十一話 晦の邂逅
(どれだけ、我慢を続ければいい。)
知らない。
(どれだけ、堪えなければならないのか。)
知らない。
(どうして、どうして、どう…して、)
知らない。
「・・・・・・茅乃?」
今宵は晦、月は見えない。
夜空では星だけが煌々と瞬いている。
心許無い僅かばかりの光源を頼りに、それでも一歩、一歩と前へ進む。その足取りが夜の帷に絡め取られることはない。迷いなく。遠慮などそんなもの、全てをかなぐり捨てて、そうして進む。
その土地は、長く人の手に触れることはなかったのだろうか。荒廃しきった母屋がちらほらと姿を見せてくるが、営みの欠片は微塵も感じられない。
傾ききった屋根にまで届きそうな程降り積もった雪に、どれだけの間この土地が放置されていたかが窺えた。
なんとも、哀しい場所だ。
その光景は、どことなくあの老夫婦と暮らしていた頃を弥代に思い出させた。あの晩も雪が積もっていた。足首が埋もれてしまいそうな程の深雪に、がむしゃらに、後先を考えずに走った。生きて欲しかった。もっと、一緒に過ごしたかった。願いは叶わなかった。
叶わなかった。雪に、いい思い出はあまりない。身は凍えるし、指先は悴んで思い通りに動きやしない。吸いこんだ空気は冷たくて、そんなもので満たされた肺は痛い気がする。吹雪けば視界を遮られ鬱陶しい限りだ。
津軽への道中目にした、昼時の積雪はあんなにも美しく目に映った筈なのに、同じ雪でもこうも違ってくるものかと、嫌気が差す。
ふと、遠く、遠い音が微かに鼓膜を揺らした。鈍い、鐘をつく音だ。
冬の夜というのは非常に音が遠くまで響くのだ。それは島国の最北、雪に覆われたこの地におかれても、変わらず届いた。たとえもうこの地に人の営みが育まれる事はなくとも、報せてくる。
鐘の音が届くということは、もう間もなく、年が終えるのだろう。
全てが届くわけではない。足取りはその音に背中を押されたように僅かばかし軽くなる。
『話がしてぇ奴がいるんだ。』
瑠璃によって地下牢から出てくる事が出来た弥代、春原、館林の三人。
密閉された空間で芯まで冷え切った体をく抱きしめながら、弥代ははっきりとそう口にした。何があっても、間違っても邪魔をされたくなかった弥代は、きつく春原に言葉を遺した。
『いいか、春原。俺は話がしてぇ相手がいる。何があっても邪魔をされたくない。だから俺についてくるな。俺の邪魔をしてくれるな。ここで、待ってろ。』
春原という男が自分の言葉に対して素直に従うという事を、弥代は理解していた。これまではあまり確信はなかったが、此度の旅において向かい合う機会が多い中で、それは確実なものへと変わった。そういった行動は彼自身に蓋をして、彼の気持ちを都合よくりようしている気がして気持ちのいいものではないと思っていたが、今はそうも言ってられない。
横槍を、入れらたくなかった。
顔を見て、冷静でいれる自信はなかった。
誘いを断ったのは紛れもない自分だが、それは話を終えていい理由になりはしない。
こんなにも寒いというのに手のひらがじっとりと汗ばむ。珍しく緊張しているのが分かる。緊張を誤魔化すように一呼吸。彼も、そうだった。
一発殴ってやらないと気が済まない。よくないことだ。よくない事と分かっていても殴られずにはいられない。この憤りをぶつけなくては気が済まない。殴り返される覚悟は出来ている。
刀は、抜くことにはならないだろう。旅の装いをすれば自ずと身につけた方が落ち着いた。身一つで過ごす方が本来はなれていないのだ。長年持ち歩き続けているそれは、ある意味足枷のようなものだ。
抜くな抜くなと、柄に手を掛けては自分に囁きかける。抜いて自暴自棄になり殺めた名も知らぬ彼等が、幻だと分かっていても視界に映り込む。これまでも、そうだった。
