第5話 ピンク色の嘘
詩会の夜から三日後、無人汀領の朝は、潮の匂いより先に馬の匂いでざわついた。
港へ通じる石道を、王都式の黒い箱馬車が二台、きっちり同じ間隔で下ってくる。車輪の縁には王家の紋、その下へ見慣れない細い塔印が重ねて彫られていた。飾りではなく、誰の後ろ盾で来たかを見せつけるための刻印だ。
尚樹は役宅の縁側で湯気の薄い茶をすすりながら、その馬車列を見た瞬間に、今日はもう働きたくない気持ちを新しくした。
「帰っていいか、あれ」
隣で帳面を開いていた晃治が、紙から目も上げずに答える。
「残念ながら、向こうがこちらへ来ています」
「じゃあ俺がいなくても成立するな」
「臨時代官が消えると、成立する話がもっと悪い方向へ進みます」
逃げ道を数字みたいに潰されて、尚樹は空を仰いだ。
港では、槙がすでに部下のいない元副長らしい速さで人を動かしている。荷揚げ場の綱を片づけ、余計な木箱を寄せ、見回り組を散らしていた。里未は塩田の方から上がってきて、濡れた前髪を片手で払う。
「中央の馬車だね」
「見れば分かる」
「面倒そうな顔が二倍になってる。いい朝だ」
「俺にだけ悪い朝だろ」
香莉は役宅の軒下で、いつもより早い手つきで小さな胴着をたたみ始めていた。棕櫚狐用の外衣だ。視線の先では、干物小屋の陰にいた幼獣たちが、見知らぬ音に尾をふくらませている。
茉奈は診療所から駆けてきた。
「港へ行きます。たぶん診療所にも来ます」
「嫌な確信だな」
「昨日、王都の便船で書状が届きました。『領内に棲息する棕櫚狐の保護状況、ならびに離火潮との関連調査』だそうです」
「保護、ねえ」
里未が鼻で笑う。
「網の値段を聞く顔で、魚の健康を心配する奴はいないよ」
港へ降りると、馬車から先に降りたのは、灰青の外套を着た三十前後の男だった。髪を後ろで一つに束ね、靴は海辺向きではない。泥ひとつ許せない顔をしている。後ろに若い書記を二人、荷持ちを一人、さらに研究塔付きらしい術具箱持ちが続いた。
男は手袋を外しもせず、一礼だけ寄越した。
「王都監理院査察使、真崎宗也です。臨時代官・榛尚樹殿」
「よりによって当人です」
「本日は領地視察、および保護獣移送の予備確認に参りました」
予備確認、という言葉がやけに滑らかだった。
尚樹は差し出された書付を受け取り、紙へ落ちている火種を見る。人の筆跡や押印には、その場で使った感情が薄く残ることがある。苛立ち、焦り、見栄、怯え。そういう色が、熱のように紙の縁へ沈む。
この書付に残っていたのは、冷たい青ではなく、獲物を前にした時の妙に乾いた赤だった。
名目は保護でも、狙いは確保だ。
しかも真崎の後ろにある細長い木箱は、動物を運ぶ箱の寸法をしていた。
「予備確認の割に、箱が本気だな」
尚樹が言うと、真崎は口元だけで笑った。
「離火潮の影響下にある個体は、いつ急変してもおかしくありません。安全のため、王都の管理施設へ移す備えです」
「随分と親切だ」
「王都は常に辺境へ責任を負っております」
後ろで槙が、聞こえるように小さく舌打ちした。
真崎は気にしない。気にしないというより、最初から海辺の人間を会話の相手に数えていない顔だった。
「まずは個体数の確認を」
「朝飯もまだだぞ」
「公務ですので」
「こっちも生活中なんだよ」
言いながらも、尚樹は真崎の背後にいる術具箱持ちへ目を止めた。箱の留め金に、研究塔の離為火紋が小さく刻まれている。王都監理院だけの視察なら、あれは要らない。
研究塔が噛んでいる。
その確信が腹へ落ちた瞬間、尚樹の怠けたい気分は、面倒の種類だけを変えた。逃げたくはある。だが今ここで黙って見せれば、幼獣も群れも、たぶんごっそり持っていかれる。
