秋
「んっ……はぁん……」
あられもない甘やかな吐息が、遠慮も無しに室内に響いていた。豪華な調度品が並ぶ部屋に、それに負けないほど綺羅びやかなベッド。その上で、淫らに金髪を振り乱すのはリューシャだった。
「ピョ、ピョートルさまぁっ……!」
その顔に、サングラスは付けられていない。歪んだ額、開け放った瞳、食い縛った唇。色に狂ったこの顔を見てほしいからだ。だが、腰の下にいる、その男は眉一つ動かすこと無く、リューシャを眼中に入れることも無く数枚の資料に眼を通すだけだった。
「リューシャ、報告が止まっているぞ」
冷徹に言い放つピョートル。快楽に悶えるリューシャに報告を強要する。ピョートルの興味は真上で揺れる美しい肢体では無く、手に持った資料だけに向けられていた。
「はいっ……本国では……はぁんっ……生産量は既にっ……日本を上回っております……ふぅんっ!」
強い刺激に耐えながらもリューシャは報告を続ける。その報告は、ピョートルを興奮させるのに十二分な内容だった。
「ふははッ! そうかッ! 私は全てを手に入れてみせるぞッ! 国も、世界もッ! そして、女もッ!」
「ひゃんっ!」
リューシャの口から、少女のような嬌声が漏れる。勢い良く身体を起こしたピョートルは、そのままの勢いにリューシャの豊かな胸を乱暴に鷲掴みにする。相手のことを思いやるような愛撫ではない。ただ、いきりたった自分の欲望を発散する為だけの行為でしかなかった。
「ピョートル、様……」
だが、それでもリューシャは愛おしそうにピョートルの肩を抱き締めた。例え、他の女のことしか頭に無かったとしても、自分の胸にある、この愛だけは紛れも無い真実……。
・
吹く風に幾分かの涼やかさは感じるが、まだ陽射しは強い。一ヶ月半振りに教室に集まった生徒たちの肌には汗が浮かぶほどだった。いや、この暑さ、陽射しのせいだけではない。肌を焦がすような熱源が、教室の中央にはあった。
「おい、りゅーせー。まだ仲直りしてなかったのか?」
呆れた様子で尋ねたのは龍聖の横に座るクーデルだった。夏のコミックカーニバルから二週間、龍聖とゆとりは未だ、会話一つ交わしていなかった。
「ゆとりも、いい加減にしたらどうだ」
水を向けるクーデルだが、ゆとりはツン、とそっぽを向いたままだ。二人の様子を見て、クーデルの胸にちくり、とした痛みが走る。二人がケンカをしているのなら、その間に龍聖を掻っ攫えばいいだけの話だ。だが、それが出来無い。二人が仲良くしていないと、どうにも心が落ち着かない。
「まったく……」
諦めたクーデルは龍聖の隣、自分の席に着いた。もう、ホームルームの時間まであと僅かだ。
「うおーしッ! お前ら席に着けーいッ!」
派手に音を立てて戸を開けたのは担任だった。この威勢の良い声を聞くと、ああ、新学期が始まってしまったんだな、と感じる。
「今日はな、新しい仲間を紹介するッ! 女子たちよ、喜べッ!」
担任が言い終わると、教室はけたたましい悲鳴というか、黄色い歓声で包まれる。数多くの瞳がその姿に釘付けとなってしまっていた。
「んなぁッ!?」
龍聖もまた、素っ頓狂な声を出してしまっていた。もはや、二度と見ることは無いと、二度と見たくは無いと思っていた顔が、そこにはあったからだ。
「ピョートル・ヴェデルニコフと申します。皆様、よろしくお願いします」
にこやかな笑みを顔面に貼り付けて、黒板の前に立ったのはコミックカーニバルで出会ったあの男だった。身体中の血液が顔に上昇しているのが解る。あの日の怒りが、あの日の屈辱が鮮やかに蘇っていた。
「ピョートルさんッ!」
勢い良く立ち上がったのはゆとりだった。その顔に、戸惑いと喜びの感情が浮かんでいるのを龍聖は見逃さなかった。
「お、柚木はヴェデルニコフと知り合いだったか。なら、ちょっと面倒見てやってくれ」
「ひゃ、ひゃいッ!」
ゆとりは、緩みきった顔で上擦った返事をする。確かに、あのとき、また会いましょうと言われた。だが、それは社交辞令のようなものだと思っていたし、再会するとしてもコミックカーニバルでだと思っていた。それが、あの王子様が、こんなところに現れるなんてっ!
