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第1章 勲章の男 1-2

~かつて知らぬ感情に慄いた僕がその夜見たものは・・・

【 第1章 : 勲章の男 】

 《1-2》


 ※ ※ ※


 その夜、僕は眠れなかった。

夕方に体験した本家の祥太との小競り合いは13歳の僕には刺激の強い、むしろ強過ぎるものだった。

毒が強過ぎた。全身を巡った血流の熱が冷めることはなかった。

父も母も弟も静かに眠っているようだ。

僕は度胸が無い。とにかく臆病なのだ。自慢できる話ではないが、争い事など嫌いだ。

だからこそ、先程、心無い言葉の数々で僕たち家族を、特に父と母を貶めた祥太に対して、僕の中に生じた怒りにすら驚いている。

(やり返してやる。)そう思った意外。驚き。

 眠れない夜は長い。


 僕は思いもしない行動をしていた。

深夜であった。

納屋を抜け出し、母屋の前を通り、静かに門扉を開けて鈴井の家を出た。眠れずにじっと横になってはいられないとの思い。言い様のない憤り。

須加院川の流れに沿って歩き、気付けば僕は、田川神社に居た。暗闇の中の社が、荘厳な大屋根が、翼を広げた怪鳥に思える。暗闇の中の見えない目で怪鳥が僕を見ているような錯覚。

寒気を感じて僕はそこに来てしまったことを後悔していた。

 

 次の瞬間だった。

境内の一番奥の灯籠に、ふっと火が点いた。

「ひえっ?」僕は恐怖の悲鳴を上げていた。

しかし、次は声すら出なかった。

ゆらゆらと揺れる灯籠の火に照らされて、彼らは居た。

濃い緑色の全身濡れ滴った『鬼』。何故、鬼と見えたのか?

緑色の額からヌッと生えた土色の角が見えたからだ。

そしてその隣に、太く太く蜷局を巻いた褐色と茶と黒の文様の蛇。『大蛇』が鎌首を持ち上げてこちらを見ていた。

声すら出ない。信じられない光景。鬼と大蛇。

僕は呼吸が上手くできずに咳き込んだ。

恐怖の時、信じられない光景が続く。

鬼が僕を指差す。尖った爪と同化したような指が三本。確かに三本。

「小僧ぉ。」

僕は身動きできない。

「奴が憎いか?」と鬼が問いかける。

奴---? 僕の脳裏に夕刻の屈辱のシーンが浮かぶ。

(祥太のことを言っているのか?)心の中で問う。

---「そうだ。」

鬼は僕の考えている事が見通せるのか?ニタリと笑う鬼。

「憎いか?」---「憎いよなぁ。」今度は大蛇が言う。もう訳が分からない。蛇が喋っている。

---「憎め。憎んでいいんだ。」

「そうだ。憎め。」鬼と大蛇が交互に言う。

闇が二体の怪物をより不気味に引き立たせている。


 ---「うるさい。」と僕は叫んだ。声が出た。意外だった。

「僕は憎んでない。憎くないんだっ!」

そう叫んで僕は走り出した。

灯籠と二体の怪物から一目散に逃げようと走った。鳥居をくぐり砂利道も構わず僕は走った。

とにかく恐ろしかった。

怪物が、怪物が喋ることが、そして怪物が僕の心を見透かしていることが、恐ろしかった。

胸が苦しい。少し快方に向きかけた持病が逆戻りする。しかし、とにかく逃げたかった。

「憎くないっ。」「ハアハアッ。」「怪物に関係ないんだ。」「ぜえぜえぇっ。」

譫言のようにそんな言葉を吐き出しながら走った。

---「手伝ってやろうか?小僧。」

怪物の、鬼の声が追いかけてきた。走っても走ってもその声はついて来た。

僕は走った。その声から逃げるために。咳き込みながら、どこまでも走った---。



 ※ ※ ※


 気がつけば、僕は納屋の中でいつもの粗末な煎餅布団の上に居た。

外は明るかった。喉が切れるように痛む。そして咳が襲う。

「兄ちゃん、大丈夫か?」

枕元で忠篤が心配そうに僕を見ている。記憶が定まらずに頭の中で回転している。

今日はいつだ?あの暗い夜に、何かとてつもなく恐ろしい体験をした。しかし、それが何だったのか?はっきりしない。

「一昨日の晩、兄ちゃん、どこに行ってたの?」

一昨日オトトイ。一昨日?昨日、今日。怖い怖い体験が一昨日?

