表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「鑑定しかできない無能」と追放された俺、実は壊れた才能を直せる唯一の神職でした〜捨てられ聖女と辺境村を修理していたら、勇者より先に国を救ってしまった〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
198/235

第198話 杭を抜いた者

 杭がないことも記録。


 その言葉は、思っていた以上に広間へ残った。


 人の声というより、机の木目に染み込んだ染みみたいに、誰も見ていない時にもそこにある。


 抜かれた杭跡。


 白冷え。

 白影道。

 戻しを避けるため、空けられし息継ぎ。


 昨日まで、その空白地帯は「近づいてはいけない場所」だった。


 今日は、もう一つ変わった。


 「誰かが、何かをした場所」になった。


 杭は自然に消えたのか。

 腐って倒れたのか。

 抜かれたのか。

 抜いたなら、誰が。


 そして、なぜ。


 朝の中央井戸は、いつも通り静かだった。


「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。空白地帯杭跡候補、白冷え残留影候補確認後、継続異常なし」


 副記録係の声も、だいぶ落ち着いてきた。


 怖い言葉に慣れたわけではない。


 怖い言葉を、怖いまま記録する手つきになってきたのだと思う。


 ニコルは頷いた。


「よいです」


 トマは井戸の水面を見ていた。


 水面は静かだ。


 だが、トマの顔はそうではない。


 眉間に皺が寄っている。


 口元が尖っている。


 何かを飲み込んで、飲み込めていない顔だった。


 ニコルが先に言った。


「怒っていますか」


 トマは、少し驚いたように振り返った。


「出てる?」


「かなり」


「記録する?」


「必要なら」


「必要ない」


「分かりました」


 ニコルは筆を止めた。


 その手が本当に止まったので、トマは少し苦笑した。


「今日は優しいな」


「優しいのではありません。本人が記録不要と言いましたので」


「それ、優しさと違うのか」


「少し違います」


 セリアが薬草予定地の記録を持って来た。


「怒っている理由は、分かる気がします」


 トマは腕を組んだ。


「杭を抜いた人がいるんですよね。たぶん」


「可能性です」


 ニコルがすぐ言った。


 トマは頷いた。


「可能性。分かってる。でも、外縁杭って大事なものなんでしょう? それを抜いた人がいる。しかも、そのせいで白冷えみたいなものが残ってるかもしれない。だったら、抜いた人は……」


 言いかけて、止まる。


 セリアが静かに言った。


「壊した人に見えますね」


「……はい」


 トマは、認めるのが嫌そうだった。


「でも昨日、ダリオさんの手控えには、息継ぎってあった。戻しを避けるための息継ぎ。だったら、抜いた人は壊したんじゃなくて、止めたのかもしれない。そう思うと、怒る先が分からなくなって、余計に腹が立つ」