「個体確認の前に、案内の段取りを決める」
槙が一歩前へ出たが、真崎は目もくれない。
「あなたは?」
「この領で見回りと港の安全を預かっている槙だ」
「正式任官ではありませんね」
「海獣は任官状を見て襲うわけじゃない」
空気が少し硬くなる。
その時、干物小屋の陰にいた幼獣の一匹が、きゅ、と鳴いた。真崎の視線が、針みたいに細くなる。
尚樹はその目つきを見て、もう迷っている場合ではないと悟った。
「案内は午前のうちに診療所からだ」
そう言って書付を返し、尚樹は笑った。
「この領の獣を見たいなら、まず医師の判断を通してもらう。病持ちを王都へ持ち帰って監理院じゅうで寝込まれても困るだろ」
真崎の眉が初めて動いた。
「病、ですか」
「離火潮の土地だぞ。何も起きてないと思う方が不自然だ」
それは半分だけ本当だった。
真崎は不快そうに鼻で息を吐いたが、書面上は無視しづらい話でもある。診療記録を経ずに保護獣を動かしたとなれば、責任の所在が面倒になる。
「分かりました。診療所へ」
「晃治」
「はい」
「案内の間に、余計な箱は港へ積ませるな」
「承知しました」
晃治の返事は平坦だったが、その目はもう計算へ入っていた。
診療所へ戻る道すがら、尚樹は後ろを振り返らずに小声で言う。
「茉奈、無理筋の相談だ」
「聞きます」
「今からあいつらが絶対に触りたくない診断名を作れるか」
茉奈は二歩ほど黙って歩いた。
「……本気ですか」
「本気じゃなかったら、もっと楽な嘘を言う」
「診断は嘘に使うものじゃありません」
足音は止まらない。だが声だけが固くなる。
「知ってる」
「病名は人を守るために書きます」
「今回も守るためだ」
茉奈は答えなかった。
診療所へ入ると、彼女はそのまま奥の棚へ向かい、薬札と古い台帳を引き抜いた。怒っているのか、迷っているのか、背中だけでは分からない。香莉は幼獣を抱えて裏口へ回り、里未は窓を閉めながら言う。
「離火潮の熱当たりなら、尾の熱袋が腫れることはある。人にうつるかは知らないけど、知らない方が向こうは怖がる」
「それだ」
尚樹が言うと、茉奈が振り向いた。
「離火病なんて正式な病名はありません」
「今日できたことにしろ」
「そんな乱暴な」
「中央はいつも辺境相手にそれをやる」
茉奈の唇がきゅっと結ばれる。
正しいことではない。その顔がそう言っていた。
だが同時に、真崎の箱を見た時の冷えた怒りも、彼女の中には確かに残っていた。
銀色の鞄が、診療台の横でかすかに熱を持った。
尚樹が手をかけると、今日は妙に素直に口を開く。中から出てきたのは、乾いた革表紙の薄冊子と、小さな丸い缶だった。冊子には『旧港動獣隔離手引』、缶の中には使いかけの封蝋が入っている。蝋は珍しく淡い桃色をしていた。
「なんでそんな色なんだ」
晃治が冊子を受け取り、ぱらぱらとめくる。
「旧港で家畜病が出た際の隔離手順です。封蝋は、たぶん港医局の分類印ですね。危険度ごとに色を分けていた名残かと」
里未が目を丸くする。
「そんな都合よく出る?」
「俺も今そう思ってる」
鞄は、持ち主が本当に必要だと腹で分かった時だけ応える。
つまり尚樹はもう、嘘を書かなければ守れないところまで来たと理解してしまったのだ。
茉奈は薄冊子を奪うように受け取り、必要な箇所だけ目を走らせた。隔離日数、接触制限、移送禁止、熱袋の異常膨張時の対処。棕櫚狐そのものの病ではなくても、使える文言はあった。
「……三日だけなら、症状を見せられます」
「三日?」
「尾の熱袋に保温布を巻いて、香莉さんの外衣で擦れ跡を隠す。薬湯の匂いを移して、熱当たりの食欲不振も装える。けど長くは無理です」
