表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

純文学っぽい短編集

田中屋の桜

作者: 桜井あんじ

 江戸末期から商いを続けているという、その老舗の蕎麦屋は田中屋といいました。店は賑やかな表通りに面しており、商い中は絶える事なく人々の騒めきがそちらの方から聞こえてきましたから、商売はうまくいっていたようです。お金のことなど私にはさっぱり分かりませんが、よく手入れされた庭の様子から、家族の裕福な暮らしぶりを多少はうかがい知る事ができました。

 店の裏手には店主の住まいと、その隣に住み込みの従業員や主人宅の使用人のための離れが建っておりました。店の正面脇から裏手へと回る石畳の小路が延びていて、まず店の勝手口に通じ、そこから主人宅と離れの間の広い庭を突っ切って二手に分かれ、それぞれの玄関先へと向かいます。

 その庭に「私」を植えたのは、ミヤという名の白痴の少女でした。もうずっと、昔のことです。

 

 それはあちこちから花の香りの漂う、時が止まったような春の日でした。私のすぐ傍に私よりも先に植えられていた石楠花が、白い花を沢山つけておりました。

 この店の主の末娘であるミヤは、知というものを持たずに生まれてきました。同じ歳の他の子らが当たり前にできる事は何もできず、わうわうという不思議な響きを持つ独特の音を喉の奥から発する以外、人間の言葉らしきものを話すこともしません。

 その、今はもう遠い春の日の朝、出入りの植木屋から幼い桜の苗木であった「私」を手渡されたミヤは、大変嬉しそうに微笑みました。そして店の勝手口に近い庭の端にあたる部分、生け垣の脇に私を植えたのです。と言ってもそれは親切な植木屋が、形だけミヤにやらせてやった、というだけの事でしたが。ミヤは植木屋に手を取られて一緒に穴を掘り、その中に「私」を座らせて位置を定めました。根に土をかぶせると、植木屋がやるのを真似て両手でぱんぱんと地面を叩きました。植木屋がしっかり安定しているか確かめてから頷くと、ミヤも真面目な顔で、何度も頷きました。私はその時のミヤの誇らしげな笑顔を、今も思い出す事ができます。

 こうしてミヤの小さな手によって、その蕎麦屋の砂っぽい裏通りに面した垣根の脇が、私の終の住み家となったのです。

 

 月日はさらさらと流れてゆきました。

 ミヤが十三になった年、この店の跡取りであるご長男が流行病で亡くなりました。まだお若いのにそれこそあっという間で、しばらく臥せっていたかと思うと葬式が出ました。 


 縁側では今日も、ミヤの母親が身体を揺らしています。

 彼女はどこか見知らぬ世界から彼女にだけ聞こえる音楽に合わせるように、独特の調子でゆっくりと、前後左右に身体を揺すります。時々、クスクスと小さな笑い声を上げます。恍惚の表情で、少し斜め上をずっと見ています。

 ゆらり

 ゆらり

 ゆらり

 彼女は最愛の息子の死以来、ずっとこんな風なのでした。

 その傍らではミヤが縁側に寝そべり、その「ゆらり」に合わせるように、ごろり、ごろりと幾度も寝返りをうっています。ミヤには兄の死も母親の異常も理解できないようでした。

 冬ももう終わろうかという小春日和で、暖かい陽射しが縁側に差し込んでいます。その光を身体に取り込もうとするかのように、ミヤは何度もごろり、ごろりと身体を回転させていました。そうしているミヤはまるで私と同じ、植物のようです。ミヤは植物が二酸化炭素を吸って酸素を吐き出すように、母親の悲しみを吸い込んではそれを浄化して、無垢な空気を吐き出しているかの如くに見えました。

