3.薄幸令嬢の婚約者(2)
「おかえりなさい。旭」
華峰邸の玄関で華やかな着物を着た、三十後半ほどの髪を結いあげた旭によく似たきつめの美女が出迎える。
この家の女主人である華峰菖蒲だ。
「ただいま帰りました、お母様」
笑顔で言葉を返す娘に満足げに頷き、玄関先で頭を下げているもう一人の娘に虫でも見るかのような視線をよせる。
「小夜、霧城子爵がいらしてます。荷物を置いたら客間にいらっしゃい」
菖蒲の言葉に小夜の肩がびくりと震える。
その様子に綺麗な二重の目を弧にした菖蒲は、ふふと笑った。
「旭、いらっしゃい。子爵からあなたの大好きなお菓子をいただいたの」
「まあ、わたくし霧城のおじ様大好きよ」
「あなたが出ていったら霧城子爵の視線を独り占めにしてしまうから悪いでしょう。部屋でお菓子を食べていらっしゃいな」
「はぁい」
無邪気にはしゃぐ旭の傍を通り抜けようとした小夜の肩を菖蒲が掴む。
「粗相がないようにね。小夜」
肩の痛みに眉をひそめていると、旭が笑った。
「お姉様は、いつもおじ様の前で粗相してばかりですものね。先日は、菓子皿を割りましたし、その前はお湯呑。おじ様が弁償と言って包んでくださってますけど、いくらなんでも失礼すぎます」
「そうね。子爵にいただいたそのお着物も汚さないようになさい」
旭と菖蒲の言葉に、はいとだけ返事して荷物を置きに奥の部屋に足早に向かう。
途中、華峰家の中で三番目に大きな部屋である、旭の部屋に立ち寄り、荷物を置き自室へ向かう。
屋敷の最奥に近い場所の、元は物置だった場所が、小夜の部屋だ。
同じ華峰家の娘なのに旭の部屋とは大きさも、置いている家具の質も違う。
だが、自室があるだけましだろう。父の過ちで産まれてきた子なのだから。
女学校で使う荷物をボロボロの机の上に置き、急ぎ客間に向かった。
「おお、小夜。待ちわびたよ」
客間には、六十過ぎの、洋装に身を包んだ白髪で恰幅のいい老人が、四十前半ほどの無気力な目をした神経質そうな蒼と、にこやかに笑う菖蒲と共に卓を囲んでいた。
ふすまの前で一礼して入室する小夜の一挙手一投足を、半開きの目の老人はなめるように眺めている。
小夜はこの婚約者が恐ろしい。
先祖が作った借金を援助するという名目で、霧城大和の婚約者におさまったのは今よりも幼いころだった。
それまでは使用人同然の扱いを受け、着るものも食べるものもろくに与えられていなかったが、大和の婚約者になったことで小さくとも部屋を与えられ、最低限の着物と食事も与えられるようになり飢えることもなくなった。
華峰家から嫁がせるには相応の教養も必要だとして、女学校にも通うことができるようになった。
以前に比べたら格段に生活はよくなったが、月に一度、面会と称して大和が訪れる時が苦痛でたまらない。
「お茶をお出しして。小夜」
菖蒲に促されるまま、用意されていたお茶を婚約者の前にそっと差し出す。
細心の注意を払って出された湯呑は、大和によって倒された。
「何をしているの。あなたは、いつもいつも!」
大和の目の前で怒鳴る菖蒲の目は笑っている。
彼女は、今の小夜の状況が愉快でたまらないのだろう。
「申し訳ございません、霧城子爵。この子のしつけは子爵にお願いしてもよろしいでしょうか」
嫣然と笑いながら座布団の横から大和に差し出されたのは、竹製の鞭だった。
「うむ。これも幼子に対するしつけだから、仕方がないね」
もっともらしいことを言いながらも、大和の目はぎらぎら輝いている。
大和の婚約者になってから繰り返されているこの茶番に、早く終わってほしいと思いながら着物の袖をまくり、両腕を大和に向かいさしだした。
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