地図上で見るよりも、禁域付近への道のりは険しかった。コロニーに近いエリアは最低限歩きやすいように瓦礫が撤去されていたり、方角を示す看板が設置されていたりするが、コロニーから離れれば離れるほど整備の質は下がっていく。そのエリアを利用するものの少なさで言えば、禁域の近くなんて場所は下から数えて何番目に入るかというような領域だった。
「遠いだけならいいが……くそっ、足元がめちゃめちゃすぎる。こんなところまで医療品を取りに来させるのは酷だろ、あの脳筋め」
チヒロは、知人のスカベンジャーが開拓したという医療品倉庫の付近まで足を運んでいた。足元の悪さに加え、ここまでの道程は高低差も激しい。わざわざそんな土地にチヒロが足を運んだ理由は一つしかない。
「ここを越えれば、もう禁域は目の前か」
禁域。コロニーの掟によって立ち入りを禁じられた土地だ。いつから、なぜ、どのようにその領域が禁域として定められたのか、もはや誰も知る者はいない。なにせチヒロの代は勿論、その両親、祖父母の生まれた頃から禁域は不可触の土地としてそこに在ったとされている。
「……本当に行くのか?」
チヒロは自問した。
何の情報もない土地に、誰も手をつけていないだろうという理由だけで。立ち入ることを禁じられている土地に、一攫千金の夢を見ただけで。果たして本当に、その禁を冒すだけの価値が、その向こうにあるのだろうか。
「危ない橋を渡るのは――死ぬためじゃない」
小さく呟いた言葉は、彼の決意から出た言葉だった。
「どのみちこのままの暮らしじゃ限界だったんだ。ここで挑まず死んだら、悔やんだって悔やみきれるもんか」
禁域として塗りつぶされた地図の領域は、実際に近付くと巨大な樹木で構成された森林であることが分かる。大崩壊以前の建物に絡みつくようにして根付いたそれらは、構造物と互いに支え合ってかつての形状を保っているように見えた。地面いっぱいに広がっていたであろうアスファルトも、巨大な木の根によって引き裂かれ、その下に眠る地面を露わにしていた。
「こりゃすごい……こんなに状態のいい建物だらけなら、何だって見つかりそうに思えるな」
そんな風にチヒロが感嘆していると――
がさり。
草を分ける音が背後から聞こえた。
「っ……!」
コロニーの人間につけられていたのか? それとも禁域に人間が? 様々な可能性に思考を巡らせると同時、チヒロはバックパックの横に差してあった小銃を咄嗟に取り出す。
音のした方を見れば、そこには一匹の獣がいた。
――いや、それをただの獣と形容するのは難しい。おおむね野犬のような姿ではあるものの、肩甲骨から前腕にかけての筋肉は異常に発達し、そのシルエットを大きく歪めていた。更には、背骨に沿うようにしてなにか鋭利なものが並んで飛び出し、ギラリと煌めいている。エーテル結晶だ。すなわちそれは、この獣が過剰にエーテルを取り込み変容したもの――魔獣であることを意味していた。
「なるほど、あんたがここいらのボスってことか?」
言葉を解することはないであろう獣にそんな言葉を投げかけつつ、チヒロは小銃を構える。その銃は、コロニーでも普及しているエーテル熱式のライフルで、その名の通りエーテルを熱に変換、爆発的に膨張する空気を推進力として弾丸を撃ち出す機構を持っている。
獣は答える代わりに低く唸り、その巨腕でざり、と地面を踏みしめた。
両者は動かない。
互いに互いを狙っている。
チヒロはトリガーに指をかける。エーテル熱の機構は既に稼働している。装填されたエーテル結晶片が分解され、熱として蓄えられる。
獣は身を低く屈め、今にも飛びつかんと筋肉を膨張させる。
そして一陣の風が吹き、それが合図となった。
まず、銃声。
チヒロのエーテル銃が、魔獣めがけて弾丸を放つ。その軌道は確かに獣の脳天を狙っていたが、それよりも先、爆ぜるようにして魔獣はその場を飛び退いていた。
「外したか!」
肝心の機構部以外が崩壊後の技術で組み上げられたエーテル銃は、お世辞にも出来がいいものとは言えない。一方で、その弾速は普通の獣を狩るには十分なものである。
だがチヒロの目の前にいる獣は、「普通の獣」ではなかった。
飛び退いた先、魔獣はまた低く身を屈め、力を溜める。今度は様子を見ているのではない、とチヒロは瞬時に理解した。咄嗟に転がって回避行動をとる。
弾丸を回避する速度の跳躍が、刹那の前までチヒロの居た空間を引き裂いた。
「くそっ……」
再装填。彼の抱える銃は単発式で、毎回の射撃ごとに装填が必要であった。レバーを引いて古い薬莢を排出し、新たな弾丸を懐から取り出して込める。彼よりも早く正確にこの動作を終えることのできるスカベンジャーは、コロニーにも一人か二人しか居ないだろう。
