表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「鑑定しかできない無能」と追放された俺、実は壊れた才能を直せる唯一の神職でした〜捨てられ聖女と辺境村を修理していたら、勇者より先に国を救ってしまった〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
233/235

第233話 森の空気が低い

 空気が低い。


 それは、正しい技術用語ではない。


 温度が低い、でもない。


 気圧が低い、でもない。


 白冷えでもない。


 冷気でもない。


 ただ、リーゼさんは言った。


『空気が低い』


 そして、もう一つ。


『足音が近くならない。地面に吸われる』


 たったそれだけだ。


 数字はない。


 温度計もない。


 測定札もない。


 追加観察もしていない。


 森へ人も増やしていない。


 俺たちは昨日、その報告を聞いても中枢室を見なかった。


 見たかった。


 かなり見たかった。


 だから、見なかった。


 そして一晩が経った。


 朝の中央井戸で、副記録係が読み上げる。


「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。森退避路違和感報告後、継続異常なし。中枢室追加確認なし。森退避路、既定報告待ち」


 ニコルが頷いた。


「よいです」


 俺は井戸の水面を見た。


 正常。


 昨日と変わらない。


 少なくとも、今ここから見える範囲では。


 トマが俺の横で、何となく落ち着かない顔をしている。


 ダリオさんが豆を噛んだ。


「今日は二人とも静かだな」


 トマが答えた。


「森のことが気になってます」


「そうか」


「それだけですか」


「それ以上、何を言えばいい」


「いや……気になりますよね、とか」


「気になる」


「じゃあ最初からそう言ってくださいよ」


 ダリオさんがもう一粒、豆を口へ入れた。


「気になっても何もしない話を、昨日一日かけてやった」


「はい」


「だから、今日は何もしない」


「はい……」


 トマは頷いた。


 それでも、何となく足元を見ている。


 俺には分かった。


 たぶん、自分が今すぐ森へ行ける距離だったら、行きたくなるのだ。


 俺も同じだ。


 リーゼさんの言った「空気が低い」を、自分で感じてみたい。


 足音が落ちる、を聞きたい。


 本当に地面へ吸われるのか。


 どれくらい違うのか。


 確かめたい。


 でも、その「確かめたい」は、昨日、休止解除理由にしてはいけないと決めた言葉だ。


 ニコルが俺たち二人を見た。


「行きたいですか」


 トマが即座に答えた。


「行きたいです」


 俺も答える。


「俺もです」


 ニコルは記録した。


『レオン、トマ、森退避路へ行きたい。自覚』


 トマが少し顔をしかめた。


「また書かれた……」


「書きます」


「でも、昨日よりは嫌じゃないです」


 ニコルが顔を上げた。


「そうですか」


「だって、行きたいって言ったから行くわけじゃないでしょう?」


 ダリオさんが頷く。


「そこは成長だな」


 トマが少し嬉しそうな顔をした。


 すぐにニコルが筆を構える。


「待って。小さく喜びます」


「どうぞ」


「……よし」


 ニコルが書く。


『小さめの喜び。森へ行く理由にしない』


「やっぱり付く」


 井戸番が通信越しに笑った。


『あんたら、喜びにも縄つけてるな』


 村長が静かに言う。


「縄をつけるのではない。帰る道を残しておる」


 ニコルが赤字で書いた。


『喜びにも帰る道を残す』


 セリアが薬草茶を配りながら言った。


「いい言葉ですね」


 ハンナが言う。


「セリアさん、珍しい薬草を見つけると帰る道なくしますもんね」


「ハンナ」


「事実です」


 ミラが記録する。


『珍しいものを見つけた時ほど、帰る道を残す』


 ダリオさんが頷いた。


「入れろ」


 セリアは少し困ったように笑った。


「最近、私の失敗が安全手順になっていきますね」


 トマが言う。


「俺もです。仲間です」


 セリアが微笑む。


「それなら、少し安心しました」


 ニコルが筆を動かす。


 トマが慌てた。


「今の安心まで記録します?」


「しません」


「基準が分からない……」


 朝の既定確認を終え、広間へ戻った。


 昨日の最後に書かれた紙が、そのまま机の中央に置いてある。


『森退避路違和感』


『空気が低い』


『白冷え不一致候補』


『温度変化未確認』


『匂いなし』


『足音が近くならない』


『地面に吸われるように落ちる』


『追加接近不可』


『追加計測不可』


『中枢室追加確認なし』


 ニコルは、その隣に新しい大紙を置いた。


『森の空気が低い・第一整理』


 そして、最初の一文。


『“低い”を勝手に温度へ変換しない』


 ダリオさんが頷く。


「そこからだ」


 トマが首を傾げた。


「空気が低いって言われたら、やっぱり寒いのかなって思います」


「思う。だから危ない」


 ダリオさんが豆の椀を置いた。


「人間は、分からない言葉を知っている言葉へ変換する。“低い”なら温度。“重い”なら圧。“冷たい”なら白冷え。そうやって既知の箱へ入れる」


 ニコルが赤字で書く。


『分からない言葉を、知っている箱へ入れない』


 セリアが言った。


「薬草でもあります。“元気がない”と聞くと、水不足だと思ってしまう。けれど、根詰まりかもしれないし、虫かもしれないし、ただ夜だから葉を閉じているだけかもしれません」