僕は何をしていたんだ?

 「忠篤。」--「なに?」--「僕はどこに居たんだ?」

--- 一昨日の早朝、須加院川に掛かる、通称[奥の橋]に泥だらけで倒れていたのだという。

目を覚まさず激しく咳き込む僕に、母はずっと付いてくれていたらしく。

咳が引いたので今朝は父も母も仕事に出た。峠の向こうの魚肉工場での仕事は二月で終了となる。

三月からは、いよいよ田圃の仕事が始まる。

「今日は工場の最後の日なんで、蒲鉾、お土産にくれたらいいのに・・」

忠篤は楽しそうに言った。


 それから一週間、僕は寝込んでいた。喘息の症状は一進一退だったが、我が家には医者にかかる余裕などはなかったし、本家から救いの手が差し伸べられることもなかった。

いつの夜だったか?父と母が涙をこぼしながら、僕に詫びていたけれど、どしようもなく僕は寝た振りをしていた。

 三月の声ととも気温は上がり水田の準備が始まろうとしていた。

父は、本家の伯父、息子の祥太、遠い親戚の八郎という老人と共に仕事にかかった。

母も一緒に始める予定だったが、魚肉工場からあと半月来て欲しいと頼まれ、伯父の許しを得て工場に通った。

僕の具合だけが小康状態で、あの暗い夜の記憶は戻らなかった。

唯一取り戻せたものは、あの日の夕刻の祥太に与えられた屈辱の記憶だった。

(思い出さない方が良かった。)

と僕は思っていた。


 -----そして、その日がやってきた。


 

 ※ ※ ※


 1927年(昭和2年)3月7日

その日は暦に従順な気候の日だった。

三寒四温で春が来る。布団の上で僕はその言葉の意味を弟に話してやっていた。

今日はカンの方だ。夕方、火鉢の火種が底を尽きかけていたが、

「もう、六時だ。お父ちゃんもお母ちゃんも寒い寒いって帰って来るから、新しい炭はその時にしよう。

なあ、忠篤。」「うん、そうだね。今日寒いから、そのほうが喜んでくれるね。」

僕の喉の具合も比較的良かった。

もうすぐ新学期の季節。年の瀬に東京から転げ落ちてきて始まった山村での生活だったが、

四月になれば忠篤はこの村の分教所で学ぶ。僕は中学校には通わない。家計的にそれは仕方ないとしても、

僕の病弱が働き手となることさえ妨げる。

東京の鉄線工場の息子であった頃には、家業の事務的、経営的な部分を僕に任せながら養生を併行させて、弟が卒業すれば技術を教えて、親子男三人で工場をやっていく、というのが父のささやかな夢の将来像だった。もろくも崩れ去った家族の幸福---そう考えると頭がズキズキ痛んだ。

例の橋のたもとで僕が倒れていた一週間前の夜。頑なにその記憶は霞の中にぼやけたままだ。

 

 父と母が昨晩話していた話題。昭和2年1月、国家は初の『健康保険法』を実施した。明治に国を開き、近代化のネオンに浮かれただけでなく、自国民の健康維持を供する仕組みとして、世界列強国が当然実施している健康保険の制度を法制化し広く国民に享受せしめる。昭和という新たな時代の、真に、最初に、第一に成されたマツリゴトであった。