そして再び構える。エーテル銃が唸り、熱を高め、そしてチヒロはトリガーを引く。
銃声。
回避直後の射撃にもかかわらず、その照準は的確に魔獣の額を狙っていた。
だが、またしても魔獣はそこにはいない。まるで殺気を感じ取るかのように、弾丸の悉くを回避しきっている。
「まさか……エーテルか」
その肉体をエーテルに侵食された魔獣は、その感覚器にまでエーテルが影響を及ぼす――チヒロはそんな話を聞いたことがあった。
エーテル銃はその仕組み上、発砲寸前まで強力にエーテルを撒き散らす。溜め込んだ熱を発散する寸前に霧散するエーテルの緩急を、魔獣は完全に知覚しているのではないかとチヒロは仮定した。
「だとしたらどうするって――言うんだ!」
このまま次の手を考えていても、魔獣がチヒロの喉笛を掻き切るのは時間の問題だろう。
ならば。とチヒロは腹を括った。
「避けられない距離まで引き付ける……」
がしゃん、とエーテル銃を深く構え、跳び回る魔獣に照準を合わせんとする。
魔獣が迫る。前脚に負けず劣らず発達した後脚が、抉るようにして大地を蹴った。魔獣が迫る。凶暴な煌めきが迸ったのは、その歯牙がエーテル化によって光を反射したからだ。魔獣が迫る。研ぎ澄まされた爪が、その凶悪なまでに隆起した前腕の力で振り下ろされる。魔獣が迫る。
「――今ッ!」
エーテル銃が嘶く。
銃口が火を噴き、くず鉄の弾頭が射出される。そしてそれは精確に魔獣の額を貫いて――魔獣は即死した。だがその巨躯の乗った慣性は、鋭く磨き上げられた爪をチヒロの肉体を深く裂いた。
「ぐッ……!」
力なく崩れた魔獣の体躯がのしかかり、チヒロを押し潰す。食い込んだ爪がもたらす痛みを堪えながら、チヒロはそれを押し退けた。
「はあ、はッ……とんでもないとこだな、ここは」
太い血管が裂けているのか、傷口からはごぼごぼと血が溢れる。チヒロは冷静に手当てを行うが、その心臓は激しく脈打ち、いましがたの戦闘の熱を未だ残していた。
がさり、がさり。
ふと、草を分ける音がいくつも聞こえる。
――まさか。
チヒロははっとして振り返る。最悪の可能性が脳裏に過り、そしてそれはその通り眼前に広がっていた。
四体。
四体の魔獣がそこに存在していた。
「……はは」
一体は先ほどまで戦っていた魔獣よりも一回り小さい。おそらく子供の個体なのだろうと推察できた。二体は、それぞれ前腕から大きくエーテル結晶が発生して、巨大な鎌のようなものを形作っていた。そして最後の一体はより大きく、全身のあちこちからエーテル結晶が生じており、鱗のようにギラギラと木漏れ日を反射していた。
「こりゃ確かに、人間の来るとこじゃない」
力ない言葉が漏れる。
――これで終わりか。
チヒロが自分の命を諦めかけた、その時だった。
木漏れ日ではない、より強い――眩いまでの光が差し込んだ。
それはある種、熱線のような密度になるまで勢いを増し、魔獣たちを散り散りにさせて追い払った。天から差す光はあまりにも神々しく、チヒロに三途の川を渡ったものと錯覚させた。
「――こんなところに、人間が。何の用かしら」
凛と通る声が響いた。チヒロの頭上からだった。声のする方を見れば、そこには彼と年頃の変わらない少女が浮かんでいた。
「……、天使?」
チヒロは力なく呟く。
彼女の頭上には、ぼんやりと青く光る輪が存在していたのだ。
「ざんねん。魔女でした」
「魔女」
チヒロは彼女の言った言葉をそのまま繰り返した。
「あんた達がどう呼んでるかは知らないけど。私達はそう名乗る。エーテルと共に暮らす者の名よ」
宙に浮かぶ少女は、その高度をゆっくりと低くしながら、やがてチヒロの前にふわりと足を着けた。
「それで。答えてもらってないわよ、人間。何の用事があって、こんな辺鄙な場所で死にかけてるわけ」
まるで自分は人間ではないと言い切るような語り口に、チヒロは目を細めた。彼女はここが禁域と呼ばれていることをどうも知らない様子だ。
「教えてやってもいいが、別にあんたの断りを得なきゃここに居ちゃいけない……なんて決まりはないだろ」
「喋らせてくれと懇願するまであんたを丸焦げにしてあげてもいいのに、私はそうしてない。分かってないみたいだから言うけど、人間は魔女に逆らわない方がいいわよ」
「ああ、金儲けのために来た」
「ずいぶん素直だこと……私が脅したみたいじゃない」
「脅しじゃなきゃ何なんだ、今のは」
「だけど、嘘くさいわね。金のために死んだら本末転倒だってことくらい人間でもわかるでしょう」
彼女はチヒロの文句を無視して続けた。
「全くもって仰るとおりなんだが、こっちは金がなくて死ぬところなんでな。それに、ここがあんな危ない場所だとは聞いてなかったんだ」
「ふうん」
光輪を頭上に携えた少女は、疑るような視線をチヒロに向けた。