「奥様」

 いつもミヤの面倒をみている菊というばあやさんが、廊下をやって来て声をかけました。しかし奥様は菊ばあやさんの方を振り向きもせずに、身体を揺するばかりです。

「奥様、そろそろお着きになるようですよ」

 菊ばあやさんは奥様にその声が届かない事を承知の上で、一応、という風に声をかけ、

「さあ、嬢ちゃん。お支度せんと」

 と、ミヤを起き上がらせました。

 その時、縁側に面した一室の襖が開かれ、主人が顔を覗かせました。

「なんだ、まだそんな事をやっているのか。早く支度をさせなさい」

 苛立たしげにばあやさんに言いつけると、ばあやさんは、

「はいはい、ただいま」

 と、そそくさとミヤの手を引いて行ってしまいました。

 その場に残された主人は妻の様子をしばらく眺めておりましたが、やがて小さな溜息をついて襖を閉めました。

 この主人は関西の商家から婿養子でこの家に入った、根っから現実主義者の商売人です。対して富豪の商家の令嬢として箱入りで育てられた奥様は、いつでも半ば夢を見ているような、情緒的で繊細な女性でした。このような事になってしまう以前から、主人にとってはどこか親しめない妻でしたが、今となってはますます、どう扱ってよいやら途方に暮れるばかりなのでした。

 彼の妻は縁側に一人残されても一向に構わず、身体を揺すっています。それはまるで、たおやかな草花が風に揺れる様子とそっくりなのでした。


「お着きになりました」

 女中さんに案内されて、家族が待ち受ける部屋に入ってきたのは、たいそう美しい青年でした。

 歳の頃は二十歳前後、ちょうど亡くなったご長男と同じくらいでしょうか。小柄で線の細い、しかし調和の取れた体つきをしています。まるで乙女の如く抜けるような白い肌。職人の手による繊細な細工のように、顔の輪郭は柔らかい曲線を描いています。筆で描いたような形の良い薄い唇。少しきつさを感じさせる眉の弧のせいか、取っつきにくい印象を人に与えはしましたが、それが却って凛々しさを際立たせてもおりました。そしてどういう訳か色素が人より薄いようで、茶色がかった髪と濃茶の瞳をしておりまして、それが彼の持つ雰囲気に良く似合っています。

 部屋に通された美しい青年は畳に両手をつき、家族の者達に向かって深々とお辞儀をしました。

「幸次郎です。至らぬ事もあるかと思いますが、今日から、どうぞよろしくお願いいたします」

 鈴が鳴るようにその声が響き、一瞬、部屋の中はしんと静まりかえりました。

「おお、よく来た。そんなに畏まらんでも良い。今日から家族なのだから」

 主人は気恥ずかしさを誤魔化すように、明るい大声をたてました。

 この青年、幸次郎さんは、主人の妾腹なのです。今まで顧みられる事のなかった幸次郎さんは、跡継ぎの突然の死によって、家業を継ぐ跡取り息子として担ぎ上げられました。そして今日この家に迎えられたという訳です。

「ありがとうございます」

 顔を上げた幸次郎さんは、恭しい態度を崩さず答えました。その幸次郎さんと、ミヤの瞳とがふと合いました。

 幸次郎さんはミヤの事を話には聞いていたらしく、何も態度に表しませんでした。ただその眉を少しばかり動かしただけです。

「家族の者を紹介しよう」

 幸次郎さんの目線をとらえた主人は、その機に皆を紹介し始めました。

「これがミヤ、お前の妹だ」

 幸次郎さんは黙ったまま、しばらくの間ミヤを見つめておりました。ミヤの方は見知らぬ人に驚く様子もなく、ただ空虚な瞳で明後日の方を眺めています。

「それから、家内だが」

 主人はわざとらしく咳払いをすると、

「身体の具合が悪いもので、今日の所は遠慮させてもらった。後でまた改めて……」

 と、言葉を濁しました。

 それから、ミヤの姉達、主だった使用人や店の職人などが幸次郎さんに紹介されました。

「家の中の事はこの菊に任せている。お前も何かあったらこのばあやに尋ねなさい」

「菊でごぜえます」

 菊ばあやさんは深々と慇懃なお辞儀をしましたが、それはまるで必要以上に顔を合わせないために、わざとそうしたようにも見えました。


 用意してあった部屋に案内されて一人になった幸次郎さんは、一息つくかのように、庭に面した縁側の襖を大きく開きました。金色の午後の陽が部屋に差し込み、幸次郎さんはその切れ長の目を細めて眩しそうに瞬きました。そして私の方に目を向けると、端正な眉をぴくりと動かしました。

