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二話 古峯

絶え間なく。

肌に落ちてくる冷たい感触に、それの意識は目覚めた。

両膝の間に埋めていた顔を持ち上げれば、降り注ぐそれが雨である事が分かった。

虚ろ気な赤い瞳は焦点すら定まることのないまま、ただ茫然と。眼前を見据えるのみ。

降りやみ事のない雨の中、痩せ細った枝木の伸びる幹の根元に座り込む。

腕の中に収まっていた、身の丈からすれば大きな印象を覚える刀と。柄が自分の手から離れない様に、きつく縛り付けられた赤い紐が一つ。

それには、それ以前の記憶というものがなかった。

ここがどこなのか、何故自分はこんな場所にいるのか、今迄何をしていたのか。

様々な疑問が脳裏を過るが、いくら思い出そうとしても答えとなるものは何一つない。

これからどうすればいいのかすら、それには分からなかった。






榊扇の里を出て十日は経つだろうか。

経過は好調。早いもので弥代は既に五街道の起点ともいえる日本橋に通過していた。

榊扇の里自体が相模国と武蔵国の国境に近かった事もあるだろう。

里を出た直後は相模川沿いに北上を進め、甲州街道は八王子宿から街道沿いに野宿を続ける事で三日目の昼には到着することが出来た。

日本橋を出てからは、甲州街道沿いよりも平坦ではない道を何とか歩み続けた。

道中は思っていたよりも藪入りに向け、帰省の途に付く者が多く賑わっていた為人が多く。

津軽へは宇都宮宿まで出た後、日光街道ではなく分岐する奥州街道を進まねばならない事は確認済みであった。

甲州街道と比べれば一つ一つの宿場町の感覚が遠い感じてしまうのは、甲州街道や東海道と比較すれば御車ではなく徒歩で行く者が多いからだろうか。急勾配とまではいかないが、牛や馬を連れての旅路は難しいように傍目からも思えた。

それから覚えているのは、

「雀宮を、出た辺りで。」

見上げた天井は高い。

気が付くと、そこは見知らぬ場所だった。

いつの間に気を失ったのかも覚えていない。覚醒しきらない思考のまま、辺りを見渡すも周囲には誰もいないしで、掛けられた布団から這い出れば、忘れていたのを思い出したかのように激しい空腹感に襲われた。