 ハンナが頷く。


「“元気がない”は便利すぎるんですよね」


 ミラが書く。


『便利な違和感語ほど、勝手に原因を入れやすい』


 トマが紙を見ながら言う。


「じゃあ、“空気が低い”も、そのまま残すんですか」


 ニコルが答える。


「はい。少なくとも、今日は」


「王都、嫌がりそうですね」


「嫌がるでしょう」


 ダリオさんが豆を噛む。


「嫌がらせておけ」


 村長が静かに言った。


「分からぬ言葉を急いで賢くするな」


 ニコルの筆が止まる。


 それから、大きく書いた。


『分からぬ言葉を急いで賢くするな』


 俺はその文字を見て、少し笑った。


「王都が一番嫌がりそうな言葉ですね」


 ダリオさんが言う。


「技師組合も嫌がる」


「ダリオさんも元技師組合でしょう」


「だから分かる」


 午前の王都協議が始まった。


 再審査室。


 外部監査部。


 防衛局。


 保存官。


 王都書記班。


 今回は、森林環境記録を扱う担当者も参加していた。


 王都は人を増やすのが早い。


 ニコルが最初に宣言する。


「本日は、森退避路における“空気が低い”という現場違和感を整理します。追加接近、追加計測、再歩行、温度測定、中枢室追加確認を行いません」


 防衛局が聞く。


『温度測定も不可を維持ですか』


「はい」


『ですが、“空気が低い”という表現からは、気温低下の可能性を排除できません』


 ダリオさんが答えた。


「排除していない。確認しに行かないだけだ」


『しかし、温度を測れば白冷えとの区別が——』


「温度だけで白冷えを決めるのか」


 防衛局が黙る。


 ダリオさんは続けた。


「白冷えは、これまで温度だけで見ていない。色、匂い、音、空気、石、土、水面、全部を合わせてきた。なのに今回は“低い”の一語を見て、急に温度計を持ち出すのか」


 ニコルが赤字で書く。


『一語に引かれて、道具を選ばない』


 外部監査部がすぐ入った。


『外部監査部、リベル村指摘を支持。“低い”を気温低下へ直接変換しない』


 森林環境記録担当が慎重に聞いた。


『では、現場違和感として、どの要素を保持しますか』


 ニコルが読み上げる。


「リーゼさんの原語を優先します。空気が低い。白冷えとは違う。匂いなし。足音が近くならない。地面に吸われるように落ちる」


『音の減衰でしょうか』


 リーゼさんの通信が入った。


『違う』


 短い。


 でも、はっきりしている。


 森林環境記録担当が少し戸惑う。


『では、音響吸収の変化?』


『違う』


『地面の湿りによる足音低下?』


『知らない』


 トマが小声で言った。


「強い」


 ニコルが彼を見る。


「記録しません」


「はい」


 担当者は、なおも慎重に言った。


『リーゼ殿、“足音が近くならない”とは、距離感が掴みにくいという意味でしょうか』


 少し間がある。


 リーゼさんが答えた。


『歩いている者は近づいている。音だけが来ない』


 広間が静かになった。


 俺の背中に、少し冷たいものが走った。


 トマも顔を上げる。


 セリアの手が止まる。


 ニコルは、ゆっくり書いた。


『歩いている者は近づいている。音だけが来ない』


 防衛局がすぐ言った。


『再現確認が必要です』


「不可」


 ダリオさんが即答した。


 ニコルも言う。


「再歩行不可」


 防衛局は食い下がる。


『一度の体感報告だけでは、現象として分類できません』


 村長が静かに言った。


「分類できぬなら、分類せぬ」


 防衛局が止まる。


 村長は続けた。


「分からぬものを、分かるまで歩き直すな」


 ニコルが赤字で書く。


『分からぬものを、分かるまで歩き直すな』


 リーゼさんが短く言う。


『二度目は、寄る』


 ダリオさんの目が細くなる。


「何が寄る」


『人が』


「……そういう意味か」


『もう一度聞きたい。もう一度歩きたい。そうして寄る』


 トマが小さく息を吐いた。


「俺たちだ」


 誰も否定しなかった。


 リーゼさんは続ける。


