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第147話 ハルマ村、井戸縁の古い傷

 ハルマ村へ向かう朝道は、思っていたより明るかった。


 山の端から差した光が、草の先についた露を白く光らせている。道は少し湿っていたが、足を取られるほどではない。


 俺の横を歩くニコルは、記録板を両手で抱えていた。


 その記録板には、昨日作ったばかりの新しい項目がある。


『外縁杭候補・ハルマ古井戸確認』


 トマは少し前を歩きながら、何度も振り返った。


「今日は古井戸の傷を見るんだよな」


「はい」


「掘らない。削らない。石を動かさない」


「はい」


「井戸の水を勝手にいじらない」


「はい」


「水量板は……ないから関係ないか」


 ニコルが真面目に言った。


「関係は薄いですが、考え方は同じです」


「だよな」


 トマは自分で頷いた。


「見やすくするために動かさない。分かりにくいまま見る」


 それは、旧水路で覚えたことだった。


 水量板の裏に残っていた金属粉。

 もし板を動かしていたら、残っていなかったかもしれない証拠。


 だから今日も、古井戸の縁石を動かさない。


 傷をよく見たいからといって、磨かない。

 濡らして浮かび上がらせない。

 石の下を覗こうとして持ち上げない。


 そこにあるまま、見る。


 ハルマ村へ着くと、井戸番がすでに待っていた。


 年配の男で、何度かリベル村にも来ている。現地公開確認の時、中央井戸の水を見て「井戸番の仕事は疑うことだ」と言った人だ。


 その横には、若い母親がいた。


 腕に子供を抱いてはいない。今日は子供は家に預けてきたらしい。


 彼女は俺たちを見ると、少し緊張した顔で頭を下げた。


「来てくださって、ありがとうございます」


「こちらこそ、確認に協力していただいて助かります」


 俺が答えると、井戸番が古井戸の方へ顎をしゃくった。


「こっちだ。傷は逃げないが、見方を間違えると見えなくなる」


 トマが小声で言った。


「井戸番さん、言うことがいちいち格好いいな」


 ニコルがそのまま書きそうになり、トマが慌てて止めた。


「今のは書かなくていい」


「村内記録なら」


「やめろ。ハルマ村でまで俺の雑談を残すな」


 井戸番が少し笑った。


「残してもいいぞ。井戸番は褒め言葉に弱い」


 トマが「しまった」という顔をした。


 その小さな笑いで、場の緊張が少しほどけた。


 古井戸は、ハルマ村の中央から少し外れた場所にある。


 日常の汲み水には新しい井戸も使われているが、古井戸は今も大事にされていた。水量は多くない。けれど、水の変化を知るために、井戸番は毎朝必ずここも見るという。


 丸い縁石は、手で触れられ続けたせいで滑らかだった。


 だが、その一部に細い傷がある。


 昨日、非接触確認で見た時は、摩耗しすぎて詳しくは分からなかった。


 今日はもう少し時間をかける。


 ただし、やることは変わらない。


 見るだけ。


 ニコルが記録を始めた。


「確認開始。ハルマ村古井戸。天候、晴れ。井戸水面、静穏。濁りなし。匂いなし。縁石傷確認。掘削なし、削磨なし、石移動なし」


 トマが頷く。


「最初にそこを書くの、大事だな」


「はい」


「何もしてないって、後から分かる」


「そうです」


 井戸番が感心したように言った。


「若いのに、いい書き方をする」


 ニコルは少し照れたが、筆は止めなかった。


「ありがとうございます。仮の記録係です」


「仮なのか」


 井戸番は笑った。


「仮にしては、ずいぶん板についているな」


 ニコルは何か返そうとしたが、結局小さく頭を下げるだけにした。


 俺は縁石へ鑑定針を近づけた。


 石には触れない。

 影の落ち方を見るために、トマが反射板を持つ。


「角度、これでいいか?」


「少し右へ」


「こう?」


「はい。止めてください」


「止まった」


 トマは本当にぴたりと動きを止めた。


 細い傷が、朝の光で少し浮かび上がる。


 曲線。

 その横に二つの点。

 さらに、消えかけた小さな返し線。


 黒薔薇工房の棘蔓印とは違う。


 もっと古い。


 ただ、後から重ねられたような痕がある。


 鑑定針が微かに震えた。


《ハルマ古井戸縁石》

《古式封印支え印:確認》

《本来機能:水質異常早期反応》

《後世補助印:摩耗残存》

《黒薔薇工房系命令補助印:上書き痕あり》

《現状態:非稼働/外縁杭候補》

《危険度:低》

《推奨:保全・日次観察》


 俺はゆっくり読み上げた。


「古式封印支え印、確認。本来機能は水質異常早期反応。後世補助印、摩耗残存。黒薔薇工房系命令補助印の上書き痕あり。現状態は非稼働。外縁杭候補。危険度は低。推奨は保全と日次観察」


