9
無情に時だけが過ぎゆくのを、暗雲たなびく空が示していた。
前方には『彼ら』の群。既に空腹を覚えているのか、切り捨てた仲間の躯を貪っている。
紫は顔を伏せ、極力冷静な思考を心がけた。
剣吾の言うことは概ね正しい。正しいし、紫だけは確実にこの悪夢から逃げきれる。
けれど、どうしても拭えぬ予感が、一つ。
もし、もしもだ。
このまま別れて、逃げおおせたとして。
戻ってきた時、その光景が、死の一色で染められていたら。
今度はまた別の悪夢にうなされるかもしれない──。
──だから那津浦は厭なんだ。余計なしがらみ一杯で、思うようには振る舞えない。
ままならぬからこそ飛び出した。都会の風は、空っ風よりも冷たく厳しかった。
それでも歯を食いしばった。必要ならば何でもした。とても人には言え無いほど、手酷く弄ばれたのも一度や二度では無い。そうまでして掴んだチャンスを、あたら散らしてもいいものか。
──あたしにはやりたい事がある。だから、生きなきゃならない。それだけは確かだ。
不承不承、首を立てに一つ振る。それだけの仕草がひどく重労働だった。
それを見届けた剣吾は、ほうっと深い息をつき、初めて柔らかくほほえんで。
「ありがとう」
と、告げた。
あまりにも多くの思いが詰まった一言だった。
紫が初めて見る表情で、その笑顔を向けられた途端、紫の胸がぎゅうっと締め付けられた。
一気に頬が上気して、こんな時なのに目を伏せてしまう。
自らの心の在りようにひどく戸惑う。せめて何か、何でもいいから言葉を残そうと胸中を探る。
うまい言葉が見つからない。時間がない。逃げろ逃げろと心がざわめく。
とにかく、ガンバレでも死ぬなでもいい。出てくるままに任せようと顔を上げ、そこで紫は固まった。
剣吾の背筋が、いつの間にかしゃんと伸びていた。
お世辞にも美しいとはいえないが、大きく分厚く、力強い背中が、触れそうで触れられない距離を置いて聳えている。
その光景が決め手となって、奇妙に懐かしい感覚が込みあげた。
突然の幻視は、時間も空間も吹き飛ばして、記憶の中より一つの光景を蘇らせる。
ただただ野暮ったい容姿だったあの頃の自分が、数歩先を行く精悍な背中を見ている。
その距離、紫の足で三歩。それがいつもの距離。
息苦しい毎日ではあったけれど、二人並んで歩く道だけは清々しい空気に満ちていて、一日の中で一番好きな時間だった。
人寂しい影がちらついてるくせに、決してそれを口にしない。どんな苦痛に打ちのめされても、決して弱音は吐かない。
だが紫は知っていた。かすかに震える拳の中に、何かを握りしめ、頑なに手放そうとしない。
握りしめた物は、きっと恐怖で、そちらのほうが彼の本心だ。
──そうやってまた、格好だけつけようとして。強がるところが間違っとるんじゃ。
──本ッ当に何も変わってねぇんだから。バカタレが。
自然、呆れと諦めが入り混じった吐息が口をつく。
ここまで抱え込んできた筈の怨みもつらみも、持ち歩くのが急に莫迦らしくなった。
だって、思い出してしまったのだ。
風が強く吹く日、この背中はいつもより近くて。
父と揉めた日には、わざと道草を食って側にいてくれた。
言葉はないが、しみ入るような優しさがそこにはあった。
一方、この背中には手を焼かされることも多かった。
剣のこととなるとすぐにムキになるし、加減もないからすぐに相手が怪我をする。
その都度叱るのも叱られるのも、全て紫の役目だった。
懲りた、反省した、すいません。口先だけなら何度も言った。
その都度所在なげに視線をさまよわせ、じっと沙汰を待つ。
周りは『人喰鮫』などと呼び恐れたが、中身はとんだ甘ったれのまま。
今だってそう──殊勝なようでいて、なんにも懲りちゃいないのだ、この男は。
その都度信じた自分も、本当に甘い──というか、剣吾に甲斐性期待してる時点で大馬鹿だ。大馬鹿だから、こんな奴に惚れて、手酷く傷つけられて。
大馬鹿だから──許してしまうのだ。
「……剣吾。眼ェ、瞑れ」
