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ミッチェルは修学旅行のバスの中にいるんだ。行けなかった修学旅行にね。多分ハイスクールの奴らだろうけど、顔は見えないんだ。窓の外を見てるから。
観光地図を広げてる。それを自分の頭の中の地図と重ねながら、彼はどこに着くか知らない。その頃は自分が小説を書くなんて思いもしなかったんだ。
さびれた街並みが続く。観光地に着くためには観光地じゃない所も通らないといけない。どっちが本物の姿かって、それは彼が今いる日常が本物の姿なんだろう。
次の場面では彼は船の中にいる。お母さんといっしょに。多分、歓楽街なんだろう、船の窓には夜にも関わらずシェードがかけられていてそれでも、猥雑な光が浮かんでいる。ファイアーワークみたいな光が。そんなに大きい船じゃないよ、彼のお母さんはさっきまで寝ていたベッドに腰かけて何かを楽しみにしてるんだ。
テーブルの上には大きなバターケーキがある。黄色い大きな何の飾りもないバタークリームを塗ったタッチがそのままの。とても二人じゃ食べ切れない、多分、猫もいる。飼ったこともない痩せた上品な猫が窓辺に立っている。赤い首輪をして鈴が付いてる、首輪を嫌がらない猫なんだろうな。
誰かの誕生日なのか、何かの記念日なのか。もしかしたら二人で旅ができた記念なのかも。
ミッチェルは部屋に入ってきたばっかりなんだ。だから母は起きたのかも知れない。だってインバネスに外の雨が付いてる。夜だよ。そうじゃなかったら窓に光が映るわけない。
ミッチェルは厨房でもらってきたであろうヘラでケーキを二つに割るんだ。彼のお母さんは甘い物が食べられないのにね。インバネスのままなのは彼がまたすぐドアの外に出ていくからだろう。ヘラを返しに行くのか、あるいはもう受刑者の身で逃げてる時に立ち寄ったのかも知れない。
誰だって最後はお母さんに会いたくなるよね。ケーキは何層にも分かれていてスポンジ、バタークリームの繰り返し。お母さんもミッチェルも口を付けない。見てるだけでお腹いっぱいになりそうな大きなケーキなんだ。切ることに意味があるような気がしてお母さんは喜ぶんだ。
僕はずっと親不孝だった。何も悪い事してないのに、どっかで間違えたんだろうな。それがハイスクールだと自分では思ってるけど、それにお母さんを巻き込んじゃったんだと思うと親孝行よりも先に罪滅ぼしをしないと。
僕はあやふやな線を越えてしまったんだ。温泉街に着いたよ。埴生の宿って書いてある。ミッドファーヤーのおじさんに会いに行くんじゃなかったっけ。まだ夜だ。ぼんぼりに灯が点いてる。僕は一人で浴衣の袖に両手を入れて中国人の真似をして歩いていくんだ。よくある階段。近くに川が流れてる。
夜になると川も真っ黒くなるから不思議だ。夜よりも黒くなるんだ。そこに護岸があって、柵があって、明かりが映っていないと川だと気付かないくらいだ。川は流れる音がしないから。
僕は何かを気にしてる。何を気にしてるんだ?
船の中の母のことか? いや、もっと現実的な事だ。
ミッチェルは橋のアーチの頂に立って何かを考えてる。長い長い休みだ。
いつの間にかエマがいる。そう、愛はいつもいつの間にかなんだ。ミッチェルとエマは川に下りようとするんだ。袂に梯子がある。恋人になったら変な事をしたがるもんさ。
二人で下りたら、ほらほら、梯子ごと落っこっちゃった。川の中に。でも二人は笑い合ってるんだ。おかしくてどうしようもないんだ。それで僕は何かを囁く。エマに何を誓うんだ。もう悪さしないよ、みたいな、そんなことを。
頭の中では子供を気にしてる。二人の子供だ。男の子だけど出て来ないんだ。
明かりが川面に映ってる。水鏡のようにね。
青い帯みたいな光が横へ流れてる。そうだ! 僕は金のレイトを気にしてたんだ。
「恥じらい畠でつかまえて」で儲けた金を全部ゴールドに換えたことを忘れてなかったんだ。
濡れたらみんなオールバックになるよね。川に浮かびながらミッチェルはそんなことを考えてる。