『森は変わらない。人が寄る』


 ニコルが書く。


『再確認欲が接近を増やす』


 ダリオさんが低く言った。


「いい。現象より先に、人の動きを止める」


 防衛局は、少し黙ったあと、言った。


『では、追加再現確認は行わず、現場違和感として保持します』


「そうだ」


 森林環境記録担当が聞く。


『名称はどうしますか。“足音減衰違和感”など』


 リーゼさん。


『長い』


 トマが思わず笑いそうになり、口を押さえた。


 担当者が困る。


『では、“音落ち”』


『軽い』


 また広間が静かになる。


 ダリオさんが少し笑った。


「リーゼ、注文が多いな」


『名は手を動かす』


 その一言で、ダリオさんの笑いが消えた。


 ニコルが赤字で書く。


『名は手を動かす――リーゼ』


 リーゼさんは続ける。


『空気が低い。それでいい』


 ニコルが頷いた。


「現場違和感名、“空気が低い”。維持します」


 森林環境記録担当は、少し苦しそうだった。


 たぶん、王都の文書に「空気が低い」と書くのは抵抗があるのだろう。


 それでも、外部監査部が先に言った。


『外部監査部、現場原語維持を支持。技術語への変換は保留』


 防衛局も、今日は反論しなかった。


 少しずつ、王都も「分からないまま置く」ことを覚え始めている。


 そう思った瞬間、ニコルが俺を見た。


「レオンさん」


「はい」


「今、王都が覚え始めたと思いましたね」


「……思いました」


 トマが吹き出した。


「また!」


 ダリオさんが豆を噛む。


「期待は早い」


 ニコルが書く。


『レオン、王都の変化を期待。期待による警戒低下に注意』


 俺はため息をついた。


「最近、俺の顔も忙しいな」


 トマが少し嬉しそうに言う。


「仲間ですね」


「そこは仲間でいいのか?」


「人間同士なら多少は肩を組んでいいって、ダリオさんが言いました」


 ダリオさんが言う。


「都合のいいところだけ覚えるな」


 午後。


 森退避路の違和感を、観測準備前確認表へどう入れるかを整理した。


 ニコルが新しい項目を書く。


『森退避路空気低下条件:第一整理』


 一、“空気が低い”を現場原語として維持。

 二、低温、低気圧、白冷え、音響吸収へ自動変換しない。

 三、匂いなし。

 四、白冷え不一致候補。

 五、歩行者は近づくが、足音が近くならないように感じる。

 六、地面へ吸われるように音が落ちる。

 七、再歩行不可。

 八、追加接近不可。

 九、追加温度測定不可。

 十、同現象確認のため人員を増やさない。

 十一、リーゼ既定報告のみ維持。

 十二、一度の違和感を異常名にしない。

 十三、現場原語を技術語へ急変換しない。

 十四、再確認欲を人員接近危険兆候とする。


 トマが十四番を見て言った。


「また、人の方が先に危険になるんですね」


 ダリオさんが頷く。


「現象が何か分からない時、人間は現象より先に動くからな」


 セリアが言う。


「分からないと、近づきたくなります」


 ハンナが頷いた。


「近づくと、触りたくなります」


 ミラが書く。


『分からない → 近づく → 触る、を作らない』


 ニコルが赤字に変えた。


『分からないものに、近づく順番を与えない』


 村長が静かに言う。


「分からぬものほど、遠くから置いておけ」


 トマが少し考え込んでから言った。


「でも……これ、怖いですね」


 誰も笑わなかった。


 ニコルが聞く。


「どこがですか」


「リーゼさんが一人で聞いてることです」


 広間が静かになる。


 トマは続けた。


「追加人員を出さない。再歩行もしない。温度も測らない。それは分かります。でも、リーゼさん一人に“空気が低い”を背負わせるのも、なんか……嫌です」


 リーゼさんの通信は開いたままだった。


 少し沈黙がある。


 トマは慌てて続けた。


「いや、リーゼさんが弱いとかじゃないです。そうじゃなくて……俺、旧水路が主観測候補って言われた時、怖かったから。自分の場所の違和感を、自分だけが言葉にしなきゃいけないのって、重いだろうなって」