「まあ、そうだって言うなら、一旦はそうとしておきましょう」
「そうしてくれるとありがたい」
「だけどそうなると、私はあんたを追い返さないといけない――」
「そんな」
少女の言葉を聞いたチヒロは前のめりになる。あんな不可思議な力を持った存在に立ち向かえる状態ではない。自慢のエーテル銃ですら、正面から立ち向かえるかは定かではないのだ。
そうやって憔悴するチヒロとは違い、少女はのんきに続けた。
「――いや、追い返さないといけない、ってことはないのか」
「どっちだよ!」思わず叫ぶ。
「うるさいわね。そうする必要も、義務も、責任も、今の私には存在しないの。そのことに感謝しなさい」
彼女は組んだ腕の上で指をとんとんと叩きながらそう言った。チヒロは思案する。本来は自分のような存在を排除する責任があった、ということだろうか。どういう都合かは知らないが、少なくともその力が今の自分に降りかからないというのは幸いだ。
「……ところで、その慈悲深い魔女サマのお名前を伺っても? 俺はチヒロ、金目のものを漁るのが趣味のしがない人間だ」
「そこまで露骨に媚びられると逆に不快よ。私のことはアオイと呼べばいいわ」
ようやくまともに会話が成立したような気分になって、チヒロは胸をなで下ろす。
「差し支えなければ、この辺のことについて色々聞きたいんだが」
アオイは口元に手を当て黙考した。チヒロは何かまずいことを聞いてしまったのかと汗をかいたが、少しして彼女は口を開いた。
「……構わないわ。ただし、何でもかんでも喋ってあげられるわけじゃないから、あまり期待しないこと」
「それでも十分だよ、ありがとう」
彼女――アオイの言う分には、この巨樹の森の奥まった場所に魔女の集落があるらしい。場所は教えられないと念を押されたが、チヒロはそこまで彼女たちの集落について関心を抱いてはいなかった。あるいは、そこまで行くような危険を冒す必要を感じていなかった、とも言えるだろう。なにせ自分と同じ年頃の少女があれだけの力を振うことができるのだ、そんな存在が何人も何十人も住み着いているような場所に、進んで足を踏み入れるような判断はしなかった。
そしてアオイは、そんな魔女の集落を飛び出して旅に出たばかりなのだ、と言う。チヒロは直感で嘘だと思ったが、余計な追求は避けることにした。
「この辺りの建物を探っていいのなら、それだけでも相当の稼ぎになる」
「ずいぶんな自信ね。ゴミしか転がってないことだって有り得るじゃない」
「直感と願望だよ。それに、ゴミにだって値はつくこともある」
「ふうん。そういうものかしら」
どうでもいいけど、とアオイは話題を切り上げた。
「そういえば、あんたの持ってる銃だけど。それって壊れてるの?」
「まさか。これでも毎日メンテナンスしてるんだぞ」
「本当に? なんだかエーテルの流れがうるさいのよね。さっきもそれを聞きつけて来たんだから」
「な、流れ?」
「ああ、人間には聞こえないんだっけ」
彼女が言うには、エーテルは常に流れを持って存在しているらしく、魔女たちはそれを自身の感覚器で直接見聞きできるのだという。
「それがあんたの場合は聴覚だってことか。ここみたいにエーテルの濃い場所はうるさいんじゃないのか?」
「エーテルが……変質する、って言うのが正しいのかしら。何かしらの力で性質が変わるときに音が聞こえるの。だから空間のエーテルが多い少ないでは特に何も感じないわ」
それで、とアオイは一言置いた。
「あんたの銃貸してよ。魔女流のメンテナンスってやつを見せてあげるわ」
チヒロは一度眉をひそめたが、諦めたように溜息を吐くと、エーテル銃の薬室が空であることを確かめた。
「それならお願いしてみますかね、魔女サマに」
銃を受け取ったアオイは、興味深そうに隅々までそれをじろじろと眺め、見た目だけでは分からないであろうエーテル機関部を的確にとんとんと指で叩いた。
「はい、終わり」
「終わり!?」
「川の流れをせき止める葉っぱをどかしたようなものよ。大したことはしてないわ。性能が良くなりすぎててもびっくりしないこと」
「驚いてばかりだな、あんたと話してると……」
突き返された銃に、チヒロは疑るような視線を向けながらも受け取った。
「試し撃ちだけさせてくれ」
懐から取り出した弾丸を一発装填する。ちょうど遠くの方で散った葉に狙いを定め、エーテル機関を駆動させる。本来であれば数秒ほどを要した熱充填は、機関部のレバーを引いた瞬間にはそれを終えていた。
銃声が響く。
穴の開いた葉がひらひらと舞い、やがて地に落ちた。
「いい音ね。それに射撃の腕も」
「自慢できるのはこれくらいだ。しかし、いや、それにしても。メンテナンスなんてもんじゃない、大改造もいいところだ。あんた、このスキルさえあれば食っていけるだろ」