冷えた音色を唇から紡ぎ出せば、己までもが野暮ったいあの頃の口調に戻っているではないか。その事にまた奇妙に頬が緩む。
「紫。時間がねぇ。いいから早く、」
「はよう!」
ぴしゃり放たれた言葉の鞭に、剣吾は思わず素直に目を閉じた。
てっきり平手の一つでも飛んでくるのかと歯を食いしばるも、ちっとも痛みが飛んでこない。時間がない、ふざけてる場合ではないのだ。するならさっさとしろ。
頭の中でだけ幾つもの不平を並べつつ、その時を待つ。
暗闇と静謐にくるまれた中で、一瞬一瞬がひどく長く感じられた。
十を数えても何事も起こらない。まだか──まだなのか。
剣吾の焦燥は破裂寸前、禿げ上がるほどに膨らんだ刹那、見計らったように訪れたのは痛みとは異なる、全く未知の、予想外きわまる衝撃。
音もなく、静かに。
甘く柔らかい物が唇に触れた。
瞳を、開ける。
あまりにも間近な所に、紫の巧緻極まるかんばせがある。
のみならず、ぷるりと瑞々しいひとひらの花弁が、己のかさついたそれと密着していた。
「~~~~~っ!?」
剣吾の血液が瞬時に沸騰し、全身の毛が逆立つ。
とっさにはねのけんと身じろぎをするが、思うより遙かに強い力で頭をかき抱かれた。
更に果敢に、紫の責めは続く。歯列の隙間よりまろび出た薄桃色の舌先が、じっとりと舐め溶かすように何度も何度もなぞった。辛抱たまらず、剣吾のささくれた閂が緩む。
すぐさま舌を穂先に変じ飛び込ませると、呼び合うように剣吾の舌先も動き出す。
(こっちの剣は、なってねェな)
んふ、と鼻で笑って余裕綽々、激しく貪るような紫の舌使いが、抵抗する剣吾をやりこめていく。
入念に歯茎までこそぐように、ねろねろと思うさま蹂躙する桃色軟体の感触。
脳髄を真っ白に焼かれながら、しかし剣吾はどうする事も出来ない。
次第に目元に酩酊の色が浮かび、腰が砕ける。
やおらの色責めにとうとう剣吾の野性も『おはよう』と場違い極まりない目覚めの伸びをした。
とうとう理性が焼き切れて、やにわに両手が持ち上がる。
その手がふくよか極まる双丘目指して離陸を始めた。わななきながらタッチダウンを敢行せんと飛び込ませると同時、ぷはっ、と音も高らかに大きく息継ぎをして飛すさった。
「ごっそさん」
まるきり親父の台詞と仕草でぐいと口元を拭うなり、未だ固まったまま指先だけを彷徨わせる剣吾を嘲笑う。そう簡単に触れさせるものか──妖狐の笑みで翻弄。
ひんやり冷たい手のひらが、そっと包む。夜陰の中でもなお強く輝く双瞳が、鮫の眼と絡み合う。
「……生きろ。帰ったら続き、してやっから」
続き? 続きとはなんだ──白黒させながらの視線の問いに、紫は困ったような、くすぐったいような微苦笑を浮かべた。
「だーらぁ、男にしてやるって言ってんだよ! いわせんな恥ずかしいっ」
ぺしん、と気の抜けた平手を額に一つ残し、紫はひらり山猫の足取りで駈け出した。
長い足はくるくるとよく回り、あっさりボートにたどり着く。
その姿がごま粒ほどに遠ざかってから、あきれるぐらいによく通る声が飛来した。
「お……おう!」
背中越しに野太く応えながら、剣吾はやにさがる頬を引き締めるのに必死だった。
──どんな励まし方だよ、この阿婆擦れが。
だが利いた。抜群すぎるほどだ。
無理矢理熱を持たされた身体に痛いほどの鼓動。
燻るばかりでちっとも燃える事の無かった心胆に火が入り、細胞の隅々に至るまでが叫び声を上げているかのようにむず痒かった。
爆発寸前──このまま止まっていたら、死ぬと思った。
動かねば。何でもいい、何かに目がけてとにかくこの激情を叩きつけねば、どうにかなってしまいそうだ。
──そうだった。前の俺は、こんなんだった。
──親も居ねえ。友達も居ねえ。好いた女は泣かすことしか出来ねぇ。
──いっづも不満で、不安で、仕方ねがったがら。
縋るものが欲しくて剣の道を選んだ。それその物になろうとさえしていた。
自らの肉体を鍛え、練り、研ぎ澄ましていく感覚。それが心地よくて、溺れた。
狂ったようにのめり込む内、気づけば誰も並び立つものがいなくなった……師である叔父でさえも。
