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蕾から1ヶ月  作者: 夏川 流美
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まだ名前も知らない頃


 足元で水の跳ねる音がする。景色が後ろへ下がる程に、ズボンの裾は黒く染まっていく。視界は闇に近く、顔には容赦なく水がぶつかってくる。



「あーーもう、最悪だ!! あの上司のせいだろこれ!!」



 会社帰り。いつも通り仕事をこなし、いつもと同じ電車を降り、いつもと同じように、そこからは歩いて帰るところだった。


 折角仕事を早く終わらせ、何ヶ月ぶりかに定時に帰れるところを、上司に仕事を押し付けられて定時から3時間を過ぎた。夕方には降っていなかった雨に見舞われている。



「くそ、結構家遠いな! 傘買ってくるんだった!」



 電車を降りた時には小雨で、傘など要らないだろうと思っていた。が、呑気に帰路を歩いているうちに、嘲笑うかのように雨が強くなり、あっという間に全身びしょ濡れになってしまった。


 ふと横目に「借家」と書かれた看板と、2階建ての洋風な一軒家が映る。玄関前には申し訳程度の屋根が付いていた。



(丁度良い。借家だし少しくらい雨宿りしても怒られないだろう)



 通り過ぎかけたその家の玄関前を、雨が落ち着くまで借りることにした。鞄から、ギリギリ濡れていなかったタオルを取り出し、顔や手を拭く。


 走ってきたせいで息は乱れ、苦しい。おまけにズボンや服は肌に貼り付き、気持ち悪いことこの上無かった。まだまだ寒い時期に、この雨は辛い。



「残業なんかさせんなよなぁ。ブラック企業滅びろ!」



 1人で切実な願いを呟きつつ、スマートフォンで天気を確認する。早くてあと1時間後には晴れるようだった。


 だが1時間もここにいるのは退屈であり、何よりその時間があれば家に着く。少しでも雨が弱くなったら、すぐに帰ろうと考えて空を見上げる。月なんか、見えるわけがなかった。


 この時間をどうしようかと悩んだ末、取り敢えず漫画アプリでも開いていようかと、もう一度スマートフォンに目を落としたとき。背後で何かが動く気配がした。


 反射的に勢いよく振り向く。そして驚いた。玄関のドアが開いて、長い髪を垂らした女性がこちらを見ていた。



「ぅわわわわっ!?」



 長い髪の女性というのは幽霊しか想像しないもので、スマートフォンを落としそうになりながら後退りをしてしまった。しかし落ち着いて女性を見てみると、当たり前だが幽霊などでは微塵も無い。普通の女性だった。



「お、驚かせてしまってすみません……。玄関前に人影が見えたので、つい気になってしまって……」



 女性はドアを閉めて玄関前に立つと、申し訳無さそうにお辞儀をした。雨が降っている中でも女性の声はスッと耳に入り、そして容姿も少女のように小柄で華奢だ。


 一般的には可愛い子と呼ばれるような感じだろうか。それでいてツリ目なのが、可愛さと相反して、とても良い。



「いや、こちらこそ。借家だと思って雨宿りをさせていただいてて……すみません」


「借家の看板、ずっと付けたままなんですよ。ややこしいでしょう」



 謝罪を返す俺に、女性は柔らかく笑う。そのまま、申し訳ないので帰りますね、と言い出せないままに会話が繋がってしまった。



「全身濡れてますけど、大丈夫ですか?」


「これくらい、なんともないですよ」


「風邪を引かないよう、気を付けて下さいね」



 こんな他愛もない話を小1時間。天気予報は外れ、雨は止まなかった。それでも、霧雨程度に収まってきていたので、ここらで帰らなければと足元に置いた鞄を抱える。



「もうお帰りですか?」


「えぇ、まぁ」


「雨も止んできましたからね。お気を付けて」



 小さく手を振ってくれる女性に、雨宿りをさせてもらったのと、会話してもらったお礼を込め、再三お辞儀をしてその場を離れる。


 早歩きでまた帰路を辿り、家に着く。女性の声が、長い時間耳に残っていた。

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