その眼光は鋭い。
月明かり一つない中であっても、どこまでも真っ直ぐに前を、前を見据える。赤い。赤い瞳が、その瞳が何かを捉えた。
広い雪原の中、昏い夜に溶け込んだ人影を見る。
一人にしてはやや大きなそれ。目を凝らせば明かりはなくとも薄らと、力なく横たわる女の姿が見た。だらりと、雪の上に転がる四肢を大切そうに腕に抱く、男が一人。遠目であろうとも、たとえその表情がまだ窺えずとも、知れず理解した。
「瓢。」
驚くことに。直前まで出会い頭に一発殴ってやろうと思っていたのに、その光景を前にしてそんな考えは静かに、なりを潜めてしまった。
掘り返された雪の中に、静かにその亡骸を横たえると、彼はゆっくりと顔を持ち上げた。
「また会ったな、東の。」
その姿はどこか、最後に顔を合わせた時よりも大きく見えた。錯覚ではない。
ぐっと、奥歯を噛み締める。
傾斜という事もあるだろうが、それでも、腰を持ち上げた彼の視線は僅かに高い。
目線を合わせてくれていた彼は、どこにもいない。
感情の篭っていない声が、周囲に響くのだ。
「……俺もだ。」
沈黙を挟み、彼は己の掌に目を落とす。
「知らぬ間に、ずっと、堪えていたんだ。」
一回り以上大きくなった手で顔を覆う。
「ずっと、そうあれと、望まれていたんだ。」
すっぽりと、目が覆われる。
「望んでいたんだ、俺自身が本当は、ずっと、ずっと…」
向かい合うのは、これで幾度目か。
だが、本心を掲げあうのはこれが恐らくは初めてだろう。
初めて街で、集落であった際には距離があった。屋敷で互いの紹介をする時にはまだ遠慮があった。縁側で肩を並べ、漸くしっかりと目を合わせられた気でいた。同じ窯の飯を食らい、他愛もない言葉を並べて、不器用ながらも耳を傾けて下手くそな笑顔を浮かべるお前が。
「瓢、」
届くだろうか。届かないかもしれない。端から届くなんて期待はしちゃいない。でも、それなら届く距離まで歩み寄ろう。
蹲って身を抱きしめる、その姿があまりにも幼く見えて。手を、伸ばそうとした。
「憐れむなよ、東の。」
明確な、拒絶。
身の内に押し留めていたものが、殻を食い破るように頭角を、比喩などではなく表した。
触れずとも、彼はその存在を理解した。
長く、それは長く彼が求めていたものなのだろう。
帯紐に差し込んだ古びた煙管の、その根本に括り付けられた赤い紐を手にとる。
まるで髪を結い上げるかのように繊細な手つきで、手慣れたような指つきで、姿を表したそれに括り付けられる。大ぶりな二つの羽根が彼の額に咲いてみせた。
射抜く、
「均衡を崩しかねない存在は、たとえ同族であろうとも生かすわけにはいかない。」
「今一度…今、この場で答えを聞こうか、東の鬼。」
「お前は、俺たちを、」
「導いてくれるのか?」
何とも、酷い話だ。
「本当にすみません…、こんな事に、こんな、なるなんて、俺思ってもみなくて…ごめんなさい、ごめんなさい、俺、何も、何も出来なくて…瓢さん!」
黒髪の青年が一人疼くまる。
何も出来なかった己の無力さ、不甲斐なさに嘆いている。なんと声をかけたらいいものかと館林は考えたが、これまでそのような行動を取った事のない自分が突然そんな器用な事が出来るとは到底思えなかった。
首を伸ばし天井を見上げるしかない。
館林自身は彼と、瑠璃と直接言葉を交わしたことはない。たった数日の交流の中で、彼等と言葉を交わしたのは殆どが今この場にはいない弥代だ。
話をつけたい相手がいるんだといって、冷え切った身を温めた後、手早く身支度を整え屋敷を出て行ってしまった。
向かう先など聞かずともある程度察しはついた。ああまで強く言われては、言われた側の春原も素直にきくしかなかったのか、じっと目を閉じて姿勢を正している。
何もする事がない時の春原は昔からそうして過ごしている時が多かった。