 その時にはちょうどミヤが、いつもそうしているように、私の幹に腕を回して耳を寄せ、「音」を聞いているところでした。何が聞こえるのか分かりませんが、ミヤは楽しげに長い時間そうしているのです。そんな時のミヤはまるで、人間である自分と樹である私とを、一つにしようとしているように思えました。そうして私は、ミヤと私とを、とても近しい存在に感じたものです。

 春の強い風が庭を吹き抜け、ミヤの長く伸ばした柔らかな髪と私の細い枝先とを同時に揺らしました。

 幸次郎さんが、私とミヤをじっと見つめています。

 そこへ菊ばあやが、夕餉のための野菜を抱えて庭を通りかかりました。幸次郎さんに気づいたばあやは、その目線の先を追い、ミヤの姿を見つけました。

「可哀想な子じゃございませんか、本当に」

 ふいに話しかけられた幸次郎さんは、一瞬、まだ少年のあどけなさの残る無防備な表情を浮かべました。

「ええ。そう……、皆そう言っていました」

 幸次郎さんは菊ばあにと言うよりは、まるで独り言のように呟きました。菊ばあやはぞんざいにその言葉尻を捉えると、

「まったく、可哀想ですよ」

 と答えました。

「何が悪かったのかこんな風に生まれついて、人並みの幸せを手に入れる事もできやしません。嫁に行くことも子供を産むこともなく、頭の中は赤ん坊のまま。この世の楽しみも何にも知らずに死んで行くんですよ」

「そうだね」

「それでも、この子にも明日という日がやってくるんですよ。それは一体、何のためなんですかねえ」

 そう言って菊ばあやは歩み去りました。幸次郎さんはなおもじっとミヤを見つめておりましたが、やがて庭に降りてミヤに歩み寄りました。

「お前は、全く意に介さないだろうな」

 幸次郎さんは小声で呟きました。

 ミヤは気持ち良さ気に、陽だまりの中で私に頬を寄せています。

「お前にとって幸福とは相対的なものでなく、絶対的快楽なのだな。お前の幸福は他人の幸福に左右されず、お前は自由で、まるでこの世に生まれ出る生命そのものだ……」


 その出生の事情から、最初は幸次郎さんにどう接してよいものやら困惑していた周囲の人々ですが、日が経つにつれ打ち解けていったようです。

 幸次郎さんは容姿だけでなく、お人柄も優れておりました。

 特に皆を感心させたのは、なさぬ仲の奥様に対する態度でした。幸次郎さんは奥様のあのような状態にも関わらず、いつでも大変礼儀正しく接しました。そのせいか、奥様は時々幸次郎さんを死んだ自分の息子と混同しているようでした。そんな時幸次郎さんは大人しく彼女の息子のふりをして、時には奥様が、ご長男の生前そうしていたのでしょう、妾であった今は亡き幸次郎さんの母と幸次郎さんを悪しざまに言うのに、相槌をうつ事までするのでした。そんな幸次郎さんの態度には皆感服し、図らずとも、この家で幸次郎さんが敬意を持って扱われる結果となりました。


 満月の夜には、私だけが知っている、幸次郎さんの秘密の儀式が行なわれます。

 家の者が寝静まってからさらに長い時間が過ぎた頃、母の形見の打掛を肩に羽織った幸次郎さんが、滑るように庭に降りてきます。薄紫の打掛は半分夜闇に溶け、幸次郎さんの姿をまるで妖かしか何かのように見せます。幸次郎さんは足音を忍ばせ私の側までやって来て、そこで一人、舞うのです。

