小説を投稿したのに誰にも読んでもらえない、と嘆く作者の方へ
小説を投稿したにもかかわらず、読者からの反応が全くなくて、がっかりした経験のある方はいると思います。
かつての私がそうでした。
頑張って書いた作品なのに、ブックマークも評価も全くつきません。誰にも読まれていないような気がしていました。
小説を書くのは、誰かに読んでもらいたいと思って書くのですから、一人も読者がいない状態では、書き続けられるものではありません。
また、たとえ読者がいたとしても、それが感想欄で批判ばかりを書いてくる読者では、やはり気が滅入るものです。
そういう読者は、作品をプラスではなく、マイナスで評価しようとします。
人称の乱れ、設定の矛盾、他の作品との類似など、細かい事ばかりを指摘してきます。面白かったなどとは一言も書きません。
そのような状態に耐えられなくなり、もうこれ以上書けないと思ってしまう作者も多いことでしょう。
そんなあなたに、私からアドバイスがあります。
理想的な読者の姿を、頭の中で具体的にイメージしてみましょう。
その読者は、あなたの作品の大ファンなのです。
その作品が連載小説であれば、最新話が更新されるたびに読んでくれるのです。
最新話まで読むと、再び第一話から読み返してくれます。そして、あなたの文章力がだんだん上達していることにも気づいてくれるでしょう。
人称の乱れなど気にしません。設定の矛盾は、適当に脳内で補完してくれます。
作者の意図を完璧に読み取り、笑うべきところでは笑い、泣くべきところでは泣き、盛り上がるシーンでは興奮してくれます。
ただ、その人は完璧な読者なのですが、一つだけ欠点があります。
ブックマークや評価などという機能があることを知らないのです。感想を書けるということも知らないのです。
だから作者は、その読者の存在に気付くことができないのです。
でも、その読者は確実に存在します。
いやいや、そんな脳内でイメージした読者が実在するはずがないだろう、と思ってしまうかもしれません。
ですが、思い込みは大きな力になります。
あなたは、小説という虚構の世界をつくりあげられるような、想像力が豊かな人です。そんなあなたがイメージした読者は、きっとどこかに実在するのです。
作者であるあなたは、その理想的な読者のためだけに小説を書けばよいのです。
それならば、再び書く意欲がわいてくることでしょう。
―――
なるほどなあ、と俺は思った。
「小説家になろう」というサイトには、小説だけではなくエッセイも投稿されている。
今、なんとなく目にとまったエッセイを読んでみたのだが、大当たりだった。
これは、俺のような人間のために書かれたエッセイだ。
俺は時々小説を書いて投稿しているのだが、一度もブックマークや評価がついたことがない。
感想は一度だけもらったことがあるが、あまりにもひどい内容だったため、すぐに削除した。
最近は全く読者の反応がないため、書こうという気力が萎えていたのだ。
よし、この筆者の言う通り、俺の作品にも素晴らしい読者がいると、想像してみよう。
具体的な読者の姿をイメージするんだったな。
その読者は、きっと女の子だ。十八歳の女子高生なんだ。
その少女は中流の家庭で生まれ育ち、何不自由なく生活している。
真面目な性格で、成績もよい。特に国語が得意だ。
女友達は多いが、男と付き合った経験はない。恥ずかしがり屋なので、男に声をかけられると逃げ出してしまうのだ。
その少女は友人にすすめられて、「小説家になろう」に投稿された小説を、いくつか読んでみることにした。そして、たまたま俺の小説を見つけて読んでしまった。
すると、その面白さに夢中になり、俺の大ファンになった。
少女は主人公に感情移入し、物語の世界に入り込んでいく。
話の流れにおかしなところがあったとしても、都合のいいように解釈してくれる。
書かれていないこともあれこれと想像して、話をふくらませてくれる。
授業中も俺の小説のことが気になってしょうがないので、どうしても集中力が切れてしまう。
そのせいで成績も下降気味で、こんなことではいけないと思いつつも、頭の中は俺の小説のことでいっぱいだ。
俺はその少女に言ってやりたい。
俺の小説を気に入ってくれるのは嬉しいけど、どうか学業にも力を入れて欲しい、と。
そんな妄想をした俺は、その少女のために小説を書き始めた。