 ニコルの筆が静かに動いた。


『トマ、リーゼ一人への現場言語化負担を懸念』


 ダリオさんがトマを見る。


「いい指摘だ」


 トマは少し驚いた。


「本当に?」


「本当にだ」


 トマの顔が緩みかける。


 ニコルが筆を構える。


「小さく喜びます」


「先に言うようになりましたね」


「学びました」


「どうぞ」


「……よし」


 ニコルが書く。


『小さめの喜び。森へ人を増やす理由にしない』


「そこまで分かってました」


 セリアが少し笑った。


 ダリオさんが通信へ向かって言う。


「リーゼ。どうだ」


『何が』


「一人で言葉にするのが重いか」


 少し長い沈黙があった。


 リーゼさんは、こういう時にすぐ強がる人ではない。


 でも、弱音を簡単に出す人でもない。


 やがて、短く答えた。


『重い』


 トマの顔が引き締まった。


 ニコルが、その一言を丁寧に書く。


『リーゼ:“重い”』


 ダリオさんが聞く。


「人を増やしてほしいか」


『いらない』


「じゃあ、何が必要だ」


『言ったことを変えるな』


 誰もすぐには喋らなかった。


 リーゼさんは続けた。


『空気が低いと言った。温度にするな。音が落ちると言った。吸音にするな。分からないと言った。調べろにするな』


 ニコルが一字ずつ書いた。


『言ったことを変えるな』


『空気が低い → 温度へ変換しない』

『音が落ちる → 吸音へ変換しない』

『分からない → 調査命令へ変換しない』


 トマが、すごく静かな声で言った。


「なるほど……人を増やすことじゃなくて、言葉を勝手に変えないことが支えになるんだ」


 リーゼさんが答える。


『そう』


 セリアが目を伏せて言った。


「一人にしないことと、人を増やすことは同じではないんですね」


 ニコルが赤字で書く。


『一人にしないことと、人を増やすことは同じではない』


 村長が頷いた。


「言葉を受け取る者がいれば、一人ではない」


 その言葉は、広間にゆっくり残った。


 ダリオさんが豆を一粒だけ食べた。


「今日の中心だな」


 午後遅く、王都から追加提案が来た。


 森林環境記録担当からだった。


『“空気が低い”を現場指標候補として、定期記録項目に追加してはいかがでしょうか』


 ニコルの筆が止まった。


 ダリオさんも少し考える。


 悪くない提案に見える。


 だからこそ、すぐには頷けない。


 トマが小声で言った。


「指標にすると、また偉くしません?」


 ダリオさんが頷いた。


「その危険はある」


 ニコルが言う。


「現場指標候補ではなく、現場違和感記録候補にします」


 王都側が聞き返す。


『違いは』


「指標は、見るべきものになります。違和感記録は、出た時に残すものです。毎回探しに行きません」


 ダリオさんが続ける。


「指標にすると、人は“今日はあるか”と聞く。聞かれた現場は探す。探すと寄る。寄ると聞きすぎる」


 ニコルが赤字で書く。


『違和感を、探す仕事にしない』


 森林環境記録担当が少し間を置いて言った。


『了解しました。現場違和感記録候補として扱います』


 リーゼさんが一言。


『それでいい』


 夕方。


 中枢室へ登録するかどうかが問題になった。


 俺は、少し緊張した。


 昨日は、森退避路の違和感報告を受けても中枢室を見なかった。


 今日は整理が進んだ。


 では、登録するのか。


 ダリオさんが俺を見る。


「見たいか」


 また聞かれた。


 俺は少し考えた。


「昨日ほどではないです」


「なぜだ」


「リーゼさんの言葉が、そのまま残ったからだと思います。何か分からなくても、記録としては残せた。だから、今すぐ中枢室に答えをもらわなくてもいい気がします」


 ニコルが書く。


『レオン、中枢室回答欲低下。理由:現場原語が保持されたため』


 ダリオさんが頷いた。


「なら、今日は登録だけする。追加問いかけはなし」


 ニコルが確認する。


「登録内容のみ。分類要求なし。照合要求なし。関連確認なし」


「そうだ」


 俺は中枢室へ向かった。


 昨日より、少しだけ足が軽い。


 でも、慣れたと思わない。


 安心したとも言い切らない。


 ただ、今日は答えを取りに行くのではない。


 リーゼさんの言葉を、そのまま置きに行く。


 俺は読み上げた。


『森退避路現場違和感を登録。現場原語、“空気が低い”。白冷えとは違う。温度変化未確認。匂いなし。歩行者は近づくが、足音が近くならないように感じる。地面へ吸われるように音が落ちる。再歩行不可。追加接近不可。追加温度測定不可。現場原語を技術語へ急変換しない。分からないを調査命令へ変換しない。現場違和感記録候補。定期指標化不可。違和感を探す仕事にしない。』


