2-9 ひっくり返った当たり前
「え、脚が……ですか?!」
アヤちゃんも思わず声を上げる。
正しくは、脚ではなく下半身が動かない、だった。膝を曲げようとしても、足首を回そうとしても、足の指を動かそうとしても、私の足はピクリともせずまっすぐに伸びたままだった。
一日たりとも休まず歩いて旅を続けていたのに、目的を思い出すために足が動かなくなるなんてここまで皮肉なことはないだろう。どれだけ歩いてもくたびれなかった脚が動かせなくなるなんて……。
呆然とする私は、視界の端で冷静に私の足の裏をツンツンとつついているマルさんに気づいた。
《触ってるの、感じる?》
全く何も感じない。まるでつついている振りをしているだけなのでは、と思ってしまうほどに全く何も感じなかった。
《……》
アヤちゃんは私にかける言葉が見つからないようで、目を伏せて黙り込んでしまった。
いくら目的を思い出して旅に戻りたいからとは言え、よくわからないものに手を出してしまった報いだろうか。人と出会えたことに喜んで、調子に乗って「お返しがしたい」とか思ってしまった罰だろうか。
そして結局、私の記憶として思い出された顔のよく見えない人影も、誰かの言葉も、笑い声も、見知らぬ少年の顔も、私の中では自分の記憶のようには思えなかった。何一つとしてピンとくるものはなく、思い出した記憶と記憶に共通点があるわけでもない。
「こんなことになってるのに、私、旅の目的も、リンさんたちに教えられるような記憶も、何も思い出せなかった……」
*
もう一度ゆっくりとベッドに横になり、左目だけで天井を眺める。アヤちゃんと出会って、ここに来て他のみんなとも出会ってから、何年も変わらなかった日常が、いろいろとひっくり返ってしまった。こうやって旅を数日間止めていることも、右目がおかしくなってしまうことも、下肢が動かなくなるのも、今までの私には想像だにできなかったことだ。
《チホは今、後悔してる?》
マルさんの私への質問に、なぜかアヤちゃんがビクッと反応する。
私は今、後悔しているのだろうか。
「私は――」
私の言葉を遮るようにバン! と勢いよく扉が開いた。リンさんが部屋に戻ってきたようだ。出て行った時のしおれた声は嘘だったかのような大きな声で話しながら私のいる方に向かってくる。
「チホちゃん! なんで上手くいかなかったかがわかった! あのね、原因はチホちゃんが……」
「リンさん!!」
部屋の空気を震わすほどの大きな声でアヤちゃんが叫びリンさんの声を遮った。握っていた私の手を離し、ツカツカとリンさんに歩み寄ってゆく。
「どういうことですか。チホさんは目どころか……、脚まで……! 一体チホさんに何をしたんですか?!」
私は顔だけを動かしてアヤちゃんが歩いて行った方を向いた。三つ編みの少女は見たことのないほどに険しく、威圧するような表情をしていた。歯をきつく食いしばり、目はリンさんを鋭く睨んでいる。拳はわななくほど強く握られ、今にも飛びかかりそうな勢いでリンさんとの距離を縮めてゆく。
「アヤちゃん、落ち着いて……」
リンさんは両手を前に出してアヤちゃんをなだめるが全く聞く耳を持たない。アヤちゃんはリンさんの顔にくっついてしまうのではないかと思うくらいに近づいて、言葉を投げつける。
「おかしいじゃないですか……! ただ記憶を引き出すだけだったんですよね?!」
「ちょっと、話聞いて……」
「リンさんもケイさんも嘘ついてたんですか、なにか副作用みたいなものがあるってこと……!」
アヤちゃんはリンさんを責めるのをやめない。一歩足を引いたリンさんに間髪入れずに一歩歩み寄ったアヤちゃんは、リンさんの胸ぐらをつかんだ。
「何とか言ってくださいよ、リンさ……」
「アヤちゃんいい加減にして、五月蠅い」
リンさんはアヤちゃんの言葉を遮り冷たく言い放った。そしてアヤちゃんの口元を強引に掴んで無理やり黙らせてしまった。リンさんまでもが、今まででは想像できないほどに恐ろしい表情をしていたのだ。