最期に口にしたのははたしていつだっただろうか。

「長い間何も食べていないのではありませんか?」

そうだ。

元々心許なかった持ち合わせは日本橋に到着するよりも先に底をついてしまった。

旅籠を使う余裕なんてあるわけもなく野宿を続けていたが、始めの頃は少ない持ち合わせでどうにか飯にありつけていた。

それからは七日程、何も飲まず食わずではないだろうか。

弥代の疑問を後押ししたようなその声の主は、部屋の障子の先から姿を覗かせた。

真っ白な、混ざり気のない髪をした小柄な少女だ。

「どちらさま?」

「お初にお目に掛かりますわ東の御人。私は鶫と、そう申します。」

三つ指をついて、頭を垂らす少女はどこまでも白い。

その肌さえも血が通っているのかも分からない程に透けて見えた。

髪の毛がさらさらと垂れる様すらどこか絵になる。

「お目覚めになられて直ぐに恐れ入りますが、貴女様の目覚めをお待ちの人がいるのです。どうぞ私に付いてきてはいただけないでしょうか?」






廊下に出れば薄い空気に気付く。

先を行く小柄な少女の背を静かに追うと、左手には立派に聳え立つ鳥居が見えた。

思えば榊扇の里の門にも似たような赤い柱が建てられていた気がする。

その立派な鳥居からは、ここがどこかの神社か寺院ではないかという思う。

どちらでもないにしても鳥居が建つという事は神聖な地なのではないだろうか。

よくよく目を凝らせば鳥居の先には、石畳の参道が見える。参道の奥は霧がかかっているのか薄らぼんやりとしていて見えにくい。

そんな中思い出すのは、今はもう亡き夫婦の存在だ。

そういえばあの老夫婦も霧が立ち込める空気の薄い丘の上に住んでいた。

空気が薄いという事は山か丘の上だと、そう教えてくれたのはどちらだったか。

五年以上昔の記憶はどうにも曖昧で。思い出そうとすると自然と胸が痛むので止めた。

止めてそうして、弥代は少女の後に続いた。






「こちらです。」

通された部屋の奥には、紫紺の髪を束ねた一人の男がいた。

敷居を跨ぐと、男の伏せられていた目蓋がそっと持ちあがる。

萌黄色の双眸が静かに、弥代に向けられる。

その瞳を前にするのはこれが初めてあろうに、どこかで見た事のあるような錯覚を覚える。

「気分はどうだ。」

よく通る落ち着いた声が投げかけられる。

腰を下ろすよりも早く投げかけれたその言葉に詰まってしまうのは何故だろう。

先ず何よりも礼を述べようと口を開くが、それは少女によって妨げられてしまう。

「兄様、そんな言葉遣いでは休む気も休まりませんわ!もっと柔らかく仰る事は出来ないのですか?」

いつの間に移動をしていたのだろう。

男の小脇で背筋を伸ばす少女が兄と呼ぶその男はそれまでの佇まいを一瞬で崩す。

「違う、鶫。今の言葉は十分に気遣ったものだ。」

「気遣っている人が開口一番にそんな事言うものですか。もっと労わった言葉を投げかけることは出来ないのですか?東の御人が困っておいでです。」

肩が揺れる。

ほんの僅かなやり取りだが、少女に強く出る事ができない男の様子から兄妹でありながら主導権を握っているのは妹の方なのではないかと思えてしまうのは仕方がないだろう。

咳払いを一つしてから自分に向きなおり、始めに部屋に入った時とは打って変わった雰囲気を纏った男が弥代を見やる。

「痛む所はないか?」「兄様!」

少女の掌が、男の膝上に置かれていた手の甲を叩く。

目にも止まらぬ速さで、叩かれた手の甲は瞬時に赤く色づく。

声は堪えたのか、男の眉間には深く皺が刻まれる。

「御客人に失礼です!もっと友好的には出来ないのですか!?」

「無理を言うな鶫。得意不得意は己にもある。」

「そんなんですから下々の方々に怖がられてしまうのですからね!いつになったら克服をするつもりですか!」

苛烈だ。少女はその見た目に反して酷く当たりが強い。

客人である自分にそれが向くことはないのだろうが、一方的に向けられている兄である男が段々と哀れに感じれてくる。

話している間に腰は下ろしたものの、そんな二人を前に背を正す気にもなれず、胡坐を組んで様子をそのまま見守る。

自分が横槍を入れる隙等どこにもない。

兄妹である二人の会話はやはり少女の方が強く。男の言葉は次第に弱くなっていく。

紫紺の髪をした男に、白髪の少女。

ふと、弥代はある事を思い出す。

(雷神と、白鴉…。)

意識を失う前、自分がいた場所を思い出す。

雀宮宿は記憶が正しければ下野国だった筈だ。

先の宇都宮宿から日光街道ではなく奥州街道で白河を目指すつもりでいた筈だ。

先日、扇堂家の屋敷で扇堂杷勿から説明を受けた話の中に下野国が含まれていた事を思い出す。

部屋に案内されるまでの間に目にした聳え立った赤い鳥居からそこまで情報が揃えば憶測が立つ。

人間と大差ない姿形で言葉を交わしている二人が、鴉天狗という妖怪である事が。

「……」

慌てることはない。慌てた所で何も意味がない事を分かっている。

取り乱すような事もなく、今も自分を忘れたかのように馴れ合う二人を目にする。

何も、大差のない。

仲睦まじい兄妹の口論にしか見えない。

自分も人間と変わりない姿をしているせいで、二人が妖怪であるという事もどこか信じられない気持ちが沸くのはどうしてか。

いや、そんなことは無い。

特異すぎる色が蔓延しているこの空間自体が異質だ。

人間なわけがないのだから。

「違う。」

意図せず口を突いて出た否定の言葉に、部屋の中が静まり返る。

届いただろう一声に、兄妹の視線が弥代に向く。

「どうかされましたか?」

少女の手が伸ばされる。

弥代は、その手を払った。






「お腹が空いていては気持ちも塞ぎ込んでしまいますね。」

膝の間に埋めていた顔を持ち上げる。

朱塗りの盆の上には見栄えの綺麗なおむすびが三つ程乗せられている。

弥代が一向に受け取らないのを見るも、少女は強引にその内の一つを摘まみ、直接前へと差し出した。

差し出されることなく置いていってほしかったがそうはいかず。

渋々と受け取ってしまうのは、つい先ほどその手を払ってしまった事への後ろめたさか。

いただいたおむすびには贅沢に海苔が巻かれ、中にも何か具が入っていそうだった。

長らく飲み食いをしていなかった弥代からすればそれはあまりにも魅力的だったが、ある考えが邪魔をして口を付ける気にはなれない。

いくら優しい言葉で促されようとも、気力が沸かない限り仕方がない。

近くの廊下にお盆を降ろすと、少女は弥代の隣に腰を下ろした。

「どれだけの間食べられていないのですか?」

それは目を覚ました直後に浮かんだ。

素直に七日と答えれば少女は小さく微笑んだ。

「随分と、我慢されていたのですね。」

「多分まだ食わなくたっていられる。」

自然と、そう続けてしまった。

日本橋を出てから七日、持ち合わせがなかった為弥代は飲まず食わずのまま下野国に足を踏み入れた。

一日二日は、それまでもそれぐらいの間食べれないという事はあったからそこまで気にすることはなかった。

三日目になってそれでも限界なく体が動く事に違和感を覚えた。

四日目には目を逸らす事はできないと、そう感じた。

五日目には、

「何も口にしなくても生きれるんだって、そう、分かっちまった。」

それまでは普通に食事をしていた。

里で暮らす中で偶に飯にありつけない事もあったが、空腹感に耐えきれず食べてきたが空腹だけで死ぬことはないと知ってしまった。

「でも食べないと元気になれませんよ。」

恐らくは限界が訪れたのだろう。

それでも七日もの間飲まず食わずで過ごせたのは、やはり自分が人間ではないからだろうか。

疑問に答えるかのように、少女は口を開く。

「妖怪は、確かに何も口にしなくても生き永らえられます。でも人間より少しだけ丈夫だけで、そう長くはもちませんよ。」

少女の手がまた伸びる。

今度は払うことはないが、それでもあと少しで触れそうになった瞬間身を捩った。

「怯える理由など、どこにもないですよ?」






今もまだ、残っている。

『かつてこの里に災禍を招いたとされる鬼の子が、今再びその土地に降り立ったと、同胞らの間では今も広く知れ渡っております。』

忘れるわけがない。あの秋雨の晩に向けられた言葉。

『ご自身が人間ではないと、知ったのでしょう?また、薄々気付いていらっしゃった筈です。』

見知った仲の者に告げられたその言葉がこびりついている。

消えない。ずっと、消えないまま。

「俺は、」

誰かに言ってほしい。

「俺は人間じゃないのか、」

そうだと、誰かに言ってほしい。

「俺は、」

「俺は、人間の筈なんだ。」

いっそ願いに近い。そうであれという願望か。吐き出した言葉を前に、弥代は自覚することしか出来なかった。

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