キーボードをたたく手が止まらない。こんなにスラスラと書ける状態になったのは初めてだ。
やはり、自分の作品を楽しんで読んでくれる読者の存在は、作者にとって大きな力になるようだ。
俺は、あのエッセイを書いてくれた人に感謝した。
ところが数日後、そのエッセイに対する批判エッセイを投稿する者が現れた。
―――
理想的な読者を脳内でイメージし、その読者のためだけに小説を書けばよいなどと主張するエッセイが投稿され、そこそこ評価を得ているようだ。
ふざけるな、と言いたい。
そんな都合のいい読者を想定して書いていたら、作者はいつまでたっても成長できない。
くだんのエッセイでは、感想欄で批判をする読者は有害なように書いているが、とんでもない話だ。
批判というのは、とても面倒な作業なのである。なぜなら、批判をするためには、その作品を読みこまねばならないからだ。
貴重な時間を使ってつまらない作品を読み、わざわざ感想を書いて悪い点を指摘してくれる読者がいたとすれば、作者はその読者に感謝せねばならない。
逆に、何を書いても都合よく解釈してくれる読者など、百害あって一利なしである。
そんな読者を想定して書けば、気持ちよく書けるかもしれない。
だが、そうやって書いた作品は、必ず独りよがりな作品になっている。
「書きたいから書く」と思って書いている作者の文章は、作者の頭の中では整っているのかもしれないが、第三者が読めば、何を言いたいのかわからない文章になっているものだ。
「伝えたいから書く」でなければ、文章力は上達しないのだ。
もし具体的な読者の姿をイメージして書くならば、読解力の低い読者をイメージするべきである。
読解力の低い読者に内容を理解させるには、徹底的にわかりやすい文章を書く必要があるからだ。
文章において大事なのはわかりやすいこと、それだけである。
難しい言葉や言い回しを使って書けば、優越感にひたれるかもしれないが、それで満足するのは作者だけである。
文章というのは、読んだ者が理解できて初めて意味を持つ。理解できない文章は文章でなく、文字の羅列にすぎない。
「小説家になろう」の読者の大半は、暇つぶしなど、軽い気持ちで小説を読みにきている。
お金を出して買った本であれば、じっくりと腰をすえ、集中力を保った状態で読むだろう。行間から作者の意図を読み取ろうともするだろう。
だが、「小説家になろう」は素人が書いた小説をタダで読むところである。じっくりと読む読者などいない。
電車やバスでの移動中に五分間だけ読んでいるかもしれない。テレビを見ながら読んでいるかもしれない。酒を飲みながら酔った頭で読んでいるかもしれない。
そのような不真面目な読者にも理解できるような、わかりやすい文章を書くように心がけるべきである。
―――
なるほどなあ、と俺は思った。
確かに俺の文章は独りよがりだったかもしれない。
完璧な読者だけを想定して書いていた俺は、確かに楽しかった。だが楽しかったのは俺だけで、普通の読者を完全に置き去りにしていたのだ。
素人作家である俺は、もっとわかりやすい文章を書けるようにならなければならない。そのことを忘れていたようだ。
このエッセイの筆者が主張するように、読解力の低い読者をイメージしてみよう。
その読者は、きっと男だ。十八歳の男子高校生だ。
その少年は成績が悪く、赤点と補習を繰り返している。漫画やアニメを見るのは大好きだが、小説を読むことは滅多にない。
ネットで自分が興味のある記事を読むのは好きだが、何ページにも渡るような長い記事だと読もうとはしない。
少年は珍しく勉強を始めたが、すぐに集中力が切れてしまった。
そして、スマホをいじってネットサーフィンをしていて、なんと俺の小説を見つけてしまったのだ。
少年は、読もうと思えば難しい文章も読めなくはない。だが今は、勉強の合間の気分転換の時間だ。だから、簡単に読める作品を求めている。
そんな彼に読んでもらうには、細心の注意を払って書かねばならない。
文字がぎっしり並んでいると読むのをやめてしまうので、文章は短く区切り、行間をあける。
難しい漢字や言葉を使ってはいけない。
凝った風景描写があると読むのをやめてしまうので、書かない。
誰がどのセリフを言ったかわかるように、各キャラクターに特徴的な口調を用意しよう。
少年は、とにかく頭を使わずに小説を読みたいのだ。
そんな彼でも面白いと思える小説を書けるように、文章力を高めよう。