「ヴェデルニコフ、柚木の左が空いてるから、そこに座ってくれ」
「ダー、セル」
ガンドルフ語で応えるピョートル。その仕草、その爽涼たる声にクラスの半分を占める女子たちは俄に色めき立つ。男子たちにとって、それは面白いことではない。龍聖も同様の感情を抱いていた。そして、そのドス黒い感情は即座に解消されるべきなのだ。
「ミスゆとり……どわッ!」
軽やかな足取りでゆとりの横に着いたピョートルだったが、派手にというか、無様にというか、顔面から思いっ切り地面に突っ伏してしまう。龍聖が右足を机と机の間に出していたのだ。ゆとりの顔しかみていなかったピョートルにとっては不意打ち以外の何物でも無い。古典的だが、これほど効果的な攻撃は無かった。
良くやったッ! と男子全員が心の中でガッツポーズを取る。だが、この行為、龍聖とゆとりの関係に於いては、良い影響をもたらさなかったようだ。
「ピョートルさんッ! 大丈夫ですかッ!?」
ゆとりはピョートルの前にしゃがみ込み、鼻から流れる出血を取り出したハンカチで拭っていた。まるで、恋人にするかのような仕草。こんなものを見せ付けられるなら足を引っ掛けるなんてしなければよかった、と後悔するが先に立たずである。
「いえ、大丈夫です、ミスゆとり……」
ゆとりの肩を借りて、必要以上に身体を密着させ立ち上がるピョートル。ちらり、と視線を龍聖へと向ける。いじめられっ子が大切にしていた玩具を奪い取ったような、そんな姑息な眼付きをしていた。
「お? ヴェデルニコフ、大丈夫か? 日本の床は滑りやすいからな」
後ろを向いていた担任は男子たちの悪意には気付いていなかったようだ。そして、何事か思い出したかのように掌をぽん、と叩く。
「そうだ、クーデル。ヴェデルニコフはお前と同じガンドルフ出身なんだ。まだ大変な時期だとは思うが、仲良くしてやってくれ」
「え、あ……はい」
訳の解らぬまま、曖昧に返事をするクーデル。頭を整理するヒマも無いまま、眼の前ではピョートルが右手を差し出していた。
「う……」
だが、クーデルはその手を取ることが出来無い。その右手に、禍々しい何かを敏感に感じ取っていた。幾多の修羅場を掻い潜ったクーデルだけが解るのか、そのピアニストのような指が邪悪に蠢いているようにすら見えていた。
「ガンドルフの子熊ちゃんは恥ずかしがり屋のようだね」
ピョートルは残念そうな作り笑いを浮かべて肩を竦めたまま、ゆとりの隣へと座った。女子生徒たちの、ジェラシーの視線が一斉に向かうが、まるで恋人とそうするかのように肩に手など廻して親しげにゆとりと言葉を交わす。
「こんの……!」
ぎりッ、と奥歯を噛み砕くような音。龍聖は瞬きをすることも忘れて、ただ、ゆとりとピョートルの様子を睨み付けていた。
・
「ぷあッ!」
ざっぱん、と水飛沫が跳ね散った。鍛え抜かれた身体が水滴を弾く。学校から帰るなり、龍聖は男湯に直行し水風呂に湛えられていた冷水を頭から被っていた。昔からそうだった。頭に血が昇ってどうしようもないときはこうやって水を被ることにしていた。だが、今日ばかりはこの苛立ち、収まりそうにもない。
「くっそッ……!」
口から漏れるのは震えではなく、むしゃくしゃとした、不安というか、切迫感というか、とにかくどう表現したらいいのか解らない感情の発露だった。どうにかこのモヤモヤを晴らすべく、二杯目を被ろうとするが、ぴたり、とその手が止まり冷水は溢れタイルを濡らす。
「りゅーせー、修行僧にでもなったつもりか?」