 ニコルは少し黙った。


 それから記録板を開き、トマを見た。


「今のは、記録してもよいですか」


 トマは困った顔をした。


「恥ずかしいやつじゃない?」


「恥ずかしいかもしれません。でも、重要です」


「じゃあ……まあ、少し柔らかめに」


 ニコルは頷き、書いた。


『杭を抜いた者が破壊者か応急処置者か分からず、怒りの置き場が定まらない』


 トマはそれを見て、ため息をついた。


「柔らかめ?」


「はい。かなり」


「ニコルの柔らかさ、硬いな」


 広間に戻ると、村長はすでに地図の前にいた。


 外縁逃がし線仮地図。


 リベル村と北沢の間の空白地帯。


 その中心に、小さな赤丸ではなく、薄い白抜き印が書き込まれている。


『杭跡候補』


 その横に昨日追加された赤字。


『杭がないことも記録』


 ダリオさんは、机の端で豆を食べていた。


 今日の豆は、いつもより少し音が大きい。


 噛む力が強いのだろう。


 トマがちらっと見た。


 ダリオさんが即座に言う。


「豆に当たっているわけではない」


「何も言ってません」


「顔が言った」


「顔は便利ですね」


「便利だが、隠し事には向かん」


 ニコルが筆を持ち上げかける。


 ダリオさんがすぐ言った。


「今のは書くな」


「はい」


 トマが少し笑った。


「今日はみんな、書くなって多いですね」


 村長が静かに言う。


「書くべきことが多い日ほど、書かぬものも選ばねばならぬ」


 ニコルは真剣に頷いた。


「はい」


 王都からの通信は、朝の鐘が二つ鳴る少し前に来た。


『王都外部監査部、技師組合再審査室、地図職人班より。空白地帯杭跡候補について、古図白抜き円印、ダリオ灰色手帳小見出し、および外縁逃がし線仮地図を照合。杭抜去または杭封じ処置の可能性がある』


 ニコルが復唱する。


『杭抜去または杭封じ処置の可能性』


 トマが眉を寄せた。


「杭封じ?」


 ダリオさんが低く答える。


「杭を抜くだけではなく、機能を止めた可能性だ。立っている杭を物理的に抜いたのか、杭の外縁機能を封じたのか、まだ分からん」


 セリアが言う。


「根で言えば、抜いたのか、休眠させたのか、みたいな違いですね」


「近い」


 王都側が続ける。


『周辺資料に、カリム系補修印と類似する微弱符号反応あり。ただし、現地からの直接反応ではなく、古図写しおよび灰色手帳欄外の符号照合によるもの。現段階で、カリム・ロッサ本人の処置とは断定不可』


