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「うおおおおおおおおおッ! 脱稿ぉぉぉぉぉぉッ!」

 遠吠えのような雄叫びだったが、その甲高い声は紛れも無く少女のものだった。長く、ボサボサになった髪を頭の上で乱雑に纏め、顔には分厚い瓶底眼鏡。肌はゴビ砂漠よりも荒れ放題だ。年頃の少女であるにも関わらず、着ているのは臙脂色のジャージという有り様だった。

「お嬢、おめでとうございますッ!」

「ゆとりお嬢さま、おめでとうございますッ!」

 和風の造りではあるが、ベッドをはじめとした家具はカラフルなものばかりだし、所狭しとファンシーな小物も並んでいる。だがそこには、この少女らしい部屋に似付かわしくない、厳つい男たちの熱気でむせ返っていた。

 ある者はオールバック、あるものは角刈りある者はスキンヘッド。皆一様に暑苦しい黒のスーツに身を包んでいる。まるでそれが当然であるかのように、まるでそれが美学であるかのように。

「あーみんなありがとー。今回も助かったわー」

 ゆとり、と呼ばれた少女は、心底ほっとした表情で、テーブルの上に置いてあった用紙を一束に纏める。一番上に乗せられていたのは、躍動感あふれるポーズを取った青年のイラスト。そう、これは漫画だった。

「みんな、ご苦労様。もう休んでいいわよ。私は着替えてから学校に行くわ」

『お疲れ様でしたッ!』

 黒スーツたちはサングラスの下に疲れ切った顔を隠しぞろぞろとゆとりの部屋を出てゆく。後に残されたゆとりは、まずは換気をするべく窓ガラスを開けた。新鮮な空気と共に、燦々と朝日が差し込む。部屋に舞い散るホコリをきらきらと輝かせ、天然のプラネタリウムとも言うべきか、何処か神々しささえ感じてしまう。

「んーっ! 良い天気ねーっ!」

 大きく伸びをひとつ。全身の関節という関節からぱきぱきと音が鳴る。まるで、破裂音のオーケストラだ。それだけの披露が、この華奢な身体に溜まっていたということだ。漫画を描くということは、それだけの重労働であるのだ。

「さ、ぐずぐずしてらんないわ」

 ゆとりは髪を解き、ジャージを脱ぎ捨てた。白と青のストライプが鮮やかな下着が朝日を跳ね返し眼に眩しい。壁に掛けてあった紺のブレザーとチェックのスカートを慣れた手付きで身に着けてゆく。最後に眼鏡を外せば、今迄とはまるで別人にしか見えない可愛らしい顔が覗いていた。

「さあて、行ってきますか」

 床に放ってあったカバンを取り、戸を開ける。眼の前に広がるのは、長い長い檜張りの廊下。いったいどれだけの広さがあるというのか検討も付かないが、ゆとりにとっては何時もの通り、見慣れた光景だった。

「待てい、ゆとりよ」

 低い唸るような重低音。ゆとりは、怯えた様子でも無く肩を竦めて後ろを振り返る。見慣れた顔がそこにはあった。禿げ上がった頭に、豪快に生やした髭。紋付袴に白足袋と堂々とした和装の偉丈夫。一見、山が聳えているかのような印象すら与える。

「何よ、パパ。学校遅れちゃうんだけど」

 少々うんざりしたゆとりの口調は、反抗期の娘そのものだった。だが、パパと呼ばれたその男は構うこと無く話を続ける。

「ゆとり、何時まで漫画なんぞにかまけておるつもりだ。お前は、いずれこの柚木組の、この雄烈の跡を取るべき男と結婚せねばならんのだぞ」

「朝からまぁたその話ッ!? 私はヤクザの跡を継ぐ気も無いし、結婚する気なんてもっと無いのッ!」

「ゆとりッ!」

「これ以上何も言うことは無いからねッ! 行ってきますッ!」

 ゆとりは振り返ることもせずに長い廊下をドスドスとはしたなく大股開きで、大音を立てて玄関まで走る。雄烈は、ただそれを見ていることしか出来無かった。

「組長、お嬢様もいずれ解ってくれます」

「そのいずれが、来てくれればいいのだが……」

 柱の影から現れた黒スーツが、ティッシュを箱のまま雄烈に渡す。受け取るやいなや、豪快に鼻をかみ、爆音を鳴らす。それが、ゆとりに向けることの出来る精一杯の言葉だった。

                   ・

 朝から父親のお小言を喰らって不愉快な気分だったが、春のやわらかな陽射しにその苛ついた心も徐々に和らいでいた。いや、こんなうきうきとした気分はそれだけのせいではない。眼の前にある建物が、そうさせていたのだ。

 長い長い歴史を感じさせるどっしりとした門構え。雄々しくとぐろを巻く、今にも天に昇りそうな龍の彫刻が中央に掲げられた看板には、龍の湯、と見事な筆使いで揮毫されていた。

「おはよーございまーすっ!」

 ゆとりはまるで我が家に帰ってきたかのように、まだ暖簾の出ていないガラス戸をくぐる。中に入れば、むッ、とした湯気の熱気。コーヒー牛乳の並んだ冷蔵庫、古ぼけたパーマ椅子にマッサージ機。そう、龍の湯が現す通り、此処は銭湯だった。

「あら、ゆとりちゃんっ! 今日は早いのねえ」

「おはよーございます、はつみさん。珍しく早起きしちゃって」

 番台に座っていたはつみは、まだ開店前にも関わらず朗らかにゆとりを迎え入れる。短く切り揃えた髪の毛は、寝癖のようにピンピンとあらぬ方向を向いていた。その言葉遣いから、それなりに年齢を重ねているようだが、その肌はそうは思えないほど若々しい。やや釣り上がった眼にふっくらとした唇。美人と言っても差し支え無いだろう。簡素なシャツとジーンズがその快活そうな表情に良く似合っていた。

「もうお風呂沸いてるわよ」

「うん、はつみさん」

 元気良く返事をしたゆとりは全く何の遠慮も見せずに、女湯、と書かれた暖簾をくぐる。中にはシンプルなロッカーが並ぶが当然客は一人もいない。つい、数十分前に着た制服をするすると脱ぎ、あっと言う間に一糸纏わぬ姿となる。

「うんうん、なかなかね」

 ゆとりは身長ほどもある鏡の前で、くねっ、と男好きのするようなポーズを取る。やや胸のボリュームには乏しいが、すらりとした手足に、コークボトルのようなウエスト、それにたっぷりとしたお尻を見れば、ナイスバディと言っても過言では無い。ガラス球のように透き通った瞳、すっと通った鼻筋、愛嬌のある唇。美少女アイドルと言えば、誰もが信じるルックスだ。

