35.薄幸令嬢は婚約する(1)
研究所への帰りの車内は、気まずいものだった。
助手席に降ろされた小夜は、応急処置として足首を固定してもらい痛みが和らいだ。最も、素足を見られ触れられることが恥ずかしくしばらく押し問答したものだったが。
運転する瑛人は、ずっと口を開かず。
小夜も小夜で、自身が瑛人の婚約者になったという事実に頭がついていけずに何も聞けずにいた。
「すまない……。君に何の相談もなく、こんな重要なことを決めてしまって」
しばらく沈黙が続いた後、瑛人が言葉を選んでいるようにゆっくりと口を開いた。
「そのうえ、君を金で買うような真似まで……」
瑛人は、陸軍の諜報部を使い華峰家の情報を得ていた。
そのため、小夜が大和の通夜に行く前に、小夜が婚約破棄される予定であることを知り、蒼に接触していた。
その際に、蒼から華峰家の借金を肩代わりしてくれたら好きにしていいと言われ、小夜との婚約をもぎ取ったのだ。
そういった内容を全て小夜に言うわけにもいかず。
しかし、頭にやや血が上り菖蒲に囁いた言葉は小夜も聞いていただろうことに、今更ながら後悔していた。
「いいえ、いいえ」
苦しそうな瑛人の謝罪に、慌てて首を振る。
「華峰家を救っていただきお礼申し上げます。これまでより一層、香月様にお仕えいたします」
助手席で丁寧に礼をする小夜に、瑛人は悲し気に眉を顰める。
「少し休もうか」
車は、研究所から少し離れた小高い丘に着いた。
丘から見える吸い込まれそうな星空に見入りながら、瑛人と共にあたりを散策する。
ひょこひょこと片足をかばいながら歩く小夜を優しくエスコートしてくれた。
展望台に着いてから、しばらく二人は無言だった。
「見てください。香月様に助けていただいた時のような月が出てます」
沈黙に耐え兼ね空を見上げた時、美しい満月が目に飛び込んできた。
屍食鬼から小夜を助けてくれ、落とし物を共に探そうを言った瑛人の笑顔に惹かれたことを思い出す。
熱を出した小夜を助けてくれた時も、離れで食事を共にしたときも。子どものような笑顔で、駄菓子を分けてくれていたことも。
出会った期間は短いが、瑛人の存在は小夜の中で確かに大きくなっていた。
それなのに、華峰家を助けてくれた礼として仕えるなどと可愛げのないことを言ってしまった。
だから、瑛人は何も話さずにこちらに顔も向けてくれないのだろう、と月を指さしていた手をそっとおろす。
自分を婚約者にと求めてくれたことが嬉しかった。
それがたとえ、この身に流れる血を確保するためだとはいえ……。
「僕は……あの夜会った時から、君のことを好いていた」
ゆっくりと小夜に向き直った瑛人が口を開く。
あたりは暗かったが、月明りに照らされて、顔が赤く染まっているのが見えた。
「君の血が研究に必要なことは嘘偽りないことだが、それを口実に婚約者がいることを知ってなお、君をあの場所に引き留めた」
瑛人の金の瞳が小夜を捕らえる。
「本来であれば、婚約者がいる身の女性に近づいてはいけないことは分かっていた。だが、僕は自分の欲求に負けて理由をつけて君に近づいた。そのうえ、君の意見も聞かず婚約を結んだ」
まるで罪を告白するかのように苦しそうに語る瑛人の言葉に胸が揺すぶられる。
「すまない……」
帽子を脱ぎ、頭を下げる瑛人に、一歩近づいた。
「正直……驚きました」
か細い小夜の言葉に、瑛人の肩がびくりと揺れる。
「私の価値は、この身に流れる血だけだと思っていました。だから、私はこの思いを諦めなければと自戒していました」
ぱっと顔を上げた瑛人と瞳が交わる。
自分に求められていたものが血だけではなかった。
瑛人に与えられてきた優しさが、職員に対するものだけではなかった。
その事実に、小夜の瞳から一筋涙が零れ落ちる。
「私も……ずっとあなたが好きでした」
一生伝えることがないだろうと思っていた言葉をおそるおそる伝えると、パッと花が開くように瑛人が笑う。