 ニコルの筆が走る。


 若い母親は、井戸を見たまま目を伏せた。


「危険度は低……」


「はい。今、井戸が危ないものを出しているわけではありません」


 俺は言葉を選んだ。


「むしろ、本来は水の異常を早く知らせるための印だった可能性があります」


 井戸番が縁石へ目を細めた。


「腐り水を嫌う井戸、か」


 トマが聞いた。


「その言い伝え、もう少し詳しく聞いてもいいですか」


 井戸番は少し考えた。


「詳しいも何も、短い話だ。昔、この辺りで井戸水が悪くなりかけた時、この古井戸だけ水面が先に騒いだと言われている。水が濁る前に、井戸が嫌がるように揺れた、と」


「井戸が嫌がる」


 ニコルがその言葉をそのまま書く。


 井戸番は頷いた。


「子供の頃は、井戸が生きているみたいで怖かった。だが祖母は言っていた。怖がるな。嫌がってくれる井戸は、黙って腐る井戸よりありがたい、と」


 若い母親が、井戸の水面を見た。


「嫌がってくれる井戸……」


 その声は小さかった。


 けれど、昨日より少しだけ落ち着いていた。


「昨日、王都の資料が開かれた時、この井戸が二度揺れました。私はそれを聞いて怖くなりました。でも……知らせてくれたのなら、怖がるだけじゃなくて、見るべきなんですね」


