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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

金緑のメビウス

作者: 藍上央理

 人里から離れた、地図にさえも記載されていないような、そういう山間に古ぼけた家屋が一件、林に囲まれたたずんでいる。

 炭焼きの夏場の泊まり屋でもないようだ。

 そんな裏寂しい小さな小屋に、老人と若者が暮らしていた。

 この辺りには貧しい村落があるだけで、この親子は人里には決して降りていかなかった。時折、若者が季節に実る食べ物を裏山へ取りにいくくらいであった。

 とても、このような寂れた山間に暮らすような人間には思えない。洗練された物腰、手に職をもつ武骨な体つきでもなく、身なりもこざっぱりとしているが、みすぼらしいわけではない。

 老人は日に一度だけ、小屋の回りに作られた散歩道を散歩するのが日課となっていた。いつも若者が付き添い、くの字に折れた腰を支えながら、その歩くのを助ける。

 若者の柔和な顔に絶えない微笑みは、いつでも傍らの老人に向けられている。老人は深い包み込むような暖かみで、若者の態度に応える。

 そうやって、静かに時が経つのをまっているかのように。


 山の気候は冷えやすく、一年で一番暖かいはずの時期でさえも肌寒く感じる。厚いガウンを羽織った老人は、暖炉でパチパチと小さく燃える枝を、揺りいすに座り、見つめていた。小さく揺れるいすにあわせ、ゆっくりと頭も揺れる。しかし、しっかりと目をあぐね、思索するように火を通して遠くを見つめている。繊細な銀髪をゆるやかに一つに束ね、深いまなざしは黄緑色に澄んでいる。端麗な面差しは老いても変わらない。

「イヴリーン……お茶が入ったよ」

 静かに若者が茶器をのせた盆をイヴリーンと呼ばれた老人の近くの卓に置いた。

 若者はイブリーンの孫のように若いが、イブリーンに似てはいない。かといって世話人のようなせわしさもない。しっとりと落ち着いた雰囲気を醸している。茶色の長髪を組んで後ろにまとめ、腰まで垂らしている。柔らかな優しい顔付きで、ことにイブリーンを見つめるその目は満ち足りた幸せにあふれていた。

 イヴリーンは振り返らず、静かにうなずき、しばらくそうしていたが、両腕に力を込めて立ち上がろうとした。若者はそれを後ろから支え、いすの向きを変え、再びイヴリーンがいすに座るのを助けた。

「あぁ……」

 イブリーンは若者が茶器に注ぎいれる紅色の液体を見つめつつ、「老いたな……」とつぶやいた。

 若者は優しく目元を緩ませる。

「イヴリーン……あなたの美しさは、外見だけのものじゃない」

 クッとイヴリーンは笑い、「何をいうか、ショウ……」その笑いは、しかし、自嘲的な響きはなく、むしろ穏やかである。

「僕は……僕のようにその魂を愛して、いまだにその愛する人といるヤツを知ってるよ」

 ショウは口元に笑みをもらし、つぶやく。ショウもまた、静かな空気のような安堵の気配を漂わせている。

「会ったことがあったろうか……」

「セイルだよ」

「ああ……」

 イヴリーンは納得し、目をつぶり、その昔を思い出している。セイルは東の果てに住む青い神。破壊の神だった。今は美しい魂の片割れとひっそりと暮らしている。

「それで……お前はこれでよかったと思っているのか……?」

 イブリーンは自分の選択を後悔していない。ショウに守られ眠っていた七百年もの間に彼の帰る国はなくなっていたし、自分を心から慕うショウのために人生を送ることにしたのだ。

 ショウは茶器を取り、イヴリーンの前に置き、「あなたは?」ととうた。

 確かにイヴリーンの若きころ、人にあらず年取らぬショウは、彼を愛するが故の賭けをした。結果はどうあれ、今はこうしている。ショウの求めていたものは、激しい愛ではなく、自分が存在することを安堵させてくれる静かな愛だった。