動こうにも動けない。
晦日であれば騒ぎ立てたって罰はあたらないものだろうが、そうもいかない。地下牢に運ばれてから半日以上が経過していたのだろうか。青年・瑠璃の手を借りて外に出た頃には日は傾き始めていた。
屋敷の外、街の方は距離が離れているものも何やら一刻以上前から騒がしい。
年を越えるとなって盛り上がってでもいるのだろうか。
対照的に、この屋敷は酷く鎮まりかえっている。
どうしたものかと首を回した時だった。視界の端で若干青みを帯びたような昏い髪が微かに揺れた。
「…坊?」
「…来た、」
すくっと、春原は立ち上がった。
息つく間もなく、彼は壁際に立てかけていた刀を握り、部屋を出た。
「坊っ!」
慌てて館林がその背中を追うも、足取りは強く。淀む事がないまま、春原は裸足のまま廊下を抜けて、庭へと降り立った。
「……。」
「ほほぉ、これはなんとも…。」
男が、立っていた。
今しがたその場に降り立ったのだろう。
纏う羽織の裾が、どこか不自然に浮いている。男の傍らには、どういうことかこの数日で世話になっていたこの屋敷の乳母・小綱の姿があった。
「小綱殿…?」
状況を飲み込めていないのは自分一人だと館林は即座に理解できた。
遅れて付いてきた瑠璃が顔を歪め、膝を付く。その体を支えないという選択肢は館林にはなかった。
まるで庇うかのように前に出れば、それよりも遥かに一歩前に立つ春原に気付く。
「弥代は、望んでいない。」
「貴き血筋が、まだ生きておられようとは…。驚きを、隠せませんのぉ。」
成り立つことのない会話が、行われた。
「ふざけた事、吐かしてんじゃねぇぞ!」
弥代が駆け出せば、彼は、霜羽は紐を失ったその煙管を手に取った。距離はまだあったが、落ち着きを払ったようなその涼しげな横顔が酷く弥代の神経を逆撫でた。
一方的に問い掛けをしておいて、こちらの返答に期待などしていないその態度は他でもない、憤りを掻き立てた。
腰からぶら下げた刀を積雪に突き立てる。
距離を詰めるように前へと飛べば彼の懐に一気に飛び込んだ。利き手でないにしろ鞘に収めたままの刀を右へと振り切る。意外にも、霜羽はそれを避けることはしなかった。
吹き飛ぶ事はなかったものの強く踏み込み、彼は胴でそれを受け止めた。
「…痛いじゃないか。」
胴で受けた後、煙管を握るのとは逆の手が弥代の刀より先、握るその手を掴んだ。
「仕返しだ。」
それまでの彼からは想像もつかないような力によって、弥代の体が持ち上がる。彼の頭上あたりまでいけば一瞬浮遊感の後、地面に、雪原に叩きつけられた。
予想外の衝撃が体中に走る。
掴まれた腕はそのままに、彼は弥代の顔を覗きこむ。
「抜かず何が出来ると思っている。ふざけているのは、はたしてどちらだ?」
「抜け、東の。」
「そんなものではないだろう。」
「菖蒲、おふざけがすぎましょうぞ。」
女のその発言に、菖蒲は堪えきれずに振るわせていた肩をようやく止めた。
「これが笑わずにいれましょうか?潰えたと思われていたその血を前に、どう我慢ができましょうか?」
歓喜に打ち震えるとは正にこの事だろう。
グッと、堪える。菖蒲は決して自身が優れた存在であるなどと考えた事はなかった。人ならざる存在であろうとも、然程変わりはない。ただ長く、長く生きた分狡賢いというだけだ。刀を手にする人間を相手に対等に渡り合えるなど毛頭考えてもいない。
それでも。この場を切り抜ける事が出来れば、あまりにも長い間焦がれ続けていた彼等に、家族である彼等に再び合間見えるのだと思えば、それは単純だろうが彼の原動力となった。いや、それ以外にありはしない。
もうずっと彼は、その願いの為に生き永らえてきたのだ。
『これ、小綱。先程から何をコソコソとされているのですか?見るからに怪しいですぞ。』