 光が揺れた。


 俺は待った。


 数えない。


 意味を先に作らない。


 やがて文字が浮かぶ。


《森退避路:現場違和感登録》

《現場原語:空気が低い》

《白冷え:不一致候補》

《温度変化:未確認》

《匂い:なし》

《足音距離感:違和感》

《再歩行:不可》

《追加接近:不可》

《追加計測:不可》

《技術語急変換:不可》

《現場違和感記録:候補》

《定期指標化:不可》

《注意:分からないを、調べに行けへ変えるな》


 最後の一文を読み上げた時、トマが小さく息を吐いた。


「やっぱり、そこなんですね」


 ダリオさんが頷く。


「人は分からないと、行く」


 村長が静かに言う。


「行かぬことも、答えじゃ」


 ニコルが赤字で書いた。


『行かぬことも、答え』


 その時だった。


 リーゼさんの通信札が、一度だけ鳴った。


 全員が止まる。


 ニコルがすぐに応じる。


「リーゼさん」


『今は戻った』


 トマが息を呑む。


 ダリオさんが聞く。


「何が」


『音』


「空気は」


『少し高い』


 広間が静かになる。


 ニコルが慎重に書く。


『森退避路:足音違和感、現在は戻ったとの現地報告』

『空気:少し高い』

『追加確認なし』


 防衛局が通信越しに言いかける。


『では、正常化——』


「止めます」


 ニコルが即座に言った。


「“正常化”は不可です。元が異常と確定していません」


 ダリオさんも続ける。


「“戻った”も、何へ戻ったか決めるな。リーゼがそう感じた。それだけだ」


 ニコルが赤字で書く。


『戻った ≠ 正常化』


 リーゼさんが短く言う。


『今は、普通に聞こえる』


 それで終わった。


 理由は分からない。


 何が起きたかも分からない。


 いつから戻ったのかも、正確には分からない。


 でも、現場違和感は消えたように感じられる。


 だからといって、安心材料にはしない。


 成功兆候にも、外縁反応にも、命令核浮上の前兆にも、絶対にしない。


 トマが、少し気まずそうに言った。


「……ほっとしました」


 ニコルが記録する。


『トマ、森退避路違和感が現在戻ったとの報告に安堵』


 トマは少しだけ苦笑した。


「これは記録されてもいいです」


 セリアが優しく言った。


「ほっとするのは悪くありません」


 ダリオさんが頷く。


「安堵を操作理由にしなければな」


 トマが言う。


「はい。ほっとしたから、もう一回見に行こう、はしません」


 村長が静かに言った。


「喜ぶのは勝手じゃ。手を動かす理由にするな」


 以前と同じ言葉。


 でも今日は、トマが少し笑って頷いた。


「覚えてます」


 夜、俺は個人記録を書いた。


『森退避路現場違和感を整理。

現場原語:“空気が低い”。白冷えとは違う。温度変化未確認。匂いなし。歩行者は近づいているが、足音が近くならないように感じる。地面へ吸われるように音が落ちる。

低温、低気圧、白冷え、音響吸収へ自動変換しない。分からない言葉を、知っている箱へ入れない。

防衛局より再現確認提案。不可。再歩行不可。追加接近不可。追加温度測定不可。リーゼ発言:“二度目は、人が寄る”。再確認欲が接近を増やす危険。