「ひゃあ~、一番風呂っ!」

 意気揚々と擦りガラスの扉を開ける。この世に、一番風呂ほど気持ちの良いモノはあるだろうか、いや無い。だが、湯けむりの奥、誰もいないハズの女湯に一つの影が揺らいでいた。

「へ?」

 間抜けな声を出したのは、ゆとりと同じ年頃の少年だった。短く刈った髪にラフなTシャツ。手にはデッキブラシなど握っている。釣り上がった眼、その顔立ちからはつみの子供であることは明快だ。だが、その眼も、ゆとりのあらぬ姿を見て真ん丸になってしまっている。

「ひゃあああああああああああああああッ! 龍聖のえっちぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!」

「どぐわッ!」

 ゆとりの爪先が龍聖の顎を強かに蹴り上げていた。普通の少女なら身体を隠すものだが、どうやら見られる前に潰す、という思考に至ったらしい。だが、思いっ切り脚を上げたものだから、龍聖から女の子の大事な部分が丸見えとなってしまう。鼻から噴き出す鮮血が、蹴りの衝撃に寄るものか、見てしまった興奮に寄るものか、それは龍聖にしか解らないことだった。

「あぶッ……」

 龍聖は頭から広い湯船に突っ込んでしまう。相当な量の湯が張っていたハズの湯船は瞬く間に、真っ赤に染まる。いったいどれだけの血液が流れ出しているというのか。

「ひゃああ、龍聖ッ!」

 ゆとりが、事の重大さに気が付いたのは、龍聖が腹を上にして浮かび上がって来てからのことだった。

                   ・

「痛ててててて……」

 真っ赤に腫れ上がった顎を涙目でさするのは龍聖だった。鼻にはティッシュが詰められており、痛々しく根本を赤く染めている。ずぶ濡れたシャツではなく、学校指定の制服が朝日を浴びて黒光りする。此処は、二人が通う高校の通学路だ。

「そんなに、大袈裟に言わなくてもいいじゃない……」

 バツの悪い顔で言ったのはゆとりだった。その口調には明確な悔恨が見て取れる。確かに、年頃の少女が裸を見られる、というのは何よりも耐え難い羞恥ではあるだろうが、それでも明らかにやり過ぎだった。

「俺じゃなかったら死んでたよ」

「だから、謝ってるじゃないっ! だいたい、はつみさんがいけないのよっ! 中に龍聖がいるって教えてくれなかったからっ!」

「ああいう人なんだよ。いい加減悟れ」

「ぐ……」

 龍聖はそれだけ言うと、少しだけ前に出た。ゆとりは何も言い返せず、その背中を見詰める。ゆとりの背も、同年代の女子に比べれば低い方ではない。だが、龍聖と並べば頭一つ分は差が出来てしまう。

「俺、責任取るから」

「え……?」

「裸見ちまった責任、取るからッ!」

 龍聖が前に出たのは決して怒っていたからではない。この一言を発した自分の顔をゆとりに見られたくなかったからだ。一体どんな顔をしているのか、自分でも想像も付かない。心臓は早鐘を打ち、絶え間なく血液を上昇させる。覚悟を決めた、一言だった。

「龍聖……」

 後ろに纏めた黒髪が、ふわりと揺れた。この一言は、ゆとりにとって待ち焦がれた一言だった。幼稚園の頃からずっと一緒に、それこそ姉弟のように育った。それが、何時の頃からだろうか、一人の男として意識したのは。

「わ、わ、わ、わた、わた、わた、私は……今は漫画のことしか考えられないよ……」

 しかし、ゆとりの口から跳びだしたのは、思いも寄らない一言だった。何故こんな事を言ってしまったのか、何故龍聖の好意を素直に受け止めることが出来なかったのか。漫画は確かにゆとりにとって何よりも大事なモノの一つだ。だが、腐女子だのオタクだの、龍聖に知られるのが怖くて、ずっと隠してきた。それが、何故この最悪のタイミングで出てしまったのか。乙女の、矛盾した恋心としか言い様が無いだろう。

「そっか……他に好きなヤツがいるのか……」

 ゆとりが漫画を描いているなんて知る由も無い龍聖には、ごにょごにょとしたゆとりの言葉、とりわけ漫画の部分を聞き取ることが出来無かった。ただ、解ったのは、最愛の幼馴染からの明確な拒絶。思春期の少年の心をズタズタにするには十分過ぎる言葉だった。

「あ、その、ね? 龍聖?」

 なんとか誤解を解こうとするゆとりだったが、その言葉が龍聖に届くことは無かった。だが、決して耳を塞がれていた訳ではない。ゆとりの言葉が小さかった訳でもない。奇妙な闖入者が二人の会話を阻んでいた。

「ドケドケドケドケェェェッ!」

 その特異なイントネーションと、金髪に薄っすらとした眉毛という風貌から日本人で無いことは明らかだった。長身の龍聖を遥かに超える巨体。無い眉を眉間に寄せる表情から、余裕が無いことは明確だった。

「な、なんだぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げる龍聖。ゆとりの表情も同様に動揺していた。金髪の大男が大岩のような身体を揺らし、こちらに走って来る。それだけでも肝を冷やすような有り様なのに、更なる衝撃が龍聖とゆとりを襲う。

「コルマコフ、もう逃げられはしない」

 まだ幼い、子供の声。だが、その歳に似合わないほどに落ち着いていた。ゆとりよりも遥かに小さい身体。さらさらとした銀髪が風に揺れる。本来は可愛らしい顔立ちなのだろうが、赤い瞳で鋭くコルマコフを見据える。こんな小さな子供が巨漢を追い詰めている、だが、驚くべきところはそこではない。右手に構えるのは、何処からどう見ても拳銃にしか見えなかった。

「クーデル・ポコレノフッ! 飼い犬風情がッ!」

「飼われなければ、我々に生き残る術は無いんだよ……!」

 対峙するクーデルとコルマコフ。緊迫する空気を他所に、この突飛な光景を見て龍聖とゆとりの二人はただ呆然とするしか無かった。

「なんだこりゃ……ドラマの撮影か? カメラはどこだ?」

「あの拳銃、ホンモノ?」

 ゆとりの疑問ももっともだ。こんな小さな子供が拳銃なんて扱えるはずはない。だが、その疑問も直ぐに解消されることとなる。

「これ以上抵抗するのならッ……!」

「くッ……!」

 クーデルの持つ拳銃から乾いた音が二つ。この平和な町には余りにも似付かわしくない爆音。弾丸がアスファルトを削り火花を散らす。コルマコフに届かないスレスレの距離。これは威嚇だった。