 広間の空気が、また重くなる。


 カリム系。


 その言葉が出るたびに、ダリオさんの表情が一瞬だけ固くなる。


 本人は隠そうとしているのかもしれない。


 だが、もう皆が分かっている。


 それでも誰も、そこを強く見ない。


 見すぎると、傷口になる。


 ニコルがゆっくり記録した。


『カリム系補修印類似微弱符号反応。直接現地反応ではなく、古図写しおよび灰色手帳欄外符号照合。本人処置とは断定不可』


 トマが机に手を置きかけ、すぐ引っ込めた。


「断定不可……」


 ダリオさんが言う。


「不満か」


「不満です」


「分かる」


 トマは少しだけ驚いた。


 ダリオさんは地図を見たまま続ける。


「カリムの名が出るたびに、俺も断定したくなる。あいつがやった。あいつが抜いた。あいつが隠した。そう言えれば、どれだけ楽かと思う」


 広間が静かになった。


 ダリオさんは豆を一粒つまんだが、食べなかった。


 指先で転がす。


「だが、楽な結論は、だいたい雑だ」


 ニコルが書く。


『楽な結論は、雑である可能性が高い』


 トマは苦い顔で頷いた。


「じゃあ、分けます」


「そうだ」


 トマは自分に言い聞かせるように言った。


「杭を抜いた。杭を封じた。破壊した。応急処置した。隠した。守った。全部、分ける」


 ニコルが表を作る。


『杭跡候補・行為分類』


 一、自然消失。

 二、腐朽または倒壊。

 三、意図的抜去。

 四、機能封じ。

 五、命令戻し線化を防ぐ応急処置。

 六、外縁破壊。

 七、証拠隠し。

 八、逆流防止。

 九、施工者未確定。

 十、目的未確定。


 セリアが六番と八番を見比べて言った。


「外縁破壊と逆流防止は、見た目が似ているかもしれません」


「そうだ」


 ダリオさんが頷く。


「杭が抜かれているという事実だけなら、どちらにも見える。問題は、その時、何が起きていたかだ」


 村長が低く言う。


「戦の途中で橋を落とすこともある。逃げ道を断つためか、敵を止めるためか、橋だけ見ても分からぬ」


 トマがゆっくり息を吐いた。


「なるほど……橋が落ちてるから悪い、とは言えない」


「そうじゃ」


 村長は杖を軽く鳴らした。


「ただし、橋を落とされた者の怒りは残る。それも記録せねばならぬ」


 ニコルが書く。


『事実の解釈と、被害を受けた者の怒りは分けて記録する』


 ダリオさんが小さく笑う。


「ニコル、お前は本当に厄介な記録係になったな」


「仮です」


「まだ言うか」


「はい」


 トマが横から言う。


「もう王都に“仮”って提出しても、誰も信じなさそう」


「信じるかどうかは、記録とは別です」


「強い」


 午前の後半、灰色手帳の欄外符号の追加照合が行われた。


 王都保存官が慎重に説明する。


『灰色手帳“杭を抜いた跡に残る白冷え”の頁。本文は閲覧せず、欄外の小印のみ確認。小印は三つ。第一、小さな切断線。第二、白抜き円。第三、補修印らしき半円符号。第三の半円符号が、カリム系補修印候補と類似』