リーゼ負担についてトマが指摘。リーゼ本人:“重い”。ただし人員増加不要。必要なのは“言ったことを変えるな”。

空気が低いを温度に変換しない。音が落ちるを吸音に変換しない。分からないを調査命令に変換しない。

整理:一人にしないことと、人を増やすことは同じではない。言葉を受け取る者がいれば、一人ではない。

王都より現場指標候補化提案。修正。現場違和感記録候補とする。定期指標化不可。理由:指標にすると毎回探しに行く。違和感を探す仕事にしない。

中枢室表示:森退避路現場違和感登録。現場原語、空気が低い。白冷え不一致候補。温度変化未確認。匂いなし。足音距離感違和感。再歩行不可。追加接近不可。追加計測不可。技術語急変換不可。現場違和感記録候補。定期指標化不可。注意、分からないを、調べに行けへ変えるな。

その後、リーゼより追加報告。“今は戻った”。足音は普通に聞こえる。空気は少し高い。正常化とは表記しない。元が異常と確定していないため。

追加確認なし』


 最後に書く。


『森の空気が低い。

今日は、その言葉を賢くしない日だった。

温度が低い。

気圧が低い。

白冷え。

音響吸収。

どれも、それらしく聞こえる。

だから危ない。

リーゼさんは、そんなことを言っていない。

空気が低い。

足音が近くならない。

地面に吸われるように落ちる。

それだけだ。

王都は再現確認を求めた。

もう一度歩けば分かるかもしれない。

温度を測れば分かるかもしれない。

でも、リーゼさんは言った。

二度目は、人が寄る。

森が寄るのではない。

人が寄る。

もう一度聞きたい。

もう一度歩きたい。

確認したい。

そうして人は近づく。

だから行かなかった。

温度も測らなかった。

そして今日は、トマが大事なことを言った。

リーゼさん一人に、この違和感を背負わせていいのか。

俺も、その不安は分かる。

リーゼさんは言った。

重い。

でも、人はいらない。

必要なのは、言ったことを変えないこと。

空気が低いを温度にするな。

音が落ちるを吸音にするな。

分からないを調べろにするな。

それが支えになる。

一人にしないことと、人を増やすことは同じではない。

言葉を受け取る者がいれば、一人ではない。

今日は、その言葉が残った。

夕方、リーゼさんからもう一度通信が来た。

今は戻った。

足音は普通に聞こえる。

空気は少し高い。

ほっとした。

でも、正常化とは書かない。

元が異常と決まっていないからだ。

原因も分からない。

何が戻ったのかも、まだ分からない。

それでいい。

分からないを、調べに行けへ変えるな。

中枢室はそう表示した。

次は、この“行かなかった場所”を記録することになる。

森退避路。

空白地帯外縁。

俺たちは、そこへ行かなかった。

行けなかったのではない。

避けた。

その違いを、王都はたぶん“未踏査”と書きたがる。

でも、未踏査と意図的回避は違う。

次は、行かない道の記録を作る。』


 地上では、水車が回っている。


 森の空気は、今は少し高いらしい。


 足音も、普通に聞こえる。


 だからといって、見に行かない。


 戻った理由を探しに行かない。


 俺たちは、行かなかったことを残す。


 次は、その道を記録する。


 歩かなかった道を。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