第4話 秋を詠む
干物小屋を立て直してから五日ほどで、無人汀領の朝は少しだけ忙しさの質を変えた。
前までは、同じ場所で同じ手間を何度も繰り返していた。夜明け前に魚へ塩を当て、昼には湿気を見て並べ直し、夕方には傷みかけた分を慌てて炊き出しへ回す。診療所では薬湯が冷めるたびに火を起こし直し、見回りは焼け跡と倉庫と海側をばらばらに走っていた。
今はまだ全部が楽になったわけではない。それでも、干物小屋の棚が回り始めたことで、炊き出し用の魚は朝から半分ほど用意できるようになった。香莉の防湿布は塩の粉を吸いすぎず、診療所の保温袋は湯気の逃げ方を目に見えて遅くした。槙が引き直した見回り線は無駄足を減らし、晃治の帳面の上でも、夜勤明けの疲労がほんの少し軽くなっているらしい。
数字は正直だ、と尚樹は思う。
人の機嫌や好意より、まずそこが信用できるのは我ながら情けないが、少なくとも帳面は気分で裏切らない。
その日の昼、尚樹は役宅の縁側で、晃治が書いたまとめを眺めていた。
「干物小屋の試算、三十日でこれだけ?」
「はい。魚の廃棄が減った分と、炊き出しの燃料消費が下がった分です」
晃治は指先で行を示した。
「まだ誤差はありますが、冬前まで続けば備蓄にかなり余裕が出ます」
「つまり、俺が楽できる未来が見えてきた」
「そこへ一直線で結論を出せるのは才能かもしれません」
「褒めてないな?」
「半分は」
尚樹が鼻を鳴らしたところで、台所の戸が勢いよく開いた。
茉奈だった。両腕に木箱を抱え、頬へ薄く粉をつけている。診療所帰りの顔ではなく、炊き出し場からそのまま走ってきた顔だ。
「尚樹さん、相談があります」
「嫌な予感しかしない言い出し方だな」
「断られる前提で言わないでください」
茉奈は箱を縁側へ置いた。中には紙束、細い筆、古びた短冊、乾かした花弁まで入っている。
尚樹は嫌な予感を確信へ変えた。
「何を始める気だ」
「詩会です」
「やっぱりな」
即答すると、茉奈は胸を張った。
「昔、秋になると港で開いていたんです。魚や織物を持ち寄って、皆で一首ずつ読む小さな集まりです。うまい下手は関係なくて、季節のことでも、浜のことでも、家族のことでもいい。灯籠を並べて、焼き魚を出して、最後に今年いちばんよかった一首を決めるんです」
「それ、今やる必要ある?」
「あります」
茉奈の返答は迷いがなかった。
「怪我人も火事も減って、やっと少しだけ手が空きました。このまま働くだけ働いて冬へ入ったら、皆、息をつく前に気持ちの方が擦り切れます」
尚樹は箱の中の短冊を一枚つまみ上げた。潮で角が少し丸くなっている。
「気持ちが擦り切れるのは分かるけど、詩で解決するか?」
「全部はしません。でも、笑える夜が一回あるだけで、次の日の朝は変わります」
そう言い切る茉奈の目は、薬草を選ぶ時と同じで、妙に真っ直ぐだった。
尚樹は言い返しかけて、それより先に現実的な質問を選んだ。
「費用は」
「灯籠は去年の残りを直します。紙は香莉さんの端布と、倉庫の古紙を使えば足ります。焼き魚は干物小屋の試作品の中で売り物にしにくい端を回します。だから大掛かりにはなりません」
「人は来るのか」
「来ます」
「ずいぶん強気だな」
「来なかったら、私が一軒ずつ引っ張ってきます」
尚樹は思わず晃治を見た。晃治は帳面を閉じ、ひどく静かな声で言う。
「集まりを開けば、干物小屋の品見せにもなります。外へ売る前に、町の中で評判を作れる」
「あ」
尚樹は茉奈へ向き直った。
「それは先に言ってくれ」
「今、言いました」
「集客と試食会を兼ねるなら話は別だ」
現金なほど声色が変わったせいで、茉奈は呆れ、晃治は小さくため息をつき、台所から様子を聞いていた里未は盛大に笑った。
「やっぱりそこかい!」