まるでそれが当然のように、男湯へと入ってきたのはクーデルだった。お風呂のマナーを守ってか、その身体にはタオルひとつ身に着けていない。だが、龍聖にとっては刺激の強過ぎる光景だ。
「ク、ク、ク、クーデルッ! ナニやってんだお前ッ!」
「ナニって、日本の残暑は厳しいからな。ガンドルフ生まれのボクにはちょっと辛い。汗を流そうと思ってね」
「なら女湯入れよぉッ!」
「大丈夫だ、問題無い。統計ではこの時間に客が来る確率は三パーセント以下だ」
「そういう問題じゃねえよぉッ!」
「ま、いいからいいから。ちょうど髪が濡れているから頭を洗ってやろう。ほら、後ろを向いて」
「ぐ、む……」
龍聖はただクーデルの言うことに従うしか無かった。だが、決して不愉快では無い。何故だろう、幾つも歳が離れた少女に、何故か逆らうことが出来無い。むしろ、母親に諭されているような心地良さすら感じてしまう。
「りゅーせーの髪は、まるでたわしだな」
「うるせえ、嫌なら触るなよ」
「ふふっ、そう言うな」
しばらくは、泡が髪の毛をかき混ぜる心地良い音だけが響いていた。だが、その穏やかな静寂を最初に破ったのは、頭を洗われている龍聖だった。
「なぁ、クーデル。あのピョートルって男、知らんのか?」
「知るわけないだろう。ガンドルフ人だからって全員の顔を知っている訳じゃない。だいたい、ゆとりと君のほうが知っているみたいだったじゃないか」
「夏のコミカでな、会ったんだよ……確か、カリカトラってサークルだった」
「カリカトラ……だと……!」
龍聖の眼にはハッキリと見えていた。鏡越しに映るクーデルの顔が、憎しみの色に染まるのを。この数ヶ月、忘れかけてさえいたエージェントとしての顔だった。
「カリカトラが、いったいどうしたってんだよ」
「カリカトラ……ボクが追っていたテロリスト……そして、ガンドルフを転覆させた改革派の中心だ……!」
「マジか!? けど、漫画捌いてたとはいえ、そんな連中がコミカなんかに堂々と来るもんか?」
「カリカトラとは、ガンドルフの言葉でそのまま漫画、という意味だ。漫画はヤツらの象徴そのもの。世界最大の、漫画の祭典であるコミックカーニバルに来てもおかしくはない。ピョートルというあの転校生の顔は知らないが、そうと考えれば納得はゆく……!」
「いったい、どういうことだよ?」
「ヤツは、ボクを子熊と呼んだ。熊の穴時代の、コードネームだ」
「つまり、クーデルのことを知っていたと?」
「ああ、ボクのコードネームを知るのは熊の穴でも一部だけだったハズ……それを知っているということは、きっと流出した資料を……」
クーデルの瞳に、憎しみの炎が宿っていた。そう、熊の穴の全ては、もうカリカトラに完全に把握されているのだ。上官も、仲間も、どうなってしまったか、もはや知る由も無い。想像しただけで胸が張り裂けそうになる。
「りゅーせー、ヤツを調べよう」
「調べる、ったってどうやって?」
「読唇術で読んだ。明日、ゆとりがピョートルを町を案内する。いわゆるデートだな」
「で、で、で、デートだとぉッ!」
思わぬクーデルの言葉に、立ち上がって雄叫びを上げる龍聖。ケンカをしても、何処かでゆとりのことを信じていた。ゆとりには、自分以外にいないのだと。
「ああ、男女が共に町に繰り出すということは、デートに相違無いな。気にはならないのか?」
「……ならねえよッ!」
そう言うなり、どっかりと椅子に座り直す龍聖。クーデルの言葉が、龍聖に怒りを呼び戻していた。悪いのは、他の男に現を抜かすゆとりだ。何故自分が心配して、不安になって、こんな悲しい気持ちにならないといけないのか。
「盗られてしまうぞ?」