この笑顔を、いつまでも見ていたい。と小夜は思った。
「名で呼んでもいいか」
「はい」
「小夜。私と共に、生きてくれ」
「はい」
差し伸べられた手に手を重ね、二人は互いに見つめあっていた。
「お帰り。怪我は無かった? お腹空いてない? お風呂沸いてるからね」
瑛人に大切にエスコートされ、研究所の離れに入ると、音を聞きつけた蛍が飛び出してきた。
「ああ、小夜が足首を少しひねったようだがすぐに治るそうだ」
「さぁーよぉー?」
自然に小夜の名前を呼んだ瑛人に、にやりと笑った蛍が絡む。
「名前で呼べるようになったんだね。若旦那。よかったねぇ。小夜ちゃん、怪我してるなら着替え手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です。一人でできます‼」
蛍の追及に顔を赤くしている瑛人と小夜に、蛍はさっさと着替えてくるように命じる。
瑛人の軍服は大和との戦闘で汚れていて、小夜の喪服も髪も乱れている。
こんな状態であの告白をうけたのか。と今更ながら恥ずかしくなり、慌てて瑛人の元から走り去り、着替えに向かった。
背後で瑛人が寂しそうにしていたことは、蛍しか知らない。
小夜が髪を整え、着替え終わって出てきた時、井戸で手と顔を洗った瑛人が入ってきた。
互いに目が合った二人は、さっきまでの丘での出来事を思い出し、頬を染めもじもじしている。
そんな様子の二人を見て、蛍はこっそり微笑んだ。
「ほらほら、まずはご飯食べて」
お櫃に入ったご飯を茶碗によそう蛍の姿に、小夜のお腹がぐぅと鳴る。
通夜ぶるまいの席で出ていたごちそうには全く手が伸びなかったというのに、蛍が作ってくれる素朴な料理は、心の底から食べたいと思った。
「ありがとうございます」
「お礼なんていいよ。小夜ちゃん、旦那の婚約者になったんでしょ? だったら、私は小夜ちゃんの使用人でもあるんだからさ。あ、これから小夜様って呼ぼうかな」
婚約の話を蛍も知っていたことに、少し恥ずかしく思いながらも微笑みを返す。
「……今まで通りの呼び方で、お願いします」
「えー、どうしようかな」
冗談めかして茶化す蛍の袖をそっと掴む。
「蛍さんに、小夜ちゃんって呼ばれるの、好きなんです」
「そう言われたら仕方ないね。かわいいなぁ」
整えられた小夜の頭を高速でなでなでする蛍の姿を、瑛人が嫉妬交じりの目で睨んでいた。
「もう、そんな目で見ないの。正式に婚約者になったんだから、今度二人で出かけてきなよ」
「蛍」
蛍の提案にじっとりとした目をしていた瑛人の瞳が輝いた。
「間違っても、駄菓子屋に案内しちゃダメだよ」
「うっ……」
呻く瑛人に、案内するつもりだったの。と蛍は呆れ顔だ。
「私、行きたいです。香月様のお好きな場所」
瑛人が毎食後に持ってきてくれる駄菓子は、今や小夜の楽しみになっていた。
それほどまでに瑛人が夢中になる場所を見てみたい。
そう思って発言したのだが、瑛人はなんだか微妙な表情をしている。
「あの……香月様? 私、何かいけないことを言いましたでしょうか」
「僕のことも……名前で呼んでもらえないだろうか……」
気まずげに言葉を発した瑛人は、耳まで赤くなっている。
そんな姿を見た蛍は、プッと吹き出し、瑛人に睨まれ慌てて口元を押さえていた。
「あ……瑛人様……」
そんな雰囲気の中で名前を呼ぶことは恥ずかしかったが、瑛人の望みはできる限り叶えたい。
名前を呼ぶ。ただそれだけで、小夜の頬も熱くなっていく。
名を呼ばれた瞬間、瑛人がパッと笑う。
「今度の休みに、出かけようか。小夜」
「……はい、瑛人様……」
「はいはい、食事食べちゃってー」
二人の間に流れる甘い雰囲気を断つように、蛍の声が離れに響いた。
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