夕月
1
体の心まで凍えるような寒さ冬の夜、バスに揺られながらぼくはゆっくりと故郷の町へと向かう。クリスマスの一ヶ月前の夜行バスはやたらと空いていた。バスはのろのろと高速道路を走っていく。満月がときどき雲の切れ目から見え隠れしている。あたりは道路際に並び立っている外灯によって、オレンジ色の薄暗い闇の中に沈んでいる。乗客の大半は深い眠りについており、バスの中は静寂に包まれていた。
暗いバスの中、僕はかすかな光をたよりに妹から借りた本をひもとく。
数年前になにかの賞を受賞した作品だったと思う。田舎の町で育った男女が恋に落ちる話だ。ありきたりな物語で、中高生の女子が好んで読みそうな甘々な話である。
――きっと読んでみて。絶対この話、好きになるから。
妹がそういってこの本を僕に渡して、もう2年になる。
去年は大学受験で忙しかったし、今年は新生活が始まり慌しかったのでなかなか読む機会がなかった。帰郷の際にバスの中で手持ち無沙汰になるのでちょうどいい機会だと思い、久々に本棚から取り出したのだけれど、その本の表紙は少し汚れており、日に焼けて薄く黄ばんでいた。
物語は学校帰りに二人の男女が海岸線沿いの道を歩くシーンから始まる。二人は幼馴染で、小さいころから何をするにもずっと一緒だった。学校の登下校はいつも一緒で、級友たちからは、よくからかわれていた。少年は、恥ずかしそうに大げさな口調で否定しているけれど、少女のほうはただ頬を赤く染めるだけでまんざらでもない様子だった。
本に栞をはさむ。そして本に描かれていた男女の姿を目を閉じて反芻する。僕は自然と自分の高校時代のことを思い返していた。
夕華と一緒だったあのころを。
Φ
「――今日さ、俺と夕華は付き合っとんのか、ってクラスのやつに言われたんやけどさ、そっちのクラスでも、なんかそういうこと言われてないか?」
いつもの帰り道、夕華に突然話を切り出すと、夕華は驚いたような反応を見せた。
「え、ケイくんのクラスでもそんな話出とんの? うちも今日のお昼に友達にそういう話振られてさ、びっくりしとったんやて。みんなアニメとか漫画の見すぎやおね」
夕華は面白おかしそうに話をする。正直こちらとしてはなかなか重大な話なのだけど。
「夕華はどう思うんだ? そういわれてること」
「ケイくんこそどう思う? うちとケイくんは周りにそういう関係に見られてるんだよ」
僕は言葉が返せなくなり、黙り込む。
こういうとこ、相変わらずずるいんだよな。小さいときから夕華は自分が困る質問をされたときは決まって同じ質問を聞き返してくるのだ。
言葉に詰まったまま隣を歩く夕華を見る。彼女はニコニコ笑っていた。僕が困っているのを見て楽しんでいるのも相変わらずだ。
十一月の初旬だというのに今日はやたらと寒く、夕華は学校指定のダッフルコートで身を包み、その上さらに赤い小洒落たマフラーを首に巻くという厳重な防寒体制をしいて下校していた。夕華は僕よりも少し背が高く、足はすらっと伸びていて雑誌で巻頭を飾るようなモデルみたいにきれいだった。私服を着たら大学生かそれ以上に大人びて見られるのではないだろうか。
いつも学校帰りに通る年々シャッターに閉ざされる店が増えている商店街を僕と夕華は無言で歩いた。二人の吐息が凍り付いては空に消えていく。
「ねえ、ケイくん」
夕華が沈黙を破る。
「うちはそういう関係に思われてるのって、別に悪い気はしんよ。それだけ仲良く見られてるってことやしさ、むしろうちはうれしいかもって思うし」
ね、といって夕華は無邪気な様子でこちらを見る。大人っぽく見えるのに、ときどき夕華は子供っぽい表情をする。そんな彼女はとても魅力的だった。
顔が火照っていくのがわかる。
西の空は夕焼けで茜色に染まっていた。僕たちの影は次第に濃く長くなっていく。
恥ずかしさを押し殺して、僕は夕華に返事をする。