「構わねえよ」
「本当にそう思っているのか? 日本人というのは、自分の感情を表現するのが本当にヘタみたいだな」
「なんだとッ!?」
龍聖の感情は、もう許容値を完全に超えてしまっていた。苛立ちに任せて、クーデルの細い身体を押し倒す。蒸気に火照る裸体が、何も遮ること無く直接瞳に飛び込んで来る。これが何を意味するのか、龍聖は頭ではなく股間で理解していた。
「……どうするつもりだ」
「どうするもこうするも無えよッ!」
「ボクは、りゅーせーに抱かれても構わないと思っている。でも、こんな苛立ちを紛らわせる為だなんて、ゴメンだ」
「うごッ……!」
これは、クーデルの事実上の告白だった。だが、当の龍聖にそんなことを理解する余裕など残されていない。クーデルの膝が、龍聖の股間を無残に押し潰していた。男なら決して味わいたくない激痛が龍聖を襲う。内臓の全てがひっくり返り、肺は縮み、呼吸すらままならない。
「りゅーせー、君が素直になれたなら、ボクの身体も心も、全部あげるよ」
悶絶する龍聖を後に、クーデルは男湯から立ち去る。その小さな背中に大きな覚悟を背負っていたことを、今の龍聖に気付けるハズが無かった。
・
目覚めは最悪だった。在るべき存在がそこに無いというだけで、こんなにも不安になるものだろうか。クーデルと暮らし始めてから、毎日のように共に同じ布団で寝ていた。そのクーデルが横にいない。心にぽっかりと穴が開いてしまったようで、切ない。
「チッ……」
霞がかった心のまま、薄いカーテンを開く。龍聖の胸の内と同じように、薄暗い空にはどんよりとした雲が掛かっていた。空模様を見るに、何時間も眠れていなかったらしい。
「しゃあッ!」
自分に発破を掛けるように両頬を掌で叩く龍聖。この空を晴らすことは出来無くとも、自分の心だけは自分で晴らすことが出来る。その為に何をすべきか、もう解っていた。その為には何時までも寝間着を着ている訳にはいかない。勢い良くズボンをずり下げた、そのときだった。
「りゅーせー、遅いお目覚めだな」
「どわぁッ! 着替えてるときに入ってくるなぁッ!」
「今更何を言ってるんだ、裸なんて何度も見られているだろう」
「そういう問題じゃ無えよぉッ!」
それがまるで当然の権利であるかのようにフスマを開けたのはクーデルだった。そうなることが解りきっていたような顔でそこに立っていた。
「まったく、もうっ!」
生娘のような声を上げて、大慌てで着替える龍聖。その顔は羞恥に赤く染まっていた。風呂場で見られるのと、自分の部屋で見られるのは意味合いが違うのだ。
「クーデルは、今日は男の子だな」
着替え終わった龍聖は、意趣返しのつもりか、茶化すような口調でクーデルに声を掛ける。だが、当のクーデルは満更でも無い様子だ。
「どうだ、似合うか? 変装の意味もあるんだが、ボクはこういう服の方が好みなんだ」
シンプルな柄物のシャツに、スッキリとしたハーフパンツ。その銀髪をベースボールキャップで隠す。やや、中性的な面立ちではあるが、何処からどう見ても男の子だった。
「ほら、龍聖」
「なんだ、こりゃ?」
「赤外線スコープ付きの、超長距離用の双眼鏡だ。三キロ先の毛穴だって見ることが出来るぞ」
「ああ……」
「なんだ、歯切れが悪いな。またボクを怒らせたいのか?」
「解ったッ! 解ってるッ! 行くッ! 行きますッ! 行けば良いんだろッ!」
「うん、良い返事だ。聞き分けの良い子は嫌いじゃないぞ」
あくまで何時も通りの、冷静な口調のクーデルだった。だが、その顔だけが違う。これまでに誰にも見せたことの無い、満面の笑みがそこにはあった。