 女物の打掛を羽織って見様見真似の踊りを踊るその異様な様はしかし、淡い月光の下では当たり前のように光景に溶け込むのでした。

 幸次郎さんは、その細い腕を天に向かってかざします。それは天に向かって伸びる私の枝にそっくりです。幸次郎さんの指先の遙か遠く、そこには白銀の満月が嘲笑うように輝いています。私にはまるで、幸次郎さんがそれに許しを乞いているように見えました。卑しい生まれにあるという幸次郎さんですから、その事で何らかの許しが必要なのかもしれない。私にはそんな風に思われました。

 しかし幸次郎さんの欲するものは、どれだけ手を伸ばしても届かぬ夢幻なのでしょう。まさにあの月のように。


 ひらり

 ひらり

 ひらり


 月明かりの下、幸次郎さんは蝶のように舞います。誰も見る者のない夜闇の中、次第にその美しい顔に、恍惚の表情が現れてきます。それはミヤと同じ表情でした。植物の表情です。


 ふわり

 ふわり

 ふわり


 打掛の裾が、柔らかく、地を撫でるように踊ります。

 私は、私が口をきけぬ桜で良かったと思います。もしも口がきけたなら、私は陳腐な言葉を口にして、この美しい夜闇の幻想を跡形もなく砕いてしまったかもしれません。


 季節外れの春の嵐が襲いました。

 台風一過の朝、幸次郎さんが縁側に出てきました。昨夜の嵐で、美しい庭はあちこち傷めつけられております。その荒れた庭を、ミヤが、おかしな動きでよたよたと走りまわっておりました。蝶々を追いかけているのです。いつもとは違う庭の様子に、少し興奮しているようでした。日々が変わりなく過ぎゆくミヤの世界に、非日常は一種の高揚をもたらすのかもしれません。

 幸次郎さんは見るとはなしにぼんやりと、なぎ倒された庭の花々とミヤとを交互に眺めておりましたが、やがて縁側から庭に降りてきました。蝶を追うのに飽きたのか、しゃがみこんで何かしているミヤの側に行きますと、黙ったままじっとミヤを見下ろしています。

 そこは菊の花壇でした。菊の花に囲まれて、ミヤは幸次郎さんにいつもの笑顔を見せました。台風が運んできた湿気がむんと立ち込め、ミヤの襟元から覗く細い首筋は、動きまわっていたせいでしょう、うっすらと汗ばんでおりました。その細首に、幸次郎さんはそっと両手をかけました。

 ミヤは何も理解しません。ただ、赤子の微笑みで幸次郎さんを見つめています。そこには格別幸次郎さんを慕う気持ちもありません。ミヤは何の想いもなく、ただ笑顔を見せるのです。幸次郎さんと他の人間の区別がついているかすら、怪しいものでした。

 幸次郎さんは徐々に、ミヤの首に回した手に力をこめていきました。ミヤはただぼんやりと座り込んでいます。さらに力をこめるとミヤは、「くふっ」と小さく咳き込むように呻きました。

 幸次郎さんは慌てて手を離しました。「さあ、あちらに行きなさい」と、ミヤの背を軽く叩くと、ミヤは何事もなかったように駈け出していってしまいました。

 幸次郎さんはその背を見つめ、そして顔を伏せ、虐げられた花々を見つめました。額には脂汗が浮かんでいます。

 あのまま幸次郎さんが手を緩めなかったとしても、ミヤは黙ってそれを受け入れたでしょう。

 ミヤは、この花々と同じでした。ミヤは残酷なこの世の運命に無抵抗で、先を憂う事もなく、人として生まれながら今その時だけを生きているのです。

 幸次郎さんはまだかろうじて立っていた一本の菊の花を見つけると、それを乱暴に踏みつけて、庭から去ってゆきました。


 ミヤが身籠っていると最初に気づいたのは、身の回りの世話をしている菊ばあやさんでした。ミヤは十四歳でした。

 しばらく前に仕事ぶりの悪さから首になった下男がおり、その男の仕業か、もしくは店の客の誰かだろうと皆囁き合いました。

「こんな何も分からない赤子のような娘に、酷い事するもんだよ」

 ミヤを可愛がっていた菊ばあやは、怒りと悲しみを込めて吐き捨てました。善良で忠実なこの老婆は、ミヤの頭を何度も撫でながら、「嬢ちゃん、心配するこたねえですよ。ばあやがついておりますからね」と、涙を抑えて語りかけました。当のミヤは何も理解出来ないながらも、自分を取り巻くその雰囲気に怯えているようでした。

