好奇心
人は自分の事を知りたがる。自己診断アプリやその類のサイトが溢れている世の中でそれを否定するのは難しい。
もしかしたら自分の先祖は偉人かもしれないと思いそのルーツを辿ってみたり。
自分の苗字や名前は一般的なのか、それとも奇抜的なのか検索してみたり。
サイコパスだかソシオパスだかを簡易的で誘導的な診断で判明させてみたり。
どんな人物と相性が合うかを調べてみたり。
様々。
アンケートを取らなくても分かる。それら行動には自分が特別な人間かもしれないという期待が根本にある。
大抵、その冀望は霧散する。だって、普通は『ふつう』だから。
自分に何も無いと思っているから、何も取り柄が無いと思っているから、何も特別な部分が無いと思い込んでいるからそんな間抜けな事に脳味噌を使ってしまうのだ。
隣の芝生は青く見える時代は疾うに過ぎ、今は隣の更に隣の芝生が輝いて見える時代なのだ。
特別でない劣等感。
頭一つが出ていない引き目。
何も持たない自己へのコンプレックス。
顔を上げても下げても情報が脳に焼き付けられるこの世界だからこそ、『嫌なものを見ない』が難しい時代だからこそ、自分の劣弱意識に向き合い、それを流す、または打ち消す必要がある。
その方法は千差万別であり、万人にとって決定的なものは存在しないだろう。
でも僕からすると。
上から目線で言わせて頂くと。
圧倒的に特別で特殊な僕にでも、自分を嫌悪するセグメントは存在する。
高校二年生でつい一ヶ月前に進級したばかり。住居はメゾネットタイプのマンション。家族構成は姉と妹、両親と祖父母は他界して親戚も居ない。
大丈夫。ちゃんと過ごせる。人として、普通の人間としての生活を送れる。今日までちゃんとやってこれた。
落ち着け、たまにあるアレだ。ふとした時に人生を大雑把に振り返って、何か不安になるアレ。
なにこれ、もう本当にやめてほしい。変な感情を湧かさないでくれよ、僕の心。
深呼吸を3回、そして鏡を見る。どこにでも居そうな男子高校生だ。ブレザーがよく似合っている。後ろに順番待ちをしている妹が居るが、全然気にならないぞ。
もう少しだけ、このまま鏡を見ていよう。
「いつまで使ってんの。邪魔」
これが今日初めて聞く妹の言葉。第一声。いやぁ反抗期。反骨精神が強まり過ぎちゃってもう、アイスピックみたいに尖っちゃってる。
「おや、今日も可愛いな妹よ。でもお兄ちゃんも負けず劣らずイケメンだとは思わないかい?」
反抗期の子供には真っ正面から取り組まずに、流した対応が一番だと僕は思う。そして実践している。僕には反抗期がなかったから正解が何なのかは分からないが、今しているこれご不正解だとは思わない。
妹が何も言わない。どうした。立ったまま気絶したのかな。いや、目は開いてる。これは俗に言うあれか、死んだ魚の目ーーではなく死んだ魚を見る目だ。そして今その視線の先には僕がいる。
「分かったよ。ほら、もう洗面台を使って良いぞ」
「キモい」
これが一番堪える。例え僕がどれだけ理説的になっても、これ言われたら全てが崩れる。なぜなら生理的な感情をそのまま言葉に出しているから、説明が入れない程にシンプル。
少し微笑んで妹の横を通ったけれど、それが精一杯。
あー、泣きたい。
お前は大切な家族の一人なんだぜ。例え僕にあと10人の兄弟姉妹が居たとしても、この気持ちは揺るがないだろうさ。と口に出して言いたいが単純に恥ずかしいので言わない。言えない。
姉が作ってくれた弁当は台所のシンク横に置いてある。いつも通り。平日、学校がある日は毎日早起きして弁当を準備し、それから仕事に向かう姉には頭が上がらない。
金銭的に何不自由ない生活をさせてくれる姉には感謝しかないのだが、少し要望を言わせて貰えるのなら、少しクレームを付けさせて頂けるのなら、弁当箱を固定するゴム帯に弟への愛を綴ったカードを挟むのをやめてほしい。
その内容は・・・いや、恥ずかしいから読むのはやめておこう。
こういったカードは毎日ではないが、結構な頻度で挟まれている。妹はまだ中学生、給食がある学校なので弁当は必要ないが僕が三年生になった時には妹は高校一年生になる。その時には僕も少し家事を負担しなければならないだろう。
