8
私、新名紫は、本当のところ那津浦が大嫌いだった。
母も叔母も、そして叔父の剣蔵も亡く、僅かな身寄りだけしかいない我が家を彼らがどう見ていたか──それを思うと、少なくとも好きにはなれなかった。
故に、剣吾のことは人一倍気にかけて、気づけば彼のことが何より大事になっていた。……それもこれも、あの日、互いにすれ違うまでの話だが。
それから先は、ただ己を磨き上げることにだけ情熱を注いだ。
正直なところ、誰にも負けぬつもりでいた──…しかし実際のところ、上には幾らでも上がいた。『声だけは天使』だと褒められたが、私はどこにでも居る、の女の子に過ぎなかった。
思い出されるあの日の言葉──『勝負事は甘くない』『甘く考えるな』。癪な話だが、実際そのとおりだったわけだ。
何度も泣いて、何度も帰ろうと思った。その都度、憎くてたまらぬはずのあの声が蘇り、紫の萎えた心を叱咤した。
『負けたら終いじゃ。勝たねばならん』
その言葉を裏返せば、『勝つまで辞めるな』ということになる。勝手な解釈だが、これは中々気に入っていた。
そうだ。あの窮屈だった町も、口さがない人々も、ガキ丸出しで私を傷つけたアイツも、見返すまではやめられない。
成功するまで帰らない──そんな決意でがむしゃらに日々を生き、とうとう故郷に錦を飾る時が来た。そのはずなのに。
何故この男は、尽く私の期待を裏切るのだろう。
何故、いつもいつも、私の心をかき乱すのだろう。
腹がたって仕方がなかった。
アレだけ啖呵を切っておきながら、彼は惨めに落ちぶれていた。ハゲ散って、デブっていた。少し北の総書記に似ていた。
私の、思い出の中の剣吾はもうどこにもいなかった。理想の剣吾像はとてもお見せできない。今の剣吾は、私の妄想に失礼だった。
再開した日の夜、こんなのは違う、消えてしまえと何度も願った──でも、だからと言って。
ねえ、剣吾。この土壇場で、そんな顔をしないでよ。
それじゃ、まるで本当に──。
◆
『電波が届く場所へ行こう』。
その事自体に、紫も異存はない。
異存はないのだが、ここを出るという選択には反対だ。反対なのだが、
「……SPじゃぞ。無理じゃ」
こう言われては仕方がない。
話の続きは、こうだ。
まずはここを突破し、電波の良い場所を探す。見つかったら叔父と警察に連絡を取り、島の状況を伝える。その後で、迎えを寄越してもらう。
「……時間を待って、フェリーに乗ったらええんじゃないのか?」
「ならん。何の準備もできとらんのに合流すれば、犠牲が増える。最悪、全員死ぬ」
「なら……迎えはどうするんじゃ」
「一応、考えてはある。……ただ、」
「ただ?」
それまでキチンと喋れていた剣吾が、急にまたしょぼくれた。
散々に文字ついた挙句に額の汗を拭い、それをまたシャツで拭ってから、おずおずと右手を差し出した。
「昨日みたいな真似は、やめてくれると、た、助かる……んじゃが……」
まだ色々とわだかまりはあったが、紫はその右手の先を、ほんの少しだけつまむ──『まだ許していない』。そういう意思表示のつもりであろうが、それでも剣吾は、ひどく救われる想いがした。
まずはここから、どう出るか。それを練る必要があった。
◆
手に手をとって──とは行かないが、二人の息は合っていた。
昨日の焼き直しのごとくに森へ分け入り、『彼ら』の目をくらます。追手の気配があれば息を潜めてやり過ごす。
最悪見つかった時にだけ、剣吾が刃を抜き放ち、『彼ら』とやりあった。
『彼ら』は手強いが、群れでなければ何とかなった。
「うう……キモい……クサい……」
一息入れる間にボヤいたのは紫だ。
二人は、ホテルで仕留めた敵の血を頭から被っていた。そうした上で彼らの動きを見まね、ホテルの裏口からそっと顔を出す。