何故だ──強者になった。もう誰にも負けぬ。なのに誰もが己を避ける。
心の中で吹く風はいっそう吹き荒び、更なる没頭でしか凌ぐ術を知らなかった。
剣しか知らぬ──知ろうともせず。
故に多くの事を見知らぬまま、にくからず想う者さえ言の刃で傷つけて。
いよいよ本当に一人になってから、己という刀には柄さえない事に気づいた。
何人たりとも持てぬ刃など、ただの凶器。
──俺の剣は、臆病風の剣だ。失う事がこええから、何でもかんでももんまで斬っちまう。
その事を悟るまでに、6年。果たして長かったのか短かったのか。
むしろ、気づけた分だけ幸運だとさえ思う。程良く錆びたこの身体。
──何も恥じることはねえ。
燃えるように熱い身体を、シンと醒めた頭が支配する。
冴えゆく視界が、闇夜にうごめく者どもの身じろぎを捉えた。靴音高く走り去る紫の方へめがけて群れなす一団、そのまっただ中へと飛び込んで、足元への一閃──柳剛流・脛斬り。
多流派からは邪道と謗られる、実戦本意の外道技。たちまち支えを失った亡者の首に刃筋を突き立てて、亡骸踏み越え立ちはだかる。
「ど、どこさ行くつもりだ」
ボソリ呟くしゃがれた声が、不思議と辺り一帯に響いた。
その声に、最早意志すら定かではない人ならぬもの達がにわかに後退る。
剣吾はゆらり一歩進みいでて、手近な一人に刀を振るった。
据え物でも斬るような何気ない動きだった。ただそれだけの事で、青ざめた顔がぱかりと縦に裂ける。
どう、と倒れ伏す間に跳躍し、自身の体重をたっぷり乗せた唐竹割りをまた別の一匹に見舞う。
ぱっ、と鮮血が散って、大地に黒々とした線を引く。それを呼び水として、剣吾と亡者の間に一筋の小川が流れた──…さながら三途。
疑念と怒りのおめきが、遠く近くに付和雷同する。しかし、それだけだ。
突如として豹変した獲物の様子に、戸惑うばかりで決して渡ろうとはしてこない。ただ敵意が膨れ上がるのばかりが肌に感じられた。
群雲が風に流され、夜空に皓々と満月が掲げられた。夜目にも分かる、青ちょびた面構え。
眼に二つばかり虚ろを宿し、行く手を遮る不埒者へとじわり不満を滲ませている。
「わ、悪ぃがココで、通行止めだ」
再び一歩を踏み出す。此岸と彼岸の間に分け入り、ぎらり白刃をつきつける。
双眸がほの暗い水面に映る満月のようにぼんやりと光を帯びた。雲霞の如くわだかまる者たちを、まなじり上げて睨めつける。
冷たく青ざめた光の中、血笑とでも呼ぶべき凄惨な笑みも露わに、告げる──。
「は、ハゲ同士、少し仲良くしようや」
◆◆◆
一人斬り、二人ねじ伏せ、三人目の腕が危うく剣吾の喉首を掠めた。とっさに地を這い、群れよりまろび出て立ち上がるなり、再び脛を払って転倒させる。
視線定かならぬ亡者達はそれだけの事で簡単に蹴躓き、まとめて3人が足を取られた。
もがく化け物の首を順繰りに刎ねて、ようやく一息つく。
いったい何匹斬ったか分からないが、いったい何匹残っているかもわからない。
既にして刃は血脂にまみれ、最早斬る用途には使えない。たなごころに響く感触は鈍く重く、その都度満身の力を込めて引き切る必要があった。運動不足の肥満体に、これは堪える。
粘っこい汗が不毛の額でぬらりと光る。やたらと目に入りかけるそれを拭いながら、髪があればもう少しマシだったか、などと詮もないことを思った。
それにしても身体が重い。研ぎ澄まされた意識に三拍も遅れてついてくる。
じきにこのズレが致命の一瞬を生むかもしれない。いや、間違いなく訪れる……。
ひたひたと押し寄せる弱気が、少しずつ死を引き寄せている。
雲霞の如く群がる敵は、剣吾が臆病者の顔が地金を覗かせかける度、獣の勘で襲い来る。
呑まれるな──呑まれたら一瞬だ。
今なお血潮は熱いままだが、背筋を伝う冷気に、眼前の死群の前にはいかにも頼りない。
──火だ。火が足りねえ。
何かもっと、胸焦がすものを。弱気も怖気も焼き尽くして、明日を拝むための火種がほしい。
そしてそれは、つい先程紫が置いていったことに、気付く。
『帰ったら続き、してやっから』