 犯人を追求したところでどうしようもないと、主人はそちらの方にはあまり関心がありませんでした。それよりも世間からこんな醜聞を隠し、生まれてくる赤子の処分をどうつけるかに心を砕いていたようです。

 真実を知っているのは、私一人きりでした。

 幸次郎さんは、美しいものになろうとしたのです。


 その夜は親戚筋の集まりがあって、主人とミヤの姉達は遠方に出かけておりました。使用人たちも休みをとっている者が多く、家には幸次郎さんとミヤと奥様、ばあやと他に数人が残っているだけでした。

 やはり月の夜だったのです。 

 家内に人気が少ないせいか、幸次郎さんはどこか開放された心持ちだったのでしょう。いつもより少し早めの時間に庭に降りてきました。

 ひらりひらりと舞い、厳しい人がもし見れば眉をひそめるような自己流の踊りを、好き勝手に踊っています。その顔つきはいつもと少し違って、楽しげにすら見えました。

 やがて踊り疲れた幸次郎さんは、動きを止めてふと私を見やりました。私の枝の花々は今や満開で、花びらの一枚一枚が白銀の月光を吸い込み、ぼうっと光っているようでした。

「桜よ、」と、幸次郎さんは初めて私に話しかけました。

「満月に照らされた桜より美しいものなど、この世に存在しまい。俺は桜になりたい。もし生まれ変わりというものが本当にあるなら、俺は、次に生まれる時は桜がいい」

 幸次郎さんはそう言って、私の幹に身体をもたせかけたのです。かすかに上気した頬が月光に照らされ、鮮やかに浮かび上がりました。

 そこにミヤが現れてしまったのは、何かの必然だったのでしょうか。

 物音を聞きつけた幸次郎さんはびくりと体を震わせ、振り返りました。そこにはミヤが、普段あまりない事ですが、厠にでも起きたのでしょう、ぽかんとした白痴の顔つきで幸次郎さんを眺めていました。

 幸次郎さんは無言のまま身体を震わせ、ミヤにゆっくりと近づきました。そして爆発した怒りに身を任せてしまったのでした。ミヤは大した抵抗もせず、幸次郎さんのなすがままにされていましたが、流石に痛みを感じると身をよじらせて逃れようとしました。しかし力で叶う訳もなく、結局は手折られてしまうしかありませんでした。


 幸次郎さんの首に掛けられた縄は私の太枝にしっかりと結びつけられ、後は足元に置いた踏み台から身を躍らせるばかりでした。静かな晩です。庭の草木のざわめきと、虫の声だけが聞こえてくるような。月光に照らされた幸次郎さんの頬は、これ以上ないくらい白く、月より冷たく輝いておりました。大きく見開かれた瞳が、まるで今にも眼窩から飛び出しそうです。そして幸次郎さんは息を止め、目を閉じました。

 踏み台が柔らかな草の上に音も立てずに倒れ、幸次郎さんの華奢な身体が縄にぶら下がりました。枝が、ギシッと音を立てました。幸次郎さんは、もがきます。両手を首に巻きつけた縄にあてがい、喘ぎ、足をばたつかせました。

 その時大きな音がして、枝が折れたのです。

 幸次郎さんの身体はまるで砂袋のように、どさりと地面に投げ出されました。自らの命を終わりにする試みが失敗に終わったと幸次郎さんが気づくまで、しばらく時間がかかったようです。かなり大きな音がしたにも関わらず、家人の誰も起きてくる気配はありませんでした。