そこにも『彼ら』は居るには居たが、何とか『仲間』と認識してくれたらしい。一か八かの作戦が見事図に当たった格好だ。……もう一度やれというのは、さすがに御免被るが。
「気持ちは分かるが、もうちょいじゃ。我慢せぇ」
うんざりしながらも紫は無言で頷いた。先刻以来、泣き言一つ漏らしていない。
剣吾に持たされた携帯をにらみ、しきりに角度を変えてみる。
「……ダメじゃ。もっと本土に寄った方がいいかも」
「とすると、浜辺の方か……」
剣吾も紫も、頭を抱えたくなった。
本土側に面した那津小浜は、先ほど二人が目指した場所だ。
ただしそこは開けすぎていて、月の光に晒される。見つかればひとたまりもないだろう。
「港の方は?」
紫の提案に、剣吾は眉間に皺を寄せる。
「一晩考えたんじゃが、生き残りがおれば、そこから皆逃げたはずじゃ。そしたら今頃、本土でも騒ぎになっちょらんとおかしい。ところが救助はともかく、船さえ見えん。……もう何時間も過ぎてるのにな」
「……じゃあ、つまり」
「皆死んどる可能性のほうが高い。……もしかすると、連中泳げるのかもしれん」
推論しておいてなんだが、これではあまりにも前途が暗い。
希望に溺れるのもまずいが、悲観しすぎても生きる気力を失うだけだ。
今度はつとめて、明るい声で慰めた。
「じゃから、港へ行くのは後回しじゃ。もう少し電波が拾えるか試して、それから当たろう」
◆
森の中をさまようのは、意外なことに少し楽しくもあった。
恐怖にも変に慣れてしまって、もう喚いたり騒いだりはしない。
真夜中にやる鬼ごっこの気分──これは少し言い過ぎか。
どうも奴らは、視覚よりも嗅覚を大事にしている様子だった。その次に聴覚。最後が視覚。
その事を教えてくれたのは、他ならぬ剣吾だ。私が失意と絶望で不貞ている間、ずっとそんな事を考えていたらしい。
流石は『勝利教』の信者というべきか。まだまだ全然、折れていない。
◆
ところで携帯の反応はというと、全くのナシのつぶてだった。
もう長いこと歩いているのに、アンテナ一本たちゃしない。
「や、山道だからな。思ったより距離が稼げてねぇ」
そう言って剣吾は慰めるが、それは嘘だと分かった。狭い島なのだ。土地勘が薄くてもだいぶ歩きまわったのは分かる。
やはり那津小浜か港の方へ行くべきだ──口にこそしなかったが、さっきからずっとそう思っていた。
◆
……とうとう見覚えのある建物が見えてしまった。ホテルだ。
ぐるり一周、それでも電波はつながらない。
ここに来て徒労感が一気に押し寄せ、暗い視界が更に暗くなった気がした。
私はもう疲れきっていたし、剣吾の方はもっとだろう。このまま明日を待つというなら、またあの裏手に回らなければならない。
しかしもう奴らの血は乾いているか汗で流され、偽装のしようがなかった。下手に近寄ると、今度こそ……。
ここまで来て、お終いなのか。決して考えまいとしていた一言が、脳裏をよぎる。
今度こそ絶望に沈みかけたその時、剣吾は私の方を振り向き、力強く語りかけた。
「……港へゆく。船を探そう」
◆
那津浜港の景色は、もうすっかり闇に慣れきった私達にとって目に痛いほどだった。
燦然と輝く月や星が、浜辺の景色を鮮やかに映し出している。
だから希望も絶望も、その両方がはっきりと全てが見渡せた。
森を抜けた矢先の断崖、私たちの足下に、視界一杯広がる波止場と海。
一番奥の船着き場、奇跡的に無傷のボートが一隻──それが希望で、
獲物を求めめてたむろする『彼ら』の群──それが絶望だった。
その景色を眺望して、私と剣吾は言葉もなく佇んだ。
「どうする、剣吾?」
「そうさな……」