女は、昔から口数が少なかった。
どれだけ周りが賑おうと空気を読もうとしない。淡々と自分のしたい事をする。話しかけた所で直ぐに口を紡いでは、不機嫌そうな態度を隠しもしない。人間達の謂れもない言葉によってその存在を歪められた哀れな存在だった。
この津軽の血には、古くより人と妖が共存を続けてきた。互いが手を取り合うというわけではなく、妖が一方的に人間によってこの地に住まうことを許されるものだった。
三百年以上昔、津軽より海を渡った先の地を巡っての争いが勃発した。
初めは本当に些細な諍いだったそうだ。しかし時間が経つにつれ、異国の民達による進行は次第に勢いを増していった。津軽の地に住まう妖らは、それを食い止める為にかつての将軍家から勅命を受け、生まれ育った土地を離れ集められた者達が多かったのだ。
長い間続いた争いは、ある時この島国に施された呪いによって幕を閉じた。
忽然と姿を見ることが出来なくなってしまった海の向こうのあの地は、増援として向かっていった彼等が帰ってくることはなかった。一月経とうとと、半年が過ぎようと、季節をいくら巡ろうとも、彼等は帰ってこなかった。時が経れば次第に、主君の過去の発言も致し方なかったものだったのだなと、自身に言い聞かせることが出来た。納得には、程遠かったが。
それでもいつまでも蟠りを抱えたまま接するのは疲れてしまった。どうする事も出来ないとわかれば、恨むだけ無駄だった知った。
舟を追おうとした際、私を羽交締めにした彼女とは、元の相性がよくなかった事もあり、あれ以降言葉を交わす機会は殆どなかった。
だというのに。その日はやたらとその行動が目についたのだ。周りの誰もが声を掛けたがらない。しかしその奇行は目を瞑るのはどうにも難しく、周りが声を掛けないとなれば仕方なく…。
何となしに声を掛けたところ、予想以上に驚き跳ね上がるものですから、声を掛けたこちらの方が比を感じてしまいました。
『いっ、いきなり声を掛けないでいただけませんか⁉︎あっ、危うく落としてしまう所でしたしょうっ‼︎』
『何を抱えているというのですか、貴女は…。』
何も違わなかった。
長い間言葉を交わさなかったというのに、彼女の態度は昔となんら変わりなく。変わってしまったのは自分自身なのだなと、私はその時自覚しました。
「お飾りじゃないだろう。なら、抜いてみろ。」
そこに弥代の意思はない。肩を踏まれたまま腕を伸ばす。指先は空を切る。掴む間もなく、その刀はあまりにもあっさりと彼の手によって抜かれた。
用済みの鞘は、遠く背後へと放り投げられる。喉元に鋒を突きつけられようとも、取り乱さない。いや、表に出ていないだけで酷く弥代は荒ぶっていた。雪を掻くその指先にただただ力を込める。一瞬の隙も見逃さないと言わんばかりに、鋭く己を見下ろす存在を睨みあげる。
憤りなんてもので収まるわけもない、怒りだ。それまで自分が長く保ってきたものを無碍にされたような、怒りを覚える。彼は、霜羽は先ほど、弥代に対して仕返しだと言った。それがもし許されるというのなら、今か今かと弥代も機会を窺う。
「顔に出ているぞ。」
隠しようのない感情を露わにして、その言葉を皮切りに拳を振るった。
彼の頬に、拳が食い込んだ。
呻き声が一つ。緩んだ手元から自身の刀を奪い取る。反転。殴った際の反動でうつ伏せになるも起き上がり、距離を取る。
二歩飛び引いて、漸く息を整えた。
見据えたその先、一本角を生やした黒き鬼の姿を、改めて弥代は捉えた。
それを、初めての邂逅とする。
北の鬼として見据えるのは、これが本当に始めてだ。
また、己の意思に関係なく、刀を抜くことになろうとは、弥代は想像もしていなかった。