 井戸番が彼女を見た。


「そうだ。飲ませる水だからこそ、怖がるだけでは駄目だ。見るんだ」


 ニコルはその会話を記録する手を止めなかった。


 トマも黙って聞いていた。


 彼はこういう時、いつもなら何か軽口を挟む。

 けれど今日は何も言わなかった。


 水量板の時、自分が感じた恐怖と似ていたのかもしれない。


 何かが仕込まれていたかもしれない場所。

 けれど、それを怖がって壊せば、本来の役目まで失われる場所。


 俺は縁石の反応をもう一度見た。


 上書き痕。


 古式封印支え印の上から、黒薔薇工房系命令補助印が重ねられている。


 本来は、水質異常を知らせるための印。


 それを誰かが、命令核へ情報を返す仕組みに変えようとした。


 だが、今は非稼働。


 摩耗し、力を失っている。


 それでも昨日、王都の資料開封に合わせて水面が二度揺れた。


 つまり、完全には死んでいない。


 井戸そのものが、外縁杭候補として封印層を支える感覚を残している。


 ニコルが確認した。


「追加で採取はしますか」


「しません」


 俺は即答した。


「今日は見るだけです。削れば、印そのものが傷みます」


 トマも頷いた。


「見えにくいまま、残す」


 井戸番がトマを見る。


「いいことを言うな」


「たまに言います」


 トマは少し得意そうにしたが、すぐ自分で肩を落とした。


「調子に乗る前に止まった」


 井戸番は笑った。


「その止まるのも、井戸番向きだ」


「俺、水路番なんで」


「似たようなものだ」


 トマは何となく嬉しそうにしていた。


 確認を終えたあと、若い母親が提案した。


「この井戸の記録、村の人にも見せてもいいですか」


 ニコルが顔を上げる。


「もちろんです。ただし、怖がらせない書き方が必要です」


「はい。危ない井戸ではなく、知らせる井戸だと伝えたいです」


 俺は頷いた。


「それがいいと思います」


 そこで、ハルマ村用の短い掲示文を作ることになった。


 ニコルが原案を書き、井戸番と若い母親が言葉を直す。


『古井戸の縁石には、昔から水の異常を知らせるための印が残っている可能性があります。

現在、井戸水に危険な異常はありません。

この井戸は“腐り水を嫌う井戸”という言い伝えの通り、水の変化を先に知らせる守りの井戸として見守ります。

縁石を削らないでください。石を動かさないでください。井戸番の記録を続けます』


 トマが読んで、頷いた。


「分かりやすい」


 井戸番も頷く。


「これなら村の者も変に怖がらないだろう」


 若い母親は少しだけ笑った。


「子供にも、“この井戸は水の番をしてくれている”って言えます」


 その言葉が、とてもハルマ村らしい答えに思えた。


 昼過ぎ、リベル村へ戻る道で、トマはしばらく黙っていた。


 そして、急に言った。


「井戸って、偉いな」


 ニコルが瞬きをする。


「井戸が、ですか」


「うん。嫌な水が来たら嫌がって知らせるんだろ。何も言えないのに、揺れて知らせる。偉い」


 ニコルは少し考え、記録板を開きかけた。


 トマがすぐ止める。


「これは書かなくていい」


「いい言葉だと思います」


「恥ずかしいからやめろ」


 俺は笑いそうになったが、我慢した。


 ハルマ村の記録は、リベル村へ戻ってすぐ広間に広げられた。


 村長はゆっくり読み、頷いた。


「危険物ではなく、知らせる井戸か」


「はい」


 俺は答えた。


「古式封印支え印が確認されました。本来機能は水質異常早期反応。黒薔薇工房系命令補助印の上書き痕もありますが、現状態は非稼働。保全と日次観察が推奨です」


 ダリオさんは地図のハルマ村に印をつけた。


「外縁杭候補としては、かなり強くなったな」


 セリアはハルマ村用掲示文を読み、ほっとした表情をした。


「“守りの井戸”と伝えられるのは大きいですね」


「はい」


 ニコルが頷く。


「怖い井戸と言われると、削ったり埋めたりしようとする人が出るかもしれません。でも、守りの井戸なら、見守る理由になります」


 リーゼさんが短く言った。


「名づけ方で守れるものがある」


 トマが「おお」と声を漏らした。


「それ、格好いい」


 ニコルが筆を構える。


 リーゼさんが静かに言う。


「書いてよい」


 ニコルは少し嬉しそうに書いた。


『リーゼ発言:名づけ方で守れるものがある』


 トマはうらやましそうな顔をした。


「俺のは書かないのに」


「トマさんも書いてほしいなら書きます」


「いや、やっぱいい」


 ダリオさんが笑った。


「面倒な奴だな」


「自分でもそう思う」


 夕方、ハルマ村へ正式な返書と掲示文の清書を送った。


 さらに、王都へも報告を作る。


『ハルマ村古井戸確認。

縁石に古式封印支え印を確認。本来機能は水質異常早期反応。

黒薔薇工房系命令補助印の上書き痕あり。現状態は非稼働。外縁杭候補として保全推奨。

ハルマ村では“腐り水を嫌う井戸”という言い伝えあり。

村内では、危険井戸ではなく、守りの井戸として掲示予定。

掘削、削磨、縁石移動は禁止』


 ニコルは最後に、若い母親の言葉も添えた。


『住民発言:怖いものが井戸にあったんじゃなくて、井戸が守るものだったんですね』


 ダリオさんがそれを見て言った。


「その一文は効くな」


「王都にですか?」


「王都にも、村にもだ。技術説明より、人が水をどう見るかが分かる」


 夜、俺は地下工房で記録を書いた。


『ハルマ村古井戸詳細確認。

縁石に古式封印支え印を確認。本来機能は水質異常早期反応。後世補助印摩耗残存。黒薔薇工房系命令補助印の上書き痕あり。現状態は非稼働、危険度低、外縁杭候補。

井戸番証言:“腐り水を嫌う井戸”。変な水が来ると水面が先に知らせるという言い伝え。

若い母親発言:“怖いものが井戸にあったんじゃなくて、井戸が守るものだったんですね”。

ハルマ村では守りの井戸として保全掲示予定。縁石削磨、石移動は禁止』


 最後に書く。


『井戸縁の古い傷は、ただの傷ではなかった。

水の異常を先に知らせるための印だった可能性がある。

黒薔薇工房はそこに命令補助印を重ねた。

だが、井戸の本来の役目は消えていない。

腐り水を嫌う井戸。

その名は、恐怖ではなく、見守りの言葉として残すべきだ。

危険なものが井戸にあるのではない。

井戸が危険を知らせてくれる。

その違いを間違えなければ、村は井戸を怖がらずに守れる。』


 地上では、水車が回っている。


 その水音の向こうに、ハルマ村の古井戸の静かな水面が思い浮かんだ。


 揺れることで知らせる井戸。


 黙って腐らないための井戸。


 外縁杭の一つは、今日、ただの古い傷から、守りの傷へ名前を変えた。

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