また考え事の時間を取ってしまった。なんだかんだと余裕を見せているが、時間的にはあまりそうも言っていられないのでさっさと鞄を持って玄関へ向かわなくては。
「鈴香ー、出る時ちゃんと鍵掛けとけよー」
返事は無い。うむ、いつも通りだな。
妹の反抗期が早く終わって欲しいのと同じくらい、それをもう少しの間だけ楽しんでいたいと思う兄がいる。
僕だった。
そういう性癖なのだろうか。だとしたら御仕舞いだ。
僕は今歩いて学校に向かっている。こういう時に、何も考えずとも身体を動かせば物事が前に進む時に、人は哲学的になったりする。
今の僕がそう。エセ哲学者、爆誕。
パラレルワールドとか本当にあるのかなぁ。あったとして、向こうの僕も同じような事を考えているのだろうか。そもそも近い並行世界は似通っているという考えはどこから来たんだ。というか近い並行世界ってなんだ。そんな平面的もしくは立体的に世界の距離って測れたりするのか。
とか。
『世界五分前仮説』が本当だったとして、どうすれば良いんだろう。チートコードでも探そうか。いや、そもそも娯楽ゲーム的に作られているのか。
もし特殊能力者がいたらどうなるんだろう。やはり人類は、人間は虐げられてしまうのだろうか。それとも何とかして倒すか、共存の道を模索し、実行し、それらを成功させるのだろうか。
とか。
そもそも特殊能力者ってなんだ。本当にいるのか。いたとしてそれが人間の軍事力や科学力を凌駕する程の何かを身につけられるのか。
とか。
炎が手から出せたとしても、それは耐火スーツを貫通できるのか。
とか。
物を凍らせられるとして、それは瞬間的に、相手に隙を突かれる時間もない程だろうか。
とか。
空を飛べたとして、その持続力と機動力は旅客機や戦闘機を上回る程だろうか。
とか。考えるだけで暇を潰せるのだから、思考というのは一番手近にある娯楽だと思う。
大抵のフィクションの世界では、それら能力は類似なものの上位互換として表現される。強力なものとして、代替え品など無いとされている。
あとは何だろう・・・ベタなやつだと『未来予知』とか?
超次元的な、超常的な、非日常的な、非存在的なーーそんな能力。小説、漫画、アニメ、ドラマ、映画などなどと様々な創作物のテーマになってきた。
しかし、『未来予知』というものは実際そんなに実用的ではないのではないか。
少なくとも僕のはそう。
それは扱い難くーー悲劇の発端になる。
後味が悪く、納得しがたく、すっきりしない、わだかまりが残る結果を練り出す。その原因の位置に僕は居たくない。
しかし現実は生々しく、僕のそれは突発的で予測不可。だから僕には分かってしまった。
先の交差点から合流する形になった、僕の前を歩いている、あの女子生徒。ガードレールのすぐ横を歩くあの女の子。
ああ、もう、今日まで大丈夫だったのに。高校生になってからは平気だったのに。
頭の中に流れる秒針の音。
鏡写しの世界。反転した景色。
そんな所を歩いているから、もう少し左に寄って歩いていればーー。
後ろを確認する。
確かめる。
一台の大きなバン。
どこかの建設現場に向かう途中だろうか、フロントガラスから見える車の奥には様々な用具と工具がーーまだ見えない。しかし知っている。
既に見た。
原因は、常識的な社会問題になっているあれ、ながらスマホ。本当にどうかしている。車を運転しながらスマートフォンを確認するなんて。
運転手はきっと、何かの病気だ。現代病。でも、これから起こることを考えると本当に同情するし何とかしたやりたいって思っている。
でも無理だ。僕はこっちを優先するから、どうか許して欲しい。
「危ない!」
一瞬で肺がぺしゃんこになったかと思うほどの声量が出た。
声を上げると同時に走り出した僕は、その大股の六歩目に彼女の肩を両手で掴み歩道の奥に向かって斜めにタックルした。
瞬間。金属同士が激突する、弾けるような爆音。地面が割れたかと思う程の振動を身体の芯まで感じ取れる。息を吐く暇もなく次の轟音ーーガードレールを乗り上げ、アクション映画さながら跳躍した車が地面に激突したのだ。あと僕の足が半歩後ろに位置していれば、後部の車輪が潰していただろう。