「次は……当てる」

「ちッ……やらせるかよッ!」

「ひゃあッ!」

 突然の発砲に呆気に取られていたゆとりは為す術無くコルマコフに捕まってしまう。首根っこを丸太のような腕に挟まれ身動き一つ取ることが出来無い。

「ボクに、人質が通用するとでも?」

「するさ……ひッ!」

 クーデルは躊躇いも無く引鉄を弾いた。鉛弾が直線を描きコルマコフの頬を掠めた。凄まじく正確な射撃。ひりつくような熱と共に、血液が一筋流れる。だが、これでコルマコフは確信した。

「ふ、ふふ……やはり当てれんようだな……その甘さが命取りよッ……!」

「ぐッ……」

 コルマコフはその表情に僅かに余裕を取り戻し、じりじりと後退をする。だが、逃げることで精一杯だったのか、この場にもう一人いることを完全に失念していたようだ。貫くような檄が飛んだ。

「ゆとり、合わせろッ!」

「……うんッ!」

 龍聖の言葉にゆとりは完全に覚醒していた。大男に捕らわれているという恐怖は何処へやら、震えは完全に止まり、身体中に力が漲る。愛おしい男の言葉は、此処まで乙女を変えてしまうのだ。

「がふッ……!?」

 僅かに身を屈めるゆとり。左の肘鉄が的確にマルマコフの脇腹を抉っていた。熱せられた鉄の棒を差し込まれたような激痛に、肺の酸素は全て絞り出され、新たに息を吸うことすらままならない。だが、マルマコフを襲う悲劇はそれでは終わらなかった。

「そうりゃッ!」

 龍聖の脚が風を巻き起こした。そよ風やつむじ風なんて生易しいものではない。例えるなら地上のあるモノ全てを根こそぎ巻き上げる竜巻だった。その勢いのまま、足の甲がマルマコフの頬を叩き付ける。どれだけの衝撃があったのか、想像もしたくない。

「ぐおふッ!」

 これまでに出したこともない大声で、その激痛を表現するマルマコフ。だが、その声もパンパンに膨らませた風船を割ったような音に掻き消されてしまう。この音が、人間の顔から放たれているなんて、信じたくも無かった。

「龍聖っ!」

「大丈夫か、ゆとり」

 もはやマルマコフに人質を締め付けるような余裕なんて有りはしなかった。拘束から解かれたゆとりは、マルマコフにダメ押しの膝蹴りを大事な場所に一撃食らわせてから龍聖に駆け寄る。

「ま、私たちの相手をするには少々役者不足だったようね」

「まったく、言葉の使い方を間違えてるぞ。それに、お前さっきまで震えてたじゃないか」

「う、うるさいッ!」

 先程までの異常事態も忘れて、何時もの二人に戻る龍聖とゆとり。その様子をクーデルは呆れた様子で眺めていた。

「ヤパーニヤの学生は、ずいぶんと強いんだな」

「お褒めに預かり光栄だな」

「ご協力、感謝する。それを、こちらへ引き渡してもらおう」

「こっちは被害者なんだぜ、ちょっとは説明してくれても良くない?」

 龍聖は足の横で横になったままのマルマコフを小突いた。その顔にあるのは苛立ちの感情。訳も解らないまま、こんなことに巻き込まれたのだ。何も知らされないままというのは少々癪に触る。

「一般人は知らなくてもいい。機密事項だ」

「へぇ……」

 カチン、とくる一言だった。普段の龍聖ならこんな子供の言葉に苛つくことは無い。だが、脚元に転がる大男と、子供の持つ拳銃を見れば、どうにも神経がささくれ立ってしまう。そして、それが判断を鈍らせる原因となってしまった。

「油断したなッ! クーデル・ポコレノフッ!」

 そう、コルマコフは既に目覚めていた。僅かな時間だったが、ダメージを回復させるには十分過ぎるほどだった。その巨体に似合わない俊敏さであっと言う間に龍聖とクーデルの間を走り去ってしまう。

「くッ……このッ……!」

 クーデルの判断もまた迅速なものだった。一発、二発とありったけの鉛弾をマルマコフに向けて発射する。だが、その全ては壁に、地面に当たり虚しく火花を散らすだけ。決してクーデルの腕が低い訳ではない。動いている的に命中させる、というのはそれこそ神業的技術が必要なのだ。

「逃がすかッ……!」

 もはやクーデルは龍聖に眼をくれることも無い。小さく遠くなってしまったマルマコフの背中を必死に追い掛けるだけだ。後に残された龍聖とゆとりはただただ顔を見合わせるだけだった。

「なんなの、あの子……」

「気付いたか? あの子が着てた制服、ウチのと同じだったぜ」

 間違いなかった。クーデルが着ていた服。ジャケットにカッターシャツ、それに赤のネクタイ。龍聖たちが通う高校の制服と、サイズこと違うものの、寸分違わぬものだった。

「うち、小等部とかあったっけ?」

「公立高校にそんなんあるわけないだろ」

「そうよねぇ……」

 だが、二人の疑問は直ぐに思わぬ形で解消されることとなる。

                   ・

「今日はみんなに新しい仲間を紹介するっ! クーデル・ポコレノフ君だっ!」

 ニノ三とプレートが掲げられた教室は、ホームルームには似付かわしくないちょっとした喧騒に包まれていた。担任が連れてきたその転校生が、高校生と呼ぶには余りに小さ過ぎたからだ。

「クーデル・ポコレノフです。短い間ですが、どうぞよろしく」

「クーデルは、ガンドルフ共和国の出身だが、飛び級をするほど優秀でな、その頭脳を買われて交換留学生として日本に来ることになった。まぁ、仲良くしてやってくれっ!」

 新たな仲間を歓迎し高らかに笑う担任。だが、そんな陽気な表情とは真逆な顔をしている生徒が二人。そう、龍聖とゆとりだった。

「ねぇ、あれ……」

「いやあ、間違いないな……」

 驚くのも無理の無いことだった。ほんの三十分前に、大男と激戦を繰り広げていたあの子供が、今こうやって眼の前にいる。誰が想像出来ただろうか。

「席は……お、龍城院の隣が空いてるな」

「はい、先生」

 龍城院と云うのは龍聖の苗字だ。担任に促されるまま、クーデルは龍聖の隣へと座る。ややもすると、冷たくすら感じる無表情だが、大方の生徒はそれが緊張から来るものだと好意的に解釈していた。だが、龍聖とゆとりには解っている。この顔の奥に、どんな感情が隠されているのかを。