 あのころショウは幼かった。しかし、今はもう若くはない。長い穏やかな年月に混乱していた彼の心は平静を取り戻していた。ショウはもう一度問いかける。

「あなたは僕についてきて、そして年を取り、それで満足してる?」

 イヴリーンはショウではなく、遠い昔に死んでしまった許婚を愛していた。愛していたからこそ彼女を捨て、自分の野望を遂げるためにショウを選んだ。

 そしてショウはだれかに愛してほしかった。自分を必要とする愛がほしかった。故にイヴリーンにすがりついたのだった。

 しかし、今の二人にはもうその心の内を説明することは難しかった。ただ静かに滴が泉を作るように、彼らの間には何かが培われていた。

 イヴリーンはただ静かに微笑するのみ。何度も問いかけあってきたが、それに確固たる答えを与えたことはなかった。そして出しようもなかった。この関係に満足していたからだ。

「お前は……わたしがいなくなったときのことを考えているのか?」

 ふいにショウの顔を見つめる、黄緑色に光る瞳。意地悪くチラリと輝く。サッと不安に陰るショウの顔色を伺った。

 ショウには答えられない。ただじっとイヴリーンの次の言葉を待った。しかし、イヴリーンは語らず、沈黙はゆったりと床に沈んでいった。


 イヴリーンは終日読書にふけり、またショウの作ったなだらかな山間の散歩道を、ゆっくりと長い時間をかけて往復するだけの毎日をここ数年続けている。

 今日も、ショウが出掛けてしまった後、散歩をするために外に出た。

 空が透き通っている。抜けるように青く、遠い。空を見上げながら、ふと物思いにかられる。

 もうこの世にはない国の太守だった学者肌の父親に似てきたと、今になって気付いた。しかし、もはやそれは八百年も昔のこと。

 彼が若かりしころに抱いていたドラゴンとの合一という野望も、達成と共に消失し、激しい気性も穏やかに落ち着き、ショウに初めて見せたあのときの憐憫の笑みを、いまだ口元に浮かべている。金糸のような髪は色あせ、真珠色の肌もかさつき、瞳の鋭さも、研ぎ澄まされた冷たい雰囲気も、すべて滅んだ金竜に残していったかのように、名残さえもなくなってしまっていた。

 彼はよろつく杖をもつ手を見つめる。そして不思議なほど後悔もなく、未練もなく、年老いいつか死んで行く自分を悟った。まみれるはずだった俗世の穢れを免れたせいか、死に対する恐れはなかった。数奇な半生を経てきたと、子供のように得意げな笑みをもらした。

 ただ心残りはショウであった。

 八百年前に山脈の切り立つ峰で拾った、神の子。それがショウだった。最初は利用し、それからもてあそび、金竜となって再び人に戻ったときに、初めてショウの本心を知った。そして、ショウは絶大な魔力を持つ金の神として、イヴリーンをよみがえらせ、その力を見せつけた。もう頼りない子犬のような少年ではなかった。

 しかし、その激情に燃える瞳には、不安定で今にも崩れ落ちそうなあのころの少年の面影が残っていた。

 あのとき、まるで子供のように自分にすがりつき、愛を請うたショウ。今でもそうだ。愛しておくれとひたむきな目を向ける。

 愛していない訳はない。今までこうしてきたというのに。

 愛せなければ殺してくれとまでいった。かつての愛した女とは反対に。哀れみでもいい、愛しておくれと、その手で殺してくれと。残酷な愛だ。

 イヴリーンが死んでしまえば、そのショウはこれから一体どうなってしまうのだろうか。漠然と思う。金の神は狂気の神だと七十年も昔にショウはいった。愛か、狂気か、そして離別の死か。どれかを選べといわれ、イヴリーンは選んだ。

「満足しておるよ……」

 いつかの答えをつぶやく。

 外界から遮断され、ショウが伝える以外の情報しか彼は知り得ない。林の梢に陰る蒼天を見上げる。数百年経とうと、空の色だけは変わらない。


 太古の神は時空さえも関係なく飛翔していく。金の神ショウは世界のはざまを擦り抜け、同胞の白の神の元へ向かっていた。

 白の神は人界を嫌い、時も流れぬ世界のはざまに住んでいた。時折人界の神殿を訪ね、退屈を紛らわす。その瞳さえも白い、幽鬼のような姿の男である。美しいが、背筋の凍るような冷たさがある。いや恐怖だろうか。生者には生きた心地のせぬ異様な空気をもつ。白の神バーシュは死を司る。