里未は濡れた手を拭きながら縁側へ出てきた。
「まあ、いいじゃないか。秋の会は昔から浜の景気づけだった。魚が売れて、酒が回って、口下手な連中まで一首ひねるんだから、見てるだけでも面白いよ」
「里未さんまで乗り気なのか」
「焼き魚を出せる理由が増えるならね」
そこへ香莉もそっと現れた。腕には細い棕櫚繊維の束と、試作中の小さな灯籠枠を抱えている。
「灯籠、直せます。棕櫚の葉脈を細く割れば、風に負けにくいので」
「皆して話が早いな」
「尚樹さんが遅いんです」
茉奈に真顔で言われ、尚樹は短冊を戻した。
こうなると、もう逃げ道は細い。しかも「干物が売れる」「町の評判が立つ」「皆の息抜きになる」と、反対しにくい理屈ばかり並べられている。
「分かった。やる」
尚樹は片手を上げた。
「ただし条件。準備で俺が過労死しない規模にすること」
「そこは安心してください」
茉奈は即答した。
「設営は皆でやります」
「皆、って便利な言葉だな」
「代官もその中に入っています」
やはり便利なのは自分に都合のいい時だけらしい。
詩会は三日後の夕暮れに決まった。
場所は港の端にある、今は使っていない船曳き場だった。石畳が広く、海の赤い反射がいちばんよく見える場所だという。誰もいない海と呼ばれる町で、わざわざ海の見える場所を選ぶのだから、茉奈はたぶん最初から、しんみりだけでは終わらせる気がない。
準備の三日は、妙に慌ただしく、そして少し浮き立っていた。
香莉は干物小屋の仕事の合間に灯籠を直した。細い棕櫚繊維で枠を締め、薄い紙の内側へ淡い藍や薄橙の布を重ねる。火ではなく棕櫚狐の体温を使う小さな灯りなので、風に消えにくく、近づくとふわりと柔らかい色に見えた。
里未は焼き魚の段取りを引き受けた。干し上がりの浅い魚は香ばしく炙り、脂のある分は炊き込みに回す。塩辛すぎる物は細かくして湯屋の粥へ混ぜる。無駄にしない手際は相変わらず容赦がない。
槙は詩会のための見回り順まで組み直した。集まりの最中に旧倉庫と港の裏手を同時に見られるよう、若い見回り役を二手へ分ける。その顔は完全に警備計画であり、風流という言葉とだいぶ距離があった。
晃治は机に向かい、短冊の数を数え、参加者の名前を書き出し、さらに「題は秋」「長すぎる朗読は禁止」「酒は二杯まで」といった細かな決まりを紙へまとめていた。
「最後のは誰向け?」
尚樹が問うと、晃治は顔も上げずに答えた。
「過去の記録ですと、秋の会は三回に一回、酔った漁師が自作の長詩を始めて収拾がつかなくなっています」
「そんな由緒正しい問題が」
「由緒はあります」
役に立つのか立たないのか分からない記録を、晃治は本当に全部覚えているらしかった。
そして尚樹はというと、設営の中心へ立たされていた。
船曳き場の石畳へ机を並べ、腰掛けの板を運び、灯籠を吊るす縄を張る。高い場所の結び方が甘いと槙にやり直しを命じられ、短冊を置く卓の向きが悪いと茉奈に直される。働きたくないから始めた仕組み作りなのに、こういう日だけは目に見えて労働が増える。
「おかしいな」
灯籠を手渡しながら尚樹はぼやいた。
「人を楽にするための工夫をすると、どうして準備の段階で俺がいちばん動いているんだ」
縄を張っていた槙が低く答える。
「指示した責任だ」
「責任って便利な言葉、今日は本当に聞き飽きた」
香莉は灯籠を受け取りながら、小さく笑った。
「でも、尚樹さんが動くと、皆が面白がって出てきます」
「それ、代官としての威厳じゃなくて見世物では」
「両方です」
きっぱり言われ、尚樹は反論を失った。
詩会の当日、夕方の海は薄い金色からだんだんと赤へ変わっていった。