これまで抜こうとすれば、呪いかのように纏わりついてくる幻があったというのに、こんなにも簡単にそれが振り払われてしまうなんて、驚きを隠せない。
が、そんな事を考えている暇が今はない。あるわけがない。躊躇していたまるで嘘のように、弥代は身構えた。
腰を低く落とし、五年振りになるその刀を握る。握りしめる。二度と、奪われてなるものかと。揺すぶられてたまるものかと、見据えた。
「それでいい、それで初めて、対等と呼べよう。」
再度駆け出す。小柄な弥代では鋒が届く範囲も限られよう。が、そんなもの関係ない。その脚力は並大抵ではない。たった一歩、広く跳べば、それは一度に多く距離を詰める。利き腕側へと一閃、横に素早く翳せば彼は半歩後ろへと退き、これを交わした。
手のひらでその小振りな煙管を回し、次の動きを取る前の弥代の肩口へとそれを振り下ろした。鉄が混じったそれは非常に硬く、先ほど踏んでいたばかりの肩へと叩きこむ。
苦悶の声が上がる。その焦点が微かにぶれるも、勢いが失われることはない。威勢のいいそれは獣の咆哮に近い。理性を手放していない、強い意思を宿したその瞳とは対極な、声にならない声を受け、霜羽はある事に気付いた。気付けど、言うことはない。口にする間も惜しい。思考は一瞬で巡る。対峙する相手の、弥代のその浅葱色の髪に埋もれるようにして一瞬、それを見たのだ。
角だ。己の額に姿を見せたそれと形状は異なるが、確実に、明確に、はっきりと、それを見た。疑いはない。疑っていたわけではない。ただ、どうしても、信じれないでいた自分がいた。本当は信じたくなかったのだ。
が、それは一瞬にして安堵を経た後、高揚へと変貌する。
どこか懐かしい感覚。それは彼女を、茅乃と初めて膝を寄せ合った際にとても似ていた。
触れた。あの頬に。あの目元に。あの口元に。触れた。自分と何ら大差のないその存在を前に、酷く安堵したのだ。
「東の…っ‼︎」
こんなの、初めてだ。
逆手に持ち替えられた煙管の、その吸口は弥代の額を割った。パラパラと一瞬の通り雨かのように二人の間に鮮血が舞う。微かな量だ。それでも真雪を染め上げるのは容易い。お門違いな感想が浮かぶ間もない。そんなもので止まることは無い。ぐっと寄った袂を引き体勢を崩させる。狙うは先に打った胴だ。相手が瞬時に身を縮めるも、衝撃は押し殺せない。二撃目はその軸を揺らしてみせた。煙管なんて刀と較べれば間合いのないもの得物になるなど想像もつかなかったが、距離を詰め過ぎれば初動も少なく一瞬にして撃ち込まれる。本能的に理解し隙を見ては後方へと跳ぼうとすれが彼に胸倉ごと掴まれ弥代は引き寄せられてしまう。
「逃げてくれるな、」
がつんっと、互いの額が衝突した。脳みそごと揺すられる。ぐらつく視界に眉間にぐっと皺を寄せる。衝撃は相手似たようなものだ。が、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
痛い筈なのに、一瞬の交差でこうも、こうも滾るなどということを弥代は知らなかった。
掴まれた胸ぐらはそのままに、腕に足を掛ける。足先に自重を加えれば、相手の肩が落ちた。その頭頂部へと肘を入れるそれは最早ただの取っ組み合い、誰がどこからどう見てもわかる程の、醜い喧嘩だ。
武士や剣士のそれとは明らかにかけ離れた、ただの意地の張り合い。お互いに尊厳なんて誇れるものは何一つありはしない。見るのも耐え難い、どうしようもない争い。
打ち込みを続けるうちに最早何の為にぶつかっているのかも忘れてしまいそうな程、喉を乾して吠えるだけ。話し合いなんてもので解決がついていれば、そもそも起きえなかった事態。終わるわけがなかった、片がつく筈がなかったのだ。これまで自分でお気付かぬ内に自身さえも騙してきていた彼が、面倒だなんて御託を並べて直視するのを避けてきた彼女が、言葉で解決できるわけがなかった。一番分かりやすいのは、この二人においてはこれが最善策なのだ。事実、二人は次第にこの状況を薄々楽しみだしていた。