 天地もない世界のはざまといえども、居を構えることくらいはできるようだ。恐ろしく太い、高い柱が続き、行きついた果てに荘厳な白い階段が高みへと霞む。ショウは見上げ、バーシュの悪趣味に舌を鳴らしたが、このときばかりは律義にその階を昇りつめていった。頂の楼閣に白い大理石のいすがあり、眠るように白い男が座っていた。

「バーシュ」

 つとバーシュは顔を上げ、半眼でジロリとショウをねめる。

「仮装は解いた方がよろしいのではないでしょうか?」

 ショウは笑いもせず、あの穏やかな笑みなどみじんもない顔付きで、「気に入らぬとでもいう気か」と、怒りを押さえ付けるように言い放つ。

「いいえ……その茶の髪も、あなたの幼きころを思い出させて懐かしく思いますよ」

 バーシュは一息つき、「それで、何か御用でも? ショウリーン」

「イヴリーンを、お前のなす仕事から外すことはできぬか」

「ハ……」

 バーシュは消え入るような笑いをもらす。

「人の寿命は神……わたしの決めることですが……こればかりはあなたといえども指図できません」

「もう一度頼むといってもか」

「そのとおりです」

 ショウの顔が金色に燃え、片手をまるで空間をえぐるように振る。激しいとどろきと共に大理石のいすは崩れたが、いつの間にかバーシュは別の場にたたずんでいる。

「相も変わらぬ癇癖ですね……おもしろい……あの青の神でさえも、シャナクーダの死したとき、こうも取り乱しもせず、うまい具合にわたしを出し抜きました。あなたならもっとうまくできるはずでしょう?」

 バーシュは興深げにショウのピリピリと張り詰める眉間を見つめ、「それともあなたほどの方にそれができぬとでも? あの人の子に命じればいうことくらい聞くはずでしょう?」

 いまいましげにショウは舌を鳴らす。

「イブリーンに命じるなど、できぬ」

 死の神はゆっくりとショウの回りを巡り、「これはこれは……ですからあれほど、人にいれこむなと申しましたはず。お父上も……」

 ショウのきつい炯眼にわざと震え、「人の女に振り回され、あげくお命を落とすはめに……あなたも危うかったはずでしょう? あの人の子の心変わりのお陰で今こうしておられるに過ぎず、あれと心中でもなさるおつもりなのですか」

 バーシュはショウの忍耐を試しているよう。からかうように堅く凍りついた口元を冷ややかにつりあげ、ぐるりぐるりと言葉を吐きかけた。ショウは何もできず、じっとこぶしを握り締め、すべての力を瞳に込めて白の神に放つ。しかし、バーシュはそれを一笑にふし、続ける。

「たかが百年もない命をさらに延ばして、どう致すおつもりでしょうか。老いさらばえ、死を願うあなたの恋人を、生という拷問にかけるおつもりなのですか。年老い、絶望したり、また満足し得た者の、最後の願いは安らかな死ではないですか? そのときこそ、このわたしは冷たい死に神から天使へと変わることができるのですよ? わたしの唯一の楽しみさえ奪ってしまわれるのですか」

「奪うつもりはない。しかし解っている。お前はもうすぐイヴリーンを連れていってしまうだろう。まさか神のように命を永らえさせよといっているのではない。後少し……十年ほど時間を与えろといっているのだ」

 バーシュの白い瞳が赤く染まる。

「時間を与えろ……ですか。ほぉ……あれには穏やかになされるまま、いわれるがままに動くあなたが、陰ではこのような画策をなさっておられる。ハハ……なんとこっけいな。そして何百年も同胞を無視して来たにもかかわらず、わたしの仕事の邪魔をし、いまさら指図なさるのですか? たいがいになさいな。いくら我らを総括なさる方だろうと、たかだか八百年の急ごしらえの神に何が解るというのですか? 子供じみた言い草はおよしなさい!」

「バーシュっ! そうか……解った。確かにわたしの存在をよく思っていないお前に頼み事をしたわたしのほうが愚かだった。お前の言い分は随分と正当なことだと思うよ。このわたしを怒らせる程にな。お前の許しがなければ、死はほどなくイヴリーンを迎えに来よう。そして、あの人がそれを拒まぬことも重々承知している。だがな、だれも愛したこともなく、ただこのような所に死んだように独りでいるお前には、この心、決して解せぬ気持ちだろうよ」