「お前はいつも可愛いが、笑うともっと可愛いな」
「ふっ、おだてても何も出ないぞ」
「その笑顔が、何よりのご褒美だよ」
「やるべきことをやれば、もっと良いご褒美が出るぞ」
年齢には似合わない、妖艶な微笑。これで燃えない、いや萌えない男がいるだろうか。龍聖の胸は、いや股間は熱く、熱く燃え盛っていた。
・
龍聖たちの住む天神町は、九州の北部に位置し人口十万人程度の小さな町だ。大型ショピングモールの他には見るべき場所なども無く、正午に差し掛かる頃には、ゆとりとピョートルのデートも小休止、という形になっていた。
「ごめんなさいね、この町、そう案内するとこなんか無くて……」
身震いするほどクーラーの効いた喫茶店、奥の席にゆとりは座っていた。そして、その向かいに座るのはニヤけ笑いを浮かべたあの男。
「いえ、この町に貴女が住んでいる。それだけでこの町に価値はあります」
「ま、お上手」
笑みを浮かべ、楽しげに視線を交わすゆとりとピョートル。傍から見れば、仲の良い、熱々の、相思相愛な恋人同士にしか見えなかっただろう。事実、二人は店にいる客という客から注目の的となっていた。絵本から飛び出してきたような金髪碧眼の美少年に、如何にも大和撫子、といった風貌のお嬢様。これで目を引かない訳が無かった。
「何がこの町に価値はあります、だよ……!」
「しっ……感付かれるぞ」
ガリリ、と外に漏れてしまいそうな歯軋り。ゆとりとピョートルが座る席の隣には、別の意味で目を引く怪しい二人組が座っていた。このクソ暑いのに、中折れ帽にトレンチコート。見ているだけで汗が吹き出しそうな格好だ。何か変装をしろ、とクーデルに言われて選んだのがこのコートだったのだが、むしろ変装というより仮装、衆目に晒される結果に終わっていた。
「けどよぉ……」
「情けない声を出すな。飛び掛りたいのはボクも同じだ。もう少し我慢してろ」
厳しい視線が龍聖を射抜く。エージェント時代に戻ったかのような鋭い視線。どんなに困難なミッションであろうとも必ず達成する、熊の穴で叩き込まれた鉄の掟が、今クーデルの中に蘇ろうとしていた。
「ぐむ……」
その痛烈な眼差しに、龍聖はそれ以上何も言うことが出来無かった。燃え盛る憤怒と嫉妬の炎を胸の内に抑え込み、来るべき、その刻を待つ。そう、この感情は耐えるべき性質のモノではない。堪え、溜め込み、何倍にも膨れ上がらせ、ぶつける為のものだ。
「そういえば、ごめんなさい……」
「何がですか? ミスゆとりが謝ることなど何も無い」
「龍聖のことです……コミカでも、学校でもあんな失礼なことを……」
「ああ、あのジークスは、彼だったのですね」
ピョートルは、さも今気付いたかのような顔で手を叩いた。確かに、コスプレで仮面を被っていれば誰が誰だか解るハズも無い。
「ミスゆとりが謝る必要はありませんよ。謝罪するつもりがあるなら彼から受けます」
笑顔のピョートル。だが、謝罪など受け付ける気は全く無い、という感情がありありと溢れだしていた。だが、ゆとりはこの笑顔を肯定の意味だと解釈したのだろう、ホッとした表情で胸を撫で下ろす。
「しかし、デートをしているときに、他の男の話は少々頂けませんね」
「あ、ごめんなさい……」
沈黙。しばらくは、食器の触れる音と、コーヒーを啜る音だけがその場を支配していた。しかし、ゆとりにとって決して緊張を伴うような、不愉快な沈黙では無かった。だが、その沈黙もそう長くは続かない。ゆとりには、どうしても聞かなければならないことがあった。
