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 季節は再び巡って、8月──。


 紫は一年ぶりの帰郷にも関わらず、父への挨拶もおざなりに家を出た。

 名残惜しげに見送る父の様子が、それはもう寂しそうで、紫はひどくとまどった。

『そんな顔するとハゲるよ』なんて慰めてきたが、かえって逆効果だったかもしれない。


「あー……だるい」


 うだるほどの暑さが、紫の小麦色の肌に玉の汗を滲ませた。特に背中は地獄だ。

 こうなることを見越して服は薄手のものを用意したが、ギラつく太陽は微塵の容赦もない。とうとう紫は上着を小脇に抱え、艶かしく濡れる肩を露わにした。

 時折すれ違うドライバーのオヤジが、だらしなく頬を緩ませてその後ろ姿を見送っていく。


 中にはしきりにとアプローチをかけて来る者もあったが、その都度丁重に躱して、『変装の腕前上がったなー』などと益体もないことを思った。


 しかし、分かっていたことだが──やたらと遠い。

 この景色に郷愁こそ掻き立てられるが、今やすっかり都会に馴染んだ身だ。田舎道は非常に堪える。帰りは諦めてタクシーを呼ぶ事に決めた。


 ようやく目当ての山道についてみれば、待ち構えるは石畳すら無い急勾配。

 鼻翼を動かせば緑の匂いが肺腑に色濃く流れこんでくる。まだ蝉が鳴いていないのが不思議なぐらいだ。


 紫は荷物を抱え直すと、山腹目指してえっちらおっちら歩き始めた。

 息を弾ませる最中、肌をなぶる空気の涼味と、木立の合間より聞こえてくる鳥のさえずりや葉鳴りの音色が紫を励ます。

 このあたりになると、ブナやらクヌギやらの葉ごもりが陽光を漉して丁度いい案配だ。

 よくよく見ればそこかしこにリスや狸の影がちらつく。かわいいな、とそれを追えば足元には蛇。さすがに驚き飛び退いた。


 ま、色々住んでいる土地なのは昨年思い知ったばかりだ。これだけ賑やかであれば、寂しい事もないだろう。


 鼻先で即興の旋律を紡ぐうち、気づけば足取りも軽やかに。

 何やら浮かれたようで少し気恥ずかしいが、仕方ないではないか。


 何せ奴と会うのは、およそ一年ぶりなのだ。積もる話も沢山ある。

 一体何から話そうか──思案にくれているうちに、目当ての相手の姿が視界に飛び込んで来た。


「よー、元気に寝てっか? 童貞君」



 ◆◆◆



 空に真鍮色の日差しが戻る頃、私はただただ両の手を組み合わせ、祈ることしかできない己に歯がゆさに臍を噛んでいた。

 間に合え。生きてろ。…──それだけを念じた。


「そんなに思いつめんな。大丈夫、生きてるって!」


 そう慰めてくれるたのは、那津浦漁協のおっちゃんだ。

 事件直後に一足早く島を脱し、様子を見にとんぼ返りしてきたらしい。波間を漂うボートを見つけ、私を回収してくれた。


「俺もアイツに包丁パクられたままじゃ。生きててもらわにゃ困るでな」


 冗談めかして笑いかけるその背後に、無数の漁船、父のが集めた船団だ。

 更に周りを、ぐるり海上保安庁の船が囲う。おっちゃんの通報と剣吾の一報に、重い腰を上げたらしい。

 頼もしすぎる事この上ない布陣──それでも私の心は逸る。叫びだしたくなる。


 まだ、何も話していないのだ。東京のみやげ話も、あの時のことを愚痴ることも。


 だから、生きていて欲しかったのに。


 ◆


 島が近づいてきて、視界いっぱいその景色が広がった。地獄は終わっていた。朝日の中で海鳥達がくるりと舞い、ミャアとのどかに鳴いていた。

 しかしたどり着いてみれば、吐き気を催す凄まじい臭気、惨たらしい惨劇の後が眼に焼き付く。あの化け物の死体に、駆けつけた人々は絶句していた。

 そして、その屍山血河の中心に、一人の男の影。