 ショウは結局ただの一度も金の神の姿を取ることもなく、怒りを極度に抑え、礼を尽くすかのように、また階を引き返していった。

 バーシュは砕けた石を拾い、それを階下に向けて放る。

「早く理というものを悟らぬか、ガキが」

 憤然と、砕けたはずのいすに座り込む。いつの間にか大理石のいすは元に戻っていた。


 同胞の青の神セイルは、自分の破壊性を封印する巫女だった娘、シャナクーダを愛し、彼女が死ぬと同時に抜けていく魂を自分の魂と同化させた。ショウが金の神となったときには、すでにシャナクーダは青の神の半身であった。

 ショウは無能ではない。そのやり方など知っていた。しかし、イヴリーンは何も語らず、そして愛しているとさえいってくれない。憐憫が最初にショウとイヴリーンをつなげた感情であることも解っていた。解っているだけに、それが反対にイヴリーンにとって残酷なことになりはすまいかと悩んだ。はっきりと自分を否定し、殺してくれておいた方がよかったかも知れなかった。しかし、イヴリーンはショウの心の間隙を感じ取り、それを埋めるために自分の生涯をショウのために犠牲にすることを選んだのだ。確かにショウが『死しても共に』と望めば、イヴリーンはよかろうと諾するであろう。『ただほほ笑みかけるのでは足らぬのだろうが』と悟って、その憐憫を貫いてくれたことにショウはありがたく思っていた。そして同時に苦しくもあった。それはまだ人間であったころの関係と同じ。ただ甘やかになっただけ。

 えもいわれぬ怒りを胸に、ショウは人界に降りる。唯一自分に親身な東の最果ての地の青の神を訪ねた。

 ただの岩山に見える断崖が空にそびえる。その孤高に青の神セイルはいた。隣にシャナクーダを配し、人身のショウに席を譲った。

「どういたした?」

 渡された杯から水をのみ、「わたしはまだ人なのだろうか……」とショウはつぶやいた。

 セイルはひしと伏せた目を、まるで見えているかのようにショウの方へ向ける。

「水を飲むも戯と申すのか? 私がシャナクーダと共にこうして食をとるのも戯と?」

 ムッとしたようにショウは白髪青顔のセイルをにらむ。

 それを見て、シャナクーダが静かに、「ショウリーン様……セイルはわたしが人であったころのことを大切に思われて、こうしてくれているのです。あなたは……人であったことを大切に思われて、そうされたに過ぎぬのです」

 ショウは寄り添う二人の仲むつまじい姿を恨めしげに見つめる。事情をよく知る彼女はいう。

「人によっては正しいと思いしたことが、かえって自分を傷つけることにもなるものです……イヴリーン殿はあなたになんといわれたのでしょう?」

「自分が死んだらお前はどうするのだ、といわれたよ」

「亡くなられてはつらいのでこうしてここにおられるのでしょう……? それに、イヴリーン殿はあなたの求めておられることに対して、どう答えられたのです?」

「わたしは何も求めていない」

 シャナクーダは優しいアメジストの瞳をショウに向ける。

「それを求めているというのですよ……」


 答えは得られなかった。いや、気に召す答えをだれもいってはくれなかったに過ぎない。次にショウは赤の神ホアロウの元へ急いだ。

 ホアロウもまた人界にいた。しかし、めったに人の来ぬ場所に住んでいる。専ら動物相手に時を過ごし、白の神とは対照的に生を司った。

 うっそうと茂る森の奥地にヤシを重ねたあずまやがあり、真っ赤な髪を絨毯代わりに寝そべっているホアロウがいた。愛すべきものにひょうきんな笑みを向けている。

 動物のように敏感にショウの気配を感じ取り、ショウの姿を見いだすと頭をかきつつ、「何だ、金の神か……これはこれはようこそ」ショウの表情に感づき、ハハンと鼻を鳴らすと、「うわさのイヴリーンがどうかしたのか? 死んだのか?」