離火潮のせいで、日が傾く頃の海面は普通の夕焼けより濃い色を返す。初めて見た時は不吉にしか思えなかったその赤が、香莉の灯籠の柔らかい光と並ぶと、今日は少し違って見えた。怖いだけの色ではなく、町の人間がまだここで夜を迎えるための色だ。
集まった人数は、尚樹の予想より多かった。
年寄りの漁師、塩田の手伝い娘、診療所へ通う親子、工房の若い職人、見回り役、炊き出しへ顔を出す者たち。閉ざされた雨戸の多い町にしては、ずいぶん賑やかな輪ができる。誰も晴れやかな服を持ち出してはいないが、その代わり、皆が少しだけ顔を洗ってきたような明るさをまとっていた。
「来たねえ」
里未が焼き台の前で嬉しそうに言う。
「魚の匂いに釣られた分もあるでしょう」
晃治は帳面を持ったまま冷静だ。
「それでも人が来るなら結構なことだ」
茉奈は卓の上へ短冊を並べ、筆を置き、ひとつずつ位置を整えている。その横顔は真剣すぎて、祭りの支度というより診療所の薬棚を整える時に近かった。
尚樹はそれを見て、少しだけ声を落とした。
「そこまで気合い入れると、かえって皆が緊張するぞ」
「だって久しぶりなんです」
茉奈は手を止めずに答えた。
「また開けると思っていなかったから」
たったそれだけの言葉なのに、尚樹は妙に返事に詰まった。
思っていなかった。きっとこの町では、そういうことが多かったのだろう。来年も、と口にする前に途切れてしまうもの。もう一度、と願う前に諦めてしまうもの。
「じゃあ余計に、今日は失敗できないな」
軽く言ったつもりだったが、茉奈は少しだけ目を細めた。
「はい。だから、変な歌を詠まないでください」
「俺だけ名指しか」
「いちばん危ないので」
開始の合図は、棕櫚狐たちだった。
香莉が低い声で呼ぶと、干物小屋から来た二匹と、いつのまにかその周りへ集まっていた町の棕櫚狐が、灯籠の足元へそれぞれ丸く座る。柔らかな体温で灯りがふわりと明るくなり、船曳き場の石畳へ金の輪がいくつも浮かんだ。
人々から自然に、わあ、と小さな声が漏れる。
それだけで場がほぐれた。
最初の一首は、年寄りの漁師が読んだ。
「網干して 風の機嫌を うかがえば 魚より先に 腰が鳴きだす」
場がどっと笑う。本人は得意げに胸を張り、里未が「腰の方は知らないよ」と笑い返した。
次は塩田の娘が、白くなった手を隠すみたいに短冊を持って読む。
「潮風に 干した手ぬぐい 鳴るたびに 帰った人の 声を思い出す」
今度は笑いではなく、静かなうなずきが広がった。いい歌だ、と誰かが言う。棕櫚狐が一匹、足元でしっぽを丸め直す。
そのあとも、一首ずつ、ぽつぽつと夜が積み重なっていった。
香莉は「縫い目追う 針の先にも 秋が来る 狐の毛並み 今日はよく鳴る」と、静かな声で読み、予想外に器用な歌を出して皆を感心させた。槙は「見回りの 靴音だけが 知っている 眠る灯籠の 数と無事とを」と硬い顔のまま読み、里未に「真面目すぎる」と笑われた。晃治は一度断ったくせに、結局「赤字より 怖いものなど 少ないが 空の椀だけは なお胃に響く」と読んで、妙な現実味で場をざわつかせた。
「おまえ、色気が帳面の中に置き去りだな」
尚樹が囁くと、晃治は真顔で返した。
「現実は色気より先に来ます」
里未の焼き魚は香ばしかった。灯籠の明かりの下で食べると、いつもの端材とは思えない。炙った皮がぱりりと音を立て、塩の旨味が舌へ残る。人々は短冊を回しながら魚をつまみ、少しずつ肩の力を抜いていく。笑い声が重なるたび、船曳き場は死んだ町の一角ではなく、ちゃんと人が夜を過ごしている場所に見えた。
茉奈の番は、中ほどで回ってきた。
名前を呼ばれると、彼女は短冊を持って立ち上がったものの、最初の一拍だけ声が出なかった。
診療所で患者へ言葉をかける時は迷わないのに、自分の言葉を人前へ置くとなると急にぎこちなくなる。その様子が少し可笑しくて、けれど誰も笑わない。皆、彼女がこの会を開きたかった理由の半分ぐらいは知っている顔をしていた。
