33.薄幸令嬢は決意する(1)
「大河様は、わたくしを一目見て気に入ってくださったそうなんです。お姉様には申し訳ないのですが、これも運命なのかもしれませんわ」
婚約破棄と新たな婚約の話に、通夜ぶるまいの席がざわついている中、旭は小夜に小声で語りかけていた。
本当は、不知火家に嫁ぎたかったが、行儀見習いに訪れ、すぐ返されてしまった。
美しい洋館に高級な自動車で送られ、積み荷と共に豪奢な洋室に通された旭の胸は、希望で満ち溢れていた。
しかし、不知火家に入る者の儀式だとして指先から血を一滴とられてからしばらくすると、手違いがあったと丁寧に謝罪され送り返されたのだ。
そのことは菖蒲と旭の矜持を著しく傷つけ、しばらく荒れた。
しかし不知火家で一瞬とはいえ行儀見習いをしたということは事実だ。
大河には、不知火家で行儀見習いをしていたことを伝えており、そのことも彼の琴線に触れたようだった。
無駄なことは一切なかったのだ。
大河は、旭が霧城家に嫁げばこれまで通り華峰家を援助してくれ、男児が生まれたら華峰家の跡取りとして引き渡す約束もしてくれた。
小夜ではなく自分が選ばれたのだという気持ちは、旭の心を満たしてくれた。
霧城子爵の婚約者でいられなくなった小夜に、華峰家での居場所はないと暗に伝えたときの小夜の表情は見ものだった。
これまで、どれほどいたぶっても表情一つ変えずにいた小夜が、俯いて睫毛を振るわせていたのだから。
「お母様はね、お姉様を勘当なさろうとしているの。勝手に働きに出て、霧城家からも婚約破棄を申し出られて、こんなに恥ずかしいことはないとおっしゃっていましたわ」
笑いをこらえながら言った言葉に、小夜の様子がすっと変わる。
「そう」
一言だけ返された言葉と共に、小夜がすっと前を向く。
「な……なんですの、その顔は。職があるから出て行ってもかまわないと思っていらっしゃるの? お母様は、お姉様を辞めさせるようかけあってらっしゃるそうよ。せっかくの職がなくなったら、お姉様は何をして生活されるのかしら」
「旭」
「な……なんですの」
「私はね、たとえ研究所の職を奪われたとしても、どうにかして生きていくわ」
小夜は、香月研究所で初めて人間らしい扱いを受けた。
温かな食事を食べ、たっぷりした湯につかり、柔らかな布団で寝て、それから、自分を傷つけない人と生活をした。
始めは、こんなに優遇された生活は自分にふさわしくないと周囲に訴えることが多かった。
しかし、周囲は、小夜の価値を根気強く説き続け、丁重に扱ってくれた。
あまりに丁寧に扱う周囲に申し訳なく思った小夜は、瑛人にその思いを伝えたことがある。
その時に、自分たちは小夜を大切に思っている。けれど、当の小夜が自身を大切にしてくれないことを悲しく思う。と言われた。
今までの扱われ方から考えて、難しいと思うが、自分たちのために小夜自身を大切にしてほしい、と。
小夜が自分自身を大切にすることが、周囲への思いやりになると知ったことで、初めて自身を愛おしいと思えた。
瑛人たちに与えてもらったこの思いを持っていれば、きっとどこでだって生きていける。
瑛人たちと離されることは悲しいが、いずれ小夜の血が必要なくなった時は職を辞さなければならない。
その期間が早まるだけだ。と、自身に言い聞かせながら旭の瞳をひたと見る。
「なっ……。お姉様になんか、何ができるのいうの。どうせ、今の職だってお情けでいただいているだけのくせに」
「そうね。でも、あなたのおかげで気持ちが決まったの。どうして、いつまでも自分を大切にしてくれない人たちに縋りついていたんだろうって」
「はぁ?」
「私はね、ずっとお父様やお母様、霧城子爵やあなたに好かれたかったの。でも、もうそんな期待をするのはやめるわ。私を私として大切にしてくれる人や、場所があるんだってわかったから」
小夜が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
だが、理解できるようになるに従って、言いようのない怒りが湧いてくる。
小夜は、旭たち家族を自ら見限ろうとしているのだ。
許せなかった。
小夜の価値は、自分たちに何を言われても、どう扱われても逆らわず受け入れるところにあるのだ。
それなのに逆らった。
何が小夜を変えたのか。
凛と旭の瞳を捕らえる小夜の瞳に、これまであったような怯えはなかった。
そこにあるのは、自身の価値を信じる者の目だ。
「許さない……」
「え?」
「許さない、許さない、許さない。お姉様が幸せになるなんて、絶対に許さない‼」
よろしければ、ブックマークと評価いただければ嬉しいです。
評価は、本編下にある☆☆☆☆☆から入れていただけます。