「そうなの? 魔女ならこのくらいは簡単だけどね」
言葉とは裏腹に、アオイは嬉しそうに微笑んだ。こうしてみると、彼女は本当にただの年頃の少女にしか見えない。その頭上に浮かぶ光輪を除いては。なんでも、魔女といえど高濃度のエーテルに曝露しつづけるのはうまくないらしく、余分なエーテルを光輪として取り込み、浮遊能力に転用しているらしい。便利なものだ、とチヒロは思った。
「もっとも、うちのコロニーでは厳しいかもしれないけどな。魔法使いは嫌われてる。居るかどうかも知らない癖にな」
「居るかも知らないものをどうやって嫌うのよ」
「それは……まあ、確かにその通りだ――はは、案外しれっと入り込んでもバレないのかもな」
堂々とコロニーをアオイが闊歩する様子を想像して、チヒロはくすりと笑った。
そして、思いついた。
「……アオイ。あんた、金稼ぎに興味はないか?」
チヒロがコロニーに凄腕のエーテル技師を連れてきたという噂は、瞬く間に広まった。エーテル銃はスカベンジャーの間でも広く普及しているし、日常的に利用されるエーテル機構も、その数は少なくない。持ち込んだ連中が口を揃えて凄い腕だと触れて回るお陰で、アオイのエーテル工房(仮)の売り上げは順調だった。
「しかし、修理の様子は誰にも見せられないらしいってのが気になるよな」
「別のコロニーから流れてきたって言うんだ、何か事情があるんだろ。俺たちは道具を一晩預けて、翌日取りに行くだけでいいんだ。大したもんだよ」
「はあ、まあ、そういうもんかねえ」
アオイは、近隣で潰れたコロニーからの漂流者という扱いでコロニーに迎え入れられていた。当然これはチヒロの嘘だ。魔女――コロニーでは魔法使いと呼ばれている存在が、その能力だけで歓迎されるはずはない。チヒロなりに考えた結果のカモフラージュがこれだったが、存外大きな利益をもたらしていた。
「……まさかこんなに上手く行くとは」
「魔女様々でしょ?」
「全くだ。頭が上がらない」
チヒロとアオイは、工房の二階を居住スペースとして使っていた。倒した魔獣の体内で生成されていたエーテル結晶はかなりの大きさで、それなりの値がついた。それを元手に建物を借り、そこでエーテル技師の仕事をして食い扶持とする。チヒロのその場の思いつきだったが、事はとんとん拍子で上手く行っていた。
「とはいえ、エーテル機構の調整も一段落したら受注は減るだろうし、別の稼ぎ口も考えておかないとな」
禁域での魔獣狩りを続けてもいいかもしれない。こちらにはアオイという大きな存在がいる。彼女の力に頼るのはスカベンジャーとしての名折れかもしれないが、活用できる能力を活用しないことは、スカベンジャーとして愚かなことだとチヒロは思った。あるいは、アオイには護衛として付いてもらって、禁域でのゴミ漁りをするということもできるだろう。チヒロの頭の中は、とにかく今後の金稼ぎのことでいっぱいだった。
「……む、このサンドイッチ」
そんなチヒロの横で食事をしていたアオイが、ふと呟いた。
「もしかして、口に合わなかったか? 要らないなら俺が貰うが」
「はあ? あげないわよ、パンがふわふわでおいしいわねって思っただけだから」
「あ、ああ、そう……」
食い意地の張ったやつだな、と思うと同時、上等な食事にありつけるようになったのがこの少女のお陰であることを思い出す。彼女自身、旅に出たばかりだと言っていたから、こうして食事に困らないのは良いことだろう。
「そういえば、アオイはどうして旅に出たんだ?」
「むぐ」
チヒロの問いに、アオイは食べていたものを喉に詰まらせかけた。慌てた様子で水を飲み干して、アオイはチヒロの方を見た。
「それ、聞かないとだめ?」
「ビジネスパートナーの身の上が気になっただけだよ。言いたくなきゃそれでいい」
アオイは頬を膨れさせて黙り込んでいたが、少ししてその口を開いた。
「追い出されたのよ」
なんとなく察しの付いていたチヒロは、そうか、と短く答えた。
「知ってる? 魔女はお互いが嘘をついているかどうか、エーテルのゆらぎで分かるのよ。だけど私は、それができなかった」
アオイはサンドイッチを一口囓る。
「……できなかった、っていうより、させることができなかった。集落のみんなは、私のゆらぎが読めなかったのよ。そんな何考えてるか分からない存在とは一緒にいられないからって、十六歳で成人した瞬間、あの森に放り出されるの。酷い話よね。私だけじゃない。過去にもそうやって追い出された魔女が何人もいる。だから、小さい頃から『一人でどうやって生きていけばいいんだろう』ってずっと考えてた。でも実際は案外簡単だったわね、人間サマの懐に潜り込んじゃえば済む話だったなんて」
「運が良かったな、全く」
「そうね。だから、ありがと。あんたには感謝してるわ」