これまでこうも全力でぶつかることが出来る相手がいただろうか。いるわけがなかった。堪えてきたのだ。己と対等な存在など、近しい存在と顔を合わせる機会などなかった。なかった。なかったからこうも沸き立つのだ。
留まる事を知らない。互いに見える肌を腫らすように殴る。殴る。殴り、逃げようものなら逃さない。なんとも子供じみた喧嘩だ。
漸く、久しぶりに距離が生じる。
「随分と楽しそうじゃねぇか、瓢!」
「吐かせ…!それは貴様もだろう、東の。」
変わらぬ日々を、望んでいた。
とうの昔に呪われきったこの島国に未来など望むだけ無駄なのだと、彼は気付いていた。
人の子を真似て、年相応というものを勝手に覚えて、望まれた無知な子どもの芝居を忘れて、自分の在り方そのものを見失って。そうして生きてきた彼だったが、日に日に弱っていく母の、息遣いに耳を澄し縁側から庭を見つめる父の、その真意を言われずともどこかで理解していた。
母は、元は人間であった。
人と妖さえどこか境界の曖昧な。“色”という明確な差があれば違った未来があったやもしれない。なかった。そんなものはなかった。
知れず、彼は人間を愛していた。
自分に近しい姿形をした彼等に心を寄せないという事はなかった。特に、御法川茅乃に対して寄せる情は、家族に抱くそれに非常に近しかった。
『祝福の、解放を…』
島国に呪われた百五十年ほど前。同時期にこの北方における祝福が断たれたと父に教えられた事があった。お前には早すぎると、知らなくてもいい事を口走ったと、父は直様会話を切り替えたがそれは彼の中に残り続けた。
口内に溜まった血反吐を吐き出しながら、弥代は再び彼を見据えた。
仕立てのよかった着物も、永らく殴りあいをしていれば着古したも同然だ。
こちらの言い分に一切耳を傾けず、あのような態度を取られた事が酷く気に食わなかった。話をつけたいなんて啖呵を切って屋敷を出てきたというのに、今していることと言えばただの喧嘩だ。
相手がそれを止めようとする素振りは微塵もない。時間が経つにつれて、どこか冷静になる。登りきった頭の血が落ち着いていく。
それは彼も同じなのだろう。
息が切れる。肩が上下する間隔が長くなる。空いた距離はそのまま。得物だけは降ろさない。
何も相手のことを全て知った気でいたわけではない。そんなの驕りだ、過信だ。自分は何もまだ彼の事を知らない。知らないが、それでも彼の今進もうとしている道はきっと違うと言い切れる。迷いがないわけではない。迷いながらも立っている。
それは、自分に出来なかった選択だ。
『……羨ましいと、そう、感じました。』
たとえその選択が間違っていても、それを口にできる事それさえを、羨ましいと感じてしまったんだ。
『君に、ごめんなさいって、そう、伝えたかっただけなんだ。』
そうまでして誰かに伝えたい言葉があるなんて、誰かの為に時間を賭す事が出来るなんて良いじゃないかと、妬ましく思えたんだ。
『キミが、どうしても言葉で欲しいっていうなら言ってあげる。でも、きっと。今のキミは、本心から答えが欲しいわけじゃないよね。それならあげない。それならあげられないよ。そんな答え、ボクの知ってるキミは望まないよ?』
自分以上に自分の事を知っているようなその発言に、目が眩んだ。選ばずとも、苦しまずとも、立ち上がらずとももう良いんじゃないかと、どこかで考えてしまったんだ。
『寂しくないように。寒くないように。傍にいてあげたいんだよ。』
そうだ、結局の所俺は、
『ねぇ、弥代。それに、意味はあると思える?』
「テメェの事、引き摺ってでも止めるぞ俺は…っ‼︎」
