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オーシャンフォート那津小島、12階──最上階。
予想通り近くに居た影を死に物狂いで振り払い、とうとう辿り着いたそこは、他のフロアと何もかもが違っていた。
まず、光が溢れていた。外周の大半がガラス張りで、そこから月と星が光を差し伸べていた。暗闇に慣れきった視界にはそれでさえ眩しい。
一歩踏み出せば驚くほどやわらかい感触。だが頼りないという感じでは無い。毛足の長いカーペットが延々と続き、それが剣吾の足音を吸い込んでいく。
半円を描く回廊を中程まで行けば、そこがゴールだ。
『鍵がない』と女が喚きだしたのは、丁度部屋に着く頃になってからだった。
大方そんなトコであろうと踏んでいた剣吾は、慌てず騒がず、女を降ろして腰のものをしゃらりと抜き放つ。
全長103センチ、刃渡り85センチの無骨な刃──刀ではない。鮪包丁だ。月と星の光を浴びたそれが、血を吸い慣れた独特の凄みをギラリと放つ。
「何それ!? どこでそんなもの!?」
「み、港の方で、ちっとな」
短く答え、呼気も鋭く扉に一閃──澄んだ音を立てて錠前だけが割れた。どうやら腕は鈍ってないらしい。
唖然とする女を部屋に放り込み、自らもそれに続く。
窓越しの月明かりが部屋の中ほどまで差し込んでいて、大まかながら部屋の様子は見て取れた。剣吾はすかさず指示を飛ばす。
「なんか、塞ぐもん!」
「はぁ!? 」
「壁さ作る! 何でもいいから! 早う!」
「うざッ……分かってるし……! 何様だよマジで!!」
女も不平を言いつつ手は止めず、月明かりを頼りに次々と調度品を運ぶ。
最後に二人でソファを運び終えるやいなや、どっと疲れが吹き出した。
もう限界だ。束の間の安堵と達成感に包まれながら出来立てのバリケードを背に、とうとう力尽きる──目を閉じた直後、横で威勢よく罵声が飛び出した。
「ああもう、痒い! 触られたトコがマジ痒いんだけど!? しかも臭いし!! キモい死ねマジで!」
「し、静かにしろっで。奴らが寄ってくる」
潜めた声で叱責をすれば、不遜な舌打ちが一つ。
しかしそれ以上は不満を漏らさず、女も同じようにへたり込んだ。
二人、そのままぜいぜいと喘ぐ。
荒げた呼気が少し落ち着く段になって、女の口から極々当たり前の疑問がこぼれた。
「……何なの、アレ」
「……わからん」
分かっていることは少ない。アレは『人』のようだが、『人』ではない。言葉は通じず、獣のように襲いくる──…他の誰に聞いた処で、それ以上のことは答えられまい。
それで十分。アレは、『敵』だ。
その認識さえ確かなら、他に必要ない。なすべき事も二つに一つ。斃すか逃げる。それだけだ。
問題はどちらにせよ『極めて困難』であることだ。
助けた相手がもう少し協力的であれば、また話は違うのだが──……。
内心ボヤきつつ隣人を目を移せば、思うよりも遙かに近いところに、巧緻極まる女の面差し。
長い睫毛は伏せられていて、ゆるくほどけた口元から、未だに熱い吐息を漏らし続けている。
細い喉首鳴るたびに、んっ、と艶かしい声が幽かに漏れる──うっかり見惚れている所に、突如女が振り向いた。
「……喉」
「あ?」
「喉乾いたっつってんの。そこに冷蔵庫あるから」
……『取ってこい』ということだろう。女が顎をしゃくった方に、確かにそれはあった。中にはまだ冷たいままの飲み物が詰まっている。
未だ横たわる女に水を放ってやり、剣吾も一本頂戴した。
また何か言われるかと思ったが、女は夢中でペットボトルに口を付けている。
時折こぼれた水が細い喉頸を伝い、豊かに実った胸元へと流れ落ちる。それを自然と目が追ってしまう。
忘れていたが、彼女の格好はステージ衣装のままだ。長い手足にエナメル素材の長手袋にロングブーツ。
小麦色の肢体に纏うは、大きく胸が開いたボンデージ風のビスチェ、肉置きが見えそうで見えないローライズのホットデニム。メリハリの効きまくった体型に、嫌味なほどに似合っている。
何から何まで目の毒だ──マグロイド越しにさえ目をそらす剣吾に、再び女が水を向けた。
「ね、ケータイ持ってないの?」
「あ、あるには、ある。……けど、この島、電波がよ、よくねぇからよ」