茉奈は一度息を吸い、やや早口で読んだ。
「秋の鍋 湯気の向こうに いるようで ひとつ余らす 椀の置き場所」
読み終えたあとで、自分でも照れたらしく、目を伏せる。
けれど場には、しん、とした静かな空気が落ちた。
尚樹はその短い歌の中へ、誰の椀が余っているのかをすぐに見てしまった。兄の遼真だ。帰ってくるかもしれないと、帰ってこないと分かっていても、食卓のどこかで空けてしまう席。
里未がいちばん先に、いい歌だよ、と言った。香莉も小さくうなずく。年寄りの漁師が気まずそうに鼻をすすり、晃治は目を伏せたまま何も言わなかった。
茉奈は照れ隠しみたいに笑って座る。その笑い方が、ひどくぎこちなかった。
そして、嫌なことに、尚樹の番がその次だった。
「代官殿―!」
誰かが面白がって声を上げる。槙が腕を組んだまま無言で見ている。里未は完全に見物人の顔だ。茉奈は「変な歌は駄目ですからね」と小声で釘を刺してきた。
尚樹は短冊を持って立ち上がり、少し考えた。
本当なら無難に逃げたい。秋の月だの、潮風だの、当たり障りのないことを書いて座りたい。だがさっきの茉奈の歌を聞いた後で、それをやるのもずるい気がした。
なので、尚樹は半分だけ正直に読んだ。
「秋風に 働けと言う 声多く せめて魚は うまくあれかし」
一拍おいて、船曳き場が笑いに包まれた。
里未が膝を叩き、香莉は口元を隠し、晃治まで視線を落としたまま肩を震わせている。槙が「実におまえらしい」と呟き、茉奈は呆れたように笑った。
「本当に変な歌じゃないですか」
「でも本音だ」
「そこは知ってます」
笑いが広がったおかげで、さっきまで少し沈みかけていた場が、ちょうどよく持ち直した。自分が間の抜けた役を引き受けたのだと気づいて、尚樹は座りながら小さく肩をすくめる。意図して格好をつけるより、この方がまだ性に合っていた。
詩会も終盤に差しかかった頃、海の色はさらに濃くなった。
灯籠の明かりが赤い水面へ点々と映り、揺れるたび、まるで海の方でも小さな火が詠まれているように見える。棕櫚林の向こうから涼しい風が抜け、紙の短冊がかすかに鳴った。
そこで、年寄りの漁師の一人が、酒の勢いもあったのだろう、ぽつりと口にした。
「遼真の坊も、こういう夜はよう詠んだなあ」
空気がまた、少しだけ止まった。
茉奈の指先が卓の縁でぴたりと動きを止める。香莉は短冊を持った手を下ろし、里未は焼き台の火を見たまま黙った。名前を出した漁師自身も、口にしてからしまったと思った顔をしている。
尚樹は、沈黙の長さだけでその名前の重さを知った。
だが、いちばん先に口を開いたのは茉奈だった。
「……兄は、下手でしたよ」
そう言って笑ったものの、その笑いはすぐに消えた。
「でも、帰ってくる時はいつも、塔には海の匂いが足りないって言っていました」
塔。その単語が落ちた途端、彼女の声は少しだけ硬くなる。
「だったら、どうして帰ってこなかったんですかね」
問いかけた相手は誰でもないはずなのに、そこにいた何人かが視線を落とした。
茉奈は短冊へ目を落とし、今度はもう一首、読むというより吐き出すように口にした。
「秋の海 連れていかれた 声ひとつ 返さぬ塔の 窓だけ白い」
今度は誰も、すぐには何も言えなかった。
美しい歌かと問われれば、たぶん違う。整いきっていない。棘がそのまま残っている。けれど、その棘のせいで、聞いた全員の胸の内側へ真っ直ぐ刺さる歌だった。
尚樹の頭に、研究塔の夜がよみがえった。燃え方の不自然な火。赫堂の目。禁書庫の紙束だけを狙う嫌な熱。あの場所で何かを消そうとしていた気配。
茉奈の兄は、あそこから何を見て、何を持ち帰ろうとしたのか。
「茉奈」