 ショウは眉間にしわを寄せることで、このぶしつけな問いに答えた。

「まだ、か……で、我にどうしろと?」

 むっつりと黙り込むショウ。

「ハハーン……またもや子供のように癇の虫を起こして、走り回るついでにこちらに寄ったのかい? バーシュに何を言われた? 意地悪をされて腹を立てているのか? 死に、死の交渉をするもんじゃないよ。だからといって我にと頼られても困るがね」

「生には死を左右することはできぬのか。バーシュとはぐるか」

「怒ったのか? 怒っては困るな……バーシュとはむろん関係ないこともないがね、別にお主を困らせようと糸ひきあってるわけじゃあない。そうカッカするな。仲間割れはみっともない」

 赤の神はいつもこうだった。ふざけているわけでも、バーシュのようにショウを嫌っているというわけでもなく、地でこうなのだ。近くにより来る小さきものたちを手で愛撫しながら身を起こし、涼しい顔をしていった。

「何なら、生まれ変わらせてみせようか?」

 ショウは一瞬この魅惑的な申し出に心が揺らぐ。しかし、イヴリーンのいない世界を正気を保って生きることに、耐えられなくなってもいた。魂は同じでもその生まれ変わった人は、イブリーンではない。毅然として、その誘惑を退けた。

 ショウは目元を引きつらせ、背後の笑い声を無視して、ホアロウの元を去った。


 残る同胞は玄の神ジェヌヴ。ハイエナのような男だ。銀髪をもつ、黒顔の神である。欲を司り、人を混乱に陥れ、堕落させることを好む。腹に一物もつ神である。ショウは他の神より、この男が最も鼻持ちならなかった。

 地底に住み、ドワーフ共に地下の金脈、宝石を掘り起こさせ、いつも自らの宝物庫を満杯にさせていた。

 ここのところ、金も白も青も赤もめっきりおとなしく、なりを潜めているというのに、玄のみはその欲の増長に任せ、いまだに人界にかかわっている。密接に、しかもその所為とは解りにくい彼の司る力は、世界にあまねく染み渡っている。

 地底深くの、色彩豊かに飾り立てられ、その薄光の中にぼんやりと浮かぶ宝の城の中へ、ショウは足を踏みいれる。

 黄金の音色が響き、辺りを満たす。確かに趣向は悪くない。しかし、ただの人間がそう長く善意を保てる場所でもない。

 ショウはつかつかと進み入り、奥殿にどっかと座り込む玄の神を見た。

 ジェヌヴはニヤニヤと彼を見つめると、その座す向かいの獣毛の敷皮の席をすすめた。ショウはムッツリとあぐらをかいて座り込む。

「珍しい客人だ……他のものまで嫌うておるわたしの元にわざわざ金の神が出向くなど、よほどのことに違いあるまい」

 しかし、ジェヌヴの片手には彼の持ち物である遠見の水鏡。これまでのいきさつの何もかもを知っておきながら、ぬけぬけといった。

「金か? 宝石か? 美女か? 美男か? 何だ?」

「そのようなもの、わたしでも容易に手に入れることはできる」

「ほぉ……それでは?」

 ジェヌヴは遠見の水面を指でかきまぜ、その紋様を見ながら、ちらりと横目でショウを盗み見た。

「生きたいという欲だ」

「愛したいという欲の間違いではないのか?」

 大切なものを泥手でズケズケと触られているような不快感が走る。ショウはカッと顔を赤らめ、しかし否定できず、「うむ」とうなずく。

「だれに?」

「イヴリーンに……」

 玄の神は笑う。カラカラと神経を逆なでするように。

「黙れっ」ショウはたまらず怒鳴った。

 ジェヌヴは狡猾な笑みを浮かべ、遠見の水鏡を指していう。

「よかろう……これを見よ」

 揺れる水紋の間に、年老いた男の姿が映った。


 空を見上げていたイヴリーンは、風にざわめく木々にハッと我に返った。昔を思い返していたのか、よく解らなかった。

もう一度、自らの老いた手を見つめ、しみじみと思う。

(いつの間にこのように老いたのだろうか……)