 幸次郎さんはむせながらよろよろと立ち上がると、まだ首に巻きついたままの縄を片手で探りました。そしてその縄を結び付けた太枝が地面に転がっているのを、不思議そうに眺めました。幸次郎さんはまるで子犬のように、その折れた枝に繋がれているのです。

 幸次郎さんはくつくつと笑い出しました。笑い声は次第に大きくなり、それに気づいた幸次郎さんは慌てて声を抑えました。しかし腹の底からこみ上げてくるおかしさに耐えきれないようで、息も絶えだえに、声を押し殺しつつひいひいと笑い続けました。

「これで良いのだ」

 誰にともなく、幸次郎さんは呟きました。

「俺は所詮、卑しい妾の子だ。汚れた者だ。俺にとって道徳は俺自身の存在の否定だ。俺は自らの存在を肯定するために反道徳的であって良いのだ。いや、そうでなくてはならない。俺は生まれながらに反道徳者なのだ。だから、あの無垢で無力な異母妹を傷つけたところで、それが何だと言うのだ」


 陣痛が始まりました。主人はミヤを表通りから離れた土蔵に押しこめ、そこでなんとか事を済ませるようにと菊ばあやに言いつけました。密かに産婆が呼ばれ、他には手伝いの若い女中が一人ついていました。お産はひどい難産のようでした。

 ミヤが叫んでいます。白痴のミヤが、人並みにものの分かるはずのないミヤが、あーっ、あーっ、と、言葉にならない声で獣のように叫んでいます。

 人が時に尊い名で呼ぶもの、薄ら笑いを浮かべて私達をその掌に乗せ、まるで虫けらのように潰して遊ぶ、無邪気で残酷な大いなる何か。そういった存在に向かって、彼女はありったけの声で訴えているかのようでした。その白痴の瞳には、銀色の月が映っていました。

 終いに、ミヤの口元から泡が溢れ出しました。淡い桃色の泡は次第に赤みを増し、ついには真っ赤な血の泡となって、ミヤの喉元に流れ落ちてゆきました。

 それでもミヤは月に向かって、まるで銀色のそれが全ての元凶であるかのように、叫び続けたのでした。

 

「醜い。なんて醜い……」

 幸次郎さんは土蔵に近い部屋の中で一人、耳を塞いでいました。

「醜い、醜い、醜い……」

 ずっと、そう呟き続けておりました。

 やがて、赤子の泣き声が力強く響き渡りました。


 幸次郎さんが足音を忍ばせて土蔵に入ってくると、泣きじゃくっていた菊ばあやは驚いて顔を上げました。主人に見つかれば、咎められるに違いありません。

「なに、私の甥か姪なのだ。連れ去られる前に一度くらい、顔を見てやっても良いだろう」

 幸次郎さんは言い訳がましく、ばあやに聞かれる前にそう言いました。

「へい、お優しいことです。赤子にも、せめてもの慰みでしょう」

 菊ばあやは鼻水をすすり上げながら赤子を差し出しましたが、幸次郎さんは腕に抱こうとはしませんでした。その傍らには力尽きたミヤが、その入れ物であった肉塊だけが今はただ、土蔵の冷たい床に横たわっておりました。

 幸次郎さんはそこに並んでいる新たな生と死とを眺め、ただぼんやりと立ち尽くしておりました。


「桜よ、」

 幸次郎さんは私の幹にぴたりと掌を寄せ、語りかけました。

「生きるというのは、なんと浅ましく見苦しい事だろう」

 ミヤがいつもそうしていたように、私に頬を寄せます。

「声を張り上げて喚き、身を捩らせて天に向かい己の存在を叫ぶ。なんて見苦しいのだ。それが、生きるという事なのか。それが命というものなのか。俺にはどうして皆が、それを疑いもせずに肯定するのか理解できないのだ。一体他の人達は……、自己の存在の正当性について考える事があるのだろうか? 桜よ、お前は考えた事があるか? 自分がこの世に存在して、生きている事が正当であるかを?」