「よろしくお願いします、龍城院さん」

「今朝は世話になったな、龍聖でいいぜ」

「……もしも話したら、殺す」

 龍聖にしか聞こえない、小さな声だった。しかし、その小さな声が龍聖を南極に置き去りにされたような錯覚に襲わせる。誰かに喋れば確実にクーデルは龍聖を殺すだろう。そう思わせる説得力が、確実にそこにはあった。

「まったく……穏やかじゃねえな……」

 なんとか軽口を叩く龍聖だったが、その背中には脂汗がじっとりと滲んでいた。

                   ・

 春にも関わらず、寒々しい風が吹いていた。そう感じるのはこの景色のせいだろうか。無味乾燥な倉庫が立ち並ぶ埋立地。龍聖とゆとりは丁度倉庫と倉庫の隙間にある小路に身を隠すようにして立っていた。

「まったく、たまったもんじゃないな……」

 そういう龍聖の眼は真っ赤に腫れ上がっていた。普段なら、授業中はバッチリ睡眠を取るという不良生徒の鏡のような龍聖なのだが、今日ばかりは一睡もすることが出来無かった。クーデルから放たれる無言の圧力(プレツシヤー)。余程神経が図太くなければ居眠りなんてそうそう出来やしないだろう。

「けっこう臆病なのね、龍聖って」

 龍聖とはまるで正反対につやつやとしているのはゆとりだった。徹夜明けの後に、溶けるような授業中の居眠り。これ以上の快楽が果たしてこの世に存在するだろうか、いや無い!

「お前にゃ負けるよ……」

 ややうんざりとした口調で呟く龍聖。だが、その視線だけはずっと先の小さな影を見据えていた。今日、自分にずっと殺気を向け続けた、あの子供だ。授業が終わってから、クーデルは脇目も振らずにこの埋立地に向かっていた。果たして何があるというのか? それを確かめたい、今の龍聖は、お門違いとも言うべき殺気を向けられていた怒りよりも、そちらに傾いていた。

「ねぇ、ほんとに尾行なんかするの?」

「アイツが何やってるか、気にならないか?」

「そりゃあ、気になるけど……」

 ぶつぶつと言いながらも、わざわざ此処まで来ているのだから付き合いが良い。いや、好いた男と一緒にいる為ならば何処までもついてゆく。それが恋する乙女というものだろう。

「ほら、止まったぞ……」

 クーデルは二つ先の倉庫の前で止まっていた。中の様子を探ろうとでもいうのだろうか、壁に耳を当てたままピタリとも動かない。

「なに、やってるのかしら……?」

「さてね、聞いてみる訳にもいくまい」

「なら、どうするの?」

「子供の頃からこの辺は遊び場でね、良く中に忍び込んでたもんよ」

 ニタリ、とした笑みを顔に貼り付けたまま、龍聖は差し足抜き足忍び足でクーデルがいる場所とは反対方向へと廻り込む。

「ほら、ここ」

「排気ダクト……ここから忍び込んじゃうの?」

「ちっちゃいときはよくやってたもんさ」

 慣れた手付きで辺りに転がっていた木箱を積み重ねる龍聖。即席の階段が出来上がっていた。これならば、十メートルは上にある排気ダクトにも届くだろう。

「それじゃ、行ってくるぜ」

 まるでちょっとそこまで行ってくるように気軽に言う龍聖。だが、今朝の騒動を見れば中に入ってタダで済むはずは無い。ゆとりの小さな胸には、予感にも似た不安が渦巻いていた。

「ねえ、心配だから携帯は繋いどいて……」

「あん? 心配性だな、ゆとりは」

「いいからッ!」

「へいへい、解りましたよ、っと」

 龍聖はポケットから携帯電話を取り出し、並んだ履歴の一番上を選ぶ。龍聖に電話を掛けてくる人物といえば、母親であるはつみかゆとりしかいない。

「ほら、これで良いか?」

「うん……気を付けてね……」

 心配そうに見送るゆとり。だが、その気持も届かないかのように龍聖は振り返りもせずにダクトの中へと忍び込んでゆく。

「お……通れる、通れる」

 子供の頃のことだから、どうなっているかと思ったが、手足の伸びきった今でも十分にダクトを通ることは出来た。生温かい風が顔を撫でる。倉庫としてまだ機能はしているようだ。

「龍聖、どう?」

「うん、通れる通れる。このまま中が見れるとこまで行ってみる」

「ほんとに、気を付けてよ……」

 だが、やはりその声も龍聖には届かない。今の龍聖の頭に有るのは、ただ好奇心だけ。この強い好奇心こそが、龍聖の長所であり、短所でもあった。

「さあて、不思議の国はどうなってる……?」

 ダクトの隙間を見つけた龍聖は光が漏れるそこへと眼を押し付ける。だが、眼に飛び込んできた光景は、余りに言葉にし難い、形容し難いものだった。

「どうしたの、龍聖……?」

「なぁ、ゆとり……今から俺が何を話しても、頭がおかしくなったなんて思わないでくれるか……?」

「思わないけど……どうしたの?」

「あのなぁ……外国人がな……」

「外国人が?」

「外国人が漫画描いてる……」

「はぁ……?」

 ゆとりが間の抜けた声を出すのも無理は無かった。だが、龍聖の言葉は紛れも無く事実。倉庫に並べられた幾つもの机、そこでは何人もの屈強な外国人が必死にペンを走らせていた。十メートルは離れているが、それはハッキリと見える。白い原稿用紙に黒いインクのコントラスト、見間違えようも無く、漫画だった。

「んなッ!?」

 茫然とこの有り得ない光景を眺めていた龍聖だったが、突然の闖入者に現実へと戻ることとなる。

「てやぁッ!」

 鋼鉄の扉をぶち破り、中に躍り出たのは小さな銀の影、クーデルだった。龍聖の眼には明らかでは無かったが、門番をしていた二人を瞬く間に沈黙させ、中央へと飛び出す。その様はまさに疾風と呼ぶに相応しかった。

「お前ら、やっちまえッ!」

 だが、多勢に無勢。漫画を描いていた十数名の男たちは一斉に立ち上がりクーデルを取り囲む。襲い掛かる男たちを巧みな体捌きで三人までは捻じ伏せるが前後左右に押さえ付けられれば、もう動くことすらままならない。