尚樹が呼ぶと、彼女はすぐには顔を上げなかった。
その代わり、握った短冊の端へ力が入っているのが見えた。怒っているのか、泣きそうなのか、本人にも分からないのだろう。
尚樹はうまい慰めを持っていない。綺麗な言葉で気持ちを包む器用さもない。だから少し考えてから、できるだけいつもの調子で言った。
「その塔、俺も嫌いだ」
場違いなくらい率直な言い方に、何人かが目を瞬く。
尚樹は肩をすくめた。
「俺をここへ放り込んだ恨みもあるけど、それ抜きにしても、あそこで燃えてた火はろくでもなかった。だから、そのうち調べる。放っておくと寝覚めが悪い」
茉奈が、やっと顔を上げた。
灯籠の明かりの下で、その目は少しだけ濡れていた。けれど泣くより先に、呆れたような、笑いそうな、妙な顔をする。
「寝覚めの話ですか」
「大事だろ。眠れないのは困る」
「……そういうところだけ、一貫してますね」
その言葉に、里未が小さく笑い、場の空気がほんの少し戻った。
槙は腕を組んだまま海を見ていたが、低い声でひとことだけ言った。
「調べるなら、段取りを組む」
晃治も続ける。
「塔の記録の癖なら、いくつか心当たりがあります」
香莉は短冊を揃えながら、ぽつりと漏らした。
「遼真さん、棕櫚狐に嫌われていませんでした。悪い人じゃなかったと思います」
茉奈はその言葉に、今度こそ少しだけ息をつまらせた。
泣きはしない。ここで崩れないのが茉奈らしいところなのだろう。けれど、彼女がひとりで抱えていた棘へ、ようやく何人かが手を伸ばしたのは分かった。
詩会の締めは、最初に読んだ年寄りの漁師が担当した。
「来年もやるぞ」と、ほとんど宣言みたいに言う。誰かが「その前に冬を越えないと」と笑い、里未が「越えるために食え」と焼き魚を配る。灯籠の明かりは潮風に揺れながら、最後まで消えなかった。
片づけの頃には、町の人々の顔つきが来た時より少しだけ緩んでいた。
短冊を持ち帰る者。灯籠を見上げて立ち止まる者。干物小屋の魚を明日も買いに来ると口にする者。どれも小さな変化だ。だが小さいからこそ、嘘ではない。
卓を運び終えたあと、尚樹は船曳き場の端へ立った。
海はまだ赤い。離火潮の不気味さが消えたわけではない。旧倉庫の焼け跡も、閉ざされた雨戸も、そのまま残っている。
それでも今夜、この町を見て「終わった土地」とだけ言うのは、少し違う気がした。
灯籠の残り火みたいな明かりが、まだそこかしこにある。
人が帰る場所の明かりだ。
背後で、茉奈が短冊箱を抱えて立ち止まった。
「尚樹さん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
「干物の宣伝になったしな」
「そこへ戻しますか」
「戻す」
そう答えると、茉奈は小さく笑った。けれど次の言葉は、笑いのすぐ後ろで少し震えていた。
「……兄のことを、忘れたくなかったんです」
尚樹は海を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
「忘れなくていいだろ」
「でも、覚えているだけじゃ何も変わらないから」
その言葉に、研究塔の赤い火がまた脳裏をかすめる。
覚えているだけでは変わらない。だから誰かが、調べて、掘って、引きずり出さなければならない。面倒で、手間で、今の尚樹が本来なら真っ先に避ける種類のことだ。
それでも今夜の食卓と笑い声を見た後では、知らないふりのまま王都へ逃げ帰る想像が、前より少しだけしにくくなっていた。
「じゃあ、変える方を考えよう」
尚樹が言うと、茉奈は短冊箱を抱えたまま、静かにうなずいた。
海風が吹き、灯籠の紙がやわらかく鳴る。
秋を詠む夜は終わったが、その音だけは、来年の約束みたいにしばらく耳の奥へ残り続けた。