「三日あれば十分だ。あいつらの予定を壊す」
茉奈は診療机へ向かい、紙を引き寄せた。
筆を取る前に、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
それは誰かに許しを乞う仕草ではなく、自分の中の筋をいったん折るための仕草に見えた。
書き始めると、彼女の筆は速かった。
『棕櫚狐群生地において、離火潮曝露後の熱袋腫脹、被毛発赤、興奮性変動を伴う症候を確認。仮称、離火病。接触および長距離移送は厳禁――』
晃治が横から文言を整え、槙が裏口の見張りに立つ。香莉は幼獣へ包帯の位置を合わせ、里未は塩田小屋から匂いの強い薬草を持ってくる。
診療所の中だけが、急ごしらえの戦場みたいに忙しくなった。
その最中でも、尚樹は自分がとんでもないことをしている自覚だけはあった。王都の査察使へ偽の診断書を出す。捕まれば、怠け者の次男どころか正式に犯罪者だ。
なのに不思議なことに、今さら引き返す気はあまりしなかった。
茉奈が最後の一行を書き終え、桃色の封蝋を火で溶かす。診療机の上へ落ちた蝋は、夕焼けの薄いところみたいな色をしていた。
印を押す時、彼女の手は震えなかった。
真崎たちが診療所へ入ってきたのは、その直後だった。
薬湯の匂いと湿った布の匂いが、部屋の空気を濃くしている。裏の柵では包帯を巻かれた幼獣が三匹、いかにも不機嫌そうに尾を膨らませていた。香莉が抱く一匹は、ちょうどよく人を睨む顔をしている。
真崎は露骨に眉をひそめた。
「これが保護状況ですか」
「診療中です」
茉奈が静かに答え、乾ききらない診断書を差し出す。
「昨夜から熱袋の異常が増えました。移送は勧められません」
真崎は紙を受け取り、桃色の封蝋を見て、胡散臭そうに片眉を上げた。
「離火病?」
「仮称です。症候群段階ですが、接触後の発熱例も疑われます」
「人にうつると?」
「可能性を否定できません」
その一言で、後ろにいた若い書記の一人が半歩下がった。
尚樹は内心で、その反応に賭けるしかないと歯を食いしばる。
真崎は紙面を読み流しながら、明らかに信用していない目をしていた。
「診断の根拠が薄い」
「この領の症例はこの領でしか取れませんから」
茉奈の返しは硬いが、よどみがない。
真崎は紙を机へ置くと、包帯を巻かれた幼獣へ手を伸ばしかけた。
その瞬間、尚樹が前へ出た。
「待て」
「査察です」
「隔離中だぞ」
「目視確認くらいは」
「触れたら記録に残す。接触者として、あんたも三週間ここへ留める」
真崎の動きが止まる。
尚樹は畳みかけた。
「旧港隔離手引にもある。疑似感染時の接触者は経過観察。ついでに港も塩田も立入制限だ。中央の馬車二台分、寝床と飯と厠を三週間面倒見るのは正直かなり嫌だが、規定なら仕方ない」
晃治がすぐさま薄冊子の該当箇所を開いて見せる。真崎の後ろの書記が、今度ははっきり顔色を変えた。
「三週間……」
「潜伏を取れば、そのくらいは」
茉奈が低く言う。
もちろん潜伏期間など今決まった。だが真顔で言われると、人は案外ひるむ。
真崎は診断書と冊子を見比べ、奥歯を噛んだ。
「都合がよすぎる」
「そりゃ困る相手には都合が悪いだろうな」
尚樹はわざと嫌な笑い方をした。
「こっちは貴重な保護獣を持っていかれたら干物小屋も見回りも冬越しも困る。病だろうが何だろうが、簡単に渡す気はない」
真崎の目が細まる。
たぶん今の台詞で、尚樹は守るために嘘をついた善人ではなく、領益のために病を盾へした嫌な代官に見えたはずだ。
それでいい、と尚樹は思った。
研究塔に本当に悟られたくないのは、棕櫚狐への情や、茉奈たちがどこまで察しているかの方だ。自分が俗物に見えるなら、その方が都合がいい。