言うと、アオイは少し顔を背けて笑った。
「俺は、借りを返してるだけだよ。あんたがいなきゃ、俺はあのまま死んでた訳だから。命の恩は、こんなもんじゃ返せないだろ」
チヒロは言って、自分もサンドイッチを一つ手に取り頬張った。確かにアオイの言うとおり柔らかなパンで、挟んである肉や野菜も瑞々しく味のするものだった。
翌日も、様々なエーテル道具が工房に持ち込まれた。照明、通信、冷暖房、それから持ち運び用の小さなエーテルシールドなんてものも含まれていた。
「これは直せる。これも、これも……あ、これはここが壊れちゃってるから、余所で直して貰えば動くはずよ」
数日経てば落ち着くと思っていたものの、まだまだ依頼は多く届く。アオイはそれらを瞬く間に直せはするものの、依頼主をメモしてバックヤードに持ち込んでいくだけで、時間はとにかく過ぎていった。修理自体は工房を閉じてから済ませればいい。預かった品をチヒロが届けに行っている間は、自分がこの場を切り盛りしなくては、とアオイは思っていた。
そうやって店終いの時間を迎える頃、一人の来客が工房に訪れていた。
「あの――すみません」
「あら、ごめんなさい! 実はもう今日は閉めちゃうところで……急ぎだったら預かりますけど」
「いえいえ、そうではなくて。ええと、あなたがアオイさんで間違いないですか?」
「? はい、そうですけど……」
「ああ、良かった」
来訪した男は、胸元に着けていたバッジを彼女に見せ、こう続けた。
「コロニー運営局の者です、ご同行お願いできますか」
チヒロが配達から戻ると、そこにアオイの姿はなかった。
「まさか」
チヒロの悪い予感は的中した。店先には一通の封筒が置いてあり、コロニー運営局のマークが記されている。
慌てて封を切る。
そこには「アオイ氏の魔法使い容疑について」だとか、「コロニーの安全な運営のための拘留措置」だとか、「チヒロ氏が魔法使いである可能性のある者を迎え入れたため」だとか、そういった内容が堅苦しい文章で書き連ねられていた。
――つまりアオイは、コロニー運営局に連れ去られたのである。
「最後までお読みいただけましたか?」
工房の奥の方から声がした。
見れば、見覚えのある男がそこに腰掛けている。いつぞやの定食屋でチヒロを咎めた警備の男――ムカイだった。
「まだ読んでる途中だ、って言ったら待ってくれるか?」
「そうしても構いませんが、時間を稼いでも意味はありませんよ。彼女の身柄は既にこちらで預かっていますし、あなたもここからは逃げられない」
ムカイが言うと、物陰から数人の男たちが現れ、チヒロにエーテル銃の銃口を向けた。彼らは揃って胸元にバッヂをしており、ムカイと同じく警備の所属であることは明らかであった。
「俺を殺すのか?」
「はは、本当にまだ最後まで読んで頂けてないようですね。詳しい処遇は書いてありますが――要するに、追放処分です」
どちらでも一緒だ、とチヒロは思った。毎日十分な準備をしてから向かうゴミ漁りとは違う。何一つ持たずにコロニーを追い出されるということは、この時代においては死ぬのとほぼ同義だ。
「とはいえ、あなたほどのスカベンジャーであれば、なんとか一人でも生きていけそうに思えますけどね」
「冗談がきついな、回りくどい真似しやがって」
「お世辞ですよ」
彼が手で合図すると、強い衝撃がチヒロの後頭部を襲った。遠のいていく意識の中で、チヒロは一人の少女のことを考えていた。
(――アオイ)
オーロラが濃い。
チヒロが目覚めて最初に思ったのは、それだった。そしてそれを五体投地で知覚できる自分は、コロニーの外で放り出されているのだと理解し、次いで自分の顔に張り付いたガスマスクに気づいた。
「俺のじゃないのかよ……なんて言ってる場合じゃないか。コロニーの支給品は好きじゃないんだけどな」
チヒロは、上体を起こして周囲を見回す。瓦礫だらけだ。周囲に人気はない。彼のすぐ横には、彼の愛銃と小さなバックパックが彼と同じように放られている。バックパックの中には、数日保つかどうかといった程度の食料品が詰め込まれていた。それと一緒に、コロニー周辺の地図がぐしゃぐしゃになって挟まっていて、ある箇所には赤いバツ印が付けられていた。おそらくこれが現在地なのだろう、チヒロはそうやって推測した。
「慈悲深い処遇だね、全く」
そんな皮肉を聞く者もここにはいない。
チヒロは、コロニーを追放されたのだ。
「この印が正確なら、確かにまだ生き延びようはあるけど。俺がそこいらのスカベンジャーなら、今日中にでも死んでたところだな」
覚えている限りの補給地点を地図に書き足してみれば、案外食うにも寝るにも困りはしないように思えた。少なくとも、しばらくは。
――でも、その後は?