「貸して。……SPかよ。つかえねー」
そういうお前はどうなのか──問い返すと、女は尻のポケットから無言で何かを放り出した。
デコトラ顔負けのケバケバしいスマートフォン。ひっくり返すと、液晶は無惨にひび割れていた。どう弄っても応答がない。
おそらくどこかにぶつけたのだろう。あの逃避行の中では仕方のない事だが、これは気まずい。
「す、すまねぇ……」
「いい。……助けて貰ったんだし」
『ありがと』──殆ど蚊の鳴き声で礼を述べると、鼻を鳴らして拗ねたように目を背けた。釣られたように、その視線の先を追う。
全面ガラス張りの窓際、まばらな雲に漉された月と星。その光を海原が鏡のように跳ね返している。
遥か彼方、かすかに瞬く人工の光──住み慣れた那津浦の街。今はそこが、ひどく遠い。
自然、望郷めいた思いが浮かぶ。
街へ戻れば日常がある。窮屈で退屈な灰色の日常だ。居心地という意味では、ココとそう大差はない。
あるいは剣吾一人であれば、ここで朽ちても良かったかもしれない。あの街にとって、剣吾は異物でしかないのだから。
だが、隣にいる女は違う。
彼女は、言うなれば『宝』だ。……少なくとも見た目と声だけは。
その美貌と歌声を持ってして、多くの人に愛されている。死ねば多くの者が悲しむだろう。
彼女の命は、ある意味で彼女一人のものではないのだ。そして何より、剣吾にとって──…そんな風に剣吾が命の価値を推し量っていると、夜の静寂を貫く叫びが聞こえた。かなり近い。
固まる女にジェスチャーで静かにするよう指示してから、二人、眼下へ目を凝らす。
悲鳴の主は正面、ホテルの入口から少し離れた所に居た。
男だ。まだ若い、いかにも都会風のあか抜けた装い。常ならば優男と形容されるであろう顔が、恐懼に歪みきっている。
歪みきったまま、既に事切れていた。死因は明白。男の腰回りにまとわりついたもう一つの影が、未だ腹腔をまさぐり、中の物を引きずり出している。
ここまで必死に逃げ延びたであろう男の片腕が、虚空をかきむしるようにしてまっすぐ天を向いていた。
男の遺体の背後から、おぞましい声が無数に上がった。悶えるような、怨ずるような呻きと共に、秩序なく群がる人ならぬ者達が現れた。
剣吾が当初思ったより、はるかに多い……否、増えている気がする。
やがて後から続いた無数の影が、亡骸めがけて緩慢に殺到した──奇妙な物言いだが、そうとしか表現できない動きであった。
男を殺めた影が振り返る。ベッタリと口元から胸辺りまでを赤黒く染め、喜悦に満ちた唸り声を発している。女が「ひっ」と喉をつまらせる。
「も、もう見んな」
咄嗟に女の視界を塞ぎつつ、剣吾は見た。
食っている──仲間と遺体、両方を。喘鳴の声を上げて抵抗する化け物だったが、やはり多勢に無勢、群がる元同胞に手足を、腸を引きずり出されてはかなわない。
ぱきり。誰かが骨をはみ、噛み砕いた音が響いた。
にちゃり、くちゃり。腸をはむ粘ついた音が耳孔に滑りこむ。
あああああああ。あああああああああああああああ。
悲痛を訴えるにはあまりにも抑揚のない声が、淡々と虚空に響き渡り、それがかえって二人の肌を粟立たせた。
処刑とも晩餐ともつかぬ物を終えると、彼らはホテルの玄関前をたゆたい始めた。
顔を上げ、虚ろな目をじっと凝らしている──…その目に知性の光はない。その癖、二人が近くに居る事だけは理解しているようで一向に立ち去ろうとはしなかった。
時折上がる威嚇めいた呻きに、とうとう女は耳をふさぎながら「もうヤダ……」と一つ呟き震えだした。
「だ、大丈夫だ」
その背に声をかけながら、剣吾は心中で状況を整理する。
どうやら他に生存者はなし。半端に山深く、手持ちの携帯電波は通じない。未だ夜は明けきらず、何より船が無事でなければ脱出は難しい。笑えるほどに詰みに近い。
──けど。それでも。
「……大丈夫」
もう一度告げながら、ほっそりとした肩に手を重ねた。マグロイド越し、彼女の顔をまっすぐに見据える。改めて、誓う。
「紫は、俺が守っちゃるから」
力強い言葉に、女の震えが止まる。
キモいと罵った手を払いのけもせず、覆面越しでさえ剣吾の目をまっすぐに見つめ返してきた。
目元は幽かに潤んだままだが、もはや恐れの色は無い。代わりにあるのは小さな疑問、あるいは期待。