ところがこの法制化が重要産業たる炭鉱業界に甚大な影響を及ぼすことになる。福島いわき市の有名な炭田、盤城炭鉱においてこの法律の解釈により、業務外傷病者には欠勤しても日当の6割が得られるとして仮病者が続出、業務は滞り、法改正を求める経営側、権利を主張する争議団の間に血なまぐさい事件が勃発していた。日本はどこまで近代国家になったのだろう?僕は無用の流血を思った。


 時計を見た。夕方の6時を20分以上回っていた。

ガタガタと納戸が揺すられ首に真っ黒な手拭いを巻いた父が帰ってきた。

「ただいま。」--「おかえり。」「おかえり、父ちゃん。」

納屋の中を見回している父。

「お母ちゃんは、まだ帰らんのか?」

僕たちは頷いた。母は峠向こうの魚肉工場。確かに5時に仕事を終えて峠道をゆっくり歩いて小一時間。

「どれ、途中でくたびれとったらいかんから、父ちゃん、ちょっと見てくるから・・」

そう言うと父は再び納戸を閉めて出て行った。

「どうしたんかなあ?お母ちゃん。」忠篤の心配そうな呟き。

寒の戻りの日ではあったが、夕焼けはその日も鮮やかだと、忠篤が教えてくれていた。

また一日が終わる。

 その時。



 ---- ゴゴゴゴゴッと尻の下の板間の下から、突き上げるような轟音が鳴った。

ズンズンズンッ。今度は地の底から、何か馬鹿でかい棒きれで大地を持ち上げるような揺れが三回。

「わあ、兄ちゃん、納屋が揺れてる!」

弟が恐怖のあまり、布団に身を起こしていた僕に抱きついてきた。

ズーン!さっきよりも巨大で長時間の突き上げが続く。

「まずい!地震だっ、忠篤!」僕は立ち上がり、弟の手を取った。

「恐いよお!兄ちゃんっ。」---「兄ちゃんについて来い!」

叫びながら納戸へ向かって走る。

ガガッガガ、ガガガガガッ---足を取られそうな横揺れに変わる。

グワングアン!また大地の呻き声が変わる。納屋から飛び出した僕たちはそのまま転げてしまった。

地面を右回りに、時計回りに、こね回すような揺れ。相当に大きい地震だ。

数年前に東京で経験した、あの悪魔の揺れ。

あの時に近い規模か?

本家の母屋からも伯母たちの悲鳴。

「火、火があ!」本家の女中が叫んでいる。

振り返ると納屋が斜めに崩れようとしていた。本当に大きい地震だ---まだ揺れている大地。

収まりかけて、また再開する横揺れ。カタカタカタカタ・・・。

異音、衝撃音、打撃音、音がしているのは家屋の柱や梁が軋んでいるのだ。

カタッ!カタッ!母屋の土壁が小さく崩れ始めた。まずい!僕は思った。叫んだ。

弟は地面にへたり込んでいる。

「伯父さん!叔母さん!八郎さん!祥太兄さんも!みんな家から出て!出てください!壁が。危ない!急いで!家が落ちる!早くっ!」

僕の絶叫をきっかけに母屋の人々が庭へ駆け出してきた。

「ひええ、ウチが落ちるう!」伯母の泣き声。

伯母と女中のタキが見える。八郎さんは必死で伯父と肩を組んで続いた。

流石の伯父も無表情とはいかず、目を血走らせている。恐怖が渦巻いていた。

「直樹!忠篤!無事か?そうか!」伯父が僕らの頭を撫でてくれた。

ゴーォオオオ!その時、母屋の炊事場から大きな火が出た。吹き出した。熱風。

続いて母屋の屋根が壁を押し潰した。ズズズーン!!!

「ああ!」伯父がふらつく。屋敷の崩壊のまさにその場面だった。

揺れは小さく小刻みに横に振れ続いている。

僕は祥太が居ないことに気づいた。

「祥太兄さんは、どこですかっ?」

伯父に尋ねた。伯父は天を仰いだ。


 ※ ※ ※







~大地の怒りは収まらないのか・・

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