結局の所、過ぎるのはいつだってあの女だ。
意味なんて問うな。意味がなくちゃしちゃいけないなんて事はないんだ。意味がなくたって、
「俺は、」
「我儘なんだよ…っ!」
たとえその行動が、やっと腹を括った彼の覚悟を、これまでの生き方そのものを否定する事になろうとも、止められるものか。
それが彼自身が本当に考えた末に導きだした答えなら、選択であるならここまでむきになることはない。
『瓢さんは、もうずっと…』
「お前自身がどうしたいかじゃねぇのかよ⁉︎忘れんじゃねぇぞ、瓢っ‼︎」
お門違いなら、何か間違った事を言っているなら訂正してくれて構わない。そしたらもう一度目線を合わせて言葉を交わすから。今度は蟠りなんて何もなく、誰の思惑も邪魔しない、いっそこの場で語って構わない。だから、だから、だから…
垂直に振り下ろされるそれを防ごうと、身構える。相手が持つのは煙管であるというのにまるで刃渡の短い脇差のようだと、今になって思えた。そんなもので押さえ込まれるのもどこか癪だ。ちりちりと細やかな火花が散ったような、そんな錯覚を目にしたと思った、その時だった。
これまで通りでよかったんだ。本当は。ただ背中を無理やり押されて、それならと求めた踏ん切りのその先で、彼女の死を目の当たりにしてしまった。最後の力を振り絞って伝えてくれた言葉が、あまりにも寂しくて。違う、違うんだと、その体を強く抱きしめた。触れた。触れたんだ。でも、でも自ら熱を生み出すことがあまり得意ではない彼女の体は待ってくれやしない。徐々に冷たくなっていく。掻きとめる事すら許してやくれない。どうでもよくなってしまった。ずっと、堪えていたんだ。もう開放されるならどこかでそれで良いと思えた。思えたんだ。自由にしてくれ。突き放してくれ。見てみない振りをしてくれ。見放してくれ。所詮他人じゃないか。他人だ。入り込んでくるな。俺は、もう、俺は…
足元が、崩れる感覚が二人を襲った。
それまであった地盤が失われる。
積もり固まっていただけで、それ以上先に地面は続いていなかったのだ。雪のせいで気づかなかっただけ。先ほど体を叩きつけられた際に一瞬味わったような、刹那の浮遊間とは違う。定位置を失ったかのように身体中の臓器が浮き上がる感覚は生々しい。同じ体の中でも、地を失えばこうも変わるものなのかと、驚く間さえ与えてくれない。地中へと、吸い込まれていくように体が傾く。
「−−瓢っ‼︎」
彼の方が若干重たいのだろうか、自分に打ち込んだ姿勢のまま頭からまるで落ちていく。弥代は手を伸ばした。それは無意識に。自分の体が頑丈な事を知る弥代だから。彼を庇うように、守るように。
だが彼は、霜羽は一瞬でも伸ばされたその手に縋ろうとした自分の浅ましさに気付いてしまった。躊躇した矢先、彼の視界は闇に飲まれた。
『ごめんなさいね瓢。母さん、ずっと傍にいれなくて。瓢が大きくなるまで傍にいれないの。』『ご自身が何も出来ないと、その無力さを噛み締めてくださいませ。』『瓢さん!きっと、きっと大丈夫ですから!何とかなりますよ…何とか、なりますから…!』『御父君にそんな有様で顔向けが出来るとでも?』『こんばんは、瓢様。』『その一時の過ちが招いたと理解出来ないのですか⁉︎』『誰も悪くないんですよ。だから、そんなに悔やまないで。』『母さんを、許さないでね?』『そのような夢をいつまで語るのですか…?』『ただ静かに、平和に生きることさえも許してはくれないのか⁉︎』『いつの日か受け入れることになりましょう。』『瓢様』『ごめんね、瓢。』『お前は何も知らなくていいんだ。』『瓢』『終わりを、ただ終わるその日を待とう。』『瓢さま?』『静かに、静かに…』『忘れないでください、私は、私は瓢様の事を』
「目覚ませ、瓢っ‼︎」
その声が、瓢を引きずり起こした。