「俺もさ、そうやって思われるのって実は別に悪くないと思う。夕華とこのまま仲良く思われたいし、ずっと仲良く出来たらいいと思う。」
夕華はうなずいた。顔が赤く染まったように見えたのは、きっと夕焼けのせいだけではない。
Φ
ふと時計に目をやる。時刻は午前二時。地元の町に着くにはもう三時間ほどかかる。
僕はもう一度、妹から渡された本を開く。栞がはさんであるのは五二ページと五三ページの間である。約二五〇ページ程度の本なので、ようやく五分の一くらい読み終えたというところだ。まだまだ旅も長いし、小説の続きも長い。
バスのいすに深く腰掛け、背もたれに体を沈みこませ、僕は再び物語の世界に没入し始める。
2
バスは夜の高速道路を走っていく。外灯に照らされる道は暗く、どこまで続いているのかわからない。
本を読む手を休めて、バスに乗る前に駅の売店で買った水を口に含む。バスの中は暑いくらいに暖房が効いていた。あまりの暑さにページをめくる手が汗ばむ。
今はだいたい一二〇ページを少し超えたというところか。
夏休みに花火にいっしょに行ったり、文化祭や体育祭などの学校でのイベントをいっしょに過ごしたりして、幼馴染の二人はお互いを異性として意識し始める。
僕はページをめくる。黄ばんだ紙の上を走る文をひたすらに追いかけていく。
お互いがあと一歩踏み出せば届く距離まで近づいたが、お互いに踏み出せず、その後も悶々とした関係が続いていた。
ふと、道路の案内標識を見る。バスはいつのまにか僕の目的地の町に近づいているようだった。高速道路をおり、一般道をバスはまだ朝早い時間帯なので交通量は少ない。
僕はページをめくる。黄ばんだ紙の上を走る文をひたすらに追いかけていく。
関係に何の進展のないまま二人は卒業式を迎えるが、そこで彼らは転機に立つこととなる。
Φ
高校三年の三学期が終わりに近づいてきた。いや近づいてきたのではない。今日終わる。
今日、三月一日に僕ら三年生はこの学校で過ごした一〇九五日を終えるのだ。
ここでいい報告がひとつ。僕は無事第一志望の大学に合格することが出来た。一足先に推薦で地元の女子大を受かっていた夕華は僕の手をとって喜んでくれた。
「おめでとう、ケイくん。ケイくんならできるって信じてたもん。ホントにおめでとう」
そう言う夕華の目には光るしずくが浮かんでいた。
式は静粛に滞りなく進行していく。卒業証書が授与され、皆で『仰げば尊し』を歌う。この曲ってメロディは厳かで少し明るい感じなのに歌詞はかなり悲しく感じるのは僕だけだろうか。最後の「いざさらば」っていうのがどうにもやるせない気持ちになる。
式が終わり、卒業生の退場が始まる。涙を流す女生徒がそこここで見受けられる。そのなかには、涙を流す夕華の姿もあった。顔を真っ赤にして目にいっぱいの涙をためている。いままで小学校、中学校の卒業式でも泣かなかった夕華が泣いているのを見て僕は少しドキッとした。
僕は夕華とこの学校で三年間いっしょに学び、卒業までたどり着いた。それに加えて、小学校のときから、いや、幼稚園のときからずっといっしょに帰っていたし、それがもうなくなってしまうのかと考えるとたしかに寂しい気持ちが僕にもある。
これから僕と夕華は離れてしまうのだ。僕の故郷から東京まで――四〇〇kmの距離を隔てて。
最後のホームルームを終え、僕は足早に教室を抜け、夕華の教室に向かう。夕華にとにかく会いたかった。クラスメートに卒業アルバムへの書き込みをしているやつらもいるけれど。授業が終わったら夕華の教室に僕が出向くのが僕と夕華の中での暗黙の了解であった。
一段飛ばしで階段を駆け上がり、そのまま廊下を走り夕華の教室にたどりつく。
胸を弾ませながら、僕は勢いよくドアを開けた。
そこには夕華はいなかった。
教室は西日を浴びて黄金色に輝いていた。けれども、そのなかには僕の捜し求めていた少女の影は見当たらない。
