9.薄幸令嬢は閉じ込められる(1)
小夜の朝は早い。
昨夜干しておいた、まだ湿っているお仕着せを着て、一家の朝食準備に入る。
大和に資金援助をうけているおかげで女中を雇う余裕はあるが、料理人を雇うまでの余裕は華峰家にはない。
煮炊きする女中たちに交じって、米を炊き、味噌汁を作る。
腫れている小夜の頬を、女中たちが一瞬だけ目にとめた。だが、声をかける者はいない。
下手に同情して小夜と仲良くなると、菖蒲に目をつけられ折檻をうけるからだ。
表立っては声をかけずとも、幼いころから真面目に働く小夜に同情的な者はそれなりにいて、傷を見とがめこっそり薬や包帯を分けてくれる女中たちに、心の中で感謝している。
腫れた頬に朝の空気は痛かったが、心地よくもあった。
黙っていつものように菜を切り、魚を焼く。
家人の朝餉は一汁三菜つくが、女中たちの食事は一汁と香の物だけだ。
たまには魚や菜が食べたいと女中たちがぼやきながら、食事が作られていく。
朝餉の用意が終わったら、屋敷中の掃除が待っている。
家人や女中たちが食事を摂る中、すきっ腹を抱えて行う労働はいつになっても慣れない。
それでも、『霧城子爵の婚約者』としての役割が与えられる以前よりはましだった。
冷や飯とはいえ、屋敷の掃除が終わった後には与えられるのだから。
掃除が終わり、一人で冷めて固くなったご飯を沢庵でかきこんでいると、表が騒がしくなった。
歓迎するような菖蒲の高い声と、嬉しそうな旭の声が聞こえる。
客の出迎えのために慌ただしく玄関に向かう女中に交じり、表に行くべきか迷ったが、頬の腫れている小夜が出ていけば菖蒲の怒りを買うだろう。
出迎えにはいかず、そのまま食事を終え、家人と女中たちの食器の後片付けを始めた。
「見て、お姉様。この着物の美しいこと」
旭に呼び出されたのは、片付けが終わってすぐのことだった。
少女らしい色合いの旭の部屋に広げられた美しい着物と、小物の数に圧倒され黙っていると、旭が自慢げに語り始める。
「今朝のことよ、侯爵家である不知火家の方が訪ねれこられてね。昨夜、着物をダメにしたお詫びにと、これだけのものをくださったの。昨夜のことってなんのことかしらね?」
ふふふと笑って知らない顔をしているが、明らかに小夜のことだと分かっているのだろう。
不知火という苗字に、昨夜の男がここまできていたのか、と肌が粟立った。
「なんとね、侯爵自らこの品々をお持ちになってくださったのよ。華峰家の美しいお嬢さんのためにってね。侯爵は、お名前を不知火十夜とおっしゃるんですって。とても麗しいご尊顔の方でね、お姉様と同じ名前に夜がついているけれど、雲泥の差よ」
どうやら来たのは、夜光という男ではなかったようだ。ほっと胸をなでおろす。
しかし、どこから小夜の居場所が分かったのだろうか。
早鐘を打つ胸を押さえながら旭の自慢話に耳を傾ける。
「そのうえ、不知火様はわたくしに婚約者になることを前提に行儀見習いに来ないかとお誘いくださったの。こんなに素敵なお着物を貰った上に、そんなお誘いだなんて。わたくしのことをどこかで見染めてくださったのね。ねえ、お姉様」
興奮で上気する頬に手をあて、夢中で語っている旭に、この話が満更でもないものだということが感じられた。
旭は、美しい男が好きだ。
とりわけ、美しい男に恋い慕われて嫁に行くことを夢みている。
「この布切れを頼りに来たとおっしゃっていたけれど。お姉様、これがなにかご存じ?」
旭が差し出したのは、昨晩小夜の腕に巻いていた古着を裂いた包帯だった。
「……」
「柄ゆきが数年前にわたくしが着ていた着物に似ていたから、わたくしのものだと申し上げたのですけれど。こんなに古く小汚くなっていただなんて、ねえ」
綺麗に洗われアイロンされたそれを、旭は屑入れの中にはらりと落す。
「行ってはだめよ……旭」
昨夜の蛮行に怪しげな男。そして、次の日なぜか家を突き止めてきた不知火に恐怖感が湧き、思わず制止の言葉が口にでる。
不知火十夜という男は、おそらく昨夜の屍食鬼の関係者なのだろう。
口外しないよう言われているが、説明できるところだけでも説明すればこの怪しげな誘いから旭を救えるかもしれない。
そう思い、再度口を開いた瞬間だった。
バシン。
頬を叩く音が響き、体が吹き飛ばされ畳に手をつく。
「わたくしに逆らうなんて、どうしたことかしら? お姉様」
再度振り上げられた手を見て素早く体を丸め、急所をかばう。
「お姉様に許されているのは、はいかごめんなさいだけですわ。わたくしの意に反して意見を言うなんて、何様のおつもり? お父様とお母様を引き裂いた女の娘の分際で」
口の中に広がる鉄錆に似た味の唾を飲み込みながら、度重なる殴打に耐えた。
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