ギリギリ。本当にすんでのところで僕たち2人は助かった。
咄嗟の判断、僕が得られた情報を考えると、その時間を考えると、これが最善だと思いたい。
僕が覆い被さっている女子生徒。同じ学校の、女子用の制服を着用している、震えた少女。僕は彼女を助けた。本来ならこの世から亡くなってしまう命をこの世に留めた。
留めてしまった。
そしてーー自然の一部なのだろう。そういうものなのだろう。突風が吹いて消えるはずだった蝋燭を手で囲い、守った。
こうして世界の命の総数からマイナス一いちされることはなくなった、なんて、そんな都合の良い事は起こってはくれない。
僕は今、押し倒した女子生徒の目元を手で覆っている。
なぜかーー見せないようにする為に。
なにをーー後ろに裏向きになっている車の中身を、決して彼女の視界に入れないように。
ぐしゃぐしゃで、ぐちょぐちょ。数秒間、苺を30個ほどミキサーにかけたような、散らばる細々したガラスの中には白い破片や黄色の粘性を持つ何かが混じっている。
目を背けたくなる現実。
鎖骨から上が無くなった胴体。
肉塊を付けながら飛び出す脚立。
素人目にも分かる程の重力オーバー。積載過多。なぜこの車にこれもほど物を詰め込んでしまったのだろうか。
最近の車には障害物が近くにあるとセンサーで音が鳴る仕様もあるらしいが、このバンには搭載されていないのだろうか。いや、搭載されていたとしても、役には立たなかったろう。
大声を上げても手を振っても、運転手の意識を移すことは不可能だったに違いない。
この女子生徒が運転手の視野に入らなければブレーキはかけられる事なくーーつまり彼女が車のすぐ前に来た段階で気持ち程度の減速が効き、運転手は助かる。そして彼女は死ぬ。
鏡写しの映像記憶では、そう見て取れた。
そして、路線を変えた結果がこれ。
これでよかった。正解。不注意で女子高校生を轢くドライバーの末路には事故死が適しているーーなんて思える筈がない。
人が一人、この場でその生涯を終えたのに、それを喜ぶ阿呆になりたくない。
僕は自分がタックルをかました女子を見る。当然無傷では済まず、かすり傷が指や手の甲に点々と見られる。
取り急ぎ救急車を、それが無駄だとしてもである。
Prrr...
「救急ですか、火災ですか?」
車の事故です。一人が既に、亡くなっています。
電話の向こうの状況が分からない受付の男性は、「医者でもないのに勝手に判断するな」と思ったのだろうか。
『野次馬』の語源は『老いて仕事に使えなくなった馬』からきているらしい。しかし、僕はどうしても馬を美的な動物として捉えてしまう。それがもう歩くことすら不能になった老馬でも、手の付けられない暴れ馬でも、僕はそのフォルムに審美的な見方をする。
きっと若かりし頃には颯爽と、他の動物を寄せ付けない程に迫力のある走りを見せつけていたのだろう。と良い方向に過去を見ようとする。
願う。ぴったり。
きっと、この光景をスマートフォンで撮影したり、ただ立ち止まって眺めている薄ら気持ち悪い興味本位の輩も、きっと普段は健全かつ公正な心を持っているに違いない、ーーと思いたいものである。
僕はこんな惨状になる前にさっさと離れていたのでプライバシーに関する問題は今のところないが、きっと警察やら何ならにはあれこれと質問をされるのだろう。一応、被害者だし。
それは彼女も同じ。僕の横でスマートフォンをただ見ているこの人。
ロック画面を開いた状態。つまり何もアプリを起動していないその画面をただじっと見ている。何をして良いか分からないのだろうし、何かをしていないと落ち着かないのだろう。
少なくとも、あの連中よりはましだな。
そうこうしていると救急車が駆けつけて来た。時間にして5分強。通勤時間帯だというのにそれだけの時間で到着できたというのは驚きである。
後続で来た警察官に一通りの事を話し、実況見分の予定を立て合い、遅刻して学校へ行くと思った通りのざわめきようだった。
事故があったらしい。
この高校の生徒が轢かれかけたらしい。
今日の授業しんどくない?
