伝えられない互いの想い
早い時間なのに目が覚めた。
昨日はバイトだった。本当は今日も朝からバイトだった。
24時間営業のファーストフード店。笑顔を届ける仕事なんだと思う。
でも、辞めた。自分のやりたい仕事じゃなくなったから。
そんなつもりなかったのに、店長の些細な注意の一言が許せなくなった。今となっては何を言われたのかも思い出せないほど些細なこと。
浮かぶのは店長の笑顔。そのヘラッとした笑顔からの一言が自分を見下していると感じた。
その時は嫌な気持ちになったけど、店長はそんなつもりなかったと今ならわかる。こういう大事なことはいつも後になってわかる。
でも、引っ込みつかなくなって辞めた。自分から言い出したのに、「やっぱり辞めるのやめます」なんて言うのは格好悪いと思ってしまった。
そんな今の俺を一言で言うならニート、なんだろうか、とぼんやり薄暗い天井を見上げてみる。
「みんな」と同じように大学に入った。
「みんな」と同じように彼女もできた。
「みんな」と同じように就活をした。
でも「みんな」と違って就職できなかった。
就活では今までの人生をどう過ごしてきたかが問われているのだと気が付いたときには、周りの「みんな」は内定を持つ勝ち組だった。
負けた--
それを自覚した途端、暗闇に引き込まれるような疎外感を感じ、友人と少しずつ距離を取るようになった。
俺はいつも「みんな」と同じを選んできた。学校も、食べるものも、着るものも、好きなものも、嫌いなものも。でも、社会はなんでも「同じ」俺を求めていなかった。みんなと同じなんて社会では許されなかったのだ。
そんな俺のそばにそれでもいてくれたのは、彼女だった。
ふと、枕元のスマホに目を落とすとメッセージが来ていた。
メッセージを開けようとしたとき、部屋のインターホンが鳴った。やけにもの悲しく部屋に響く音だ。
ドアを少し開けると、俯き加減に彼女が立っていた。
「ひ、久しぶり……」
声が上ずる。彼女が近くにいるだけで俺の心臓が張り裂けそうに脈打つ。
「髪……切ったんだ」
うまく笑顔は作れただろうか。卒業式でのロングヘアでなく、ショートボブになってリクルートスーツに身を包んでいる彼女に精一杯の一言を投げ掛けた。
顔を上げた彼女からの言葉は久しぶりでも髪のことでもなかった。
「バイト、またやめたの?寝癖ついてる……」
彼女は俺に問いかける。その問いかけに戸惑う。
「お、おう……まぁ、俺を使いきれない上司だから辞めてあげた」
口から出た台詞に驚く。辞めたのは俺が悪いだけなのに。こんな情けない強がり、彼女の前でしたくなかったのに。
彼女がため息混じりに肩をすくめる姿に哀愁を感じた。
哀感とでも言うのか、ひどく他人のような素振りに見えてしまったのだ。
「合鍵、渡してるんだから勝手に入ってくれたらいいのに」
たまらなくなって自分と彼女の繋がりを再確認するように言った。
彼女の肩がぴくんと跳ねる。曖昧な笑顔を向け、彼女は目を伏せる。そのままスッと目の前に出された彼女の握りこぶしに俺は反射的に手を出す。握られたこぶしがゆっくり開くとズシンと合鍵が落ちてきた。
「鍵……返しに来ただけだから」
「どういうこと?」
「……そういうこと。ごめんね」
彼女は踵を返した。足早にマンションの階段を下りていく。
このまま帰らせちゃダメだ。頭の中で声が警鐘を鳴らす。
床で丸まっていたズボンを慌てて履き、彼女を追いかける。
「ねぇ……バス停まで、送るから」
彼女は振り向かずに歩を止めた。我が儘を言っている俺を彼女は許してくれないだろうか。わからない。
横に並ぶと自然と彼女は歩を進める。俺も歩を進める。いつもよりゆっくり、けど、着実に。俺らの未来は止まってしまったのだ。
初めて二人で歩いたのは奈良町だった。筆屋か並ぶ街並みを歩いただけだったけど、ずっと一緒に歩いていられた。彼女と手を繋ぎ、感じた温もりは、この幸せは絶対に離さないと心に決めた。
就職したら結婚しようと伝えるつもりだった。早すぎるかな、なんて青臭いことを考えながら毎日を着実に踏みしめていた。
クラクションでハッとなった。
車を避けようとして思わず彼女の肩を自分のもとへ抱き寄せてしまう。
ふたりの足が止まる。
今、何を言えば、止まってしまった俺らの未来をもう一度動かせるのだろうか。
「バス……来ちゃうから」
彼女の右手が、俺の胸を軽く押す。
その力はとても弱々しかったが、心を隔てるには十分な力だった。太陽が西へ沈んでいくのを変えられないように、彼女の心を変えることはできないのだと胸が苦しくなる。
ふたり並んで歩く姿は、カップルのように見えるはずだ。初々しさすら漂っているのかもしれない。でも、俺の左手と彼女の右手の間にあるほんの少しの距離は易々と飛び越えられない距離になってしまった。
「俺たち、まだやり直せないかな」
そう言えたらなんと楽なことだろう。
奈良町の町屋カフェでコーヒーを飲んで店を出ると雨が降っていた。天気予報でそんなの言ってなかったのに、と思わず口を突いて出る。彼女はクスッと笑って、「そうだね。私も聞いてなかったよ」と言った。それから肩を寄せ合い、駅まで走った。
そんな日々への高い壁が、やり直したいの一言を阻む壁がこの僅か45㎝の距離にはある。繋がった心が切れてしまうと、伝えたい想いは途端に伝えられなくなる。
俺はバス停までの道を歩きだす。彼女も少し離れて隣を歩く。でも、顔は俯いたままだった。