 ドラゴンに乗り、大空を悠々と駆けていく自分を思い出した。そうだ……そういうころもあったのだ……歩くたびに傷むひざ、きしむ腰を恨めしく思った。胸のうちにフツフツとわくこの思いは、忘れかけていたあの味に似ていた。ドラゴンとの合一に思いを馳せていたあの若かりしころの。

(どうしたというのだ……いまさら……)

 イヴリーンはクッと笑う。どうかしたのだと思いながら、いつもの散歩道を歩く。そしてまた、いつの間にか、心の中にこのなだらかな道を足早にもくもくと行く男の幻影を思い浮かべていた。

 しかし、それも一時のこと。聞きなれぬ音に我に返る。どこか道から外れた林の奥のほうで、人の泣く声がしたように思った。立ち止まり、耳をすます。声ははっきりと、「お母ちゃん」と泣き、「お父ちゃん」と叫んでいる。イヴリーンは林の奥に目をこらす。かすれぼやける自分の目がいまいましい。

 そして、思わず林の中へ足を踏みいれた。

 足元はならされていない山肌だった。不安定な坂によろつきながら、杖とそしてまばらに立ち生える木にすがりつつ、声のほうへ近づいていった。イヴリーンは思う。若ければ走っていけるというのに。そして、泣き声の主を安心させてやれるというのに。幸いにも声は一定の場で、ただひたすら泣いている。

幼い泣き声で、子供であることが解った。両親から口減らしに捨てられたのか。そういう子供はたいがい死に、運のよい子供は賊に売られて命だけは助かる。いま泣いている子供も近くその運命にあるのだ。

 木のほらに小さくうずくまる白い塊を認める。金色の髪がフワフワと、子供の背を覆っている。毛玉のように小さな子で、薄汚かった。黄緑色の泣きはらした瞳がイヴリーンの姿を認めて、いったん泣き止む。しかし、それは単に恐怖で喉がこわばっただけ。

「恐れずともよい……歩けぬのか……? 近くにわたしの住まいがある。ついておいで」

 イヴリーンはゆっくりと話しかけた。穏やかに微笑んで。子供は立ち上がり、ゆっくりと彼に近づいていく。延ばした手を取り、子供は恐る恐るいった。

「おじいちゃんは魔法使いなの?」

 イヴリーンはハッと笑う。「おじいちゃん」といわれたことにもだが、また、自分が実際にはまともに自分自身を年老いているとしみじみ感じていないことに気付いたせいであった。ショウはいまだに自分をあの雄々しく若いころと取り違え、恭しく接してくれている。その扱いに慣れ過ぎていた自分をあざ笑った。

「いや……魔法使いなどではない……人に忘れ去られたものだ」

 子供の手を引き、おぼつかぬ足取りでゆっくりと坂を下る。自分もふらりふらりと危うかったが、子供もまた同じであった。用心していたにもかかわらず、子供が足を滑らせた。イヴリーンは、「あっ」と叫び、子供の手をしっかと握り、しかし、勢いに引かれ、片手の杖を離し、もろとも転げ落ちていった。子供を半ば抱き締め、木々にぶつかりながら、しかし、その細くしなびた腕ではどうすることもできず、なだらかな道まで転げ落ち、傾いた首は空を見つめていた。片腕の中に子供がいる。無事だろうか……ショウにこのことを知らせねば……死んではならない……イヴリーンの黄緑色の瞳が白く濁っていく。


 ショウは絶叫して水鏡を蹴倒した。身もだえるように両手で胸をかきむしり、虚空をにらむ。

「約束が違うぞ!」

「しかし、わたしも死んでしまうとは予期せなんだ。文句は白にいえ」

「約束が違う……!」

 イヴリーンの姿はもう見ることはできなかった。しかし、ショウの心の中で彼の体温は少しづつ冷えていく。

「しかし、生きていたいという欲は与えた」

「こんなはずじゃなかった……! イヴリーンっ」

 ショウは髪を振り乱し、走り出した。

「死んじゃいやだ! 僕を置いて行っちゃいやだっ!!」

 金の神の威厳が微塵も感じられぬていで、転げまろびながら彼は地上へ出た。

 目に正気の色がなかった。イヴリーンの名を叫び、そして、空間を引き裂き、慣れ親しんだ山間の道に出た。遠くに老人が倒れている。無残な姿で。駆け寄り、その顔を覗き込む。苦悶はなく、しかし、遠くすがるような目付きでイヴリーンは死んでいた。