真っ先に蘇ってきた記憶が、よりにもよってそれだった。
ついで、口内にいまだ甘く残るあの感触──生涯得られぬと思われていた感触。
それだけであのザマだ。続きをされたら果たして一体どうなってしまうのか……童貞ゆえの逞しい想像力が、めくるめく一夜を幻灯のように回し続ける。
それにしても先ほどのあの舌遣い、一体どこで、いや誰で覚えたのか……見知らぬ誰かの影にぐぬぬと唸りが漏れた。宛先不明の殺意が無限に膨れ上がる。今はあまり考えないようにしよう。
完全にその気になった下半身が、恥知らずに猛る。猛然と灼熱した生臭い欲望が、怖気も弱気も焼き焦がし、剣を執る手も自然力が篭る。
(──ど、どうせならヤる事ヤってから死にてぇ)
何やらみっともなすぎてどうしようもない理由だが、この期に及んではもっとも効果的なテコ入れであった。
この幽明境を生き延びたなら。
無事に帰りつく事が出来たなら。
きちんと痩せよう。働きにも出て、増毛をしよう。出来たら訛りも直して、紫の横にいるのにふさわしい男になろう。
(──甘ェ夢だ)
死線の上を綱渡りしながら、剣吾は嗤う。己の愚かしさ、浅はかさを嘲笑う。
それでも剣吾は夢想する。己と紫、褥の中で互いを貪り合う光景を。
無論一夜限りで終わらせるつもりは無い。薄々分かってはいたが、どうやら己は、骨の髄まで紫が愛しいらしい。
なんとなれば今度こそ、ハッキリと己の想いをきちんと伝えねばなるまい。
今なら、この後すぐなら。少しは勝機がある──…多分。きっと。せめてワンチャン。そうあって欲しい。
仕事は──どうしよう。またぞろ叔父に頼るのもどうかと思うが、背に腹は代えられない。この際だ、剣を持つ手を竿に変えてみるのもいいかもしれない。
とにかく金を貯めて、東京へ行こう。きっとそこでまた、あらゆる現実に打ちのめされるだろうが、構うものか。
釣り合うかどうかは分からないが、何もしないでいるのはもう御免だった。
夢うつつの間の中に刃が踊る。
一人斬り、二人ねじ伏せ、三人目の喉元に渾身の突きを見舞う。ひゅうひゅうと喉笛鳴らして崩折れた。
四人目は逆袈裟の一太刀に腸をぶちまけさせられ、五人目、受けた右腕ごと肺腑まで届く横薙ぎで吹き散らされる。
微かに残った知恵の残滓を働かせ、群れなす亡者が肥満の剣鬼を囲う──その数、未だ数えきれず。
湧き上がる思いが口をつく。息が上がるにもかかわらず、叫ばずにはいられなかった。
「ああ──生きてェな、こん畜生ッ!」
八つ当たり気味に化け物の頭を打ち据える。
が、頭蓋の丸みに刃が滑った──致命の間隙、恐れていた刻の到来。
迫る無数の腕、鈍く光る黄ばんだ歯列。死が波濤となって押し寄せる。
『生きろ』
再び蘇った声に、気勢が爆ぜた──剣を振るった自身にも理解の及ばぬ電光石火。
我が身と剣閃がぐるり輪を描き、押し包む亡者の腕を瞬時に切り飛ばした。視界の斜め上、無数の腕がくるくると舞い踊り弧を描く。
那由多に引き伸ばされた体感時間の中、尚も勢いは緩めない。真横一文字が、縦へと変じる。
頭上いっぱい掲げた白刃が、天をも断ち割る勢いで迸る。先ほど仕留め損ねた一匹が、今度こそ頭から真っ二つになった。
刀勢たゆまず、剣閃逆巻き跳ね上がる──未だ仲間の死を見送る亡者が両断される。
(──まだまだ、)
遠い。刃であったあの頃なら、もう五つ、六つは切り捨てている。
余計な力みが身体と得物から切れ味を奪い去っていく。
なけなしの体力は既に底。視界はかすみ、飲み下した唾は血の味にまみれて。
もはや死にあらがっているのか、死に成っているのかさえ定かではなかった。
──それがどうした。
これが、今の己の剣だ。
生き意地はった、なまくら刀だ。
「キレはねェけど、しつけェぞ!!」
叫ぶ言葉そのままに、もはや棒切れと変わらぬ獲物を叩きつける。
終いには蹴たぐり、柄尻で殴りつけ、転がりのたうちまわりながら、ひしゃげた刀で盲滅法斬りつける。
それは、剣舞と呼ぶにはあまりにも泥臭く。
熱狂も何もなく、冷たい血煙舞う中、月だけがその業を見届けていた。