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「え……?」
紫の声が当惑に震える。剣吾には答えようもない。剣吾のその一言は、意志の一切を通過せずに生まれていたのだから。
しかし言ったからには後にも引けない。ますます動揺して、言葉の棘は育っていく。
「甘いっち言うたんじゃ。……アイドル言うたら、その、アレじゃぞ? 東京じゃぞ? 沢山ライバルおるんじゃろ!?」
「おるよ。……おるはずじゃ。でも、やってみなきゃ分からんし」
「勝負事はそんなに甘くないんじゃ!」
違う。こうじゃない。
本当に言いたいことは別にあるのに、燃え盛る激情が言葉を焼きつくす。
心の底の底にある、本当に伝えたい別のこと、それがどうしても出てこない。
何故こんなに激しているのか、自分でもわからない。分からないが、言ってることも本音には違いない。
唯一明白なのは『こんな言い方じゃ紫が怒る』という事だけ。しかし実のところ、なんにも分かっていなかった。
「……何故じゃ、剣吾。何でそんな事を言う」
予想とは裏腹の、か細すぎる声。すんっと一つ鼻を鳴らすと、紫の両目からポロポロと涙が零れて落ちた。
愕然とした。こんな事は初めてで、どうしていいかわからない。紫の涙など、想像したこともなかった。
「紫……」
呆けのように名を呼んだ。続く言葉が出てこない。おろおろと手を伸ばし、触れようとした刹那に弾かれた。
「何でそんな言い方しかできんの? ウチ、そんなに悪い事した? ……いつも鬱陶しい言うっとた癖に! たまにはウチの好きなようにして、何が悪いんじゃ!」
紫の声は、怒りと悲しみに乱れていた。長い髪も逆立つほどに震わせ、全身で抗議している。今まで耐えに耐えた何か、それが一気に吹き出している。
「……好きにすればよかったんじゃ」
「出来るわけなかろうが!」
「なンで!?」
「ウチがほっといたら、おんしゃ一人になっとったじゃろうが!!」
今度は剣吾が絶句し、紫の肝が一瞬で冷えた。
奈落に突き落とされた気分だった。可哀想だから、側に居たのか。剣吾がいなければ今頃紫はもっと自由で、のびのび歌うことが出来たのか。だとしたら己は一体なんだ。
何でここにいる。何で生きてているのか。そもそも、生きてていいのか──一瞬にしてわからなくなり、足元がふらついた。
「俺、邪魔やったか」
無意識の内の言葉が、虚空に溶ける。紫の表情が青ざめる。
「違うよ、剣吾。ごめん、今のは嘘じゃ──」
「触んな!」
差し伸べられた手を振り払う。紫の手が、その時だけは酷く汚いものに見えた。きっと錯覚だ。紫の手が汚いわけがない。もし汚いのなら、それは剣吾が触れたせいだ。
だったら、離れるしかないではないか。己の身体は、心は醜い。とても醜い。それだけははっきりと自覚できた。
「……どこへでも行ったらええわ。ほいで、もう俺に関わんな」
吐き捨てる。最悪の気分だった。もう誰に、何に怒っているのかもわからない。どうしていいのかも。
未だ涙目の紫が、しつこく追いかけて深々と頭を下げる。下げ続ける。こんな事も初めてだった。いつだって間違えるのは剣吾の方で、多分今回もそうなのだ。
それなのに、紫はひたすらに謝り続けている。ごめん、許して。もう言わない。アレは違う。そんな事思ってない。謝られるたび、自身の醜さが浮き彫りになった。
(──もう、知るか)
剣吾はもう、紫を見なかった。耳を塞いで、彼女の存在を無視し続けた。紫が戸惑うその様子に、いつしか小気味よささえ感じていた。
紫に対する感情は、何もかもが裏返っていた。
顔も見たくないから、誰より早く起きて家を出た。そうして遅くまで剣を振る。徹底して距離をおくうち、とうとう紫も諦めた様子だった。
あの時感じた胸苦しさは、一体何だったのか──ついに答えの出せぬまま、時は流れ。
紫が受験に合格し、東京へ巣立って行くその日まで、ついに二人が言葉をかわすことはなかった。
◆
翌朝になっても、剣吾の気は晴れなかった。
会いたい。しかし合わせる顔がない──同じ逡巡ばかりを繰り返し、眠りについたのは明け方の少し前。
眠りも浅く、鏡を見れば酷く疲れた己の顔……。5年の間に脱毛が始まり、今は往時の見る影もない。
それで己を罰したつもりになっていたが、これはそんな、上等なものではない。
この顔は、怠惰に溺れた男の顔だ。
己に負けて全てが終わった、そういう惨めな顔だった。
(……やっぱ、無理じゃ)
今日はこのまま、大人しく寝ていよう──くたびれ果てた身体引きずり、布団に横たわったまさにその時。
「何じゃ、まだ家におったのか」
いつの間にか亮司が部屋に上がり込んでいた。全く気づけなかったのは、それほど思い悩んでいたのか、それとも勘が衰えたのか。
「昨日、紫に会って来た」
いきなり爆弾を放り込まれ、剣吾は飛び起きた。
「……紫は、な、なんて」
「なんも。相変わらずじゃ。少し様子を聞いて、後は『仕事がある』って、それだけじゃ。今まで連絡よこさんかった癖に、詫びの一つもありゃせんかったわ」
そう言って叔父は肩をすくめたが、顔にはありありと喜びが浮かんでいる。久しぶりの交歓に、自分の話は出なかったのだろうか──気になる。しかし、口には出せない。
故郷での仕事だというのに、実家にさえ顔を出さない事実が、彼女の答えにも思えた。
結局すべての言葉を飲み込んで、叔父に背を向けた。これが答えだ。もう、そっとしておいてほしい──。
塞ぎこむ剣吾の背に、叔父が何かを投げつけた。拾い上げてみる──『那津子島ブルギルフェス』のスタッフ証。
「……これは」
「一人バックれおってな。それでどこでも自由に入れる。……ただ、スタッフ扱いじゃからな、島で仕事はしてもらう」
「でも」
言葉を続けようとして、やはり言葉は出ない。どこでも入れる。それは即ち、楽屋にだって──。
萎えていたはずの気持ちが、急に息を吹き返す。強烈な思慕が胸に湧いて、全身が疼いた。
「……そうそう。紫からおんしゃに伝言じゃ」
振り返る。亮司はの表情こそ厳かだったが、その目はどこか笑っている。
「『おんしゃの眼は節穴じゃ。ざまあみろ』ってな」
それが、止めの一言だった。
腹がたった。腹がたって、そして嬉しかった。まだその程度には、気にかけてもらえていたのだ。
せめて、ひと目だけでもいい。遠巻きでもいい。紫の『今』を直に見て、その時に答えを決めよう。
着の身着のまま飛び出して、まっしぐらに港を目指す。今の気分を表すように、額が日差しと強く反射した。
亮司はそれを見送りながら、「やれやれ」と嘆め息ひとつ。これも血筋か、我が子達は本当に手がかかる。