凄まじい事故だったらしい。
俺見たよ。
教科書忘れた。
夏までに彼氏欲しい。
運転手は顔も分からないほどだったらしい。
彼女欲しい。
どの辺りで?
辺りに臓物が飛び散っていたらしい。
動画は、写真は。
どんな風だった。
SNSで出回っていたけどすぐに削除されたらしい。
超グロかった。
他クラスから借りろよ。
無理だろ。
向こうの交差点の手前くらい。
誰か動画持ってないの?
花粉症やばいかも。
梯子に腕が引っ掛かってたらしいよ。
私も。
シート張られてて見えなかったんだよ。
あーあ。見たかったな。
「暁」
「ん・・・」
僕の友達。僕が人間的で情緒ある会話をすることのできる唯一無二の友人。
「おはよう。章太郎」
「もう『こんにちは』の時間だぜ暁。・・・購買行かね?」
「おう」
ありがとう、と敢えて小声で付け加えた。
僕が学校に着いた時には昼休みが始まってすぐだったので時間的には余裕があったのだが、あの空間に居て心休まる事などないだろう。
本当に気の利く奴。自分を察してくれる人。
そいつは今コーヒー牛乳を片手に、口の中には焼きそばパンを。食べ合わせ的にどうなんだそれは。焼きそばとコーヒーの風味は合うのかと考えてみても、想像する味に調律が無い。
しかし実際に交互に口の中でそれが混ぜ合わせられていくのを見ていると、こいつの中では最高の相性なんだろうなと思う。
「お前、人に食べている最中を見られるのって意外と緊張感あるんだぞ」
「なぁ、それ美味いの?コーヒー牛乳の甘味と焼きそばが混じると・・・どう想像しても食欲が湧かない」
「それはお前、甘くてコーヒー牛乳とジャンクな焼きそばパンだぞ?美味しいものを二つとも同時進行で食べて、飲んでいるんだから、倍付けで美味いに決まってる」
決まっているらしい。しかも倍美味いらしい。
人の脳はそんな算数的に味を都合よく処理できるのだろうか。いや、でも目の前に実態が実在しているじゃないか。
すごい、音も立てずに、ずるずる食べてる。
食す時の効果音と言えば「がつがつ」とか「もぐもぐ」とかが一般的だろうが、この固形の焼きそばとパンを少し噛んでからコーヒー牛乳で少し強引に流し込む様を見ていると、「ずるずる」がしっかりする。
無理矢理に食道に入れていく感じ。
最後の塊を胃の中に沈めた後に締めのコーヒー牛乳一気飲みして、少し切れた息を吐いて、章太郎はぼそりと言った。まるで日常会話のように、これは普通だろと付け加えるように。
「女の子を助けたんだろ?お前すごいじゃん」
僕も同様にトーンを敢えて下げることも上げることもせずに返す。
「まぁね、凄いだろ。どうなんだ、僕の英雄譚はこの学校にはちゃんと轟いているのか?」
「残念ながらそうでもない。事故そのものが、というか亡くなった方の話題が大半を占めてる。お前と、あとその女の子を言及するような風潮は今のところないな」
「そうか」
「お前、席一番後ろだから居なくても分かりにくいのが幸いしたんじゃないのか?先生達も気を利かせてか、特に何も言ってないしな」
「はぁ・・・良かった」
我ながら最低な発言だとは思う。だけど良かった。本当に。
あの事故は、あの光景は、たぶん一生のうちに何百回と思い出すだろう。ふとした時に、瞬間に、頭を過ぎるその度に胸に霧が掛かるだろう。
しかし人から質問されて思い出すのは無性に腹が立つ。僕への配慮が無いことにではなく、第三者の癖に好奇心だけで、知りたいだけで、美味しいところを貰おうとするその手の心境が大の苦手だ。
被害者でもなければ加害者でもない。それならば何も言わず、何も求めず、こうしていつも通りの雰囲気を一緒に纏えば良いのだ。
事故があったらしいよ。
へー、怖いね。自分も気を付けよう。
その程度が良い。なぜ今回の事を深くまで知りたがるのかは分かるが、それを隠さず口に出して言うのが何だか気に食わない。