夕華は先に帰ってしまったのだろうか。今まで一度もそんなことはなかったのだけど。
まだ教室に残っているやつに話を聞いてみる。すると夕華は卒業式が終わったらホームルームには出ないでそのまま親に連れられて帰ってしまったという。
嫌な予感が僕の胸を締め付ける。
僕は急いで携帯をポケットから取り出し、電話をかける。
「おかけになった電話番号は……」
機械の無機質な音がきこえる。
どうしたんだよ、夕華。なんで電話に出てくれないんだ。
あせりと不安のいりまじった感覚を覚えながら何度も僕は夕華にコールする。とにかく僕は夕華の声でもなんでもいいから夕華の存在を感じたかった。
夕華から連絡があったのはその日の夜だった。
「今日はどうしたんだ? 急に帰って連絡もしないで」
「ごめんね、ちょっと病院行ってて。それでケイくんに話さなきゃいけないことがあるんやけど、いいかな」
「……」
「実はうち、今、入院してるの」
鈍い衝撃がからだを駆け巡る。嫌な予感は現実のものとなっていた。
「ちょうど一ヶ月くらい前かな。自由登校期間にはいってから体に違和感があって、医者にいったの。そしたら甲状腺機能低下症の再発だって。うち、小学校のときに二ヶ月くらい入院してたやろ? またそれになっちゃったみたいで……。しばらくは自宅療養したりしてたんだけど、ケイくんが受験してる間に入院になっちゃった」
きまりの悪そうに夕華はいう。
「どうして……どうして教えてくれなかったんだよ」
僕は怒鳴るようにいう。怒鳴りたくなんてなかったけれど自然と声を荒げてしまった。
「だって、うちが言ったらケイくんきっと東京まで受験しに行かなかったでしょ。地元に残るっていって」
「そんなこと……」
ないだろうか。いや僕ならきっとそういっていただろう。
「ほら、黙っちゃったやん。絶対東京の大学いかなきゃだめやお。第一志望のとこに合格したんやから」
「でも」
「でも、じゃないよ。うちのことは心配しなくても大丈夫やからね」
夕華は優しくそういった。どこにもぶつけることの出来ない感情が僕の中でうごめく。
「……今日卒業式きてたよな。合格発表の日だって、一緒に喜んでくれたし。大丈夫やったのか、体?」
「ケイ君が受験終わってから、卒業式までの一週間は一時退院の許可もらってたの。今は体の調子もいいし平気やお。でもあまり長い時間だと体に響くからってホームルームには出れへんかったんやけどね。ごめんね。放課後、いつもみたいに待っとったんやおね?」
「そんなのはいいよ。でも連絡取れないのはマジでびびった」
「病院だから、その……あんまり携帯ってよくなから……。今も看護師さんにばれたらちょっとやばいかも」
夕華は笑う。迷惑をかけるのもあれなのでとりあえず明日お見舞いにいくということ告げ、電話を切った。
僕は現実を受け止められず携帯を投げ出し、ただ呆然と座り込む。夕華が入院――それは聞きたくない事実だった。信じられないし、何より信じたくない。
明日僕は彼女のお見舞いに行って事実を受け止められるのだろうか。
Φ
本に栞をはさんで閉じて鞄にしまい、僕はバスを降りる準備をする。
バスは終点のバス停――そしてそれは僕の目的地のバス停でもある――に着いた。眼前には僕のよく知った風景が広がっている。
バスを一歩出ると外の寒さに凍え、縮み上がる。
外は真っ暗だった。東京の空にあった月は消えうせ、暗く重い雲が立ち込めていた。
僕は始発の電車に乗り、スーツを着込んだサラリーマンたちとともに実家の方角へと向かう。実家は私鉄で五駅ほど行ったところにある。最寄り駅までのおよそ十分の間、窓から外を眺める。夏に帰ってきたときとおおよそは変わらないけれど、ところどころに細かな変化は見受けられる。新しく建つ建物もあれば、取り壊されている建物もある。時間が変われば、ものも移り変わる。