「バーシュ、バーシュっ! イヴリーンの魂を返してくれ、後生だっ」

 イヴリーンの老いた顔を包み込み、頬を擦り寄せ、冷たい肌を涙で濡らした。

「シャナクーダっ、お前はどうやってセイルを取り返したんだ」

 嘲るように梢からカケスが飛び立つ。

「ホアロウ……頼む……イヴリーンを生き返らせてくれ……」

 だれも彼の願いに答えなかった。だれが悪いというのだ。ショウは自問する。彼を残して出掛け、付き添っていなかった自分のせいなのか。だれを責めればいいのだ。

「……おじいちゃん……」

 ショウはギョッとイヴリーンのふせっていた体を見つめる。その体の下から、顔中に擦り傷を作った小さな子供がのそりとはい出し、不安げにショウを見上げた。ショウの怒りはその子供に猛然と向けられた。

「お前さえ、お前さえいなければ……っ!!」

 その手が素早く子供の首を締め付けた。子供は目を見開き、叫びもせず、ショウを見つめたまま、苦しげにもがいた。

子供は何の抵抗もできずにくびり殺されるかのように見えた。しかし、ショウは手の力を緩めた。そして思い直すように子供を見つめた。紅潮した子供は咳き込みながら、ぐったりとイヴリーンの死体に寄り掛かる。ショウはグイと子供の顔をこちらに向け、まじまじと見つめる。髪も瞳もイヴリーンのものだった。ショウはかみ殺した笑いをもらす。

 イヴリーンの遺体を抱きかかえ、子供に、「ついてこい」と言い放った。子供はヨロヨロと足取りも危うく、かつてはイヴリーンとショウの住まいであった家の中へと入っていった。


 金の髪をもつ子供は、石のようにショウリーンの突き放した床のうえに丸くなって座り込んでいた。口がきけないのか、しかし、子供は確かに言葉を口から吐き出した。それとも頭が弱いのか。

 彼はいすに座り、狂おしく両手で髪をかきあげる。その目は真っ赤に泣きはらし、隣の寝室に寝かせたイヴリーンの事を考えていた。今度こそ本当の死であった。死の原因は足元の薄汚い子供なのだ。子供に対するたとえようもない憎悪は、偶然に子供のもつ金と黄緑の色に跳ね返された。

 ショウリーンの偽装した姿が、本来の姿に戻って行く。それはもう必要のない偽装であったから。その姿は自分に対する偽りであった。だからといって、このような終幕を期待していたわけではなかったのだ。彼は自分の孤独がイヴリーンによって昇華されることを願っていたのだ。今となっては何の意味ももたない、この姿とこの家。

「戯だ、全て全て全てっ! 消えてしまえっ!!」

 ショウリーンは立ち上がった。もう地味で誠実味のある青年はいなかった。傲慢で美しい金色の男がそこにいた。子供は石のうえにうずくまり、大岩のうえにはイヴリーンが横たわる。

「わたしには何もできないのか。命も死も愛も何もかも、わたしの自由にはならないのか!? これでは虫ケラのような人間と同じではないか!? 自分の運命すら変えることもできなかったのかっ!?」

 心はイヴリーンを得る前に戻っていた。無意味で他愛のないものが、そこここに転がっているに過ぎなかった。安らぎもなく、すさんでいる。

 子供の視線を感じた。ショウリーンにとってはいまだに威力をもつ、黄緑色の瞳が真っ向から彼を見つめていた。

「お前が殺したんだ……」

 呪縛から逃れようと、そうつぶやく。目をそらし、大岩のイヴリーンに近寄った。痛ましくねじれた体を愛しげになでさする。

「イヴリーン……あなたはどんな死を望んでいたの……? 痛みもなく、暖かく、安らいだ死だったの? 苦しくはなかった? 僕は苦しかった。あのときのようにはもういかないね……それともあの子をかわりにしようか? イヴリーン……」