「なぁ暁」
「はいはい」
「焼きそばパンの青海苔はどうしてこう、前歯にだけ引っ掛かるんだろうか」
「そりゃあ、お前・・・奥歯に引っ掛かっても気が付かないだけだろう」
「なるほどな。コペルニクス的転回だな」
「多分だけど違う」
優しい奴。
著しく生産性に乏しい、情緒の欠片も無い会話をしながら階段を登るこの時間を懐かしむ日々の到来を先延ばしにしたいと、そう思った。
「水銀計測器」
「あ、それ良い」
「僕の勝ち?」
「いや、マグナチックスターラー。どうこれ?」
「本当に存在するのか、それ」
今何をしているかというと、僕が章太郎とどんな会話をしているかというと、強さそうな実験器具の名前を言い合っている。それだけ。
物理や化学、科学に用いられる実験道具の名称というのは馴染みなく、しかし一度頭に入って蔵えば中々出ていかない、そんな特性がある。駒込ピペットなんて、その代表例だろう。その形状も重さも用途も全く知らないが、どこかで聞いたそれは今も尚、頭から離れない。
たまに頭から飛び出てくる思い出というものがある。それは意外と、意味やストーリー性が無いのかもしれない。
「暁」
「ん?」
「凄い暇だな」
それを紛らわす為のゲームだったのだが、言葉遊びにもならないようなものだったのだが・・・少しでも熱が冷めると虚しくてしかたなくなる。
僕達が今いる教室には、僕達二人しか居ない。他の生徒はとっくに下校しているか、部活動の終わりを迎えている頃。
居残りでもなく、何か目的がある訳でもなく、何となく。さっさと帰れば良いものを、教室でだらだらとして、いつの間にか夕陽が落ちかけている。
こんな日は珍しくない。しかし、今日の僕には少し思うところがあった。あの日の、2日前のあの事件、というか事故の際に助けた女子生徒と会えるのではないかというーー願い、のようなもの。
会ったところで何というわけでもない。感謝の言葉が欲しいとかそんな欲は無いし、当然ながら何か物品を頂くつもりもない。
ただ、無事を確認したい。お節介な発想だが、あの事故がトラウマになってまともな生活が送れていないのではないかという心配を勝手に寄せているのだ。
名前も知らない彼女が元気かどうか。
でも、それはあくまで小さな願望。元気な姿を見たいというのはあくまで二の次。ついで。あの事故が無くても僕は今日、でなくても昨日明日に章太郎とこんな風に教室でロスタイムを過ごしていただろう。あの事故は然程僕の生活に影響を与えてはいない。
鐘が鳴る。
正確には鐘の音をレコーダーに録音し、それを流しているのだろうが、ともかく今のが最後の鐘である。あと三十分以内に下向しなければ見回りの教師に見つかってしまう。
叱責を受ける訳でもないが、そんな用で教師に何かを言われるのは、例え柔和な物言いでも少し嫌だというか、気まずいというか何というか・・・。
相変わらず、僕は人付き合いに対して些かの恐怖や煩わしさを感じている。
うんざりする程の人間に囲まれた経験もないのに。
章太郎と別れた後、といっても家が真逆なので校門を出たらすぐに手を振り合うのだが、あの交差点に辿り着いた。
当然、あれは通学中の出来事だったし、あれ以降の二日間も今日も、この道を通っている。
事故翌日、道路は何事もなかった様に綺麗さっぱりとしていた。見物人も居なければ、花も無い。世間的に見て、あの事故はもう終わった事なのだ。
僕もそう考えている。
世間的に見れば、関係者以外から見れば『事故で死人が一人出ただけ』だ。
よくある事故。ニュースにもなっていなかった。もし亡くなったのがあの運転者ではなく高校生である彼女なら、それか僕ならば、もしかしたら報道されていたかもしれない。
もう済んだ事。
でも今日は違うーー足が止まった。地面と靴の裏が強力な磁石同士が乱暴に引き合いくっ付く様に。
彼女がいた。