その両方が混ざり合い、やがてそれは一つの問いとなって発せられた。
「なぁ、さっきから思うちょったけど……おんしゃ、剣吾か?」
投げかけられたお国言葉に剣吾の身が竦む──気づかれた。
「違う」
さり気なく言ったつもりが、殊更強い調子になった。それが却って女──紫の疑念を深める。
「嘘じゃ」
否定を更に否定すると、半目になって睨みつけてきた。これまでと違い、少しだけ稚気を感じる表情──本来の彼女の顔。
「……剣吾。顔見せぇや」
紫の、確信を込めた声。仄かな怒気をはらみ、低く抑えたトーンは、剣吾に炎のゆらめきを幻視させた。
懐かしくも恐ろしい記憶が蘇る。こうなった時の紫はほんとうに怖い。……いや、怖かった。
もう誤魔化せまい──決して外すまいと誓っていた被り物、それをすぽりと外す。
正体が露わになるや、紫の表情は更に一変し──ぽかんと間抜け顔を晒すハメになった。
現れたるは夜目にも眩しい禿げた額。頭頂部から後ろにようやく、弱々しい縮れ毛がスチールウールのように乗っかっている。
たるんだ頬には幾つもの吹き出物。その表面を幾筋汗が流れ落ちた。
ただ、目だけが──紫にとって覚えのあるものだった。ギラリ輝く三白眼。小さな黒目が、気まずげに右往左往している。
顔を隠していてさえ挙動不審だったのに、それがますます激しくなる。
先刻の力強さはどこへやら、剣吾は『生きていてごめんなさい』とばかりに背を丸めて恥じらった。ぶっちゃけ、気持ち悪い。
見つめ合うことしばし。互いになんとも言葉を切り出せず、奇妙な間が生まれる。
間抜けなお見合いを数度経て、健吾の方から切り出した。
「……お互い、変わったなあ」
「か……変わりすぎだえ!?」
「だから、声高ぇって……」
情けない感じの叱責に、紫は再度口をつぐむ。
束の間の驚きはすぐに冷め、先刻とは意味合いの違う沈黙が訪れた。
いかに久しく会ったとはいえ、かつての記憶とあまりに違うその姿。聞くなという方が無理であろう。
「……おんしゃ、そのザマはどうした? 何があった?」
剣吾は何も答えない。答えられない。答えられようはずもない。
……何もなかったのだ。
いや、何もしなかった。
何もせずいたから、このザマで。ついには何者でもなくなった──。
「ほうか」
無言の内に何を悟ったか、紫は乾いた声でそれだけを言った。
眇めた目が苛烈な色を帯びる。刺すような視線が痛かった。
怒気はいっそう激しく燃え盛り、とうとうそれは、大きく爆ぜた。
「……ふわわりィ。何じゃそのツラ? 何じゃその目は! おんしゃ、ウチになんて言うた!? そんなんで、よくも……よくもウチの前に顔出せたもんじゃな!!」
これまでにない大喝が、部屋中の空気を打った。
言葉で鞭打たれた剣吾は愚か、表で唸る化生達でさえが静まり返る。
「俺は……」
顔を出すつもりはなかった。二度と会う事もないと思っていた──言い訳だけなら幾つも浮かぶ。されど、一つとして言葉にならず。
「……もうええわ」
立ち尽くす剣吾から目線を外すと、紫はそれきり押し黙った。到底話しかけられる様子ではない。
それほど彼女は怒り、そして傷ついていた。あの時と同じだ。同じなのに、とりなし方がわからない。愕然とする。己は何も成長していない。
(……やっぱり、来るんでねかったな)
出来もしない癖に、そんな事を思う。
会えば傷つけるのは分かっていた。でも、どうしても。
夢を叶えた彼女の姿を、一目でいいから拝んでおきたかった。
紫の知る岩井剣吾は、こんな手は絶対に取らないだろう。
正々堂々、真っ向勝負。それだけが取り柄で、そんなところを褒めてくれた。
あの頃の己は、およそ弱さというものを知らぬ刃のようだった。そんな己を気に入っても居た。
過去の己がどうしても忘れられず、結局道化に甘んじて。
今更に思う。こんなのは、彼女の信頼を踏みにじる最低のやり口だ。一体どこまで裏切れば気が済むのか。
贖いもせず高望みをするなど、なんと愚かな──。
…──6年前。剣吾が放った、たったの一言。それが切っ掛けで、二人の道は分かたれた。
かたや、見目麗しく艶やかに。
かたや、醜い成れの果て。
今さら再び交わったとて、そこに喜びが生まれるわけがなかった。