最寄り駅につき、桜並木の道を僕は家に向かって歩く。春には一面に桜が咲き誇り、薄ピンク色の海がそこにはできるのだけど、いかんせん今は木枯らし吹く一一月だ。桜の花どころか葉でさえ一枚も見当たらない。
外はいてつくように寒かった。吐息は真っ白だ。
実家に着き荷物を置く。夏休み以来の我が家はどこも変わりなかった。家の外観も、家具の配置も、何も変わっていない。それがわずかに安心感を抱かせる。
僕はそのまま風呂場に直行し、シャワーを浴びる。とびっきり熱いシャワーを。
時刻はまだ六時半を少しすぎたところ。冬の夜はまだ明けない。
3
シャワーを終えた僕は自室に行き、ベッドに倒れこむように眠りについた。バスの中で本を読んだり考え事をしたりしていたので、体が限界を迎えた結果だろう。僕はその衝動に抗うことが出来ず、現実と僕の意識は切り離された。
Φ
夏休み。太陽がゆっくりと傾き始めたころ、僕は自転車を必死にこいで、白い無機質な建物へ向かう。セミの声が耳をつんざく。そのうっとうしさが僕の体感気温を上昇させる。背中にびっしょりと汗をかき服が背中に張り付いている。それがまた僕の不快指数を上昇させる。ああ、腹立たしい。
十分もたたないうちに目的地にたどり着いた。その建物は夕華を捕らえている、やさしくも厳しい牢獄のようだった。
ロビーを足早に抜け、夕華の部屋のある七階へと向かう。エレベーターは重力に逆らい上へ昇っていく。七階につきナースステーションの看護師さんに声をかけ、夕華の部屋まで案内してもらう。
部屋の前で一息呼吸をおき、ドアを三回ノックする。
「はい」
夕華の澄んだ声が聞こえる。
黄金色に染まる病室の中に夕華は美しく映えていた。
はたから見ている限り夕華は本当に病気に冒されているのか疑問に思うくらいだった。学校帰りのときと変わらず、楽しそうにころころ笑っていた。
「会いにきてくれたんや」
「当たり前やろ。春に約束したし。東京行っても長期休暇には戻ってきてお見舞いに来るって」
夕華はうれしそうに微笑んだ。その笑顔がまぶしくて。僕はなんとなく気恥ずかしい思いを感じていた。気恥ずかしさを消すために僕は東京であった夏休みまでの出来事を夕華に矢継ぎ早に浴びせつづけた。
入学式からサークル活動まで何から何まで全部事細かに話し続けた。それをすべて夕華は黙ってニコニコしながら聞いていた。
僕は話の休憩がてら足元においておいた紙袋を取り出す。
「これ、東京土産な」
そういって僕は紙袋を夕華に手渡す。そのときに彼女の手と僕の手が触れた。
その手は女性独特のやわらかさがなく、骨張ってごつごつとしていた。彼女が病人であることを嫌でも信じさせられた。髪は四月に会った時よりも一段と伸びており、目の周りは薄いくまが覆っている。よくみると頬骨が浮き出ており、手足も前あったときよりも心なしか細くなっているような気がする。
夕華と目があった。彼女はいたずらがばれたあとの子供のようなばつが悪そうな苦笑をしていた。
「やっぱり病気は病気なんやおね。どんどんやせていってさ。入院してから、もう五キロも体重減っちゃったよ」
ホントまいっちゃうよね。夕華はつぶやく。
胸の奥が熱くなる。目の前で失われつつあるものを目の当たりにして、僕は急に胸のうちに秘めた衝動を抑えきれなくなった。
言葉が自然と口から発せられる。
「あのさ、夕華。俺はずっとお前のこと……」
「待って、ケイくん」
夕華は僕の言葉を制止する。震える声で夕華は言う。
「お願い、そんなこといっちゃダメ……。うちはケイくんを受け入れることなんてできへんよ……。だって、だって……」
夕華は目に涙を浮かべ一生懸命に首を振る。
「そんなの絶対おかしいよ。だってケイくんとうちは……」
「それでも俺は夕華のことを愛してるんや」
力強く言う。思い続けていたことを夕華に伝えるために。