 剣吾は、生きていた。最後に見た時と同じように、背を伸ばしてまっすぐに立っていた、けれど。


 左手が、肘の先から無くなっていた。服のあちこちが切り裂かれていて、そこから未だに血が溢れていて、『まだ生きている』というだけだった。


「──剣吾ッ!」


 私の頭は真っ白に焼かれ、周囲を振りきって駆け寄った。しがみついて、狂ったように名前を呼ぶ。半ば閉じたていた瞼がかすかに開いた。

 少し、気だるげに頭をふって、朝日を眺めて、それからまた、目があった。乾ききった唇から、かすれた声が漏れてくる。


「よう、おはようさん」


 そんな、まるっきり場違いな言葉を残して。


 剣吾の体から、力が抜けた。





 ◆◆◆





 相変わらずの鼻歌交じりで、貸し出された柄杓で水をまく。

 石を打つ水音があたりにこだました。


「……子供の時から思ってたんじゃが」


 ──本当にに頑固で、向こう見ずで、人の話なんかこれっぽっちも聞いちゃいなくて。


「結局おんしゃは、おんしゃ自身が一番好きなんじゃな」


 アレほど強く、『生きろ』といったのに。特大のサービスまでつけてやったのに。


 剣術(それ)しか無いクセに、6年も稽古をサボるから。だから途中で息切れなんかするんだ。


 本当に馬鹿だと思う。女の涙一つで振り回されて、人をダシにして格好つけたがって、挙句に彼岸に行っているようでは本当に世話はない。

 静かに心奥でなじるうち、段々とむかっ腹が立ってきた。


 許してなんかやるんじゃなかった──そしたらきっと、あの時あの場で添い遂げて死ぬことだって出来たのだ。


 曲がりなりにも故人であり恩人の前の事、可能な限り不平不満は抑えようと思った……が、無理だ。

 こちらの望むことなど何一つしてくれぬ者に、悼む言葉など必要ないとさえ思う。


 紫は掃除の手を止め、一時(いっとき)、故人より自らの事に思いを馳せる。


 あの事件の後、紫の周りは俄に慌ただしくなった。

 前代未聞、オカルトむき出しの事件の概要に世の中の好奇心は大いに刺激され、ただ一人生還した紫には、それまで以上の好奇と注目が注がれた。


 当然、マスコミ達はあの晩の事を、ことさら悲劇的に、感動的に盛り立てようと四六時中追い立ててくる。全くご苦労なことだ。

 そのしつこさと来たら、あの時の化け物と同等かそれ以上。紫は内心の怒りを包み隠し、あしらい続けた。


 だがそうする内、痺れを切らした生ける亡者の矛先は、未だ悲しみあけやらぬへと向けられた。

 皮肉にも再び、父の願いが叶えられたわけだが、跡継ぎの死と引き替えでは割に合う訳もなく。


 ──そこで限界が訪れた。


 だから、あえてこう言ってやったのだ。普段のキャラから微塵もぶれることなく。


「ヤらせてやるから、足止めしろって言いました。そしたら彼、本気にしちゃって(笑)。まさか死ぬとは思ってませんでした。ええ。……それが?」


 あの瞬間の爽快感と来たら無かった。

 狂ったように瞬くフラッシュの中、驚きに目を剥くマスコミ達。

 元より敵も多かった身の上だ、それはもう強烈なバッシングが吹き荒れた。


 命惜しさに昔の男を見捨てる女──世間ではそう言うことになっている。

 今や悪女の代名詞となり果てて、新曲を出しても話題になるのはその行状ばかり。

 そのうちの殆どが憶測と捏造で出来ている。アレほど慕ってくれたファンももはや数えるほど。全く、ままならないものだ。

 逆に言えば、分かってくれる者も少しはいる。故に少しも気にならない。時間はたっぷりあるし、幾らでもやり直せる。


 これからの長い年月、たっぷりと生きて、幸も不幸も等しく味わい尽くす。それこそが生き残った者のなすべき事だ。哀しみに溺れて、いつまでも一人の死者にかかずらっている暇などないのだ。