 幸次郎さんはその切れ長の美しい瞳で、じっと私を見上げました。

「……俺はミヤになりたかった。無垢で無力で純粋な、美しいものになりたかった。美とはすなわち、正当性だからだ」

 私は、幸次郎さんはもう舞ってはくれないのかと、そんな事をぼんやりと考えていました。

「お前はなぜ花を咲かす。何のために、天に向かって伸びようとする」

 答えられぬ私の代わりに、夜風が枝を嬲って通り過ぎました。はらはらと花が散りました。

「お前は存在する事によってしか、その存在を肯定しない。お前の存在そのものが肯定なのか」

 幸次郎さんは握り拳で、どん、と苛立たしげに幹を叩きました。

「それじゃあ、『今、生きている』という事実意外に、俺の命を肯定する方法がないじゃないか! 俺は何をして、俺のこの存在の正当性を主張できるのか! 俺は世界の理によって俺の存在を肯定してもらいたいのだ! 俺には、存在の正当性が必要なのだ!」

 幸次郎さんは引きつけを起こしたように笑い、そうして、その夜は長いこと私のそばで笑い続けたのです。

 赤子はその晩のうちに、外で待っていた見知らぬ男の手でいずこへともなく連れ去られてゆきました。そしてミヤの遺体も。まるで無駄で無意味に見えていたミヤの命は、存在の肯定を失ったミヤは、今は蓮の台に座っているのでしょうか。それならきっと、清らかで可愛らしい地蔵のように見えるでしょう。

 

 それに続く日々の事は、あまり覚えておりません。世の中が何故か騒々とし始め、人々の顔に不安の影が宿りました。大きな音が、日に幾度となく聞こえるようになりました。サイレン、爆発音、人々の悲鳴、呻き声。そういった雑多な音を聞くとはなしに聞いているうちに、たくさんの人が、その存在の正当性を失って消えてゆきました。そうして、長い長い時間がいつの間にか過ぎました。

 ある春の朝でした。私の立っている場所に近い縁側の襖が、そっと開かれました。半ば眠ったようであった私の意識が、ふと昔に戻りました。

 この家の女中でしょう、部屋の中にいるらしい主人に向かって何か言うと、そのまま下がってゆきました。部屋の中には布団が敷いてあり、一人の老人が横たわっています。

 死の匂い。私はそれを感じました。もうじきこの老人は死ぬのです。

 春一番が、私の枝にまばらについた花を散らします。この頃ではもう、昔のように零れ落ちんばかりに咲く事もありません。

 老人の頬に、花びらが一枚落ちました。

 老人はうっすらと目をを開きました。今ではたるんだ瞼から覗く色の薄い瞳に、かつての面影がありました。幸次郎さんです。幸次郎さんは半身を起こし、じっと私を見つめました。


 長い長い間、幸次郎さんは黙ったままでした。そして、

「ああ、これが、死か」

 その枯れた唇から、小さな呟きが漏れました。

「皆、一つところに帰ってゆくのだな。美も醜もなく。正も不正もなく。これが死というものなのだな」

 最後に幸次郎さんは囁き、その瞳の光がふっと消えました。

「良かった」

 

 おそらく、私がそこへ行く日も近いのでしょう。私もまた、幸次郎さんやミヤの来た場所へ、これからゆく場所へ、還ってゆくのです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 美しい桜と銀色の月が見えるような描写の、素敵な作品ですね。 生きる意味、存在の正当性、そして美と醜が文学的に表現されていてさすがだなあと感心いたしました。 幸次郎さんは、見た目は美しいの…
[良い点] 言葉遣いが美しく、儚くて、物語の雰囲気にも合う上品な作品でした! “私が口をきけぬ桜で良かったと思います”ここから続く文章に胸を打たれました‥。形容しがたい美しさを完璧に言い表した、この上…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