「ところで、ピョートルさん。あなたのサークル、カリカトラ。ガンドルフでクーデターを起こした一派と同じ名前ですね?」
龍聖の怒りなど知る由も無いゆとりはあくまでにこやかに会話を続ける。その言葉一つ一つが自分に向けるそれとは違っていて、それが余りにも悔しくて、龍聖の頭は今にも沸騰しそうになっていた。
「ご存知でしたか、ミスゆとりッ!」
爛々と眼を輝かせ、ゆとりの手を握り締めるピョートル。ゆとりと龍聖は背合わせの形で座っているので、この有り様が眼に入ることは無かった。もし入っていたならば、もはや龍聖の怒りはレッドラインを軽々と超していたことだろう。
「ガンドルフ共和国を平和へと、自由へと導いた良識派組織カリカトラ。私は、そのリーダー、現ガンドルフ共和国大統領は私の父です」
息をするヒマも与えないほどの勢いでピョートルは一気呵成に捲し立てる。だが、その瞳の奥に灯る色。支配欲、権力欲、独占欲、そんなドス黒い色が隠し切れないほどに渦を巻く。果たして、ゆとりはその色に気付けていただろうか。
「何が良識派だッ……!」
「おい、クーデル……!」
今度は龍聖がクーデルをなだめる番だった。その感情のままにテーブルを両の拳で叩き付ける。コップの水が飛沫を上げテーブルを濡らす。あわや倒れる、というところで龍聖がコップを押さえていた。
「何が良識派だッ……! ボクはアイツ等のしてきたことを全部知っているッ……!」
「クーデルッ! 今は抑えろ……!」
「でも……でも……」
龍聖がクーデルをなだめすかしている間にも、ピョートルの演説は留まるところを知らず、まさに舌好調といった様相だ。
「あらゆる創作物が規制されたガンドルフ……その中にあって、日本から持ち込まれたコミックの数々……人々は描かれた自由に夢を、希望を見出しました」
「それで、漫画の密造、なんてやってた訳ですか?」
「おや、ご存知でしたか」
それは、今迄の猫撫で声とは打って変わって凍えるように冷徹な声、非情な表情だった。だが、自分でもそれに気付いたのだろう、直ぐ様、ピョートルは強張った声と顔を和らげようとする。だが、ゆとりが一瞬のそれに気付かないハズは無かった。
「確かに、カリカトラではコミックの密造、ガンドルフ本国への密輸入を行なっていました。しかし、それは自由への戦いの為に仕方の無いことだったのです」
いけしゃあしゃあと言ってのけるピョートル。それとは対称的に、クーデルの表情は悪鬼羅刹そのもの。鬼気迫る、という表現が相応しい顔貌と変わり果てていた。
「何が自由への戦いだ……! 何が仕方無いだ……! 麻薬も、武器も密輸しているくせにッ……! どれだけの人が犠牲になったことかッ……!」
「クーデルッ……! 落ち着けッ……!」
それほどまでにカリカトラを憎んでいたのかと、そのとき龍聖は初めて気が付いた。惚れた女を盗られそうなだけの龍聖とは違う。クーデルは、家族とも言うべき熊の穴の仲間を奪われているのだ。
「自由の国、ヤパーニヤ。多くの国民と違わず、私も強い憧れを抱いていました。ガンドルフでの政権交代が成ったのを気に、父に留学を志願した、という訳です」
「そういう訳、だったんですね……」
「しかし、日本の現実に、私は失望しました……児童ポルノ禁止法、青少年健全育成条例……日本人は敢えて自由を自ら手放そうとしています……!」
「その通りですね……反論も出来ません……」
「ミスゆとり、私と結婚してくれませんか」
「ふえっ!?」