俺はその少年の姿を思い浮かべながら、彼を満足させるための小説を書き始めた。
だが、それから数日後、二つのエッセイを批判するエッセイが投稿された。
―――
あるエッセイでは、理想的な読者をイメージして、その読者に対して小説を書くように主張していました。
別のエッセイでは、読解力の低い読者をイメージするべきだと主張していました。
私は、どちらも極端すぎると思いました。
そもそも小説というのは、特定の個人に向けて書かれるものではありません。
小説は多くの人が読むものです。男も女も、若者も老人も読みます。様々な性格、様々な好みを持った人が読みます。
特定の個人をイメージして書いてしまうと、それ以外の読者を切り捨てることになってしまいます。
私は、いろんな読者が読んでいることをイメージして書くべきだと思います。
読解力の低い読者を想定して書けという主張には、特に首をかしげざるを得ませんでした。
そのエッセイでは、「読者の大半は、暇つぶしなど軽い気持ちで小説を読みにきている」などと書いていますが、なんの根拠があってそう書いているのでしょうか。
「小説家になろう」でも、じっくり腰をすえて読んでいる読者は多いかもしれませんよ。
そもそも、酔っ払いに理解できる文章を書くなど、プロでも難しいと思います。
そんな読者にも理解できる小説は、優れた小説ではなく、中身のない小説なのではないでしょうか。
作者の側は、そんな読者まで想定する必要はありません。
どの読者も自分の作品を真剣に読んでくれる、と思って書けばよいでしょう。
ある読者はその作品を気に入るでしょうし、別の読者はつまらないと思うでしょう。それでいいのです。万人にとって面白い小説などありません。
あなたの作品を読んでくれる読者は必ずいます。たくさんいます。その誰もが、真剣に読んでくれる読者なのです。
そんな彼らの姿を想像して、書き続けてみませんか?
―――
なるほどなあ、と俺は思った。
たしかに、俺はたくさんの人に読んでもらいたいと思って、小説を書いていたはずだ。
そうだ、このエッセイの筆者の言う通りだ。
俺の小説を読んでくれる読者は、きっとたくさんいる。間違いなくいる。
彼らはみんな、全精力を傾けて真剣に読んでくれているんだ。
そう信じて書くことにしよう。
俺は、たくさんの読者の姿を脳裏に思い描こうとした。
すると、具体的な彼らの姿が、頭の中に浮かんできた。
(一乗谷『小説を投稿したのに誰にも読んでもらえない、と嘆く作者の方へ』)
問1 文中の傍線部(ア)~(オ)の漢字の読みを書きなさい。
……………………。
…………。
……。
何だこれは?
僕は、呆気にとられた。あり得ないことが起こっている。
これって、「小説家になろう」に投稿された小説だよな?
まさかそんなものを、大学入学共通テストの国語の問題に使うのか?
出題者は頭がおかしいのか?
そう思っているのは僕だけではないだろう。
この試験会場で同じ問題を解いている学生たちも、不審に思っているはずだ。
いや、この試験会場だけじゃない。同じ時間に、全国の何十万という学生たちが、この問題を解いているんだ。
この試験問題が、今夜のニュースで大きく取り上げられるのは間違いない。
そうなると、受験生ではない人たちも、興味を持って読むようになるだろう。
それにしてもこの状況は、この一乗谷という作家が妄想した状況そのものじゃないか?
「全精力を傾けて真剣に読んでくれる読者」とは、まさに今の僕たちだ。
大学進学がかかった試験問題であるからには、流し読みをすることはできない。この妙な小説を、嫌でも集中して読まなきゃならない。
いったい何がどうなっているんだろう?
納得がいかないが、やるしかないな。
僕は必死に頭を働かせて、問題を解いていった。
最後の設問は、とくに難問だった。
問8 作者がこの小説で訴えたかったことは何でしょうか。次の選択肢の中から、最も適切なものを選びなさい。
1、小説を書くときは、具体的な読者の姿をイメージするとよい。
2、「小説家になろう」の読者は、頭を使わずに小説を読みたがっている。
3、自分の小説を読んでくれる読者はきっといる、そう信じて書くべきだ。
4、頑張って書いたのだから、ブックマークも評価も感想も欲しい。
5、この小説を読んでいるあなたは、実は俺の頭の中で生み出された存在だ。