言いながらも、剣吾の目に思考の色はない。既に胸中答えはあって、それをどう告げるべきか、そちらの方で迷っているようだった。
この期に及んで、何を迷う事がある──自分のことを棚に上げ、じれったく思ったその時だ。
よりにもよってこんな時に、しじまを切り裂く電子音。
希望の鐘だと思っていた物が絶望の音色を奏でたとき、彼らがいっせいに振り向く。
その目に、口に、満面の希望の色を浮かべて。
◆
「剣吾か!? そっちはどうなっとる!? 何があった!」
焦燥に焼かれた父の声が耳朶を打つ。だがもう返す言葉もなかった。
しかし剣吾は違った。呆ける私から携帯をむしり取り、大声で怒鳴り返す。
「とりあえず死にそうじゃ! 大至急で応援よこせ! 相手は化け物じゃ!」
鋭く必要なことだけ言うと、再び私に携帯を押しつけた。
同時に私の手を掴み、まっしぐらに断崖を駆けくだる。
いよいよ狂ったかと思ったが、しかしそうではなかった。機先を制して「彼ら」の中に飛び込むや、抜刀一閃──一番手前の化け物の首が吹き飛ぶ。騒然とたたらを踏む彼らの間を突っ切り、ジグザグに走り抜る。目指す船着き場の影から、またしても彼らが2匹。それをも片手の一刀でなぎ払い、とうとう船着き場の前へ着く。
そこで剣吾は私の手を離して背を向けた。
抜き身の刃を構えたまま、視線はまっすぐ前方を見据え──背中越し、先刻迷った答えを告げた。
「ここでお別れじゃ、紫」
吹っ切れた声が風に乗り、私の耳へと滑り込んだ。
しかし意味づけることが出来ない。ただの音としてしか認識できない。
ここで、お別れ──ここで?
「…──え?」
もうすぐそこに死が迫っているにも関わらず、私は呆けたまま動けなかった。
◆
動けない私の様子に気づいたか、剣吾が背中越しにわずかに振り向く。広すぎる額に汗、必死の形相。
「お、お、俺はここさ残って、アイツらを止める。オメェは戻って、応援ば連れてこい。それまで、何とか持ちこたえっから」
意味を解するのに数秒。やっと、頭が働く。言葉が漏れる。
「な……何言っとるん!? 馬鹿言ってないでさっさと、」
「ダメだ! 俺の言う事聞け!」
常になく強い剣幕に、私は思わずすくみ上がった。
『すまん』と大声を詫びてから、私と化け物、双方の扱いを計りかねるように視線をさまよわせた。懸命に言葉を探し、紡ぎ上げる。
「か、考えて見ろ。まだアイツら、全部こっちに来ちゃいねえ。今が逃げ切るチャンスなんじゃ。 ……け、けど、ボートは小せぇ。俺が乗ったら、足が鈍る。そしたら二人共おしまいじゃ」
真に我が身が大事なら、従うべきだ。ただそれだけの事でいい。
そもそも、明日になれば東京へ戻るのだ。戻れば私には仕事がある。
これから先、再び顔を合わすと保証もない。遅かれ早かれ、今生の別れは訪れる。
では何故、こんなにも迷うのか……剣吾は戸惑う私を余所に、どうにか説き伏せようと思いあぐねる様子だった。いつしか分厚い手のひらが、私の肩に乗せられていて、三白眼に決死の色を滲ませ、
更なる言葉を重ねてきた。
──お、俺と紫じゃ言葉の重みが違う。人を向かわせるなら、絶対にそっちの方がいい。
──そ、そもそも俺じゃ、言葉がつかえて仕方がねえ。
──出来るとしたら、せいぜい囮だ。す、少しは心得もあるしよ。
よくもまあ口べたな男が頑張ったものだ。思わず『コイツこんなに喋れたっけ?』などと、場違いな感慨が浮かんでしまう。
肩に置かれた手の熱さが、私の心を鷲掴む。ぐっと力が込められた。しっかりと私の目を見据える。
「どの道、アイツらは放っておけねぇ。適材適所なんだ。わ、わかるな?」
どうしよう。どうすればいいのだろう。
この期に及んで、私は──。