「でも……、でも……」
夕華の目から涙が流れ出す。涙は夕華のやせこけた頬の上を滑り落ちていった。そのしずくはいくつも、いくつもあふれてきた。夕華の口から嗚咽がもれる。
夕華のこの涙にはいろいろ意味があるのだろう。自分の病気のこと、僕の告白のこと、そして――。
僕は夕華のこころの均整を崩してしまった。たった一言、愛している、という言葉だけで。
他の言葉が何も出てこなかった。
僕は夕華の頭に手をおき、さらさらとした髪に指を通す。
何度も、何度も。
夕華が体を僕のほうに寄せる。僕は何も考えずに夕華を抱きしめた。夕華の体はとても細くて、小さくて。
その華奢な感覚がやけに切ない気持ちを僕に与えた、。
Φ
まぶたを開き、上体をゆっくりと起こし、立ち上がりカーテンを開ける。外を見ると雪がちらついていた。
初雪だ。この地方にしては例年よりも早い初雪である。アスファルトは早くもうっすらと白く染まっていた。
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
高校時代のときに現国の授業でやった宮沢賢治の詩を思い出した。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率の天の食に変って
やがておまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ
たしか「春と修羅」に収録されていた詩だ。
詩の題名は――『永訣の朝』だ。
4
主張先から戻ってきた父の車に乗り、僕は夕華の元へ行く。
父の目は充血していた。それも仕方ない。はるか遠方の主張先から父は一夜にして戻ってきたのだから。まあ目が赤いのには他にも理由があるかも知れないが。
久しぶりに会ったというのに僕と父の間に会話はなかった。父も僕もお互い疲れている。それに走っているのは雪道だ。下手に声をかけて事故をされたらひとたまりもない。一人残される母さんはどんな思いをするだろう。
会話のないまま夕華のいる病院に着く。父は僕を先に玄関に下ろし駐車場に走り去る。
僕はロビーを抜けエレベーターに乗り、夕華のいる場所へ向かう。
その部屋の前にはプレートがかかっている。
――霊安室。そうプレートには書いてあった。
ドアを開くとそこにはもう二度と笑うことのない、二度と話すことのない、そして二度と夕日に照らされる中を一緒に歩くことのない、僕の双子の妹の夕華の姿があった。
母は僕を見ると涙をこぼし始めた。今まで一人で夕華の面倒を見ていたんだ。僕を見て緊張が一気になくなったのだろう。僕のあとから部屋に入ってきた父は母の肩を優しく抱いた。
僕の目からも熱いものがあふれ出てくるのを感じる。どうにも押しとどめることが出来ない。嗚咽がもれる。最愛の妹を失った行き場のない悲しみが僕を襲う。
夕華、僕は、夕華のことを心の底から愛してたんだ。もちろん家族としても、妹としても、そして異性としても。お前のことを愛してたんだ。
たとえ許されないことでも、この感情はどうしようもない。抑えられなかった。だからあの夏の日に伝えたんだよ。
でも夕華はいなくなっちまって……。僕はいったいどうすればいいんだよ、夕華。僕は君がすべてだったんだ。
僕の生まれてからのすべての思い出に君のすがたがあるんだ。
夕華に対する思いを吐き出す。
でも夕華はなにも答えてくれなかった。
母が落ち着いてから、僕は改めて夕華の病気のことについて聞かされた。
夕華の甲状腺機能低下症は治っていた。再発はしていなかったのだ。母から告げられた夕華を死に至らしめた病名は聞いたことのない名前だった。夕華から僕には本当の病名を言わないよう、母は口止めされていたらしい。僕を東京の大学に行かせるために。夕華は最期まで僕のことを気にかけてくれていたのだ。