「……よし」


 見違えるように清められた墓を前に、額の汗を袖口でぐいと拭う。

 四の五の言いながらも大分励んでしまった。おかげさまでピカピカだ。……アイツの頭と同じように。


 訪れた頃には頭の真上に鎮座していた太陽も大きく西に傾いている。

 頂より吹き降りてくる山風が、むき出しの肩に少し肌寒い。

 放り出していた上着を羽織りなおし、紫は改めて墓前に向き直った。


 告げるべき言葉を、もう一度頭の中でさらう。

 何度も何度も練習したはずなのに、少し緊張する──初めて己の夢を告げた、あの時みたいに。


「……剣吾。ウチな、今日は意趣返しに来たんじゃ」




 ◆◆◆



 紫の凛とした声が空気を震わすと、木立の間を一陣の風が吹き抜けた。

 その風が吹き抜けた後、静けさだけが周囲に残る。鳥の鳴き声、虫の囁きの一切が止んでいた。

 紫以外、何一つ動くものはない。

 まるでステージのようだと、紫は思った。

 

 手櫛で髪を整えてから、再び言葉を紡ぎだす。紡ぎながら、殊更に意地悪い顔を作りだす。


 ──ウチ、もうすぐ結婚するんだ。物好きな相手だと思うじゃろ?

 ──ずーっと断っとったんじゃが……。その、ほだされたというか、しつこいっちゅーか。……うん、寂しかったのも、ある。

 ──で、よく考えて……決めた。どっかの阿呆と違って髪あるし、金持っとるし。こんなウチでもいいって……嘘だと思っとる? 証拠はあるんじゃ。


「ほら、コレ見てみぃ」


 物言わぬ墓石に、紫は左手を掲げた。一目で高価と分かる小さな光。薬指、契約済の証。


「分かるか? これが誠意っていうんじゃ」


 これ見よがしに墓前にかざせば、また強く風が流れた。不思議と一向に吹き止まず、山の木々、そして紫の髪をかき乱す。

 墓の主の無言の抗議──…だろうか。


 化けてでるなら大いに結構、言いたいことを言えばいい。何ならココで、続き(・ ・)をしても構わない。



 出来ぬと言うなら、



「ちったぁ地獄で悔しがれ、バーカ」



 そう鼻で笑い飛ばしてやると、唐突に風がやんだ。

 再び静寂を取り戻した風景の中で、紫は少しだけ、じっと墓石を見つめていた。


 想像する──視線の先、佇む墓石がひっくり返り、禿げ散らかしたアイツが顔を出す。


 あり得ないことだと、頭の中では理解している。だが、少し。ほんの少しだけ。

 あんな悪夢があるのなら、そんな奇跡があればいいと思った。


「……んなわきゃない、か」


 詰めていた息を吐き出し、代わりに初夏の温い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 空には腹立たしいほどに赤く燃える太陽があって、熊野の山へと下っていく。

 それが何だか、コソコソ黄泉路に逃げ帰る剣鬼の姿にも見えて。


 ──逃げんな、コラ。餞別ちゃんと聞いて逝け。


 紫の肉感的な唇が、そっと音色を紡ぎ始める。

 それはかつて、ある少年の後ろでよく歌った唱歌だった。

 その日その時の気分でくるくると歌詞と抑揚を変え、ただ無言で前をゆく少年の心を慰めた。


 今日この日においては、哀切と思慕とを綯い交ぜにした調べ。

 高く低く、持ちうる限りの感情を込めて。

 紡ぎ終えたなら、それが最後。もうこの歌は歌わない。ここにも戻らない。そう決めていた。



 ──この歌だけは、おんしゃの物じゃ。



 声だけは天使と言われたそれが、ゆっくりと夕闇に溶け消える。



 …──やがて、夜の帳が下りる頃。紫はようやく、一粒の光を零すことが出来た。








                                          

                                                            fin.












このお話を捧げたところ、I君にハゲしく叱られた事をここにご報告いたします。

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