「卑怯者め、子供相手にここまでするか。改革派の名が泣くぞ」

「ふん、熊の穴相手に、これでも手緩いくらいだ」

 自分の二倍も三倍もある男たちに囲まれながらも、クーデルの表情は揺らぐことは無かった。だが、圧倒的優位に酔いしれているのか、対峙するリーダー格の男は侮蔑的な視線をクーデルへと向ける。

「熊の穴には恨みが有るんでな。泣いて謝ろうとも許さないぜ。生きているのが嫌になるほどの拷問……指に針を刺してやるか、手の甲に釘を刺すか、肛門に焼けた棒を突っ込んでやろうか、くっく……」

 リーダー格の眼にサディスティックな光が灯る。クーデルが何をされてしまうのか、そんなこととは程遠い、平和な日本に住む龍聖にも明確だった。ならば、今何をするのか、それも明確なことだった。不思議と、躊躇いの感情は存在していなかった。

「うおおおおおおおおおりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 唐突な雄叫びに、倉庫にいた全ての人間が上を見上げた。鉄の箱、つまりはダクトの一部が一直線に落下する。長々と繋がっているダクトだが、その構成は一ブロックごとに簡単に溶接している程度だ。中で暴れればそれはいとも容易く外れてしまう。数年前に痛い目を見て確認済みだった。

「おあぶッ!」

 これは龍聖の声ではない。場所が幸いしてか、狙い澄ましたかのようにダクトはクーデルの前に構えていた男の頭上に命中する。ダクトだけならまだしも、中には身長百八十五、体重七十五キロの巨体が詰まっているのだ、この憐れな男にとってみれば、爆弾が頭で炸裂したに等しい。

「名付けて、爆撃重落下ッ! なんてね」

「りゅーじょーいん、りゅーせーッ!」

 ら行が苦手なのか、舌っ足らずに叫ぶ。ポーカーフェイスが売りの、クーデルの表情が驚きに満ち満ちたものへと変わっていた。

「どうしてこんなとこにッ!」

「ヒーローは遅れてやってくるもんだろ」

「そういうことを言っているんじゃ……ッ!」

 クーデルの顔が引き攣る。その瞳に映るのは、銃口を龍聖の頭に突き付けたリーダー格の男、マルマコフだった。その顔に浮かべるのは、今迄と同じ嗜虐的な嘲笑。

「んーん、ヤパーニヤのコトワザではこういうのをなんて言ったかな……そう、混んで列に入るお邪魔虫だったかな?」

「いんやぁ、それを言うなら飛んで火に入る夏の虫だなッ!」

「なにッ……おぼぉッ!」

 鉛弾の威力も、龍聖にとっては何の障害にもなりはしなかった。銃口が当てられた頭をそのまま後方、マルマコフの顔面に激しくぶち当てる。ダイヤモンドのように堅い龍聖の後ろ頭と、鋼鉄製の拳銃に押し潰されればどうなるのか、もはや考えるまでも、見るまでも無いことだろう。

「はぁッ!」

 その有り様を見ればどんな屈強な男たちだって、一瞬くらいは呆気に取られてしまう。その隙を逃すほど、クーデルは甘くは無かった。強烈な裏拳が左で押さえていた男の頬を弾く。弾いた、というのが生易しく思えるほどの音が倉庫に鳴り響いていた。

「てやぁッ!」

 そのままの勢いに、後方にいた男の懐に潜り込み側頭へ廻し蹴りを叩き込む。肉と肉の弾け合う音、骨が軋み砕ける音。血液が迸る音。生きている間には絶対に聞きたくない不愉快な音だった。

「やるな……クーデルッ!」

 龍聖は瞬時にクーデルの本質を理解していた。窮地に追い込まれても尚、斬れ味の落ちないクーデルの身のこなし。いったいどれだけの修羅場をくぐれば、どれだけ苛烈な人生を歩めばこんな芸当が出来るようになるというのか。

「……俺も負けてらんねえッ!」

 だが、次々と軽やかな体術で男たちをなぎ倒してゆくクーデルに、龍聖の闘争心は今迄に無く刺激されていた。迫り来る大男、それを薙ぎ倒す凄腕の子供、謎が謎を呼ぶ大スペクタクルッ! 今燃えないで何時燃えるというのかッ!

 燃える龍聖に、クールに敵を倒してゆくクーデル。二人が倉庫の男たちを全員伸ばしてしまうのにそう時間は掛からなかった。

「龍聖ッ! 大丈夫ッ! って……アレ?」

 連絡が途絶え、居ても立ってもいられなくなったゆとりが倉庫に踏み込んで来たのは、龍聖とクーデルが男たちの全員を丁度縛り終わったときだった。

「あらあらまあまあ、ほんと鮮やかなものね……」

 外国人の男たちが縛られ中央に押し込められている。ある意味では壮観と言ってもおかしくはない。ゆとりは正直に感嘆の声を漏らしていた。

「それよりも、ほら。これ見てみろよ」

「これって……うわぁお」

 妙な声を上げるゆとり。それもそのはず、龍聖から渡された原稿用紙に描かれていたのは、妙齢の男女が絡み合う、いわゆるエロ漫画というヤツだった。ゆとりは両目を手で覆いながらもしっかりと原稿用紙を観察している。腐女子ということを隠している手前、龍聖の前では純情な乙女を演じなければならない。

「さて、ここまで巻き込んだんだ、この漫画も含めて、ちょっとは話してくれてもいいんじゃないのか?」

「勝手に巻き込まれたのは君の方だろう」

「む……」

 クーデルに詰め寄る龍聖だったが、クーデルは無感情にそれを受け流す。朝と同様に取り付く島がない、という言葉がよく似合う表情だった。これ以上問い詰めたところで、何か話してくれるとは思えない。

「く……くく……知りたいか、ヤパーニヤの少年……」

 声がするのは押し込んだ男たちの中央からだ。そう、マルマコフの声だった。

「マルマコフッ! キサマッ!」

 男の群れを掻き分けマルマコフを黙らせようとするクーデルだが、余りにもその量が多過ぎる。マルマコフが全てを喋るのは時間の問題だった。

「コイツはな、ガンドルフ共和国の狗だ……!」

「狗?」

 龍聖が首を傾げる。そういえば、朝もこのマルマコフはクーデルに飼い犬と侮蔑の言葉を容赦無くぶつけていた。

「改革派を名乗るだけのテロリストが何を言うかッ!」

「ふふん……ヤパーニヤの少年よ、ガンドルフ共和国がロシアの属国であることは知っているな。俺たちは、ヤツらの支配から逃れる為に戦う戦士。コイツらは支配を甘んじて受ける狗。いや、熊と言った方が正しいか……?」