右親指と小指の側面に絆創膏が貼られていて、その少女は車道を見ていた。
じっと。眺めているのではなく、穴が空いてしまうくらいに一点を見つめている。何を見ているのだろう、思い出しているのだろう。そもそも何かを考えている様にはーーいや、どちらとも取れる。
でも、いい。ともかく彼女は登校し、そして通常通りの下向時間で帰宅しているようだ。友達でもないし、名前も知らない。しかし、見たところは無事な様だし・・・この気持ちは達成感だ。
この達成感ーーどうしてもあの運転手が過り、何か不謹慎な想いを抱いている様だ。少なくとも『僕は女の子を助けた高校生。将来有望の清い心の持ち主』と傲慢になる事はできない。人が一人死んでいるのにも拘らず何を不遜な、思い上がり甚だしい。と誰かに叱責を受けてもおかしくはないだろう。
誰からも何一つ文句をぶつけられていないのに、何でこんな事を考えてしまうのだろうか。助けた人がその後普通に生活を送っているのだから、素直に喜べば良いのに・・・。
勝手に想像した相手に、勝手に怯えて、おかしいだろう。滑稽だろう。
ほらまた・・・。
兎に角、薄い目的は達成された訳だし、帰ろう。引き続き足を進めよう。
姉が帰ってくる前に軽く掃除をしないと、家事を分担するように言われてはいないが、その分不安になる。一言、手伝って欲しいと言ってくれれば良いのに。
洗濯は・・・姉が帰ってからにした方が良いな。料理はやめておいた方が良い、労働から解放された稼ぎ頭に、ひと塊のお焦げを食べさせる訳にはいかない。
妹は自分の服を僕が洗濯するのを嫌がったりするのかな、もしかしたら「お兄ちゃんの服と一緒に洗濯しないで」とか言われたり・・・。父親も母親も居ない妹が反抗期を迎えるというのはある意味で嬉しい。そこら辺の中学生と同じような経験をしているんだな、と安心する。
母代わりの姉と、父代わりの僕。いや、姉は分かるが僕は父親らしい事を何もしたことが無い気がする。
ううん、考えても無駄か。そもそも、ここ最近、掃除と洗濯は僕が担当しているし、妹は何も言ってこない。因みに『お兄ちゃん』とも呼ばれていない。反抗期を迎えてから名称や他称で呼ばれた事は一回もない。
考えても無駄なこと。分かりきっていること。それらを頭に巡らすことで現実から意識を逸らすことができる。
自覚するな。大丈夫。家の事を、帰宅後の事を考えていれば良い。
逸らせ。
向けるな。
気にするな。
気にするな。
気にするな。
どうして首を突っ込もうとしているんだよ僕は。何を期待しているんだよ。そんな大した理由もなく言語化できない程の薄っぺらな好奇心で自ら巻き込まれに行くなよ。どんだけ愚昧なんだもう少し考えればいいじゃないか。それよりも優先すべきことがあるだろう。探せ。無視しろ無視だ無視無視。無関心。無関係に戻ればいいじゃないか。まだ大丈夫だろう引き返せる。だからこのまま左足を前に出して踏み込んで次は右足を出してを繰り返せば良いんだよ。もし振り返っても絶対に気保養できないしむしろ全く逆になるぞ。何で僕には悩むべき事が、悩んでどうにかなりそうなことが無いんだよ。頭の中をぐるぐると回る全ての言い訳が袋小路のどん詰まりだ。だめだ。抗えない。もう駄目だ。留まってしまう。
・・・・・・・・・。
彼女は一体いつからあそこに立っているんだ。
気になる。気がかり。引っ掛かる。
テーブルに飛び散ったケチャップを指に移して取ろうとしたら、逆にケチャップが伸びてしまって、ますます汚れが広がる様に、小さな問題が少し大きくなり、それが気になって仕方なくなってしまうこの感覚。
適切に対応すれば大丈夫。濡れタオルで拭けば汚れは取れる。まだこびりついてはいない。
しかし、対処にあたらない事が一つの対処法の候補になっているこの状況で適切な判断は難しい。
話しかけるべきか?それともこのまま行くべきか?