真崎は乾いた声で言った。
「つまり、あなたは王都の保護命令より、自領の利益を優先すると」
「利益がなきゃ人は冬を越せない。王都の廊下は暖かいだろうがな」
背後で槙が、ぎり、と歯を鳴らした。茉奈も顔をしかめたが、口は挟まない。
尚樹はさらに続けた。
「ついでに言えば、隔離中の群れへ近づくなら、消毒を受けてもらう。塩湯で靴も外套も洗う。薬草蒸しもやる。潮風で乾くまで半日は外だ」
「馬鹿にしているのか」
「規定だ」
晃治が真顔で冊子を掲げる。
里未が横から口を挟んだ。
「消毒場は塩田の向こうだから、歩くなら今のうちだよ。昼を過ぎると泥が深くなる」
真崎の靴へ全員の視線が落ちた。
泥ひとつ許さない靴だった。
書記の一人が小声で「真崎様、日程が」と囁く。別の一人は診断書から目を離せずにいる。研究塔付きの術具箱持ちは、最初こそ強気だったが、薬湯の匂いと『接触者三週間』の文言が効いたのか、箱を抱く腕にわずかな迷いが見えた。
真崎はしばらく無言だった。
外では潮風が診療所の板戸を鳴らし、包帯を巻かれた幼獣が、実に嫌そうな顔でくしゃみをした。薬草を炙ったせいで鼻がむずむずしているだけだが、今はこの上なく名演だった。
若い書記が完全にあとずさる。
真崎はようやく診断書を畳み、冷えた声で言った。
「本日は予備確認を見送ります。診療記録の写しと、全個体の管理簿を後日提出していただく」
「後日、ね」
「虚偽があれば、王都への召喚もあり得ます」
「そりゃ怖い」
まったく怖がっていない口調で返すと、真崎のこめかみがぴくりと動く。
「榛尚樹殿。あなたが今守っているものが、本当に守りきれるといいですね」
その言葉には脅しと探りが混じっていた。
尚樹は肩をすくめる。
「そっちこそ、王都で風邪をひくなよ。海辺は病が怖いらしいからな」
真崎はそれ以上何も言わず、踵を返した。
馬車が見えなくなるまで、診療所の中では誰も口を開かなかった。
やがて外の見張りから、もう港を出た、と声が飛ぶ。
その瞬間、里未が壁へ寄りかかって大きく息を吐いた。
「寿命が縮んだ」
槙も腕を組んだまま、珍しく肩の力を抜く。
「三週間は効いたな」
「言った本人がいちばん信じてなかったけどな」
尚樹がそう言うと、晃治が冊子を閉じながら返した。
「半分は規定です。残り半分は度胸です」
「褒めてるのか」
「今は」
香莉は裏口から幼獣を連れて戻り、包帯をそっと外した。元気そのものの尾が、ふわりと広がる。茉奈はそれを見て、ようやく椅子へ腰を下ろした。
机の上には、桃色の封蝋を押した診断書の控えが残っている。
彼女はしばらくそれを見つめ、ぽつりと言った。
「最悪です」
尚樹は頬をかいた。
「否定しづらいな」
「診療記録へ嘘を書きました」
「俺が頼んだ」
「頼まれても、本当は断るべきでした」
茉奈は顔を上げた。
怒っている。けれど、その怒りは尚樹だけに向いているわけではない。こんな書き方しか守る手がない状況そのものへ向いていた。
「病名は脅しに使うものじゃありません」
「うん」
「なのに、あの人たちには効いた」
「うん」
「悔しいです」
その一言がいちばん重かった。
尚樹は少し黙ってから、診療机の端へ腰をかけた。
「だったら、次は本当の記録で殴ろう」
茉奈が眉を寄せる。
「殴るって言い方はどうなんですか」
「比喩だ。たぶん」
晃治が横から淡々と付け足す。
「証拠書類で打撃を与える、くらいの意味なら適切です」
「おまえが言うと余計に物騒だな」
尚樹は机の上の控えを指で弾いた。