チヒロは自問した。
「まさか。俺はゴミ漁りのプロなんだ」
きっとその後もなんとか食いつないで、そうしながらなんとか生きていくことも可能だろう。これまでの経験から、そんな自負が彼にはあった。だがそれも、彼一人であればの話だ。
「……アオイ」
その名を呟く。彼女はどうだろうか。
コロニー運営局に身柄を確保された彼女は魔法使いで、コロニーにとっては忌むべき存在だ。そんな彼女がどんな扱いを受けるかは、想像に難くない。
チヒロは頭を抱えた。こんな状況でありながら、彼女の身を案ずる自分がいることに気付いたからだ。
「正気じゃない」
自分が生きるか死ぬかの境目にいる中で、他人の心配なんて。冷静さを欠いた自分の思考を、彼は頭を振って振り払う。
「俺は、俺が生きるだけで精一杯なんだ」
吐いた言葉は、弱々しく空に溶ける。
仮に彼女を助けにコロニーに向かったとして、警備の連中に見つかれば今度こそ追放では済まないだろう。そして彼女を連れ出したとて、今度は気にかけなければならない食い扶持が倍になるだけだ。
「有り得ない」
かつてコロニーの警備員として雇われていた頃の記憶を思い出す。人員の交代のタイミングも、配置も、それは未だ彼の中にある。交代のタイミングであれば、警備が手薄になる箇所が存在することも知っている。
「何を考えているんだ、俺は」
最早掟に縛られる身ではない。禁域の端で細々と暮らすのも良いだろう。新天地となるコロニーを探すのだって悪くない。聞いたことがある、人間と魔法使いが共存するコロニーがどこかにあると。それは遠く、厳しい道程になるだろう。
「……ひとりじゃ、無理だ」
自分の口をついて出た言葉に、またしてもチヒロは頭を抱える。
「こんなことになるなんて思いもしなかった。俺は、俺はあいつを見捨てることができないらしい」
彼女が生まれのせいで理不尽に囚われるのが許せない。助けて貰った恩を返せていない。まだまだ稼いで一緒に夢を見たい。とにかく、彼女を助け出すべき理由ならいくらでも浮かんでくる。
だから必要なのは理由ではなく、決意だけだった。
「助けに行こう、アオイを」
日が沈みかけ、黄昏時。
コロニーの警備が入れ替わる時間帯を狙うというチヒロの作戦は、信じられないほどスムーズに上手く行った。
「流石に見直した方が良いだろ、この体制は」
軽口を叩きながら、チヒロは警備員のロッカーを勝手に開けて変装する。顔は割れているだろうが、用心するに越したことはない。
部屋の壁には堂々と見取り図が張り出されていて、彼の記憶の中のそれとほとんど一致していた。
「拘置室の場所は変わってないな」
いくつか変更になった部屋はあるものの、人間を閉じ込めておくような造りの部屋は代わりが効かないのだろう。アオイもきっとそこに囚われているに違いない。チヒロは制服の帽子を深く被り直すと、足早にその場を後にした。
人の気配がしない。
拘置室前にたどり着いたチヒロが、最初に感じた違和感はそれだった。いくつかの拘置室へ繋がる廊下には、本来警備の人間が少なくとも二人は配置されている筈だ。それに、部屋の向こうからも人気は感じられない。物音一つしない空間で、チヒロは眉をひそめた。
「どういう事だ……?」
拘置室のドアについている覗き窓をひとつひとつ確かめるも、それらはすべて徒労に終わる。誰もそこにはいないのだ。
「暗くて誰だか分かりませんが」
ふと、背後から声がした。
「交代の時間には少し早いように思いますよ」
酷く平坦だが、どこかこちらを嘲笑うような声色に、チヒロは聞き覚えがあった。ムカイだ。
「……、だんまりですか。まあ、それもいいでしょう」
彼はつまらなさそうに自分の爪を見た。
「そういえば聞きましたか? ついさっきまでそこに収容されていた彼女の行き先」
「……っ!」
「なんでも、エーテルシールドのジェネレータに繋がれているそうじゃありませんか。魔法使いはその体内にエーテルを蓄える器官があるという噂、本当だったらしいですね。さしずめ、生きたエーテル結晶といったところですか」
「お前……!」
すかさずチヒロは背負っていた小銃を構える。
同じタイミングで拳銃を抜いたムカイは、わざとらしく驚いた。
「おや、おや、まさかあなただったとは。わざわざこんなところまで忍び込んでいるとは思いもしませんでしたよ。それで、そのままその引き金を引くつもりですか? 殺人は追放処分では済みませんよ」
「殺しはしない、こんなくだらないところで人殺しになんかなってやるか」