汚染が広がる条件は何だ。それを探ろうとしたらより酷い事になってしまうのではないだろうか。
しかし、
「あの」
僕は口を開いてしまったのだ。
「この間は・・・どうも。怪我の具合はどう・・・ですか?」
僕は彼女が何年生かも知らない。もしかしたら上級生かも知れないし、そもそも関係性でいうと他人からである彼女に友達口調はできないと咄嗟に判断した結果、辿々しい敬語を使ってしまった。
人見知り全開。人見知りというか、女子見知り?一応、思春期だし色々と意識するところがある。それに加えて特殊な関係の始まり方、緊張しない訳がない。
「あ・・・先日はありがとうございました。はい、ええと、大丈夫です」
僕の緊張が伝播したのか、はたまた彼女も人見知りなのか、目を泳がせながらの応対だ。残念ながら、僕の浅い経験上、知識上、人見知りという共通点があっても人見知りはフランクにならない。
恐らくはこの世で最も役に立たない共通点。
彼女が黙ったということは、次は僕のターンということなのか。喋る順番が来たが、一体何を言うべきか。話すべきか。もう少し話の選択肢を探してからの方が・・・いや、考えたところでだ。
どこかがマニュアルでも発布していないだろうか。『人見知り同士による会話持続のメソッド』みたいな。情報商材みたいでかなり陰気だが、それくらい無いと僕みたいな人間は不安で仕方ないんだよ。
会話の過程は模索中。模索中ということは、結果があるということで、その結果とは、貴女はそこに何時から立ち続けているのですか?という質問だ。目的がある会話をする場合は過程が必要だと何かの映画で見た気がする。それに、僕のような小心者がいきなり結末から会話に入るなんて無理な話。
僕が学校を出た時、辺りに残っていた少数の生徒の殆ど全員が部活道終わりの準備をしていたので、彼女は何かしらの部活動か委員会に参加していて遅くなった訳ではないだろう。それなら僕よりも後から下校する筈だ。もし、何かそういった活動をしていて早退したのではと仮定しようとしても時間的に遅すぎる。早退するならもっと早い時間帯だろう。普通は。何か急な予定ができたのかーーいや、だったら立ち止まる理由がますます不明になる。
それにここは、彼女にとっては早々に通り過ぎたい場所だろう。それにあの顔は・・・。
あり得ない。分かっている。でも、これは論理が飛躍し過ぎている。
違う。これは昨日『ヒットマンズ・レクイエム』を観たからだ。任侠映画を鑑賞すると気が大きくなるのと同じように、それを他人にも当て嵌めて考えている。その為、僕は現実にそんな創作物的な価値観をくっ付けているのだ。
僕の悪癖。憶測で決め付ける。予想に恐怖する。
でも、理由は気になる。ここまできたのだ。既に好奇心を優先して行動するようになっている。
質問の仕方を少し工夫しよう。
「待ち合わせですか?」
いいえ、と答える彼女。
今のって、少しだけナンパみたくなってなかったか?ヘイ彼女、誰も待っていないなら俺とどこかへ行こうぜ。的な。これ、いつの時代のナンパイメージだろう。
「ええと、谷風暁です」
遅すぎる自己紹介。本来なら出会った当日にしてもおかしくない礼儀作法。
「黒木茉莉です。先日はありがとうございました」
まつり。どういう字を書くのだろう。まつり、と聞いて思い浮かぶのは『祭り』や『茉莉花』だ。しかし、彼女に対して賑やかしさも夏の活気もイメージできない。むしろ逆。秋の様に閑散としていて、吹けば唇が切れてしまう位に鋭い風が吹いている情景が似合っている。似合ってしまっている。想像だけで完結してしまう。
吸い込まれそうな、物理的な容量を無視する様なあの目の所為だろう。瞳孔が開いているとか、目力が入っているとか、そういうことじゃない。だから僕の心は騒つくのだ。平常時でもあの眼だというのは、率直に言って怖いと思ってしまった。
そこから感じ取れる人間味はーー事故直後の、あの電源を入れただけのスマートフォンをただ見ていた場面を知らなかっなのなら皆無だと印象付けていただろう。
「お怪我の具合はどうですか」
「そうですね、はい、医者が言うには痕は残らないそうです」
「そうですか。良かった」
これは嘘ではない。状況はどうであったとしても僕のせいで彼女は怪我をした。あれは正当な判断だった、とは当人である僕が言うには大き過ぎて喉から出てこない。
本当に訊きたいこと。尋ねたい。知りたい。
二重人格を自問自答してもおかしくないくらいの好奇心。これも僕の欠点だろう。