 ニコルが復唱する。


『切断線、白抜き円、補修印らしき半円符号。第三がカリム系補修印候補と類似』


 トマが言う。


「切断線って、切るってことですよね」


 ダリオさんが首を少し傾ける。


「外縁杭と戻し線の接続を切る意味かもしれん。白抜き円は杭跡。半円符号は補修、あるいは封じ」


「じゃあ、杭を抜く前に切った?」


「順番は分からん」


 セリアが言う。


「切断してから抜いたのか、抜いた後に補修したのか、封じたのか」


 ニコルが記録する。


『順序未確定:切断、抜去、補修、封じ』


 王都側が続ける。


『同頁下部に、赤字ではないが、濃墨による短語あり。保存官判断では判読可能。ただし、本文扱いとなるため、読み上げにはリベル村確認を求める』


 広間に緊張が走った。


 ダリオさんが目を細める。


「濃墨……俺の字か?」


 王都側。


『筆跡はダリオ・ヴェント本人筆跡候補。ただし、通常本文より荒い。急筆の可能性』


 トマが息を呑む。


 村長はすぐには答えなかった。


「どの程度の文量じゃ」


『短語一つ、続き欠損。三語程度』


 ダリオさんが静かに言う。


「読む価値はある。だが、一語ずつだ」


 村長が通信へ言った。


「一語ずつ読み、途中で止める余地を残せ」


 王都側。


『了解。判読候補。一語目、“抜け”。』


 広間が静まり返った。


 抜け。


 命令か。

 指示か。

 自分への覚え書きか。

 誰かへの警告か。


 王都側が続ける。


『二語目、不明瞭。三語目候補、“戻すよりは”。続き、頁端欠損または折れにより不明』


 ニコルが慎重に書く。


『濃墨短語候補:“抜け。……戻すよりは……”』


 ダリオさんが顔をしかめた。


「戻すよりは……」


 トマが小さく言う。


「戻すよりは、まし?」


 その言葉が落ちた瞬間、全員の視線がトマへ向いた。


 トマは慌てた。


「いや、勝手に続けただけです。すみません」


 ダリオさんは怒らなかった。


 むしろ、真剣に頷いた。


「その可能性はある」


 ニコルがすぐ書きかける。


 トマが慌てて止める。


「いや、俺の想像ですよ!」


 ニコルは冷静に答えた。


「だから“候補”として書きます」


『補完候補:“抜け。戻すよりはましだ”』


 トマは頭を抱えた。


「俺の適当が記録に……」


 ダリオさんが言う。


「適当ではない。文脈上、あり得る。俺が書きそうな言い方でもある」


 トマが顔を上げる。


「本当ですか」


「腹立たしいが、本当だ。俺なら、短くそう書くかもしれん」


 王都側が慎重に続ける。


『折れ部分の保存処理後、続きが確認できる可能性あり。本日はこれ以上読みません』


 村長が即答する。


「読まぬ。閉じよ」


 王都側。


『了解。灰色手帳、再封緘』


 通信が切れたあと、広間はしばらく静かだった。


 抜け。

 戻すよりは……

 ましだ。


 まだ確定ではない。


 だが、全員がその続きを想像した。


 戻すよりはましだ。


 杭を抜くことは、外縁を傷つける。


 それでも、命令戻し線へ変えられるよりはましだった。


 もしそうなら、杭を抜いた者は、ただの破壊者ではない。


 破壊に見える応急処置を選んだ者だ。


 だが、それを誰が選んだのか。


 ダリオさんなのか。

 カリムなのか。

 別の誰かなのか。


 トマが、とうとう机を軽く叩いた。


「これ、しんどいですね」


 誰も止めなかった。


 トマは続ける。


「壊した人を探してると思ったら、止めた人かもしれない。止めた人かもしれないと思ったら、証拠隠しだったかもしれない。カリムが悪いって思ったら、カリムが一部止めてたかもしれない。ダリオさんが正しかったって思ったら、ダリオさん自身が杭を抜けって書いてたかもしれない。頭がおかしくなりそうです」


 ダリオさんは静かに聞いていた。


 セリアも、ニコルも、村長も。


 トマは少し声を落とす。


「すみません。俺、単純に考えたいんです。誰が悪い、誰が正しいって。そうしたら楽だから。でも、ずっとそれじゃ駄目だって言われてる。分かってる。分かってるんですけど、面倒くさいです。人間って面倒くさい。昔の技師も、王都も、カリムも、ダリオさんも、俺も、全部面倒くさい」


 広間が、妙に静かになった。


 その沈黙は、嫌なものではなかった。


 みんな、トマの言葉のどこかに自分がいたのだと思う。


 ダリオさんが、ゆっくり豆を一粒食べた。


「正しい感想だ」


 トマが顔を上げる。


「正しいんですか」


「少なくとも、俺はそう思う。人間は面倒くさい。技術は、もっと面倒くさい。封印は、その面倒くさい人間が作るから、さらに面倒くさい」


 セリアが少し笑った。


「薬草も、面倒です」


 ハンナが小声で言う。


「セリアさんも、面倒です」


「ハンナ?」


「良い意味で」


「良い意味で面倒とは何ですか」


 ミラが真面目に言った。


「丁寧という意味だと思います」


 トマが吹き出した。


 重かった広間に、少しだけ人間らしい笑いが戻った。


 ニコルはその笑いが収まってから、静かに言った。


「破壊と応急処置を分けます」


 その声は、よく通った。


「杭を抜いたという事実だけでは、破壊とは断定できません。同時に、応急処置とも断定できません。カリム系補修印類似反応があるからといって、カリムさん本人の行為とも断定できません。ダリオさんの字で“抜け”とある可能性があるからといって、ダリオさんが実際に抜いたとも断定できません」


 トマは黙って聞いていた。


 ニコルは続ける。


「ですが、命令戻し線を避けるために杭を抜く、または杭機能を封じる処置が存在した可能性は高まりました。なので、これを“抜去破壊”ではなく、“杭抜去・封じ処置候補”として記録します」


 ダリオさんが深く頷いた。


「いい」


 村長も言う。


「それでよい。言葉を先に間違えると、後で人を間違える」


 ニコルは大きく書いた。


『杭抜去・封じ処置候補』


 その下に赤字。


『破壊と応急処置を分ける』


 夕方、中枢室で総合照合を行った。


 俺は今日の情報を登録した。


 古図白抜き円印。

 カリム系補修印類似微弱符号。

 灰色手帳欄外の切断線、白抜き円、半円符号。

 濃墨短語「抜け」「戻すよりは……」。

 トマの補完候補「戻すよりはましだ」。

 ニコルの分類。


 中枢室の表示が浮かぶ。


《杭抜去・封じ処置候補:照合更新》

《カリム系補修印類似:微弱》

《施工者:未確定》

《目的:未確定》

《破壊判定:不可》

《応急処置判定:不可》

《命令戻し線回避処置:可能性上昇》

《灰色手帳短語:追加判読待ち》

《注意:怒りによる断定を避けよ》


 俺は一つずつ読み上げた。


「杭抜去・封じ処置候補、照合更新。カリム系補修印類似、微弱。施工者、未確定。目的、未確定。破壊判定、不可。応急処置判定、不可。命令戻し線回避処置、可能性上昇。灰色手帳短語、追加判読待ち。注意、怒りによる断定を避けよ」