 老人の枯れ木のような細い腕はこわばり、冷たく凍え切っている。小さく開けた口元を、落ち窪んだ眼窩によどんだ瞳を、ショウリーンは優しく閉じた。魔力を手に込め、腕に込め、その縮んだ死骸を抱き締めた。イヴリーンは変化し、小さくさらに縮み、ショウの腕の中で生まれ変わる。小さな小さな黄緑色に輝くドラゴンがそこにうずくまっていた。小鳥のようにキョロキョロと回りを眺めると、カラスのような一声を上げ、翼を広げて彼の胸から飛び立ち、空のかなたへ消えていった。ドラゴンになったイヴリーンにとって、彼のことなど思い出すこともできないほどにわずかな記憶であったのか……それともその記憶はとうの昔に抜けていった魂がもち去ってしまったのか。この行為は彼に何の慰めも与えなかった。彼の欲したのはイヴリーンの心だったのだから。

 一時、ショウリーンは空を眺めていた。そして、いまだにこちらに視線を向けるぶしつけな子供に近寄り、その腕を乱暴につかみ引き上げる。子供の目にこもるものは恐怖なのか、驚きなのか、何も言わず、心の内を瞳で語っていた。

「名は?」

「サラ……」

「つまらん名だ」

 子供の足には力がなく、引き上げる彼の腕の力に頼っていた。彼はいまいましげに子供を突き放し、

「一人で立てんのか、薄汚いガキだ。お前が死ねばよかったんだ。お前がイヴリーンを殺したんだからな」

 燃えるような厳しい目を子供に向けた。しかし、面に荒々しく浮かぶ憎悪をすぐに引っ込め、子供の目に合わせうずくまる。

「それとも……来るか? 見よ」

 ショウリーンは石ころを手に取る。石は金色に輝き、金塊へと変わった。それを子供の手に握らせ、もうひとつ手に取り、今度は七色に光を放つオパールに変えた。それも子供に持たせる。

「あらゆるぜいたくをお前にさせてあげよう……柔らかい寝床も、おいしい食べ物も与えよう」

 子供は感動の少ない乾いた瞳で彼を見返す。あまりに幼すぎるのか、欲は充分に育っていなかった。それとも単に鈍いのか。彼は笑った。忘れかけていた皮肉を込めた笑みを口元に浮かべ、「必要とあらば、母にも父にもなろう」とささやいた。

 子供の手が伸びる。石を捨て去り、彼の裾を握り締める。彼はおし殺した笑いをもらし、子供を引き寄せ、胸に抱いた。彼にとって一番ぜいたくな欲望を子供は欲している。だれが与えてやるものか。彼はひそかに思う。身もだえる狂おしさをこの子供にもたらしてやる……心の底にくすぶっている感情に慰めを与えるために、ショウリーンは子供を自らの狂気に引き込んだ。それはイブリーンを失った最初のときとは比べることのできない救いのない狂気だった。


 邪悪の書、タズナヴァルを片手にした長身の人影。白い広い部屋にたたずみ、三方を地に迫り出したテラスの外を眺めている。

 憂いのこもった黄緑色の瞳を眼下の街に向け、口元は冷たく閉じられている。肩まで延ばした金髪は風に揺らぎ、白皙の面にかかっている。強い風にあおられ、裾の長い白い服がひるがえる。

「タズナヴィ様……」

 背後の声にタズナヴィは振り向いた。瞳は背後の人間に止められたが、どことなく遠くを見つめているような視線。

「父上、お戯れを」

 ひんやりとした声がその美しい口から漏れた。

 白い教会の服を着た婢女の姿が変わる。見る間に金色の神の青年になった。ショウリーンはほほ笑み、「イシュカ……まもなく敵が現れる。わたしはお前にわたしの持つすべての力を預けよう。お前はこれからどんなことがあろうと死なず、老いず、孤独に生きていくことになる」

 タズナヴィと呼ばれ、イシュカと呼ばれる美しい人間にショウリーンは歩み寄り、そっと口づけした。そして、ぐいと金の髪をつかむと、「苦しめ、苦しみ抜くがいい。わたしの苦しみをそのまま引き継ぎ、お前は生き延びろ。だれもお前など愛さぬように、わたしが呪いをかけたのだから」と、ささやいた。

 若かりしころのイブリーンに似た人間は静かに答えた。

「承知致しております、父上」

 ショウリーンは美しく笑むと、もう一度口づけを交わした。

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