「ふ、それでは大人しく捕まって頂けると?」
「馬鹿言うな」
言うが早いか、チヒロがエーテル機構のレバーに手をかける。ムカイもその手に握った小銃を構え直し、同様にエーテル機構の熱を蓄え始める――だが、その頃には既に決着は付いている。
銃声。
それは正確無比な一撃で、ムカイの手にあった拳銃を遠くまで弾き飛ばしていた。
「っ……、」
「それで、誰が誰を捕まえるって?」
「……驚きましたね、それが魔法のかかった銃ですか」
「あんたも魔法をかけて貰えば良かったのさ、俺のビジネスパートナーにな。さあ、退いてくれ」
ムカイは諦めたように小さく頭を振ると、両手を挙げて道を空けた。
「どうせ分かってるとは思いますが、ジェネレータ室は地下にあります。彼女もそこにいるはずですが――」
そんなムカイの言葉を聞き終える前に、チヒロは廊下を駆け抜けていった。
その場に残されたムカイは、彼の姿が見えなくなると小さくぼやいた。
「これでは警備もクビですね」
エーテルシールドは、不要なエーテルをシールド部分が吸収し、それを別の機構から排出することで保たれている。排出されたエーテルは変質しており、シールドの生成には利用できない。一方で、一部のエーテル機構を駆動させるには問題がないため、再精製されて利用される。そんなジェネレータ室――もとい、エーテル再精製施設は、コロニー中枢部の地下深くに存在していた。
長く、長い螺旋階段を駆け下りて、チヒロはようやくその最奥へとたどり着いていた。
「『警告、この先エーテル濃度高』……だとさ」
分厚い金属のドアに刻まれた真っ赤な警告文は、嫌でもチヒロの目に飛び込んできていた。
変装の際にガスマスクは置いてきてしまった。
防毒服が置いてありそうな手近なスタッフルームは施錠されているし、そもそもそれを着ているような時間はないだろう。
ジェネレータから排出されるエーテルの濃度は、オーロラが濃い日の外気とは比べものにならない。一時間どころか一分でさえ人体に害を及ぼすのは間違いない。
「それでも」
ドアノブにかけた手が震え、額からは汗の滴が一筋流れた。
「危ない橋を渡るのは、死ぬためじゃない――」
それは自分に言い聞かせるように。
深く息を吸い込んで、彼はドアノブを捻る。
(――生きるためだ)
扉が開く。
次の瞬間、強烈な熱気が彼を襲った。
「くっ……」
厳密に言えば、それは熱気ではない。あまりにも濃い排出エーテルが、彼の体にまとわりつくようにして押し寄せているのだ。
口元を袖でなるべく塞ぎながら、彼はジェネレータ室を駆ける。
(どこにいるんだ)
ジェネレータ室は無数の配管で埋め尽くされていて、人の通る幅が辛うじて残されている、そんな様子だった。
じり、と灼けるような感覚がチヒロの肌に走った。エーテルによる浸食だ。
(くそっ、有り得ない! 早すぎる)
エーテルの濃い地域での活動は経験があった。その時もあまりに長居していると肌が焦げるような感覚があったが、今度のそれは比較にならないものだった。素肌に炎をあがわれているかのように激しい痛みが、チヒロの全身を蝕んでいた。
苦痛に顔を歪めながら、チヒロは意を決して叫んだ。
「――アオイ! 返事をしてくれッ!」
大声を出した瞬間、彼の気管は燃え上がるように悲鳴を上げた。喉が干上がり、引き裂かれるような痛みが迸る。思わずその場にくずおれそうになるのを堪えて、チヒロは歩き続ける。
その時、どこかで誰かの声がした――ような気がした。聞き覚えのある透き通るような声が、弱々しくも枯れてしまったような、そんな声だった。その声は、絞り出すようにして彼の名を呼んでいた。
「……チヒロ」
「アオイっ!」
蔦のように蔓延った金属配管のその奥に、彼女は繋がれていた。首筋に、肩に、腕に、無数の管が突き刺さって、確かに彼女から何かを汲み上げているのが分かった。
チヒロはすぐさま彼女に駆け寄り、その管を半ば乱暴に引き抜いていく。
「い、痛いってば……」
「今は――げふっ、我慢してくれ……!」
そんな風に言葉を発するたびに、チヒロの喉はボロボロになっていく。構わない。アオイの肌には痛々しい注射痕がいくつも刻まれ、ぷくりと赤い血を滲ませている。構わない。ここにいては、それどころではなくなってしまうのだから。
そうしてアオイを繋ぎ止めていた管を抜き取り終え、チヒロは彼女を抱え上げる。
「あと、少しだ……本当に……」
一歩、また一歩と踏みしめるたびに足裏が灼けるような感覚に襲われる。それでもチヒロは歩みを止めない。