全く想像もしていなかった、予想すらしていなかった、唐突なプロポーズだった。突然の言葉に、何も言うことが出来ず、餌を待つ鯉のようにただあんぐりと口を開けたままのゆとりだが、龍聖を襲った衝撃はそれ以上だった。飛び掛り、ぶん殴り、地獄の底へ突き落としてやるハズだったのに、微動だにすることが出来無かった。
「ガンドルフが体制派に支配されているときから、ミスゆとりの漫画は良く知っていました。どんな苦境に立たされても、貴女の漫画を読めば勇気に奮い立つことが出来た」
「そんなこと……」
「新たなガンドルフ政府は、日本に対し表現規制の撤回を強く求めます。その為に、ミスゆとり、貴女の力が必要なのです」
「そんな……私の力なんて……」
「いえ、そんなことはありません。貴女の描いた漫画こそ、表現規制を跳ね除ける力と成り得るのです。ミスゆとり、どうか、私と……」
「私のこと、認めてくれるなんて、うれしい……」
「ならば、私と……」
潤んだ瞳で見つめ合うゆとりとピョートル。その場面だけ切り取って見れば、この上なく幸せな、人生で最高の瞬間にすら思えた。だが、背向かいに座る龍聖だけが違う。カタカタと震え、顔はゾンビよりも血の気を失い、その言葉が、ただゆとりの口から出ないことだけを祈っていた。
「ごめんなさい、私、好きな人がいるの」
龍聖と、ピョートルが眼を見開いたのは、まるで示し合わせたかのように全く同じ瞬間だった。だが、その瞳に灯る色は全くと言っていいほど違っていた。片方は、唐突な拒絶に絶望の色に染まる。そしてもう片方はただただひたすら歓喜一色。
「なッ……!? 私と結婚すれば、富もッ! 名誉もッ! いずれは大統領夫人という肩書きだってッ! 何でも手に入るというのにッ!」
「でも、一番大切な人は手に入らないわ」
ゆとりは笑顔だった。明確な拒絶を示した笑顔。ピョートルが、例え絶世の美少年だったとしても、憧れのキャラクターと瓜二つだったとしても、愛する男に敵うはずは無かった。
「龍城院龍聖とでも言うつもりですかッ……! あんな男の何処がッ……!」
「きっと、出会った順番が違っていただけ……もし、ピョートルさんに先に出会っていたなら、貴方のことを……」
「どうやら、私はピエロだったようですね……!」
立ち上がったピョートルは、感情のままに伝票を握り締めた。溢れ出す苛立ちを隠すかのように、顔をゆとりから背けていた。
「あ、私の分は払いますっ!」
「そこまでされたら、私のメンツは丸潰れですよ……最後に一つだけ言っておきましょう。私は、欲しいものはなんでも手に入れる主義なんです」
あくまでも冷静を装うピョートル。だが、その背中には溢れんばかりの憎しみがありありと染み出していた。だが、ゆとりはそれを見て見ぬ振りをする。それが、袖にした男性に対する礼儀だと心得ていたからだ。こんな経験は一度や二度では無い。今迄に幾人もの男を振ってきた。それは偏に、龍聖だけの為に。
「女の子にここまで言わせたんだから、いいかげんハッキリしてもらわないとね」
ピョートルの背中を見送って、ゆとりは背もたれに身体を預けた。すぐ背合わせに龍聖がいるなんて思いもしないゆとりの口から紡がれるのは、純粋混じりっ気無しの、飛行機雲よりも真っ直ぐな想いだった。
「ゆとり……」
だが、今の龍聖にそれを受け止めるだけの度量があっただろうか。その呟きは、クーデルが咎めるまでもなく、小さく弱々しいものだった。
龍聖はそれ以上何も言えず、前に置かれたアイスコーヒーに視線を落とすしか出来無かった。グラスいっぱいに注がれたコーヒーの表面ではミルクが渦を描いている。それは、まるで龍聖の胸模様をそのまま表しているかのようだった。