 トマが小さく笑った。


「中枢室にも怒りを見られてる」


 ダリオさんが言う。


「俺もだろうな」


 ニコルが頷く。


「全員です」


 村長が静かに言った。


「それでよい。怒りがない者に、この件は扱えぬ。だが、怒りだけの者にも扱えぬ」


 セリアが地図の空白を見た。


「杭を抜いた人は、何を思っていたのでしょうね」


 ダリオさんは少し黙った。


 それから言った。


「分からん。焦っていたかもしれない。怖かったかもしれない。これしかないと思ったかもしれない。後で責められると分かっていても、抜くしかないと思ったかもしれない」


 トマが言う。


「じゃあ、抜いた人も苦しかったかもしれない?」


「かもしれん」


「……それ、嫌ですね」


「嫌だな」


 ダリオさんは、苦く笑った。


「悪い奴が悪い顔で壊してくれていれば、どれほど楽だったか」


 トマは深く頷いた。


「本当に」


 夜、俺は個人記録を書いた。


『杭跡候補について追加照合。

王都外部監査部・技師組合再審査室・地図職人班より、杭抜去または杭封じ処置の可能性ありと報告。

周辺資料にカリム系補修印類似の微弱符号反応。ただし、現地直接反応ではなく、古図写しおよび灰色手帳欄外符号照合によるもの。カリム・ロッサ本人の処置とは断定不可。

灰色手帳“杭を抜いた跡に残る白冷え”頁、欄外小印:切断線、白抜き円、補修印らしき半円符号。半円符号はカリム系補修印候補と類似。

同頁下部に濃墨短語候補:“抜け。……戻すよりは……”

トマ補完候補:“抜け。戻すよりはましだ”。ダリオ本人も文脈上あり得ると判断。ただし未確定。

ニコル整理:杭を抜いた事実のみで破壊とは断定不可。応急処置とも断定不可。“杭抜去・封じ処置候補”として記録。破壊と応急処置を分ける。

中枢室表示:カリム系補修印類似微弱。施工者未確定。目的未確定。破壊判定不可。応急処置判定不可。命令戻し線回避処置可能性上昇。怒りによる断定を避けよ』


 最後に書く。


『杭を抜いた者。

それが誰なのか、まだ分からない。

カリムかもしれない。

ダリオさんかもしれない。

別の誰かかもしれない。

杭を抜いたのか、杭の機能を封じたのかも、まだ分からない。

壊したのか。

止めたのか。

隠したのか。

守ったのか。

そのどれか一つに飛びつけば、楽になる。

怒りの置き場ができるからだ。

でも、楽な結論は雑だ。

トマは、人間は面倒くさいと言った。

本当にそうだと思う。

悪い奴が悪い顔で杭を抜いたなら、どれだけ話は簡単だっただろう。

けれど実際には、抜かれた杭跡に白冷えが残り、灰色手帳には“抜け。戻すよりは……”という欠けた言葉が残っている。

戻すよりはましだ。

もし本当にそう続くなら、杭を抜いた者は、外縁を壊したのではなく、命令戻し線に変えられるのを避けたのかもしれない。

破壊と応急処置を分ける。

怒りと結論を分ける。

人と行為を分ける。

分けて、分けて、分けた先に、ようやく杭跡の意味が見えるのかもしれない。

今日はまだ、そこまで行かない。

ただ一つ、記録する。

杭は抜かれていたかもしれない。

だが、その不在は、ただの破壊跡ではない。

戻しを避けるための、苦い息継ぎだった可能性がある。』


 地上では、水車が回っている。


 森は黙っている。


 杭を抜いた者も、もう何も語らない。


 だからこそ、残った跡と、欠けた言葉と、人間の面倒くささを、こちらで拾うしかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