「キサマッ……! あくまでも愚弄するかッ……!」

「このガキはな、ガンドルフ共和国諜報部独立特務工作部隊、通称熊の穴のエージェントだ」

『な、なんだってーッ!』

 龍聖とゆとりの声が綺麗に重なった。あの身のこなしから、只者ではないと思ってはいたが、まさか特殊工作部隊の一員だったとは。

「コイツはな、熊の穴でも特に危険なヤツだ。戦争男、ファイティング・コンピュータ、二つ名には事欠か無いぜ」

「好きで付けられた訳じゃないッ!」

「ロシアの足を舐める……国体を維持する為ならそんなガキでも工作員にする、それが今のガンドルフさ」

「お前みたいなのがいるから、ボクが工作員にならなきゃいけなかったんだッ!」

「この漫画もそうさ。ガンドルフでは性描写のある漫画は所持すら禁止されている。こんな馬鹿げた規制をぶっ壊す、それが、俺たち改革派の崇高な理想ッ!」

「世迷言をッ!」

 男たちを掻き分け、ようやくコルマコフを引き摺り出したクーデルは縄で拘束されているにも関わらず、容赦無くその襟首を掴み上げる。その顔、ポーカフェイスなんてものzではない。ただ、憎しみだけがそこには有った。

「くっく……そんなことをしている場合か……?」

「どういう意味だ……」

「熊の穴のエージェントが一人で踏み込むハズはない。後からお仲間が来るハズだったのだろう。だが、待てど暮らせど仲間は来ない。シビレを切らしたお前は運良くこのガキ共に助けられた訳だが。それがどういう意味か解るか?」

「……ッ!」

 侮蔑の表情を浮かべたままのマルマコフを突き放すと、クーデルは内ポケットに手を突っ込み携帯電話を取り出す。二言、三言と話すうちに、誰の眼にも明らかなほど顔色は真っ青なものへと変わる。

「ガンドルフが……無くなった……」

 力無くへたり込むのと、携帯が地面に落ちるのはほぼ同時だった。茫然自失というのはまさにこのことを言うのだろう。あの斬れ味は、もう何処にも存在していない。

「はーっはっはっはっはッ! クーデターが成功したのだよッ! もうキサマには帰るべき祖国は無いッ! 忠誠を誓う国家も存在しないッ!」

「な……あ……」

「おい、クーデル……」

 龍聖は愛国心なんて殊勝なモノ、全くもって持ち合わせていない。だが、クーデルにとって、それが自分自身を支えるプライドそのものなのだと、今の愕然とした表情を見れば簡単に解る。

「クーデル、出るぞ」

「え……」

 龍聖は、瞬時に何がベターなのか判断していた。クーデルにとっても、これ以上敵の腹の中にいることは得策ではない。何時、ヤツらの仲間が此処まで戻って来るか知れたものではないのだ。

「ふふふ……ふははははッ! 尻尾を巻いて逃げるか、クーデル・ポコレノフッ! お前ほどの男がなぁッ!」

「お前は黙ってろッ!」

「へぎッ!」

 今のクーデルはマルマコフに何か言い返す術を持ち合わせていなかった。だから、代わりに龍聖がありったけの力で拳骨をブチかます。

「ゆとり、手伝ってくれ」

「あ、うん」

 龍聖に言われ、クーデルの肩を支えるゆとり。その身体は、年齢通りに軽いものだった。

                   ・

「それで、なんで龍聖んちなの?」

 最初に口を開いたのはゆとりだった。時刻はもう夕暮れ、落ちかけた夕日が龍ノ湯の看板を赤く照らしていた。

「人間にとって一番いかんのはな、寒いことと腹が減ることだ。そんなときに良い考えなんて浮かぶ訳がねえ。ここには暖かい風呂も旨い飯もある、一石二鳥だろ?」

 根拠の無い笑顔をクーデルへと向ける龍聖。ややもすれば、鬱陶しささえ感じるその顔に、妙に救われた気分になる。だが、今のクーデルには弱々しく相槌を打つのに精一杯だっただろう。

「さ、狭い家だが入ってくれ」

「ああ……」

 朝と違ってもう暖簾は出ていない。漁港が近く、市場で朝から働く者相手の商売をしている龍ノ湯では、夕方に訪れる客は殆どいない。この時間に店仕舞いすることは不思議なことでは無かった。

「ただいま、母ちゃんっ!」

「お帰り、龍聖。なんだ、友達かい? しかも外人さんだ」

「ああ、日本の銭湯に興味があるってさ、ちょっと入れてやってもいいか?」

「あんたの友達なら大歓迎だよ。まだお湯抜いてないから入っといでっ!」

「ありがと、母ちゃんっ!」

 母との会話もそこそこに、龍聖はクーデルを連れ更衣室へと入る。手早くホコリまみれの制服をカゴに放り込み、汗ばんだ下着を脱ぎ捨てる。引き締まった身体を晒した龍聖はすたすたと浴場まで進む。

「俺、温度見てるからよ、脱いだら入ってきなよ」

「うん……」

 そう言い残して浴場へと入る龍聖。湯気の匂いが肺いっぱいに広がる。生まれる前から知っている匂いだ。一日の始まりも、終わりも、この匂いが合図となる。十七年間、ずっとそうだった。

「しかし、今日は汗かいたよな~」

 もう客がいないとはいえ、いきなり湯船に飛び込むような真似はしない。鏡の前に座り、シャワーで今日の汗を流す。そうこうしているうちにガラス戸の擦れる音が浴室に響く。クーデルが入ってきたのだろう。

「暖かいな……確かに落ち着く」

 プラスチックの椅子に座る龍聖の後ろに腰を屈めるクーデル。浴室には湯気が充満しており、湯に浸からなくとも、そのぬくもりを感じることが出来る。このぬくもりは、少なからずクーデルの頑なになった心と身体を解していた。

「どうだ、ジャパニーズ・サウナは?」

「ああ、熊の穴で少しレクチャーを受けた。ヤパーニヤでは背中を流すのがマナーらしいな」

「お、気が効くねえ」

 タオルで石鹸を泡立てたクーデルは弱過ぎず、強過ぎず、絶妙な力加減で背中を擦る。くすぐったいような、気持ちの良いような、不思議な快感が龍聖の肌に鳥肌を立てていた。だが、何時までも身悶えている訳にはいかない。