そうして、配管と配管の間を縫うようにして、ようやく二人はジェネレータ室を抜け出した。
ずしりと佇んでいた金属の扉を背中で閉めると、チヒロは全身の力が抜けたようにその場に崩れた。彼に抱えられていたアオイは、彼を下敷きにするような形になっていた。
「チヒロ……?」
アオイが声をかけるが、チヒロは反応しなかった。正確には、できなかった、というのが正しいだろう。
(力が入らない)
「ね、ねえ。チヒロってば。起き、てよ……」
残された微々たる力で、アオイはチヒロの肩を揺するが、やはり彼はぴくりとも動かない。
「嘘、嘘でしょっ……死なないでよっ、そんなの、そんなの私が許さないんだから……」
(俺だって、自分が許せない。まだ恩を、返し切れてないんだ。なのに、こんな――ところで――)
景色が霞む。
音が曇る。
意識が遠のく。
暗く、深い闇が、チヒロを覆った。
次に気がついたとき、チヒロの体の痛みは不思議と消えていた。
(いよいよ死んだか)
周りを見回してみれば、アオイを助けに駆け下りてきた階段が目の前にあった。
チヒロとアオイは壁に寄りかかるようにして座っていて、隣同士でその身を預け合っていた。
「寝ぼけてるみたいだから一応言うけど、天国でも地獄でもないわよ」
「……別に心が読めるって訳じゃないんだったよな?」
「流石の魔女サマでもね」
アオイはそんな風に笑って言う。
「あんたが助けてくれたのか? 魔法で」
チヒロは脱力感の中で、ふと思いついた疑問をアオイに投げかけた。
するとアオイは気まずそうに頬をかき、答えた。
「それはその、まあ、そうなんだけど……」
「だけど?」
「他人の傷を治すのは初めてだったから、仕方なくなんだけど。その、怪我を治す魔法って、その人の本来保っている治癒能力を促進させることで傷を治すのよ」
「ええと……それと、今の話に何か関係が?」
「うまくやる人は最低限の消耗で済ませるの。だけど私はその、そうじゃないから……」
要領を得ない話し方を続けていたアオイは、いよいよ一息つくと白状するように続けた。
「あなたの寿命、半分くらいにしちゃった、かも……」
「半分!?」
思わず声を上げる。
「……いや、まあ、あそこで死んでいたよりはずっと良いさ。それに、スカベンジャーなんていつ死ぬかも分からない仕事だしな」
「それはそうかもしれないけど……ごめんなさい」
「謝らないでくれよ、これで二回も命を助けられたんだ」
借りが増えたな、と、チヒロは小さく呟いた。
「動けるか? あんまりゆっくりしてると、追手が来るかもしれない」
「あんたこそ。私は大丈夫よ」
チヒロは頷くと立ち上がって、アオイの手を取った。小さい手だった。ひとりジェネレータに繋がれていた恐怖が未だ残っているのか、その手はかすかに震えていた。
「一緒に行こう」
チヒロが言ったのはその一言だけだったが、こくりと頷いたアオイの手の震えは、次第に収まっていくのだった。
不思議なことに警備の配置が変わっていて、チヒロとアオイはすんなりと建物から抜け出すことができた。ムカイの差し金かもしれない、とチヒロは思ったが、それもただの推測でしかない。あいつには悪いことをしたなと思いつつ、チヒロは小さく彼の将来の無事を祈った。
外に出ると、陽は半ば昇りかけていた。オレンジ色の光は、薄いエーテルにゆがんで赤や黄色へと散逸する。暖かいな、とチヒロは呟いた。
流石にコロニー内では何人かの人間とすれ違うこともあったが、特に事情を説明する必要もなかったので
「すまん、追い出されたんだ」
と短く答えるだけだった。本当だったんだ、と驚く者もいれば、頑張れよ、と声をかけてくれる者もいた。一方でアオイが魔法使いであることを知ると、訝しむ目つきで見てくる者もいたが、彼女を恐れてか危害を加えてくる者はいなかった。
「確かこの辺に隠したんだよな、俺のバックパック……あったあった」
コロニーから離れ、いくらか歩いた先で、チヒロは自分の荷物を回収した。幸い中身は荒らされておらず、追放された当初のままの荷物が収まっていた。生活に必要なものは少々心許なくなったが、今のチヒロはそれを憂うことはなかった。
「俺には魔女サマがついてるからな」
「……? 何の話よ」
「なんでもない。これからはあんたにもキビキビ働いて貰わないと困るってだけさ」
えーっ、と不服そうに鳴くアオイを尻目に、チヒロは瓦礫だらけの丘を歩き出した。
くるくるとその表情を変えるエーテル色の空は、今日はなんとなく微笑んでいるように感じた。