「今日のこれは嘘だ。でも、あいつらが保護の顔して箱を持ってきたのは嘘じゃない。研究塔の印も見えた。真崎が何を持ち帰るつもりだったかも」
茉奈の目つきが少し変わる。
「見たんですか」
「ああ。紙にも箱にも、狩る側の火がついてた」
それを聞いた槙が低く言う。
「次は人数を増やして来る」
「ならその前に、こっちも揃える」
尚樹は控えをたたんだ。
「管理簿も診療記録も出す。出せる形に整える。ただし、向こうの欲しい順番では渡さない」
「面倒なことを言い始めたな」
里未が笑う。
「俺だってそう思う」
それでも、今の尚樹の声は逃げ腰だけではなかった。
香莉が桃色の封蝋を指差す。
「これ、すごく目立ちます」
「目立たせたから効いたんだろうな」
「変な色です」
「変な色だけど、今日は助かった」
幼獣の一匹が机へ前足をかけ、控えの端をぺし、と叩いた。皆の視線がそこへ集まり、里未が吹き出す。
「気に入られたね、その嘘」
「気に入られなくていい」
茉奈はそう言ったものの、口元がほんの少しだけ緩んだ。
昼過ぎ、港の炊き出し場でこの話が広まる頃には、誰が言い出したのか、その診断書はもう別の名前で呼ばれていた。
『ピンク色の嘘』。
桃色の封蝋で査察使を追い返した、みっともなくて、頼もしくて、二度と使いたくはないけれど忘れられそうにない一枚。
年寄りの漁師は腹を抱えて笑い、塩田の娘は「あれで狐たちが残るなら安い嘘だよ」と言った。槙は「次はもっと本格的な嘘が要るかもしれん」と嫌な現実を口にし、晃治は「虚偽の累積は破滅の入口です」と帳面へ書き込みながらさらに嫌なことを言った。
夕方、診療所の裏で幼獣へ餌をやりながら、茉奈がぽつりと漏らす。
「さっき、わざと嫌な人みたいに振る舞いましたよね」
「元から少しは嫌な人だぞ」
「そういう意味じゃなくて」
薄い夕日が海から差し込み、彼女の横顔をやわらかく染める。
「棕櫚狐を守りたかったからじゃなくて、自分の利益を守っているだけに見えるようにしました」
尚樹は餌皿へ視線を落とした。
幼獣が夢中で干し魚をかじっている。守った、というにはまだ心もとない、小さな背中だ。
「そう見える方が、向こうは油断する」
「でも、嫌われます」
「王都で好かれても腹は膨れない」
「ここでは?」
その問いに、尚樹はすぐ答えられなかった。
海風が吹き、棕櫚の葉が擦れる音がする。遠くで晃治が誰かと帳面のことで揉めている声がして、里未の笑い声が混じる。
無人汀領には、ようやく笑う時間が戻り始めている。
それを壊されたくないだけだ、と言えば、少し格好がつきすぎる。
だから尚樹は、いつも通り半分だけ本音で返した。
「嫌われるのは慣れてる」
茉奈は少しだけ黙り、それから首を横へ振った。
「私は、今日のあれを全部嫌いにはなれません」
「それは困るな。教育に悪い」
「教育する立場みたいに言わないでください」
彼女は呆れたように笑った。
その笑いがあるなら、今日の嘘はまだ、飲み込める苦さで済んだのかもしれない。
海の赤みは、夕方になると少し濃く見える。
離火潮は消えていない。研究塔も、査察使も、また来るだろう。桃色の封蝋一つで追い返せるのは、せいぜい一度きりだ。
それでも尚樹は、診療所の軒先に干した控えの写しを見上げて思う。
綺麗な正しさだけで守れないものがあるなら、せめて次は、嘘を一枚で終わらせるための本当を集めなければならない。
面倒だ。できれば誰かに任せたい。
だが、幼獣が足元へ尾を擦りつけてくると、その願望はたいして役に立たなかった。
「……おまえら、手間がかかるな」
そうぼやくと、棕櫚狐は満足そうに喉を鳴らした。
その温かさが、桃色の嘘のあとへ残った、いちばん確かな本物だった。