夕華が死んだとき僕の中の世界が終わったかのように思えた。消えたと感じた。
いや、いっそ消えてしまえ。僕はそう願った。
夕華は眠っているかのように、その表情はひどく穏やかで幸せそうだった。笑っているようにさえも見えた。
やりきれない思いが僕の中を駆け巡る。
あまりにも早すぎる死だった。
それから、通夜、葬式の間僕は抜け殻のようだった。高校の同級生、小学校、中学校の級友たちが僕を励ますような言葉をくれたけれど、まったく耳には入ってこなかった。
火葬場で僕は夕華の入った桐の骨壷を抱いた。花のこげたような甘い匂いが漂ってくる。夕華を焼き尽くしたその熱はまだ残っており、ほんのりと骨壷は温かかった。それが僕が彼女のぬくもりを感じた最後である。
5
東京に戻って数日たったある日、はたと思い出し僕は夕華から借りた本の続きを読む。
卒業式を終えて三ヶ月がたったころ、少女は体調に変化を覚え、病院に診断してもらいにいく。
彼女は妊娠していた。
相手はもちろん彼女が思いを寄せていた少年である。
少年と少女はお互いの親を呼び、事情を話した。
彼女は妊娠している。もちろん自分との子供だ。自分たちで何とか子供を育てたいが、高校を卒業したばかりの自分たちだけでは無理だ。だから双方の親の協力が欲しい。
少年は訴える。だけど双方の親から聞かされたのは衝撃の事実だった。
少年は実は少女と血のつながった実の兄だったのだ。
少女の親は子宝に恵まれなかった。一方少年の親は双子を出産する。両家はかねてから親交があったため、少女の親の一族のため、少年の親は双子の女の子の方を養子に出したのである。
少年と少女は戦慄する。愛していた相手が実の兄弟であったことに。そして彼らは苦悩する。少女の腹の中にいる子をどうするのかを。
背徳感にさいなまれながらも彼らは決心する。
子供を生むことを決めたのだ。
この本の最後は無事生まれた子供を、少年と少女が幸せそうに見つめるシーンで締められている。
すべてを読み終えて本を閉じる。
夕華が言ったように、僕はこの本が好きになった。この本に出てくる少年と少女は僕らにそっくりだったのだ。
もし夕華が生きていたら僕らはこの本のような関係になれたのだろうか。僕は僕と夕華のifのシナリオを読んでいるような感覚に浸された。
本を棚に戻そうと机から持ち上げると、本の中からは一枚の古びた紙切れが落ちてきた。
きれいに四つ折りにたたまれている色あせた紙切れを、破いてしまわないように僕が開ける。
字から夕華が書いたものだとわかった。二年間もすっとこの本の中でこの紙は日の目を見ずに眠り続けていたのだろうか。
その紙にはこう書かれていた。
もし、うちとケイくんがこういう関係やったら、ケイくんはうちのこと、妹としてじゃなくて愛してくれたかな?
僕はこみ上げてくる涙を必死にこらえた。
夕華と僕の気持ちはつながってたんだ。夕華も僕のことを愛してくれてたんだ。
筆箱からペンを取り出し、夕華の残したメモに僕の思いを書き入れていく。
もし、僕と夕華が社会に、倫理に許されなくても、僕は君のことを一人の女性として愛し続けよう。
もう一度本の中にこの紙切れを入れて、本棚に片付ける。夕華の想いが二年越しで僕に伝わったように、僕の想いが夕華につたわりますように。
僕のとなりで夕華が微笑んでいる感じがした。
大学に入学してすぐ、文芸サークル入会したときの新入生紹介冊子として掲載した作品です。
そして人生で一番最初に書きあげた作品でもあります。
振り返ると当時のことを思い出したりいろいろとエモーショナルな感情が沸き上がってきます。
それくらい思い入れのある作品でした。
作家活動を本格的に始めるにあたり、自分の原点を見直すために投稿させていただきました。
これからも継続的に新作など書いてアップしようと思います。
つたない文章ではありますが読んでいただきありがとうございました。