「なぁ、だいたいのことはあのマルなんとかってヤツから聞いたけどよ、話しちゃあくれないか?」

「うん……」

「話したくないならいいんだが」

「いや、話すよ……ボクは確かにガンドルフ共和国、熊の穴のエージェント。改革派を捕らえる為に、日本の高校に潜入したんだ」

「そういや、ヤツら漫画なんか描いてたな。ありゃいったいどういうことだ?」

「ガンドルフでは性的な描写のある漫画の販売も所持も禁止されている。日本で描き、ガンドルフで売れば麻薬や拳銃よりも遥かに利益が上がる」

「漫画の密売組織、ってことか。んで、クーデルはそれを追っ掛けてたと」

「でも……それももう終わった話だ……! 今のボクには何も残されていないッ……! どこにも行く場所なんて無いッ……!」

 愛した祖国はもうこの世界に存在していない。行き場の無い忠誠心。草一本生えることのない荒野に置き去りにされたような寂しさが胸を襲う。この空虚な感覚を埋める為に、眼の前にある大きな背中に抱き付いてしまうのも無理は無いことだった。

「おわッ! クーデル……んうッ!?」

 突然の抱擁に驚く龍聖。だが、驚愕はそれだけに留まらない。背中に当たるやわらかな感触。いくらクーデルがまだ子供で筋肉が未発達であるとはいえ、このような至福の肌触りを生み出せる訳が無い。龍聖にはそれが何であるのか、おおよその見当は付いていた。だが、一日という僅かな時間とはいえ、接してきたのは確かに少年であったハズ。

「クーデル、お前ッ……! うわぁおッ!」

 それは、想像した通りのモノだった。振り返った龍聖の眼に飛び込んで来たのはぷるん、と揺れる二つの球体。雪原のように真っ白い肌。くびれはまだ乏しいが、年齢に似合わないその豊かな胸がこれでもか、と自己主張していた。

「おま、おま、おまッ! お前、女だったのかッ!」

「え? ああ、そうだが」

 きょとん、とした顔で平然と答えるクーデル。何故、こんなに龍聖が慌てているのか、全く解っていない様子だった。

「そうだが、って……胸はどうやって隠してたんだ!?」

「これか? これはガンドルフ製のサラシで隠していた。任務の邪魔になるからな。胸も、女であることも」

「それを隠せるのか……すげえな……」

「ガンドルフの科学力は世界一、だからな……」

「クーデル……」

 自嘲気味にクーデルが笑った。誇ろうにも、もうガンドルフは存在しない。その寂しげな表情が龍聖の庇護欲というか、男の部分を弥が上にも刺激していた。そう、男の部分を……。

「りゅーせー、どうしたっ!? 股間が膨らんでるぞッ!」

「え、あ、いや、これは」

 思わぬ身体の変化に戸惑いを隠せない龍聖。いや、眼の前にこんな魅力的な身体があれば男として当然というものだろう。その上、年端も行かない少女と全裸で向き合っているという背徳感が、この上無く興奮を生み出していた。

「ヘンな病気じゃないのかッ!?」

「あひょーうおッ!」

 クーデルに悪気は無かった。ただ、龍聖の身体を心配してのことだった。だが、いきり勃ったその部分をいきなり掴まれれば、どうなってしまうのか。女の子のように甲高い矯正を上げても仕方の無いことだった。

「どうしたどうしたぁッ!」

 男湯と女湯を仕切るタイル塀を乗り越え、飛び込んできたのはゆとりだった。つい先程まで得体の知れない連中とやりあっていたばかりだ、この銭湯で良からぬことが起こったと考えるのも当然のことだ。

「また悪いヤツが……ってクーデルくん……いや、ちゃん?」

 ゆとりは、眼の前の光景にただただ口をあんぐりと開けるしか無かった。確かに、その格好も立ち振舞も男の子にしか見えなかった。だが、そこに揺れる二つのやわらかそうな真ん丸はどうだ。

「で……でかいッ!」

 それは、ゆとりの眼にも明らかだった。視線を忙しなく行き来させ、幾度も幾度も見比べる。だが、いくら見比べたところで負けているものは負けているのだ。

「おいッ! ゆとりッ! とにかく前隠せッ!」

「へ……? あ」

 眼の前にある二つの肌色は、高校生の男子にとって少々刺激の強いものだった。無意識に身体が生理的に反応しても無理からぬことだろう。だが、羞恥に身体を赤く染める乙女にとってそれを理解しろ、というのは酷なことだ。

「龍聖のエッチぃぃぃぃぃぃッ!」

「あじょばッ!」

 これが、既視感というものだろうか。龍聖の脳裏には眼の前にあるゆとりの蹴りと全く同じモノが浮かんでいた。だが、この圧倒的な存在感はどうだ。ゆとりの爪先が、強かに龍聖の顎を蹴り上げる。そう、この痛みは紛れも無い現実。

「ほう……素晴らしい蹴りだ……やはり、ヤパーニヤの学生は強いな……」

                   ・

「う……む……」

 僅かに唸り声を上げて龍聖はゆっくりと眼を開いた。木目の天井に蛍光灯。肌に触るのはざらりとした畳の感触。毎日見てる景色だ、混濁した意識でも解る。此処は龍ノ湯の奥にある自分の家、その居間だった。

「ん……? なんだ、これ?」

 後頭部にあるやわらかい感触に違和感を覚える。自分が使っている枕はソバ殻で固いやつだ。こんなにぷにょぷにょとした極楽のような肌触りとは天と地ほども遠い。

「お、りゅーせー、目が覚めたか」

「あれ、クーデル……?」

 眼の前に有るのはクーデルの顔だった。相変わらずの無表情だが、僅かに口の端が緩んでいる。きっと、これが精一杯の笑顔なのだろう。

「なんだなんだ、ずいぶん女の子らしくなっちゃって」

「そうか、な……こういう格好は苦手なんだが……」

 恥ずかし気に身を捩るクーデルを他所に、龍聖はまじまじとその生まれ変わったような姿を見詰める。ピンクのキャミソールにスカート。何処からどう見ても女の子、それもとびっきりの美少女だ。

「私のお古だけどね。こんなに似合うとは思わなかったわ」

 龍聖の横に座るゆとりだ。自分が着ていた頃とは圧倒的に違う胸の張りを見て、若干苛ついているようだった。

「しょうがないよ、ゆとり。外国人相手じゃ負けても恥ずかしいことなんか何にも無いんだぜ」

「見透かしたようなことをッ! だいたい何時までそこで寝てるつもりよッ!」

「ああん?」

 そう言われて初めて気が付いた。さわさわと指先で触れてみると、ぴくり、と震えた。そう、これは男なら誰もが羨むシチュエーション、膝枕だッ!