こんな時こそ起きるべきだ。アンコントロールラブルな僕の特技。
でも、これが普通。だから大丈夫。知りたい。というか僕が予想する答えと違っていて欲しい。どうか、間違っていてください。お願いします。
「あの、訊きたいことがあるんですけど」
振り向く彼女。行動で返事をされると言葉を返すのが難しくなってしまうが、少し今、首を傾けたような。言っていいのか。あそこまではっきりと言って、今更何でもないですとはいかないだろう。
訊くぞ。引かれてもいい。仲良しって訳でもない。仲が悪くなるのは良い状態からだけ。特定条件下の特権のようなもの。
「もしかしてなんですけど、本当もしかしてなんですけど」
一呼吸。長く。よく聞かせるように。確実に一度で伝わるように。吸う。
「死ななくて残念だと思ってませんか?」
彼女は答えた。即答。間髪入る隙もなく。
はい、と聞こえた。
直感。当てずっぽう。心当て。推測。予想。僕の人生のうちで、それが的中した事はあまり多くはない。
雨が降らないと思っていても降る場合がある。しかし、降らない場合もある。つまり、自分の力が及ぶ範囲の外に幾ら思考する時間を投じても結果は変わらないのだ。当たっていようが外れていようが関係ない。関係の持ちようがない。
それが知っただけで嫌悪感を抱く存在なら、それを見ないようにするしかない。目を逸らして、なるべく考えないように努めるのが精神衛生上で最善だ。
子供の頃、本当にまだ小さな頃、母親に決して踏み入ってはいけない場所を教えられた。家の駐車場。きっと、背丈の低い子供が遊んでいても気付かれることなく車をバック駐車する時に誤って轢いてしまう可能性を危惧した母が僕にそう教え込んだのだ。きっと、それ以外にも色々な注意は受けただろうが、忘れてしまった。
ついさっき、僕は危険地帯に足どころか頭の先まで入ってしまった。
今回の僕の予想は予想以上に的確で、芯を食っていた。
聞き間違いではない。死ななくて残念か、という質問に対して彼女は、はい、と答えた。聞き返す時の疑問符が付いた「はい?」ではなく肯定の「はい」だった。
「どうして分かったんですか?」
と、質問された。この時僕は冷静ではなかった、しかしパニックでもなかった。予想が的中した納得と、その事柄への驚愕が半分半分で、心情が宙ぶらりんになっていたのだ。だから、そんな足元がおぼつかない状態だったから、ついうっかりと口を滑らしたのだ。
「前に同じような人を見たから」
そうですか、と黒木さんは言う。それ以上は何も聞かず、僕も何も言わず、少しだけ時間が経ったと思う。彼女の後ろからは鐘の音が聞こえ、はっとした。
場所を変えようという提案を、黒木さんはすんなりと受け入れてくれた。
公園。簡易的な、二つのブランコとベンチがあるだけ。滑り台とか、名前が分からない跨がるタイプの下に大きなバネのついたあれは無い。人が通り道にも使わないような場所は雑草が伸びて、その草の根には煙草の吸い殻が散っている。
「着いてきた後に言うのもなんですけど、こんな所に呼び出してどうするつもりですか?」
告白ですか、と冗談を言う彼女。ぞっとした。広角は上がっているけど笑顔ではない。悲しそうな顔というのは、悲しさを表情に出すだけでなく、見るだけで悲壮感を与えるような顔も含まれるのなら、これは悲しい顔だ。僕の同情心が身が捩れる程くすぐられていく。
助かった、とも思った。僕が最初に何かを声に出す事には時間が掛かっただろうから、彼女が最初に言葉を発するだけで、僕は話を始められる。この場合、その質問に答えなくても良いのだ。質問を無視した回答も会話の一部。
「単刀直入に言うと自殺しないで欲しいです。僕の記憶から貴女が消えるまでは」
「おかしな自殺防止ですね」
「貴女が自殺を選ぶと、僕は責任を感じてしまうんです。何か行動や言葉が間違っていたのかとか、足りなかったのか、とかを考えてしまうんです。当人に尋ねようとしても、既に他界していては答えを聞き出せません。間違いを確認できないなんて、嫌でしょう?だから、自殺ではなく寿命か病気で亡くなって頂きたいんです」
間があって、ははっ、と彼女は笑った。目尻に少しだけ皺が寄ったのを見ると、本当におかしかったらしい。
「自殺なんてしませんよ。死ななかったのは残念でしたけど、そもそも自殺したいのならもうとっくにしてます。自殺はしなくないけど、生きていたくもない。だから・・・」
宙ぶらりんなんですよね、と彼女は言った。
初めて共通点を持てたような気がしたが、その点がどこにあるかが分からない。