「気絶したときは気道の確保をしないといけないからな……このくらいの高さがちょうどいい……ん……」

 指先がクーデルの肌をなぞる度に、その形の良い唇から甘やかな声が漏れ出していた。龍聖は楽しんでいるかのように、いや確実に楽しんでいるのだろう、ピアニストのように指を弾いていた。

「龍聖、今直ぐやめないとそのスケベ面に下段正拳突き叩き込むわよ……」

「ひッ……!」

 龍聖を覗きこむゆとりの顔は、今までに見たことが無いほど憤怒に満ち満ちていた。般若とでも言えばいいか、不動明王とでも言えばいいか、兎にも角にも、逆らえば確実な死が待つ。そう本能が告げていた。

「なんだ、ゆとりも膝枕したかったのか。そうだな、何事も独占は良くない」

 うんうん、としたり顔で頷くクーデル。だが、当の龍聖とゆとりは困惑したまま顔を見合わせるだけだ。ヘンに意識してしまうというか、ギクシャクしてしまうというか、妙な空気が二人の間に流れる。

「……ほら」

 好いた男の頭が、何時までも違う女の膝の上に有るのは面白いことではない。意を決して、ゆとりは自分の膝をぽんぽんと叩く。早くこっちに来い、というジェスチャーだ。

「そ、それじゃあ、失礼します……」

 おずおずと、ゆとりの膝へと頭を近付ける龍聖。だが、健全な思春期の少年のスケベ心がただ黙っているハズは無かった。風呂場での、桃源郷のような光景が頭をちらちらと掠める。

「うぉぉぉぉぉぉッ! ゆとりぃぃぃぃぃぃッ!」

「ひゃああッ!」

 今、龍聖の頭にあるのは、このぱっつんぱっつんに張った、如何にも健康そうな太ももに思いっ切り顔を埋める。ただそれだけだった。これでもか、と頬を擦り付け、思いっ切り深呼吸。肺いっぱいに杏仁豆腐を百倍甘くしたような匂いが広がる。

「ひゃあっ! ひゃああっ!」

 人目も憚らずあられも無い声を出し続けるゆとり。龍聖を止めるだけなら頭に拳を振り降ろせば良いだけだ。だが、それが出来無い。ずっと、ずっと自分の膝枕で甘えていてほしい。そんな独占欲にも似た想いがゆとりの胸をいっぱいにしていた。だが、その想いもひとときの、儚いものでしかなかった。

「なんだ龍聖、モテモテだねぇ」

『うひょおッ!』

 二人の声が綺麗に重なる。ニヤケ顔を隠そうともしないでズカズカと居間に踏み込んで来たのははるかだった。突然の闖入者に龍聖とゆとりは飛び跳ね、背筋をぴんと伸ばし、正座の姿勢となって、真っ赤になったまま向かい合うしか無かった。

「いやあ、母さんもお前たちくらいのときはね、父さんと毎日乳繰り合ってたもんさ。それにしても、ゆとりちゃんだけじゃなく、こんな外人さんまで連れてくるなんてねぇ。母さん、鼻が高いよっ!」

「だあッ! 勝手に話を膨らませるなッ!」

「いやいや、恥ずかしがることは無いよ。ただ、避妊だけはちゃんとするんだよ、この歳でおばあちゃんにはなりたくないからね」

「だああッ! ナニ言ってんだッ!」

 風船のように留まることを知らず膨らみ続けるかに見えた母の妄想。だが、それを止めたのは不真面目の欠片も無くなった龍聖の顔だった。

「なぁ、母さん。相談があるんだが」

「なんだい、あらたまって」

「そこにいるクーデルだがな、ウチの学校の留学生なんだが、その……国がクーデターで無くなっちまってな」

「ああ、ニュースで見たわ。ガンドルフ共和国……だっけ?」

「そう、そのガンドルフ。それで、国からの援助が一切打ち切られちまってな」

「まぁ……」

 半分ウソ、半分本当だった。この可愛らしいクーデルがガンドルフ共和国工作部隊、熊の穴のエージェントで、国家反逆を目論むテロリストを追って日本に来た、なんて話を誰が信じるだろうか。

「そんでよ……その……ウチに、置いてやっちゃくんねーかな……?」

「りゅーせー……」

 クーデルの胸は今までに感じたことの無い、あたたかなモノでいっぱいになっていた。やわらかな綿で包まれているかのような、くすぐったくも気持ちの良い感覚。血湧き肉躍るような高揚感ならいくらでも味わったことがある。困難なミッションを達成したときに訪れる恍惚とした感情。無表情に見えるクーデルでも、その快感に病み付きとなっていた。だが、そんな荒々しい快感とは明らかに違っていた。

「タダで置いてくれとは言わねえッ! 店の仕事だってちゃんとやるしッ!」

「りゅーせー……優しいな……」

 感謝。今、クーデルの胸にあるのはその文字だけだった。両親は知らない。物心付いたときにはもう熊の穴でエージェントになるべく訓練をしていた。一晩の寝床、一口のスープを得る為に同じ境遇の子供たちを蹴落としてきた。それが、生きる為に当たり前だと思っていた。だが、この龍聖はどうだ。出会ったばかりの自分を家に置いてくれと頼んでいる。甘っちょろい、平和ボケした日本人と言ってしまえばそれまでだ。だが、その優しさがただ嬉しかった。

「ボクも、ボクも働くッ……! だからここにいさせてほしい……!」

「クーデルちゃんって言ったね……まったく、何言ってんだいッ!」

 龍聖の顔が厳しいものへと変わった。クーデルの胸に絶望が過る。ああ、ここを追い出されたらいったいどうすればいいのか……。

 だが、そんな不安は全く持って杞憂でしかなかった。

「まったく、何言ってんだいッ! こんな可愛い子を働かせるなんてバチが当たっちまうよッ!」

「わ、わぷっ!」

 クーデルから珍妙な声が吹き出る。無理も無かった。クーデルの健気な言葉に感極まったはつみにもの凄い勢いで頭を抱き締められていたのだから。

「それに、龍聖の嫁さんになるんだろっ? 好きなだけここにいていいんだよっ!」

「もごッ!? もごごッ!」

 何事か、抗議をしているようだったがはるかの耳に届くことは無かった。いったいどれだけの力で締め付けているというのだろうか、クーデルの肌はみるみるその色を失ってゆく。

「龍聖、良かったわね。可愛いお嫁さんが出来て」

「つか、そんなこと言ってる場合じゃないだろッ!」

 大慌てで引き剥がしに掛かる龍聖。かくして、極北の少女は、極東の銭湯に居候することになったのである。


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